Cogito

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ヒメオドリコソウ

2017-03-22 13:27:20 | 日記
今日はいい天気だ。郵便局まで行くつもりだったが、な~んとなく元気がないので、今日はやめにして集金だけに工芸室に出かけて行く。

入口に綿毛になったタンポポがある。帰りには穂が飛んで行ってしまうかもしれない、コンデジを出して綿毛を撮った。少し先の空地にシソ科の植物が密生している。ホトケノザかなと思ったがよく見ると違う。野草のハンドブックは工芸室に置いてある。そこで写真を撮った。

工芸室で調べるとヒメオドリコソウだった。外来植物のようである。しかも勢力が強く、歓迎されない植物のようである。一見可憐な花なのにね。
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またもや横道

2017-03-21 08:47:25 | 日記
朝から冷たい雨が降っている。昨日が暖かかったから、この冷たさは参る。
暑さ寒さも彼岸までというが、三寒四温、暖かさが続くまではこの繰り返しがなんどかあるのだろう。
毎日一応、予定を立てる。その予定は午前中に実行していく。午後になると疲れてやる気がなくなってしまうからだ。予定外はピーたちのシフォンづくり。これが結構忙しい。

日曜日、N響アワーでロドリゴの「アランフェス協奏曲」をやっていた。ギタリストはカニサレス。フラメンコギターをやっている人だという。ラトルに招かれて、ベルリンフィルとこの曲を共演し、絶賛を浴びたという。そこで期待して待っていたのである。

彼自身の説明によると、彼のギターは特注でフラメンコギターとクラッシックギターを合わせたような楽器だという。フラットが低くできているそうな。
アランフェスの出だしも、普通の弾き方ではなく、フラメンコのリズムを入れて、ビートをきかせたし、第二楽章もその調子で奏でていた。アンダルシアのスペインの魂とリズムを強調しているのだと説明していた。

私が聞きなじんでいるのはイエペスの演奏だ。イエペスもスペイン人だし、アンダルシアの出身だったような気がする。確か初演はマーサ、そのマーサの弟子がイエペスだった。イエペスの演奏でこの曲は世界的になった。イエペスは「禁じられた遊び」のテーマ「ロマンサ」を弾いたギタリストである。

私も若かりし頃、この第二楽章を弾きたいと練習したものだ。もちろんものになることはなかったが。だからアランフェスは多くのギタリストの演奏を聞いている。
久しぶりもあったが、カニサレスのこの演奏は気に入らなかった。大体私は保守的である。ビートが気分を害したのだ。フラメンコは嫌いではない。むしろ好きな方である。
私たちの時代はラジオである。そのラジオでたしかアントニオ・ガデス率いるフラメンコ舞踏団の来日公演を中継していた。急いで録音した。その後ギターを習いに行ったとき先生にフラメンコギターを習いたいというと、あなたは、たぶんフラメンコはすぐに飽きるだろうから、クラッシクをおやりなさい、と言われ、クラッシクギターを始めたのだった。確かに少しは弾けるようになるとクラッシックをやってよかったと思うようになった。

セゴビア、イエペスはその頃の頂点だった。そこでイエペスの「アランフェス協奏曲」のCDを探したが、それを見つける前に、アルビノーニのアダージオが見つかった。アダージオはスライド作品「限りあるもの」のBGMに使ったからあるのはわかっていたが、なんと3枚もあった。管弦楽、オルガン・・ついでにバロックが数枚出てきた。アランフェスは忘れて、バロックをかけまくっている。いやはや忘れていたバロックはとてもいい。やはりバッハは最高と言いながら。
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山は雪

2017-03-15 14:55:15 | 日記
山と言っても、箱根の外輪山、鞍掛山の方だ。今朝竹林越しののぞく山は白っぽく見えた、霧のせいかなと思った。陶芸に行くとき、診療所の前から見るとやはり雪だった。寒いわけだ。花木はすっかり春の景色だが、寒波は致し方ない。

11日、娘が引っ越したらそう万度来れなくなるからと来た。来月、埼玉から山梨に引っ越すのである。連れ合いの両親が暮らしていた家があるので、そちらに移ることにしたのである。真鶴に来る予定だったが、いろいろ相談の結果、山梨に移る決心をしたようだ。まだ若いからコミュニティを作って行けるだろう。

そこで置きっぱなしのグランドピアノを送ることにした。懸案の調律師さんが山梨まで行ってくれることになった。このピアノは来た時から、もぅ何十年もこの調律師さんの御厄介になっている。だからできれば代えたくなかったのだ。よかった。以前アップライトピアノの方を違う調律師さんにお願いしたことがある。すると娘が音が違うと嫌がった。ピアノの先生に相談すると、理由を教えてくれ、弾き込む以外、もとに戻らないと言われた。以来、調律師さんを代えることはなかった。弾く人がいなくても、ピアノたちは毎年この人によって調律されてきたから、ピアノにとっても安心だろう。

まだ日程はわからないがピアノの運送業者に見積もりを出してもらった。せっかくなのでクリーニングをして届けてもらうことにして。消費税込みで13万5千円ということだった。うぇ~、痛!
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チェルノブイリの祈り

2017-03-14 13:18:16 | 日記
3.11にあわせてだろう。BSで放映している世界のドキュメントでチェルノブイリを連続して放映する旨の宣伝があった。見ようと思っていたのだが、真夜中のこと、忘れてしまっていた。思い出してつけると、ベラルーシのノーベル文学賞受賞作家、スベトラーナ・アレクシェービッチのチェルノブイリと福島の「小さき者たちの声」のレポートをやっていた。彼女の受賞作品、「チェルノブイリの祈り」はチェルノブイリで被爆した一般の人たちの声を直に取材してまとめたものである。 そして副題に「未来のために」とついている。現実の声を取材し、本にまとめることは、再びこのような災禍が起こらないようにという、未来への警鐘であり、未来への願いである。その線上の未来に、福島の原発事故がある。で、アレクシェービッチは昨年福島を訪れ、福島の「小さき声」を拾っている。チェルノブイリ事故当時の日本の学者は「ロシア人だから管理が杜撰で原発事故が起こった。日本では絶対に起こらない」と豪語していたが、そのご立派なはずの日本でも事故はおこってしまった。

前編1時間、後編1時間、前編はチェルノブイリの事故。「祈り」に登場した「小さき声」の人々をカメラと共に取材している。ウクライナとベラルーシの懐かしい景色、そして懐かしい人々の暮らし。ラドニッツァも思い出された。ベラルーシは国家財政の10分の1を放射能汚染の処理に使っていた。それによって国家財政は苦しくなっていた。しかし現在の、独裁者と非難されている大統領が就任し、放射能汚染を隠すような政策を取り出して気にしているのだが、今はどうなっているのだろう。旧ソ連の体制、オーウェルの「1984年」じゃないけれど、盗聴、密告を恐れて、現地の人たちには国政をなかなか聞けずにいる。ウクライナも内戦があり、両国とも、被爆救援法は機能しているかどうか、気になるところではある。

後半の福島は、残念ながら眠くなって見ていられなかった。こちらこそ見るべきであったのだが。

福島の避難した子供たちが避難先でいじめられている事実が明るみに出ている。これは周りの無知によるものだ。まず教師たちが子どもたちにきちんと説明できるだけの、放射能の認識が足りないのだろう。福島の人たちはひたすら安全神話を叩き込まれ、基本的な放射能の被害を知らない。我が家にベラルーシの子どもたちを預かるとき、真鶴の住民から「うつらないか」という質問を受けたことがある。「被爆はうつせば治るよ。うつらないから大変なんだ」と放射能について易しく教えた。

かつて電源3法を調べた時、原発所在団体への、至れり尽くせりの補助、その中に講演会もあり、過去の演題と講師人の記録もあったが、放射能の危険性についての話も、事故が起こったらの話も全くなかった。だから住民は安全神話を信じ疑いもしなかったのだろう。こういう説明をしなかった、原子力関係者、しいては政府にもいじめの責任はある。

チェルノブイリ原発事故から30年、放射能禍はまだまだ解決していない。環境への影響も、じわじわと広がっていく。福島のこれからの道のりもまた然り。簡単には解決しないだろう。
アレクシェービッチが願う、未来への祈りは、人間の欲望の前には届きそうもない。放射能に苦しむ人々の声は小さく、届きそうもない。
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Happy Birthday!

2017-03-13 10:44:52 | 日記
今日はPapasanの80歳の誕生日。
寒い日だ。しかも小田原市立病院まで、半年に一回のペースメーカーの検査に行かなければならない。

「お釈迦さんの亡くなった80歳まではどうしても生きたいと言っていたけど、その80歳になったよ。では今後の目標は?」とPapasanに意地悪な質問をした。「元気になる」と答えた。「うん、元気になるのは、自分でやらなきゃなれないよ。病気は気からっていうじゃ~、病人だと思うから病人になるんだよ。昔にかえることはできないから、今の状態に慣れて、それを基本にできることをしていくんだね」と言った。
そんな会話が頭に残っていたのか、タクシーを呼ぼうというと、「駅まで歩く」と頑張った。で、初めて駅まで歩いた。途中何回も立ち止まり「駅ってこんなに遠かったっけ」とぼやいていた。低いと思っていたけど、地下道への石段も低くはなかった。構内にはタクシーは並んでいた。「帰りはクシーに乗ろうね」私だって駅まで遠かったから、Papasanはさぞや疲れただろう。一応30分前に家を出たが15分で着いた。あとはベンチに座っていた。次の難関は乗車。ここらへんなら少しは隙間が少ないかと思っていたが、これも外れて、乗せるのは怖いくらいだった。乗るとすぐに中年の男性が席を代わってくれた、Papasanを座らせると、その隣の男性が立つので「私は大丈夫です」と断って立っている。

先ず、レントゲンと心電図の検査をして、予約通りにペースメーカーの検査をした。そのあと、ひたすら待つのだが、意外と早く呼ばれて内科に行った。でてきたpapasanが28日にまた来るのだという。??
そのあと介護士さんが来て説明してくれた。3月28日はCT検査。その検査結果を診断するのが4月4日、となっている。4月4日は私は無理だが、何とかしようと帰ってきた。しかし何とかはならなかった。そこで電話をして4月4日を取り替えてくれと頼んだ。付き添いなしで電車には乗れないから、と。木か金にしてほしいというと、不整脈の検査なので、火曜日しかないという。4月の火曜日は全部ダメ、私の白内障の手術があるから。じゃ~湯河原でも受けられるからCTをキャンセルしてくださいというと、診察日を5月にしたらどうかという。GWの初めは嫌だったが、5月2日に予約した。やり取りを聞いてたPapasan、「申し訳ない」と謝っている。

思いがけず息子が迎えに来てくれた。早く仕事が済んだので、寄ってくれたのだ。「買い物していきますか」と言われたが、疲れてしまったので、家に帰る、と言った。

往き、歩いたので二藤さんの前に「ブリあります」の張り紙を見た。そんな話をすると二藤さんに寄ってくれた。でもぶりはもう1さくしかなく、
明日またおろすというので、明日にする。うちには照り焼き用につけたブリの切り身がある。今夜はあれでいいにしよう。

夜、メールを見るとアンドレイさんから誕生祝いのメールが届いていた。朝(ベラルーシの朝だから日本では午後)、電話をしたのだけど留守だった、と。
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