安倍晋三、松井一郎等々の核保有軍事大国の核に関わる懸念材料が何かを特定できない想像力空疎な「核共有」欲求(2)

2022-03-31 09:05:50 | 政治
 国会や政党代表の記者会見等でも安倍晋三の「核共有」発言が取り上げられることになった。万が一あるかもしれない核の使用に対してどのような想像力を働かせているのか、結果としての核の取り扱いをどう考えているのか、いわば核防衛体制についての考えを見てみる。先ず国民民主党代表玉木雄一郎が2022年3月1日の党記者会見で安倍晋三の「核共有」発言に対する反応をNHK NEWS WEB記事が伝えている。国民民主党のサイトにアクセスしてみたが、「冒頭発言概要」しか紹介しいない。あとはYou Tube動画のリンク付を行なっている。サイトを覗く人間が少ないのかもしれないが、マスコミが発言を伝えることで具体的な発言内容を知りたくなる数少ない機会にも応えることができないとなると、自民党みたいに元々政党支持率の高いところはお構いなしとすることはできるが、政党支持率が低いところは漏れのないサービスに不足することになると思うが、そこまでは考えていないようだ。仕方がないから、NHK記事を参考にする。

 玉木雄一郎「非核三原則や平和国家の歩みからすると、(安倍晋三の「核共有」は)一足飛びの議論だ。唯一の戦争被爆国として核廃絶という大きな目標を掲げてやっていくべきだ。

 どのような形であれば、憲法が掲げる平和主義と反せずに核抑止が機能するのか、現実的な議論を積み重ねていくことが大事だ。特にこれまで議論を避けてきた、非核三原則の『持ち込ませず』の部分が、一体何を意味するのか、日米の具体的なオペレーションの在り方を含め冷静な議論を始めるべきだ」

 安倍晋三と同様に長い目で見た核抑止策として核使用の危険性の高い独裁者の排除に視点は置いていない。あくまでも“核に対するに核”の考えに立っている。唯一の戦争被爆国としての核廃絶というのは「大きな目標」だと言っているが、この「大きな」とは「最終的な」という意味を取るはずだ。核廃絶はあくまでも「最終的な目標」であって、そこに到達するまでには現実にある核の脅威を取り除いていくために「憲法が掲げる平和主義と反せずに核抑止」を機能させる方策の追求に取り組まなければならない。その方策として「非核3原則の『持ち込ませず』の部分」に注目している。非核3原則とは核兵器を「持たず、つくらず、持ち込ませず」を指すのだから、非核3原則と核の傘の関係からすると、日本に核攻撃の脅威が迫った場合は核攻撃の脅威を与えている国への核に対抗するに核の予防策としてアメリカ本土からの核弾頭搭載大陸間弾道ミサイル(ICBM)、太平洋上の原子力潜水艦からの核弾道ミサイル発射等が従来型の、いわば日本の外からの運用を方法としているが、当然、非核三原則の「持ち込ませず」が「一体何を意味するのか」と言っている意図は「持ち込ませず」を言葉通りに解釈せずに持ち込ませる方向への何らかの含みをそこに期待していることになる。

 もし言葉通りに解釈していたなら、あとの言葉、「日米の具体的なオペレーションの在り方を含め冷静な議論を始めるべきだ」を続ける必要性は生じない。玉木雄一郎が想定している核を持ち込ませる方向へ何らかの含みを持たせていることはその含みの持たせ方によって核の取り扱いは大きく変わる。高市早苗の次の記者会見発言についても同じことが言える。

 自民党政調会長高市早苗2022年3月2日の記者会見(「You Tube」から) 

 高市早苗「いわゆる核シェアリングという問題でございますけれども、これは昨日も申し上げましたが、民主党政権下だった平成22年3月、当時の岡田克也外務大臣が核を搭載した米国の艦船や航空機の我が国への一時的な寄港や飛来ということも念頭にしながら、外務委員会で答弁をされました、そのような緊急事態に於いて非核3原則をあくまでも守るのか、ま、それでも国民の生命の安全を考えて、異なる判断をするのか、それはそのときの政府の判断の問題であって、今からそのことについて縛ることはできないと考えているということでございました。

 その後平成24年(2012年)12月に我が党は政権復帰させて頂きましたけれども、平成24年2月14日の予算委員会に於いても当時の岡田外務大臣が行なった答弁を引き継いでいると答弁をしておられます。そして同月ですけども、質問主意書への答弁書としてこの岡田克也外務大臣当時の、まあ、この方針を安倍内閣としても踏襲する旨、閣議決定をして、答弁書と致しております。

 日本国政府は民主党政権以来、自公政権になっても、国民の安全が危機的状況になったときに非核3原則をあくまでも守るのか、それとも持ち込ませずの部分については例外をつくるのか、それはそのときの政権の判断するべきことであって、将来に亘って縛ることはできないという立場を重ねて表明してきております。

 あのー、持たず、つくらず、持ち込ませず、この非核3原則は例えば『持たず、つくらず』の部分につきましてはこれも皆様ご承知の通り原子力基本法ですとか、核不拡散条約、まあ、これを批准しておりますので、『持たず、つくらず』というのは当然のことであります。ただ本当に有事になって、国民の安全が脅かされる危機的状況になったときに核を搭載した、例えば米国の艦船が来たときに日本に寄港させないのか、給油もさせないのかということになると、また別問題であり、領海を航行することもダメなんだとということでは実質的に日本は守れないのではないのかと私は考えました。

 あくまでも民主党政権時代、その後の安倍内閣の方針及び外務大臣の国会答弁、全く同じことを昨日申し上げました。で、今後党内でどうするのかということでございますけれども、きのう政調会の半沢(?)調査会長と私は遣り取りをしております。ま、今後は非常に重要な時期になりまして、国家安全保障戦略や中期防(中期防衛力整備計画)も含めて今後見直すという形の作業に入りますが、その中にあっても、この議論、全く封じ込めるということであってはならないと思っています。関係議員と相談しながら、今後この問題についての進め方、議論をするかしないかを含めて検討してまいりたいと思っています」

 民主党政権時代の岡田克也外務大臣の2010年3月17日衆議院外務委員会での非核3原則関連の発言は次のようになっている。

 笠井亮(あきら・日本共産党)「米国が有事と判断した際には核兵器を再配備することを宣言しているわけで、それでも核兵器は持ち込まれることはないと断言できますか」

 岡田克也「我々としては、非核三原則、鳩山内閣として堅持するという方針であります。しかし、日本自身の安全にかかわるような重大な局面というものが訪れて、そしてそのときに核を積んだ艦船が一時寄港する必要が出るというような、そういう仮定の議論は余りしたくありませんが、そういうことになったときに、我々は非核三原則を堅持いたしますが、最終的にはそのときの政権がぎりぎりの判断というものを政権の命運をかけて行うということだと思います。

 非核三原則というのは、これはやはり日本自身を核の脅威から遠ざける、こういう考え方に立って行われているものだと私は認識いたしますけれども、いざというときの、日本国民の安全というものが危機的状況になったときに原理原則をあくまでも守るのか、それともそこに例外をつくるのか、それはそのときの政権が判断すべきことで、今、将来にわたってそういったことを縛るというのはできないことだと思います」

 この答弁以前に岡田克也は自民党岩屋毅議員に対して「緊急事態ということが発生して、しかし、核の一時的寄港ということを認めないと日本の安全が守れないというような事態がもし発生したとすれば、それはそのときの政権が政権の命運をかけて決断をし、国民の皆さんに説明する、そういうことだと思っております」と答弁している。

 高市早苗は「いわゆる核シェアリングという問題でございますけれども」と言いながら、緊急事態発生時には実質的には非核3原則のうちの「持ち込ませず」に関して例外規定を設けるかどうかはときの政権の決断事項だとする民主党政権時代の考え方を自民党政権も引き継いでいて、引き継いでいることは答弁書に於いても閣議決定もしているし、このことに関しては議論を進めるのか進めないのかを含めて検討するとしているものの、「持ち込ませず」の例外規定が単純に核搭載艦船の一時寄港の許可に限定するなら、核はあくまでも米軍の掌中に置くことを意味し、核の使用に関しては日本の関与外となり、安倍晋三の「核共有」とは実質的には異なることになる。

 だが、玉木雄一郎の説明どおりに核を“持ち込ませる”方向に持っていくためには「日米の具体的なオペレーションの在り方」の議論を日米間に介在させる必要上、議論の行方によっては核の使用に日本政府の関与をも可能とする項目を設けた場合は核の所在を寄港した米艦船内に限ったとしても、そこに備蓄する形を取ることとなり、この双方の条件によって“持ち込ませる”は限りなく「核共有」に近づくことになる。もし核を陸揚げして、米基地内か自衛隊基地内に置くことにしたら、「核共有」そのものとなる。

 但し玉木雄一郎が安倍晋三の「核共有」を「一足飛びの議論だ」としているから、一見、「核共有」まで考えていないように見えるが、第1段階として“持ち込ませる”から始めて、安全保障環境の変化によっては第2段階か第3段階目に「核共有」に持っていくというふうに「一足飛び」ではなくても、段階を踏んでと考えている可能性は否定できない。「核共有」がこのような形式のものであっても、「持たず、つくらず、持ち込ませず」の非核3原則の「持たず」と「持ち込ませず」を限りなくなし崩しにする、より積極的な核関与政策となる。高市早苗の上記記者会見での“持ち込ませる”方向への議論の示唆も、何しろ安倍晋三とは思想的には双子の関係にあるから、手始めに“持ち込ませる”から始めて、「核共有」に近づけていく目論見を頭に置いていないとは言い切れない。

 では、安倍晋三の「核共有」議論推奨に総理岸田文雄がどのような姿勢を見せているのか、野党立憲民主党3氏の追及を見てみるが、追及自体に3人の核に関する考え方が反映されることになる。勢いと小賢しさだけの立憲小川淳也の「批判するときは国民が惚れ惚れするような批判してこその野党だ」の言葉がそっくりと当てはまる追及となっているのかどうかも併せて見ることにする。

 2022年3月2日参議院予算委員会

 田名部匡代「先日、我が党の田島(麻衣子)委員から質問がありました。安倍前総理、民放の報道番組で、核保有についてまさに議論を呼びかけるような発言があったことについて田島議員から質問があったわけでありますけれども、そのときに総理からは、非核三原則を堅持するという我が国の立場から考えて、これは認められないと認識をしていますというふうにお答えになっております。

 改めて確認させていただきます。総理、核保有に関しては、これまで御答弁では検討という言葉が多かったんですが、検討ではない、検討もしない、議論も認めないということでよろしいでしょうか。

 岸田文雄「確か先日の議論は、核保有というか核共有の議論であったと思います。そして、その核共有ということについて、その核共有の中身ですが、この平素から自国の領土に米国の核兵器を置き、有事には自国の戦闘機等に核兵器を搭載運用可能な体制を保持することによって自国等の防衛のみの、防衛のために核、米国の核抑止力を共有する、こういった枠組みを想定しているというのであるならば、これについては、非核三原則を堅持している立場から、更に申し上げるならば、原子力の平和利用を規定している原子力基本法を始めとするこの法体系から考えても、政府として認めることは難しいと考えております。

 田名部匡代「大変失礼しました、核共有。

 実は、平成29年、我が党の白眞勲委員からも、当時の安倍総理にこのことについて質問されておられるんですね。当時の安倍総理は、やはりこれは非核三原則を堅持していくという立場だと、そして、この核シェアリングについては全く検討も研究もしていないわけでございまして、抑止力について向上、これ前段の話で、いろいろと議論する、研究することは、検討していくことは当然なのではないかということについて白眞勲議員が質問しているんですけれども、その発言は総理としての発言ではなかったので、総理としては、これは抑止力の向上ということについては核シェアリングは除くと、まさに非核三原則をしっかりとその立場を守っていくという御発言をされているんですね、当時、安倍総理は。

 しかし、この間、民放のテレビ番組において、その議論を呼びかけるようなことがあったわけです。

 総理は、こういったことについてどのような感想をお持ちでしょうか」

 岸田文雄「私はその番組の発言直接聞いておりませんので、そのどういった流れであったか、趣旨であったか十分承知していないので、私の立場から具体的にそれについて申し上げることは控えますが、いずれにせよ、核共有ということについては先ほど申し上げたとおり認識をしております。

 政府としてそうした考え方を認めることは難しいと考えておりますし、政府として議論することは考えておりません。

 田名部匡代「しっかりと私たちは非核三原則、堅持する立場を貫いていきたいと思いますし、難しいということではなくて、やっぱり……(発言する者あり)委員席からもありますが、あり得ない、しっかりとそれは守っていただきたいというふうに思います」 
 青木愛(立憲民主党)「自民党の元安倍総理がアメリカの核兵器を国内に配備して日米共同で運用する核共有政策の導入についてテレビで話をされました。この核共有に関する岸田総理の見解を私からもお聞きしたいと思います。そして安倍元総理、自民党の今でも有力な議員だと思いますけれども、自民党の中でもこうした日米共同で運用する核共有政策の導入、こうした考えが自民党の中にあるでしょうか。お聞きさせて頂きます」

 岸田文雄「安倍元総理の出演された番組、私ちょっと拝見していませんので、それについて直接言及することは控えますが、政府としては先程来申し上げているように自国の領土に米国の核兵器を置いて、有事にはこの自国の戦闘機等によって核兵器を搭載、あるいは運用可能な態勢を保持することによって自国等の防衛のために米国の抑止力を共有する、こうした枠組みを想定しているのであるならば、これは政府として非核3原則を堅持していく立場からも、また、原子力基本法を始めとする国内法をこの維持する見地からも認めることはできないと考えております」

 (答弁に不足があると見たのか、委員長に抗議、ほんの少し中断、答弁のし直し)

 岸田文雄「自民党のみならず、国内に於いて核共有について様々な議論があるということは承知しております。しかしながら、私の考え方、政府の考え方、これは先程申し上げたとおりでございます」

 青木愛「安倍元総理の発言、テレビを見ていないので控えると仰いましたけども、控えている場合ではないと思います。で、そういう議論がですね、核を共有するという議論が自民党の中で行われているという、率直なお話も聞こえてきたわけでありますけれども、冒頭申し上げましたように今、世界は三重の地球規模の危機に直面しているわけでありまして、岸田総理も仰ったように今こそ世界が一つになってこの地球からの、自然からの警告に立ち向かわなければならないときに安倍元総理の発言はですね、さらに危険を煽る、極めて遺憾で、危険であるとそういう発言があるということを指摘しておきたいというふうに思います。

 ウクライナ問題については以上で、また改めて、また機会を作ってですね、安倍元総理の発言についても追及していきたいというふうに考えます」 
 杉尾秀哉(立憲民主党)「さっそくですけれども、先程来、質問が出ております安倍元総理のニュークリアシェアリング、核共有について伺います。ちょっと確認させて頂きたいのですが、先程来、核共有は認めない、あるいは認めることは難しいということを総理、何度も仰っておりますけども、これは議論自体を認めない、こういうことですか。どうぞ」

 岸田文雄「政府としてこの核共有は認めないと申し上げています。政府として議論することは考えておりません」

 杉尾秀哉「これは先程来出ておりますけれども、党内で議論することはありますか」

 岸田文雄「党の内外でこの核共有について様々な意見があるということは承知しております。しかし政府としてこうした考え方は認めませんし、議論していくことは考えておりません」

 杉尾秀哉「政府の立場をこれまで仰ったならば、自民党の総裁ですから、党に対してもそうしたメッセージをちゃんと発して頂けませんか。安倍総理の発言、これ海外に伝えられてるんですよ。この発言をキッカケとしてですね、ある自治体の首長(くびちょう)さんはですね、『非核3原則は昭和の時代なんだ』と、『異物なんだ』と、こういうことを仰ってる。ネット見てください。今核保有論の議論がネットに溢れてます。こういう世論を煽るような遣り方っていいんですか、どうですか」

 岸田文雄「ハイ、自民党の党の内外、そして日本に於いて、そして世界に於いて核共有について様々な意見があることは承知しております。だから、政府の方針として政府に於いては核共有というものは認めない、議論は行わない。これを再三公の場で発言を、発言をさせて頂いております。その政府の方針をしっかりと確認をし、社会に対して、世の中に対して発信していくことは重要であると考えています」

 杉尾秀哉「自民党の総務会長(福田達夫)も、政調会長(高市早苗)も、やっぱりこの核共有について議論すべきだと、こういうふうにですね、三役の方が仰ってますよね。これはやっぱり世界に対しても、折角、党の、政府の立場をそこまで仰ってるんだったら、やっぱり党に対しても強く言うべきだ。少なくとも安倍総理の発言を確認していないという、そう言い逃れをしないでください。

 安倍さんも、聞く耳も持ってらっしゃるんでしょ?そしたら、安倍さんに言ってくださいよ。やっぱりこれは、我々はやっぱりこういう核共有を煽るような遣り方というのは認められませんし、非核3原則というのはやっぱり堅持していくべきであると、こういう立場を崩しちゃいけないと思うですよね。もう1回お願いします」

 岸田文雄「党の内外、世の中に様々な意見があることは承知しております。だからこそ、政府としての考え方、非核3原則の考え方、さらには原子力の平和利用を定めている我が国の原子力基本法を始めとする法体系との関係に於いてこうした考え方は認められないということは改めて政府として、そして総理大臣としてしっかり発信していくことが重要であるということで発信をさせて頂いております。これからもこうした政府の考え方はしっかりと発信を続けていきたいと考えます」

 杉尾秀哉「最後にしますけども、自民党総裁としての立場を使い分けないでください。同一人物でございますので」

 岸田文雄は非核3原則と原子力基本法等との関連から「核共有という考え方は政府としては認められない」、「政府として議論することは考えていない」と、一貫して「政府として」の立場を説明している。

 対して田名部匡代は「これまで御答弁では検討という言葉が多かったんですが、検討ではない、検討もしない、議論も認めないということでよろしいでしょうか」と聞き、青木愛は「そして安倍元総理、自民党の今でも有力な議員だと思いますけれども、自民党の中でもこうした日米共同で運用する核共有政策の導入、こうした考えが自民党の中にあるでしょうか」と聞き、杉尾秀哉は「先程来、核共有は認めない、あるいは認めることは難しいということを総理、何度も仰っておりますけども、これは議論自体を認めない、こういうことですか」と三者三様、アホなことを聞いている。

 岸田文雄が内閣総理大臣として政府としての正式な機関を設けて核共有の議論をする考えはない、と同時に自民党総裁としても党としての正式な機関を設けて同様の議論をする考えはないとしても、自民党議員が個々に仲間を集って、何らかの議連を名乗って議論することは内閣総理大臣としても、自民党総裁としても止めることはできない。断るまでもなく、誰もが思想・信条の自由を保障されているからだ。自民党内には核武装論者も存在する。閣僚が個人の資格で参加することもできる。政府に戻れば、閣僚として非核3原則堅持の立場は守ると言えば、閣内不一致という事態も避けられる。

 3人共が問題がどこにあるのか、誰も気づいていない。衆議院に関しては2021年10月31日投開票の総選挙で自民党は「絶対安定多数」を単独確保し、盤石な体制を敷いている。この当選議員の任期満了日は2025年10月30日までの約3年半後で、解散に打って出る、あるいは解散に迫られる状況とならなければ、暫くの間は盤石な体制を維持できる。但し次回の参議院選挙は4カ月後の2022年7月25日、すぐ目前にまで迫っている。前回2019年7月21日の参院選挙では自民党は改選議員を含めて単独で過半数に達せず、公明党を加えた与党で過半数を獲得できている状況にある。岸田文雄が言っている非核3原則堅持が揺るぎない信念となっているのか、安全保障環境の変化が非核3原則で行くことで足りるのか、核共有といった一歩進んだ核抑止策で行くべきなのか、思案しているのかどうかその内心は窺うことはできないが、ここで口にしてきた非核3原則堅持をぶち壊すような核共有議論を進めた場合、参院選にマイナスの影響を与えることは十分に計算できることで、最悪、自公過半数割れを起こしたなら、内閣の運営自体が困難となり、自民党政権という元も核に関係する安全保障という子も失くしかねないことは想定範囲内としているはずである。誰も危険な橋は避けるはずで、先ずは波風立たせないように配慮を重ねて、参院選勝利を喫緊の課題と位置づけているはずだ。

 安倍晋三は2014年12月14日投開票の衆院選挙では憲法解釈変更に基づいた集団的自衛権行使容認等を含めた安全保障関連法に関しては争点隠しを行い、消費税増税の延期で有権者の歓心を買い、選挙に勝利するや、国民の信任を得たと数の力で押し切って2015年9月19日に法案を成立させるウルトラCを平然と行なっている。仮に岸田文雄が安全保障環境をより強固とするために核共有といった一歩進んだ核抑止策の必要性を痛感していたとしても、参院選の争点とはせず、あくまでも非核3原則の堅持で押し通すはずだ。政策の実現はすべて選挙から始まる。第1党を保証する選挙で得た頭数が政策の推進力となる。

 もし、次回参院選で大きく勝利し、自民党単独で過半数獲得に落ち着くことができ、前回衆院選で躍進著しい日本の維新の会が同じ参院選で議席数を一定程度伸ばしたなら、代表の松井一郎が核共有議論推進を掲げていて、次の衆院選と参院選までに時間の余裕があることから国民に人気のない政策推進で有権者離れが少しくらい生じても、喉元通れば熱さ忘れるに期待して安倍晋三を筆頭とした自民党の核共有推進議員と維新の議員まで交えて核共有議論を進め、衆参両院で大勢意見とすることができたなら、岸田文雄がいくら非核3原則堅持を掲げようとも、政府内でも核共有に向けた議論を開始せざるを得なくなる道に進むことは容易に想像できる。

 この流れに岸田文雄が真実非核3原則堅持を頑なに掲げていたとしても、逆らうことは難しい。実際には「核共有」論者であったなら、(このことは最後まで隠し通すだろうが)、やむを得ないという態度を取りつつ、多数意見の尊重を掲げて、政府としても自民党としても正式な機関を設けて議論を開始する方向に動くに違いない。何しろ自民党政府は「憲法は防衛のための必要最小限の範囲内ならば核兵器の使用を禁じていない」という立場を取っているのである。

 あるいは“一足飛び”に核共有にまで進まずにその手始めに核の持ち込みというワンステップを暫くの間置いて、生じた場合の国民のアレルギーを冷ます冷却期間とすることも考えられる。こういった状況になったとき、当然、日本は非核3原則堅持の旗を下ろすことになるが、岸田文雄にとって止むを得ない妥協として受け入れるのか、広島を選挙区としているということもあるのだろう、核廃絶を掲げているものの、その旗を下ろす役目が自分に回ってきたことの皮肉を痛感しながら、時代の変化を受けた潮時と冷静に受け止めるのか、そういったことのいずれかであろうが、このような経緯を取るだろうと想定できるのは安倍晋三が元首相としての強かな影響力を持つと同時に自民党最大派閥のボスであり、岸田文雄は首相職を維持するためにも、選挙の顔であり続けるためにもその意向を無視はできない両者関係にあるからなのは論を俟たない。

 この両者関係は既に様々な場面に現れている。岸田文雄は2021年9月の自民党総裁選から自身が首相となった場合の安倍晋三のアベノミクスに代えるメインの経済政策として「新しい資本主義の実現」掲げた。だが、首相となって半年が経とうというのにアベノミクスのように何と何と何の「三本の矢」だといった具体像が未だ公表されていないのは異常な事態としか言いようがない。「新自由主義的政策からの転換」と「成長と分配の好循環」という抽象的な理念にとどまる中身だけは明らかにしている。

 安倍晋三は岸田文雄の「新自由主義的政策からの転換」に反応したのだろう、2021年12月26日放送のBSテレ東番組で次のように発言している。

 「(「新しい資本主義」を掲げる岸田文雄首相の経済運営について)根本的な方向をアベノミクスから変えるべきではない。市場もそれを期待している。ただ、味付けを変えていくんだろうと(思う)。『新自由主義は取らない』と岸田さんは言っているが、成長から目を背けると、とられてはいけない。改革も行わなければならない。社会主義的な味付けと受け取られると市場も大変マイナスに反応する」

 アベノミクスの味付けを変える程度ならいいが、非なるもであってはならないと警告した。いわば新自由主義経済アベノミクスからの決別に釘を差した。この釘は岸田文雄が自らが掲げた「新自由主義的政策からの転換」への自由な活動を縛ることになる。大企業や高額所得層を豊かにし、中低所得層を豊かさから取り残す不公平な分配を果実とした新自由主義経済アベノミクスからの決別ではない新自由主義的政策からの転換という、殆ど相矛盾する綱渡りを強いられることになるからだ。もし安倍晋三の釘(=意向)を完璧に無視できたなら、「新しい資本主義実現会議」を4回も開いているのだから、岸田文雄本人から具体的な中身の発表があっても良さそうだが、「具体像が見えない」、「道筋が見えてこない」がマスコミや評論家の今以っての専らの評価となっている。安倍晋三の意向を無視はできない両者関係に縛られた具体像の未確立としか見えない。 

 佐渡金山の世界文化遺産への登録を目指す新潟県などの動きに韓国側が韓国人強制使役被害の現場だからと反対、岸田政権は当初、登録推薦に慎重な姿勢を示していたそうだが、安倍晋三が2022年1月20日の安倍派総会で「論戦を避ける形で登録を申請しないのは間違っている。ファクト(事実)ベースで反論していくことが大切で、その中で判断してもらいたい」と発言、岸田政権の慎重姿勢に釘を差した。4日後の2022年1月24日衆院予算委、バックに常に安倍晋三が控えている高市早苗が佐渡金山の歴史を江戸時代のみに区切る歴史修正主義に立って、「これは戦時中と全く関係はない。江戸時代の伝統的手工業については韓国は当事者ではあり得ない」と推薦を強く迫ると、4日後の1月28日夜、岸田文雄はこれまでの慎重姿勢を一変させて首相官邸のぶら下がり取材で「佐渡島金山」のユネスコ推薦を正式表明、4日後の2月1日にユネスコへの推薦を閣議了解、推薦書を提出するに至った。安倍晋三の意向を無視はできない両者関係を窺うに余りある。

 岸田文雄が安倍晋三に対して鼻息を窺わなくても済む関係にあれば、安倍晋三の発言後に今まで見せていた姿勢・態度をその発言に見合う姿勢・態度に変える必要性は生じない。となると、立憲民主党三者は二人の間にこういったパターンが既に認められている以上、安倍晋三の「核共有」議論推奨発言に対して岸田文雄が非核3原則堅持を国会答弁としたとしても、岸田文雄にとって安倍晋三の意向を無視はできない両者関係と衆参両院選挙のいずれかが間近に控えている場合はそれがネックとなって、選挙に悪影響があると予想される政策や言動を選挙後までは控える前例を頭に入れて、7月の参院選で自民党が少なくとも議席を伸ばすことができたなら、自民党内から日本維新の会も巻き込んで、「核を持ち込ませる」議論か、「核共有」を議論する動きが出てきて、一定の勢力とすることができたなら、「核を持ち込ませる」に向けてか、「核共有」に向けて政府を動かすことになる次の段階を想定しなければならない。

 想定できたなら、参院選後に予想される展開を描く国会追及を行うことができて、岸田文雄をして少なくとも「選挙の結果に関わらずが非核3原則堅持に変わりはありません」の言質を取らなければならなかったはずである。その言質が安倍晋三の意向を無視できる動機となりうる可能性は否定できないし、予想される展開を描いておけば、逆に描いたとおりの動きを牽制する役目を持たせる可能性も出てくる。ところが青木愛も田名部匡代も、杉尾秀哉も、3人共に同じような質問をし、同じような答弁を引き出す非生産的な追及しか試みることができなかった。政治の動きというものを何も学んでいないことになる。小川淳也の「批判するときは国民が惚れ惚れするような批判してこその野党だ」は夢のまた夢、手の届かない情けない状況にある。あるいは立憲の面々が追及の実力が伴わない状況にあるにも関わらず、小川淳也が「批判するときは国民が惚れ惚れするような批判してこその野党だ」と体裁のいいことを口にしたに過ぎないことになる。

 今までのパターンを例に上げることができれば、パターンどおりになる可能性の観点から安倍晋三の「核共有」議論推奨発言と対する岸田文雄の非核3原則堅持発言の参院選後の推移が非核3原則堅持を危うくする方向に進みかねない、考えられる成り行きを描き出して、参院選挙期間中に国民に警鐘を鳴らす訴えとすることもできる。ただ単に現在は政権内にいない安倍晋三の「核共有」議論推奨発言と自民党内や他野党内に同調者のいることを取り上げ、岸田文雄に「非核3原則堅持」を言わせるだけでは、核政策に限らず、どのような政策も党内勢力図の影響を受けて生じる主導権の所在が政策の決定権を担う関係から、政府追及としてはさしたるインパクトを与えることはできない。もしインパクトのある追及ができたと思っているなら、裸の王様もいいとこの滑稽な勘違いとなる。

 大体が安倍晋三はプーチンが核の使用も辞さなぞと見せかけるある種の"核の脅迫"に反応して"核共有"議論の必要性を口にした。このことを批判するなら、非核3原則の旗を掲げていさえすれば、プーチンや金正恩みたいな独裁者が日本に核を撃ち込みたい衝動を抱えたとしても、その衝動を抑えることができるとする妥当性ある答を示してからすべきで、答を示しもせずにただ「非核3原則」、「非核3原則」と言うのは論理性も何もなく、感情任せのマヤカシにしか聞こえない。

 それともウクライナは遠い国で、日本ではないのだから、核が使用されたとしても、見守るしかなく、日本の非核3原則は非核3原則としての立ち位置を損なうことはないと一国平和主義で行くのかもしれないが、プーチンが核の使用も辞さなぞと"核の脅迫"を一旦見せた以上、世界が独裁者によって核使用に踏み切る危険性を潜在的に抱える状況に足を踏み入れることになった。少なくとも世界の多くの国がその危険性に警戒心を持つことになった。そのような場合、日本だけを蚊帳の外に置くことができるだろうか。

 だからと言って、核に対抗するに核を用意するどのような核抑止策も、振り出しの議論に戻るが、使うことが絶対ないと言い切れない状況にある核が世界のどこかで使われた場合、そして核に対するに核の報復は全否定できない以上、その世界のどこかは広範囲に目を覆うばかりの悲惨な破壊と壊滅、凄惨な死屍累々の状況に覆い尽くされる結末を出現させるかもしれない。百歩譲って核使用までいかずに核使用に踏み切る危険性を潜在的に抱える不安定な状況が延々と引き伸ばされていくだけであったとしても、この両場面共に核という存在よりも独裁者という存在が核に関わる懸念材料としてより大きく立ちはだかっていることに
留意しなければならない。いわば核は使わなければ無害であるが、使う・使わないの決定権を持ち、使う可能性が少なからざる予想される(でなければ、世界は核使用に踏み切る危険性を潜在的に抱えることはない)独裁者という存在自体に重大な関心を向けなければならない。

 考えられるこのような推移が自ずと導く答はやはり独裁者の排除以外にないことになる。独裁者の排除こそが、核の脅威を低下させることができる要因とする。時間的に遠回りになったとしても、独裁者の排除にこそ重点を置くべきだろう。独裁者の排除は民主体制への転換を意味する。軍事的な強硬手段ではなく、話し合いの問題解決を優先させる立ち位置を世界は取ることになる。核に対抗するに核を以ってするのは多くの国民の犠牲を決定事項としなければならない。

 プーチンという独裁者の排除については「独裁者」という言葉直接的には使わなかったが、2015年11月17日当ブログ記事《安倍晋三はプーチンとの信頼関係構築が四島返還の礎と未だ信じているが、リベラルな政権への移行に期待せよ - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に北方4島返還はプーチンが大ロシア主義を血とし、ロシアを旧ソ連同様の広大な領土と広大な領土に依拠させた強大な国家権力を持った偉大な国家に回帰させようとしている限り、そしてそのことによってロシア人の人種的な偉大性を表現しようとしている限り、安倍晋三がいくらプーチンとの信頼関係構築を4島返還の礎に据えようが、あるいは平和条約締結の条件としようが、プーチンの大ロシア主義の前に何の役にも立たないはずで、プーチンに代わる、大ロシア主義に影響されていないリベラルな政権への移行に期待する以外にないとプーチンの排除を書いた。

 さらに2020年11月23日の当ブログ記事《北方領土:安倍晋三がウリにしていた愚にもつかない対プーチン信頼関係と決別した領土返還の新しい模索 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》にも、プーチンへの領土交渉進展期待は非現実的で、彼を政治の舞台から退場させる力は現在なくても、その強権的専制政治への反体制を掲げる民主派勢力がロシアの政治の表舞台に躍り出て来ることに期待をかけ、資金等提供、その実現に力を貸す方が現実的な領土返還の新しい模索とすべきではないかと書き、独裁者プーチンのロシアの政治の舞台からの排除の必要性を書いたが、プーチンのウクライナ侵略と核使用をチラつかせるに及んで、核使用の脅威を取り除くには独裁者プーチンの排除と民主派勢力への体制転換の必要性を改めて強く認識するに至った。

 核を使わない、通常兵器による戦争であっても、多くの国民が犠牲となり、住む土地を追われる。核戦争となると、犠牲や破壊は計り知れない。非核3原則と言うだけではなく、想像力を働かせて、核使用の機会を取り除く何らかの方策を見い出す時期に来ているように思える。

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安倍晋三、松井一郎等々の核保有軍事大国の核に関わる懸念材料が何かを特定できない想像力空疎な「核共有」欲求(2)

2022-03-31 09:01:09 | 政治
 国会や政党代表の記者会見等でも安倍晋三の「核共有」発言が取り上げられることになった。万が一あるかもしれない核の使用に対してどのような想像力を働かせているのか、結果としての核の取り扱いをどう考えているのか、いわば核防衛体制についての考えを見てみる。先ず国民民主党代表玉木雄一郎が2022年3月1日の党記者会見で安倍晋三の「核共有」発言に対する反応をNHK NEWS WEB記事が伝えている。国民民主党のサイトにアクセスしてみたが、「冒頭発言概要」しか紹介しいない。あとはYou Tube動画のリンク付を行なっている。サイトを覗く人間が少ないのかもしれないが、マスコミが発言を伝えることで具体的な発言内容を知りたくなる数少ない機会にも応えることができないとなると、自民党みたいに元々政党支持率の高いところはお構いなしとすることはできるが、政党支持率が低いところは漏れのないサービスに不足することになると思うが、そこまでは考えていないようだ。仕方がないから、NHK記事を参考にする。

 玉木雄一郎「非核三原則や平和国家の歩みからすると、(安倍晋三の「核共有」は)一足飛びの議論だ。唯一の戦争被爆国として核廃絶という大きな目標を掲げてやっていくべきだ。

 どのような形であれば、憲法が掲げる平和主義と反せずに核抑止が機能するのか、現実的な議論を積み重ねていくことが大事だ。特にこれまで議論を避けてきた、非核三原則の『持ち込ませず』の部分が、一体何を意味するのか、日米の具体的なオペレーションの在り方を含め冷静な議論を始めるべきだ」

 安倍晋三と同様に長い目で見た核抑止策として核使用の危険性の高い独裁者の排除に視点は置いていない。あくまでも“核に対するに核”の考えに立っている。唯一の戦争被爆国としての核廃絶というのは「大きな目標」だと言っているが、この「大きな」とは「最終的な」という意味を取るはずだ。核廃絶はあくまでも「最終的な目標」であって、そこに到達するまでには現実にある核の脅威を取り除いていくために「憲法が掲げる平和主義と反せずに核抑止」を機能させる方策の追求に取り組まなければならない。その方策として「非核3原則の『持ち込ませず』の部分」に注目している。非核3原則とは核兵器を「持たず、つくらず、持ち込ませず」を指すのだから、非核3原則と核の傘の関係からすると、日本に核攻撃の脅威が迫った場合は核攻撃の脅威を与えている国への核に対抗するに核の予防策としてアメリカ本土からの核弾頭搭載大陸間弾道ミサイル(ICBM)、太平洋上の原子力潜水艦からの核弾道ミサイル発射等が従来型の、いわば日本の外からの運用を方法としているが、当然、非核三原則の「持ち込ませず」が「一体何を意味するのか」と言っている意図は「持ち込ませず」を言葉通りに解釈せずに持ち込ませる方向への何らかの含みをそこに期待していることになる。

 もし言葉通りに解釈していたなら、あとの言葉、「日米の具体的なオペレーションの在り方を含め冷静な議論を始めるべきだ」を続ける必要性は生じない。玉木雄一郎が想定している核を持ち込ませる方向へ何らかの含みを持たせていることはその含みの持たせ方によって核の取り扱いは大きく変わる。高市早苗の次の記者会見発言についても同じことが言える。

 自民党政調会長高市早苗2022年3月2日の記者会見(「You Tube」から) 

 高市早苗「いわゆる核シェアリングという問題でございますけれども、これは昨日も申し上げましたが、民主党政権下だった平成22年3月、当時の岡田克也外務大臣が核を搭載した米国の艦船や航空機の我が国への一時的な寄港や飛来ということも念頭にしながら、外務委員会で答弁をされました、そのような緊急事態に於いて非核3原則をあくまでも守るのか、ま、それでも国民の生命の安全を考えて、異なる判断をするのか、それはそのときの政府の判断の問題であって、今からそのことについて縛ることはできないと考えているということでございました。

 その後平成24年(2012年)12月に我が党は政権復帰させて頂きましたけれども、平成24年2月14日の予算委員会に於いても当時の岡田外務大臣が行なった答弁を引き継いでいると答弁をしておられます。そして同月ですけども、質問主意書への答弁書としてこの岡田克也外務大臣当時の、まあ、この方針を安倍内閣としても踏襲する旨、閣議決定をして、答弁書と致しております。

 日本国政府は民主党政権以来、自公政権になっても、国民の安全が危機的状況になったときに非核3原則をあくまでも守るのか、それとも持ち込ませずの部分については例外をつくるのか、それはそのときの政権の判断するべきことであって、将来に亘って縛ることはできないという立場を重ねて表明してきております。

 あのー、持たず、つくらず、持ち込ませず、この非核3原則は例えば『持たず、つくらず』の部分につきましてはこれも皆様ご承知の通り原子力基本法ですとか、核不拡散条約、まあ、これを批准しておりますので、『持たず、つくらず』というのは当然のことであります。ただ本当に有事になって、国民の安全が脅かされる危機的状況になったときに核を搭載した、例えば米国の艦船が来たときに日本に寄港させないのか、給油もさせないのかということになると、また別問題であり、領海を航行することもダメなんだとということでは実質的に日本は守れないのではないのかと私は考えました。

 あくまでも民主党政権時代、その後の安倍内閣の方針及び外務大臣の国会答弁、全く同じことを昨日申し上げました。で、今後党内でどうするのかということでございますけれども、きのう政調会の半沢(?)調査会長と私は遣り取りをしております。ま、今後は非常に重要な時期になりまして、国家安全保障戦略や中期防(中期防衛力整備計画)も含めて今後見直すという形の作業に入りますが、その中にあっても、この議論、全く封じ込めるということであってはならないと思っています。関係議員と相談しながら、今後この問題についての進め方、議論をするかしないかを含めて検討してまいりたいと思っています」

 民主党政権時代の岡田克也外務大臣の2010年3月17日衆議院外務委員会での非核3原則関連の発言は次のようになっている。

 笠井亮(あきら・日本共産党)「米国が有事と判断した際には核兵器を再配備することを宣言しているわけで、それでも核兵器は持ち込まれることはないと断言できますか」

 岡田克也「我々としては、非核三原則、鳩山内閣として堅持するという方針であります。しかし、日本自身の安全にかかわるような重大な局面というものが訪れて、そしてそのときに核を積んだ艦船が一時寄港する必要が出るというような、そういう仮定の議論は余りしたくありませんが、そういうことになったときに、我々は非核三原則を堅持いたしますが、最終的にはそのときの政権がぎりぎりの判断というものを政権の命運をかけて行うということだと思います。

 非核三原則というのは、これはやはり日本自身を核の脅威から遠ざける、こういう考え方に立って行われているものだと私は認識いたしますけれども、いざというときの、日本国民の安全というものが危機的状況になったときに原理原則をあくまでも守るのか、それともそこに例外をつくるのか、それはそのときの政権が判断すべきことで、今、将来にわたってそういったことを縛るというのはできないことだと思います」

 この答弁以前に岡田克也は自民党岩屋毅議員に対して「緊急事態ということが発生して、しかし、核の一時的寄港ということを認めないと日本の安全が守れないというような事態がもし発生したとすれば、それはそのときの政権が政権の命運をかけて決断をし、国民の皆さんに説明する、そういうことだと思っております」と答弁している。

 高市早苗は「いわゆる核シェアリングという問題でございますけれども」と言いながら、緊急事態発生時には実質的には非核3原則のうちの「持ち込ませず」に関して例外規定を設けるかどうかはときの政権の決断事項だとする民主党政権時代の考え方を自民党政権も引き継いでいて、引き継いでいることは答弁書に於いても閣議決定もしているし、このことに関しては議論を進めるのか進めないのかを含めて検討するとしているものの、「持ち込ませず」の例外規定が単純に核搭載艦船の一時寄港の許可に限定するなら、核はあくまでも米軍の掌中に置くことを意味し、核の使用に関しては日本の関与外となり、安倍晋三の「核共有」とは実質的には異なることになる。

 だが、玉木雄一郎の説明どおりに核を“持ち込ませる”方向に持っていくためには「日米の具体的なオペレーションの在り方」の議論を日米間に介在させる必要上、議論の行方によっては核の使用に日本政府の関与をも可能とする項目を設けた場合は核の所在を寄港した米艦船内に限ったとしても、そこに備蓄する形を取ることとなり、この双方の条件によって“持ち込ませる”は限りなく「核共有」に近づくことになる。もし核を陸揚げして、米基地内か自衛隊基地内に置くことにしたら、「核共有」そのものとなる。

 但し玉木雄一郎が安倍晋三の「核共有」を「一足飛びの議論だ」としているから、一見、「核共有」まで考えていないように見えるが、第1段階として“持ち込ませる”から始めて、安全保障環境の変化によっては第2段階か第3段階目に「核共有」に持っていくというふうに「一足飛び」ではなくても、段階を踏んでと考えている可能性は否定できない。「核共有」がこのような形式のものであっても、「持たず、つくらず、持ち込ませず」の非核3原則の「持たず」と「持ち込ませず」を限りなくなし崩しにする、より積極的な核関与政策となる。高市早苗の上記記者会見での“持ち込ませる”方向への議論の示唆も、何しろ安倍晋三とは思想的には双子の関係にあるから、手始めに“持ち込ませる”から始めて、「核共有」に近づけていく目論見を頭に置いていないとは言い切れない。

 では、安倍晋三の「核共有」議論推奨に総理岸田文雄がどのような姿勢を見せているのか、野党立憲民主党3氏の追及を見てみるが、追及自体に3人の核に関する考え方が反映されることになる。勢いと小賢しさだけの立憲小川淳也の「批判するときは国民が惚れ惚れするような批判してこその野党だ」の言葉がそっくりと当てはまる追及となっているのかどうかも併せて見ることにする。

 2022年3月2日参議院予算委員会

 田名部匡代「先日、我が党の田島(麻衣子)委員から質問がありました。安倍前総理、民放の報道番組で、核保有についてまさに議論を呼びかけるような発言があったことについて田島議員から質問があったわけでありますけれども、そのときに総理からは、非核三原則を堅持するという我が国の立場から考えて、これは認められないと認識をしていますというふうにお答えになっております。

 改めて確認させていただきます。総理、核保有に関しては、これまで御答弁では検討という言葉が多かったんですが、検討ではない、検討もしない、議論も認めないということでよろしいでしょうか。

 岸田文雄「確か先日の議論は、核保有というか核共有の議論であったと思います。そして、その核共有ということについて、その核共有の中身ですが、この平素から自国の領土に米国の核兵器を置き、有事には自国の戦闘機等に核兵器を搭載運用可能な体制を保持することによって自国等の防衛のみの、防衛のために核、米国の核抑止力を共有する、こういった枠組みを想定しているというのであるならば、これについては、非核三原則を堅持している立場から、更に申し上げるならば、原子力の平和利用を規定している原子力基本法を始めとするこの法体系から考えても、政府として認めることは難しいと考えております。

 田名部匡代「大変失礼しました、核共有。

 実は、平成29年、我が党の白眞勲委員からも、当時の安倍総理にこのことについて質問されておられるんですね。当時の安倍総理は、やはりこれは非核三原則を堅持していくという立場だと、そして、この核シェアリングについては全く検討も研究もしていないわけでございまして、抑止力について向上、これ前段の話で、いろいろと議論する、研究することは、検討していくことは当然なのではないかということについて白眞勲議員が質問しているんですけれども、その発言は総理としての発言ではなかったので、総理としては、これは抑止力の向上ということについては核シェアリングは除くと、まさに非核三原則をしっかりとその立場を守っていくという御発言をされているんですね、当時、安倍総理は。

 しかし、この間、民放のテレビ番組において、その議論を呼びかけるようなことがあったわけです。

 総理は、こういったことについてどのような感想をお持ちでしょうか」

 岸田文雄「私はその番組の発言直接聞いておりませんので、そのどういった流れであったか、趣旨であったか十分承知していないので、私の立場から具体的にそれについて申し上げることは控えますが、いずれにせよ、核共有ということについては先ほど申し上げたとおり認識をしております。

 政府としてそうした考え方を認めることは難しいと考えておりますし、政府として議論することは考えておりません。

 田名部匡代「しっかりと私たちは非核三原則、堅持する立場を貫いていきたいと思いますし、難しいということではなくて、やっぱり……(発言する者あり)委員席からもありますが、あり得ない、しっかりとそれは守っていただきたいというふうに思います」 
 青木愛(立憲民主党)「自民党の元安倍総理がアメリカの核兵器を国内に配備して日米共同で運用する核共有政策の導入についてテレビで話をされました。この核共有に関する岸田総理の見解を私からもお聞きしたいと思います。そして安倍元総理、自民党の今でも有力な議員だと思いますけれども、自民党の中でもこうした日米共同で運用する核共有政策の導入、こうした考えが自民党の中にあるでしょうか。お聞きさせて頂きます」

 岸田文雄「安倍元総理の出演された番組、私ちょっと拝見していませんので、それについて直接言及することは控えますが、政府としては先程来申し上げているように自国の領土に米国の核兵器を置いて、有事にはこの自国の戦闘機等によって核兵器を搭載、あるいは運用可能な態勢を保持することによって自国等の防衛のために米国の抑止力を共有する、こうした枠組みを想定しているのであるならば、これは政府として非核3原則を堅持していく立場からも、また、原子力基本法を始めとする国内法をこの維持する見地からも認めることはできないと考えております」

 (答弁に不足があると見たのか、委員長に抗議、ほんの少し中断、答弁のし直し)

 岸田文雄「自民党のみならず、国内に於いて核共有について様々な議論があるということは承知しております。しかしながら、私の考え方、政府の考え方、これは先程申し上げたとおりでございます」

 青木愛「安倍元総理の発言、テレビを見ていないので控えると仰いましたけども、控えている場合ではないと思います。で、そういう議論がですね、核を共有するという議論が自民党の中で行われているという、率直なお話も聞こえてきたわけでありますけれども、冒頭申し上げましたように今、世界は三重の地球規模の危機に直面しているわけでありまして、岸田総理も仰ったように今こそ世界が一つになってこの地球からの、自然からの警告に立ち向かわなければならないときに安倍元総理の発言はですね、さらに危険を煽る、極めて遺憾で、危険であるとそういう発言があるということを指摘しておきたいというふうに思います。

 ウクライナ問題については以上で、また改めて、また機会を作ってですね、安倍元総理の発言についても追及していきたいというふうに考えます」 
 杉尾秀哉(立憲民主党)「さっそくですけれども、先程来、質問が出ております安倍元総理のニュークリアシェアリング、核共有について伺います。ちょっと確認させて頂きたいのですが、先程来、核共有は認めない、あるいは認めることは難しいということを総理、何度も仰っておりますけども、これは議論自体を認めない、こういうことですか。どうぞ」

 岸田文雄「政府としてこの核共有は認めないと申し上げています。政府として議論することは考えておりません」

 杉尾秀哉「これは先程来出ておりますけれども、党内で議論することはありますか」

 岸田文雄「党の内外でこの核共有について様々な意見があるということは承知しております。しかし政府としてこうした考え方は認めませんし、議論していくことは考えておりません」

 杉尾秀哉「政府の立場をこれまで仰ったならば、自民党の総裁ですから、党に対してもそうしたメッセージをちゃんと発して頂けませんか。安倍総理の発言、これ海外に伝えられてるんですよ。この発言をキッカケとしてですね、ある自治体の首長(くびちょう)さんはですね、『非核3原則は昭和の時代なんだ』と、『異物なんだ』と、こういうことを仰ってる。ネット見てください。今核保有論の議論がネットに溢れてます。こういう世論を煽るような遣り方っていいんですか、どうですか」

 岸田文雄「ハイ、自民党の党の内外、そして日本に於いて、そして世界に於いて核共有について様々な意見があることは承知しております。だから、政府の方針として政府に於いては核共有というものは認めない、議論は行わない。これを再三公の場で発言を、発言をさせて頂いております。その政府の方針をしっかりと確認をし、社会に対して、世の中に対して発信していくことは重要であると考えています」

 杉尾秀哉「自民党の総務会長(福田達夫)も、政調会長(高市早苗)も、やっぱりこの核共有について議論すべきだと、こういうふうにですね、三役の方が仰ってますよね。これはやっぱり世界に対しても、折角、党の、政府の立場をそこまで仰ってるんだったら、やっぱり党に対しても強く言うべきだ。少なくとも安倍総理の発言を確認していないという、そう言い逃れをしないでください。

 安倍さんも、聞く耳も持ってらっしゃるんでしょ?そしたら、安倍さんに言ってくださいよ。やっぱりこれは、我々はやっぱりこういう核共有を煽るような遣り方というのは認められませんし、非核3原則というのはやっぱり堅持していくべきであると、こういう立場を崩しちゃいけないと思うですよね。もう1回お願いします」

 岸田文雄「党の内外、世の中に様々な意見があることは承知しております。だからこそ、政府としての考え方、非核3原則の考え方、さらには原子力の平和利用を定めている我が国の原子力基本法を始めとする法体系との関係に於いてこうした考え方は認められないということは改めて政府として、そして総理大臣としてしっかり発信していくことが重要であるということで発信をさせて頂いております。これからもこうした政府の考え方はしっかりと発信を続けていきたいと考えます」

 杉尾秀哉「最後にしますけども、自民党総裁としての立場を使い分けないでください。同一人物でございますので」

 岸田文雄は非核3原則と原子力基本法等との関連から「核共有という考え方は政府としては認められない」、「政府として議論することは考えていない」と、一貫して「政府として」の立場を説明している。

 対して田名部匡代は「これまで御答弁では検討という言葉が多かったんですが、検討ではない、検討もしない、議論も認めないということでよろしいでしょうか」と聞き、青木愛は「そして安倍元総理、自民党の今でも有力な議員だと思いますけれども、自民党の中でもこうした日米共同で運用する核共有政策の導入、こうした考えが自民党の中にあるでしょうか」と聞き、杉尾秀哉は「先程来、核共有は認めない、あるいは認めることは難しいということを総理、何度も仰っておりますけども、これは議論自体を認めない、こういうことですか」と三者三様、アホなことを聞いている。

 岸田文雄が内閣総理大臣として政府としての正式な機関を設けて核共有の議論をする考えはない、と同時に自民党総裁としても党としての正式な機関を設けて同様の議論をする考えはないとしても、自民党議員が個々に仲間を集って、何らかの議連を名乗って議論することは内閣総理大臣としても、自民党総裁としても止めることはできない。断るまでもなく、誰もが思想・信条の自由を保障されているからだ。自民党内には核武装論者も存在する。閣僚が個人の資格で参加することもできる。政府に戻れば、閣僚として非核3原則堅持の立場は守ると言えば、閣内不一致という事態も避けられる。

 3人共が問題がどこにあるのか、誰も気づいていない。衆議院に関しては2021年10月31日投開票の総選挙で自民党は「絶対安定多数」を単独確保し、盤石な体制を敷いている。この当選議員の任期満了日は2025年10月30日までの約3年半後で、解散に打って出る、あるいは解散に迫られる状況とならなければ、暫くの間は盤石な体制を維持できる。但し次回の参議院選挙は4カ月後の2022年7月25日、すぐ目前にまで迫っている。前回2019年7月21日の参院選挙では自民党は改選議員を含めて単独で過半数に達せず、公明党を加えた与党で過半数を獲得できている状況にある。岸田文雄が言っている非核3原則堅持が揺るぎない信念となっているのか、安全保障環境の変化が非核3原則で行くことで足りるのか、核共有といった一歩進んだ核抑止策で行くべきなのか、思案しているのかどうかその内心は窺うことはできないが、ここで口にしてきた非核3原則堅持をぶち壊すような核共有議論を進めた場合、参院選にマイナスの影響を与えることは十分に計算できることで、最悪、自公過半数割れを起こしたなら、内閣の運営自体が困難となり、自民党政権という元も核に関係する安全保障という子も失くしかねないことは想定範囲内としているはずである。誰も危険な橋は避けるはずで、先ずは波風立たせないように配慮を重ねて、参院選勝利を喫緊の課題と位置づけているはずだ。

 安倍晋三は2014年12月14日投開票の衆院選挙では憲法解釈変更に基づいた集団的自衛権行使容認等を含めた安全保障関連法に関しては争点隠しを行い、消費税増税の延期で有権者の歓心を買い、選挙に勝利するや、国民の信任を得たと数の力で押し切って2015年9月19日に法案を成立させるウルトラCを平然と行なっている。仮に岸田文雄が安全保障環境をより強固とするために核共有といった一歩進んだ核抑止策の必要性を痛感していたとしても、参院選の争点とはせず、あくまでも非核3原則の堅持で押し通すはずだ。政策の実現はすべて選挙から始まる。第1党を保証する選挙で得た頭数が政策の推進力となる。

 もし、次回参院選で大きく勝利し、自民党単独で過半数獲得に落ち着くことができ、前回衆院選で躍進著しい日本の維新の会が同じ参院選で議席数を一定程度伸ばしたなら、代表の松井一郎が核共有議論推進を掲げていて、次の衆院選と参院選までに時間の余裕があることから国民に人気のない政策推進で有権者離れが少しくらい生じても、喉元通れば熱さ忘れるに期待して安倍晋三を筆頭とした自民党の核共有推進議員と維新の議員まで交えて核共有議論を進め、衆参両院で大勢意見とすることができたなら、岸田文雄がいくら非核3原則堅持を掲げようとも、政府内でも核共有に向けた議論を開始せざるを得なくなる道に進むことは容易に想像できる。

 この流れに岸田文雄が真実非核3原則堅持を頑なに掲げていたとしても、逆らうことは難しい。実際には「核共有」論者であったなら、(このことは最後まで隠し通すだろうが)、やむを得ないという態度を取りつつ、多数意見の尊重を掲げて、政府としても自民党としても正式な機関を設けて議論を開始する方向に動くに違いない。何しろ自民党政府は「憲法は防衛のための必要最小限の範囲内ならば核兵器の使用を禁じていない」という立場を取っているのである。

 あるいは“一足飛び”に核共有にまで進まずにその手始めに核の持ち込みというワンステップを暫くの間置いて、生じた場合の国民のアレルギーを冷ます冷却期間とすることも考えられる。こういった状況になったとき、当然、日本は非核3原則堅持の旗を下ろすことになるが、岸田文雄にとって止むを得ない妥協として受け入れるのか、広島を選挙区としているということもあるのだろう、核廃絶を掲げているものの、その旗を下ろす役目が自分に回ってきたことの皮肉を痛感しながら、時代の変化を受けた潮時と冷静に受け止めるのか、そういったことのいずれかであろうが、このような経緯を取るだろうと想定できるのは安倍晋三が元首相としての強かな影響力を持つと同時に自民党最大派閥のボスであり、岸田文雄は首相職を維持するためにも、選挙の顔であり続けるためにもその意向を無視はできない両者関係にあるからなのは論を俟たない。

 この両者関係は既に様々な場面に現れている。岸田文雄は2021年9月の自民党総裁選から自身が首相となった場合の安倍晋三のアベノミクスに代えるメインの経済政策として「新しい資本主義の実現」掲げた。だが、首相となって半年が経とうというのにアベノミクスのように何と何と何の「三本の矢」だといった具体像が未だ公表されていないのは異常な事態としか言いようがない。「新自由主義的政策からの転換」と「成長と分配の好循環」という抽象的な理念にとどまる中身だけは明らかにしている。

 安倍晋三は岸田文雄の「新自由主義的政策からの転換」に反応したのだろう、2021年12月26日放送のBSテレ東番組で次のように発言している。

 「(「新しい資本主義」を掲げる岸田文雄首相の経済運営について)根本的な方向をアベノミクスから変えるべきではない。市場もそれを期待している。ただ、味付けを変えていくんだろうと(思う)。『新自由主義は取らない』と岸田さんは言っているが、成長から目を背けると、とられてはいけない。改革も行わなければならない。社会主義的な味付けと受け取られると市場も大変マイナスに反応する」

 アベノミクスの味付けを変える程度ならいいが、非なるもであってはならないと警告した。いわば新自由主義経済アベノミクスからの決別に釘を差した。この釘は岸田文雄が自らが掲げた「新自由主義的政策からの転換」への自由な活動を縛ることになる。大企業や高額所得層を豊かにし、中低所得層を豊かさから取り残す不公平な分配を果実とした新自由主義経済アベノミクスからの決別ではない新自由主義的政策からの転換という、殆ど相矛盾する綱渡りを強いられることになるからだ。もし安倍晋三の釘(=意向)を完璧に無視できたなら、「新しい資本主義実現会議」を4回も開いているのだから、岸田文雄本人から具体的な中身の発表があっても良さそうだが、「具体像が見えない」、「道筋が見えてこない」がマスコミや評論家の今以っての専らの評価となっている。安倍晋三の意向を無視はできない両者関係に縛られた具体像の未確立としか見えない。 

 佐渡金山の世界文化遺産への登録を目指す新潟県などの動きに韓国側が韓国人強制使役被害の現場だからと反対、岸田政権は当初、登録推薦に慎重な姿勢を示していたそうだが、安倍晋三が2022年1月20日の安倍派総会で「論戦を避ける形で登録を申請しないのは間違っている。ファクト(事実)ベースで反論していくことが大切で、その中で判断してもらいたい」と発言、岸田政権の慎重姿勢に釘を差した。4日後の2022年1月24日衆院予算委、バックに常に安倍晋三が控えている高市早苗が佐渡金山の歴史を江戸時代のみに区切る歴史修正主義に立って、「これは戦時中と全く関係はない。江戸時代の伝統的手工業については韓国は当事者ではあり得ない」と推薦を強く迫ると、4日後の1月28日夜、岸田文雄はこれまでの慎重姿勢を一変させて首相官邸のぶら下がり取材で「佐渡島金山」のユネスコ推薦を正式表明、4日後の2月1日にユネスコへの推薦を閣議了解、推薦書を提出するに至った。安倍晋三の意向を無視はできない両者関係を窺うに余りある。

 岸田文雄が安倍晋三に対して鼻息を窺わなくても済む関係にあれば、安倍晋三の発言後に今まで見せていた姿勢・態度をその発言に見合う姿勢・態度に変える必要性は生じない。となると、立憲民主党三者は二人の間にこういったパターンが既に認められている以上、安倍晋三の「核共有」議論推奨発言に対して岸田文雄が非核3原則堅持を国会答弁としたとしても、岸田文雄にとって安倍晋三の意向を無視はできない両者関係と衆参両院選挙のいずれかが間近に控えている場合はそれがネックとなって、選挙に悪影響があると予想される政策や言動を選挙後までは控える前例を頭に入れて、7月の参院選で自民党が少なくとも議席を伸ばすことができたなら、自民党内から日本維新の会も巻き込んで、「核を持ち込ませる」議論か、「核共有」を議論する動きが出てきて、一定の勢力とすることができたなら、「核を持ち込ませる」に向けてか、「核共有」に向けて政府を動かすことになる次の段階を想定しなければならない。

 想定できたなら、参院選後に予想される展開を描く国会追及を行うことができて、岸田文雄をして少なくとも「選挙の結果に関わらずが非核3原則堅持に変わりはありません」の言質を取らなければならなかったはずである。その言質が安倍晋三の意向を無視できる動機となりうる可能性は否定できないし、予想される展開を描いておけば、逆に描いたとおりの動きを牽制する役目を持たせる可能性も出てくる。ところが青木愛も田名部匡代も、杉尾秀哉も、3人共に同じような質問をし、同じような答弁を引き出す非生産的な追及しか試みることができなかった。政治の動きというものを何も学んでいないことになる。小川淳也の「批判するときは国民が惚れ惚れするような批判してこその野党だ」は夢のまた夢、手の届かない情けない状況にある。あるいは立憲の面々が追及の実力が伴わない状況にあるにも関わらず、小川淳也が「批判するときは国民が惚れ惚れするような批判してこその野党だ」と体裁のいいことを口にしたに過ぎないことになる。

 今までのパターンを例に上げることができれば、パターンどおりになる可能性の観点から安倍晋三の「核共有」議論推奨発言と対する岸田文雄の非核3原則堅持発言の参院選後の推移が非核3原則堅持を危うくする方向に進みかねない、考えられる成り行きを描き出して、参院選挙期間中に国民に警鐘を鳴らす訴えとすることもできる。ただ単に現在は政権内にいない安倍晋三の「核共有」議論推奨発言と自民党内や他野党内に同調者のいることを取り上げ、岸田文雄に「非核3原則堅持」を言わせるだけでは、核政策に限らず、どのような政策も党内勢力図の影響を受けて生じる主導権の所在が政策の決定権を担う関係から、政府追及としてはさしたるインパクトを与えることはできない。もしインパクトのある追及ができたと思っているなら、裸の王様もいいとこの滑稽な勘違いとなる。

 大体が安倍晋三はプーチンが核の使用も辞さなぞと見せかけるある種の"核の脅迫"に反応して"核共有"議論の必要性を口にした。このことを批判するなら、非核3原則の旗を掲げていさえすれば、プーチンや金正恩みたいな独裁者が日本に核を撃ち込みたい衝動を抱えたとしても、その衝動を抑えることができるとする妥当性ある答を示してからすべきで、答を示しもせずにただ「非核3原則」、「非核3原則」と言うのは論理性も何もなく、感情任せのマヤカシにしか聞こえない。

 それともウクライナは遠い国で、日本ではないのだから、核が使用されたとしても、見守るしかなく、日本の非核3原則は非核3原則としての立ち位置を損なうことはないと一国平和主義で行くのかもしれないが、プーチンが核の使用も辞さなぞと"核の脅迫"を一旦見せた以上、世界が独裁者によって核使用に踏み切る危険性を潜在的に抱える状況に足を踏み入れることになった。少なくとも世界の多くの国がその危険性に警戒心を持つことになった。そのような場合、日本だけを蚊帳の外に置くことができるだろうか。

 だからと言って、核に対抗するに核を用意するどのような核抑止策も、振り出しの議論に戻るが、使うことが絶対ないと言い切れない状況にある核が世界のどこかで使われた場合、そして核に対するに核の報復は全否定できない以上、その世界のどこかは広範囲に目を覆うばかりの悲惨な破壊と壊滅、凄惨な死屍累々の状況に覆い尽くされる結末を出現させるかもしれない。百歩譲って核使用までいかずに核使用に踏み切る危険性を潜在的に抱える不安定な状況が延々と引き伸ばされていくだけであったとしても、この両場面共に核という存在よりも独裁者という存在が核に関わる懸念材料としてより大きく立ちはだかっていることに
留意しなければならない。いわば核は使わなければ無害であるが、使う・使わないの決定権を持ち、使う可能性が少なからざる予想される(でなければ、世界は核使用に踏み切る危険性を潜在的に抱えることはない)独裁者という存在自体に重大な関心を向けなければならない。

 考えられるこのような推移が自ずと導く答はやはり独裁者の排除以外にないことになる。独裁者の排除こそが、核の脅威を低下させることができる要因とする。時間的に遠回りになったとしても、独裁者の排除にこそ重点を置くべきだろう。独裁者の排除は民主体制への転換を意味する。軍事的な強硬手段ではなく、話し合いの問題解決を優先させる立ち位置を世界は取ることになる。核に対抗するに核を以ってするのは多くの国民の犠牲を決定事項としなければならない。

 プーチンという独裁者の排除については「独裁者」という言葉直接的には使わなかったが、2015年11月17日当ブログ記事《安倍晋三はプーチンとの信頼関係構築が四島返還の礎と未だ信じているが、リベラルな政権への移行に期待せよ - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に北方4島返還はプーチンが大ロシア主義を血とし、ロシアを旧ソ連同様の広大な領土と広大な領土に依拠させた強大な国家権力を持った偉大な国家に回帰させようとしている限り、そしてそのことによってロシア人の人種的な偉大性を表現しようとしている限り、安倍晋三がいくらプーチンとの信頼関係構築を4島返還の礎に据えようが、あるいは平和条約締結の条件としようが、プーチンの大ロシア主義の前に何の役にも立たないはずで、プーチンに代わる、大ロシア主義に影響されていないリベラルな政権への移行に期待する以外にないとプーチンの排除を書いた。

 さらに2020年11月23日の当ブログ記事《北方領土:安倍晋三がウリにしていた愚にもつかない対プーチン信頼関係と決別した領土返還の新しい模索 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》にも、プーチンへの領土交渉進展期待は非現実的で、彼を政治の舞台から退場させる力は現在なくても、その強権的専制政治への反体制を掲げる民主派勢力がロシアの政治の表舞台に躍り出て来ることに期待をかけ、資金等提供、その実現に力を貸す方が現実的な領土返還の新しい模索とすべきではないかと書き、独裁者プーチンのロシアの政治の舞台からの排除の必要性を書いたが、プーチンのウクライナ侵略と核使用をチラつかせるに及んで、核使用の脅威を取り除くには独裁者プーチンの排除と民主派勢力への体制転換の必要性を改めて強く認識するに至った。

 核を使わない、通常兵器による戦争であっても、多くの国民が犠牲となり、住む土地を追われる。核戦争となると、犠牲や破壊は計り知れない。非核3原則と言うだけではなく、想像力を働かせて、核使用の機会を取り除く何らかの方策を見い出す時期に来ているように思える。

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高市早苗・安倍晋三の歴史修正主義を剥ぐと、佐渡金山は強制連行・強制労働“鉱夫残酷物語” の世界遺産登録を目指すことになる

2022-02-28 05:57:34 | 政治
 (以下各引用文献の漢数字は算用数字に変換。文飾は当方。丸括弧内「※」は当方注釈。)

 2022年1月20日付「NHKニュース」記事が、〈新潟県などが世界文化遺産への登録を目指している「金山」について、自民党の安倍元総理大臣は韓国が反発していることを踏まえ「論戦を避ける形で登録を申請しないのは間違っている」と述べた〉と報じていた。佐渡金山がこの登録を目指していることを初めて知ったが、安倍晋三のこの発言だけで韓国が2015年にユネスコ世界文化遺産登録を受けた日本の「明治日本の産業革命遺産」を構成した製鉄・製鋼、造船、石炭産業等々のいくつかの施設のうち、何個所かで植民地時代に朝鮮人に対する強制労働があったと主張、登録に反対したことと類似の事柄だと気づく。

 派閥の会合での発言だそうで、案の定、上記「遺産」に触れている。

 安倍晋三「安倍政権時代に『明治日本の産業革命遺産』を登録した際、当時も反対運動が国際的に展開されたが、しっかりと反論しながら、最終的にはある種の合意に至った。今度の件は岸田総理大臣や政府が決定することだが、ただ論戦を避ける形で登録を申請しないというのは間違っている。しっかりとファクトベースで反論していくことが大切で、その中で判断してもらいたい」
 
 「ファクトベース」とは「事実に基づいた思考法」とかで、いわば「事実を土台として主張なり、議論なりを構築する」ということであって、歴史的事実で対抗すれば、日本側の主張・議論の正当性は証明されるということなのだろうが、安倍晋三の歴史的事実の多くは独善的な歴史修正主義で成り立っているから、始末に負えない。その歴史修正主義に高市早苗もつるんでいるから、当然の場面にお目にかかることになった。

 2022年1月24日衆院予算委

 高市早苗「先ずは政調会長として地方公共団体から伺っていることをお伝え致します。1月7日に新潟県知事、佐渡市長を始めとする新潟県の皆様が政調会長室にお越しになり、佐渡の金山に関するご懸念を伺いました。昨年12月28日、文化庁文化審議会の世界文化遺産部会により今年度推薦ができたと思われる世界文化遺産の候補として佐渡金山が選定される旨が答申されました。前提として顕著な普遍的な価値が認められうるなど選定理由が記載されていますが、ところが文化庁は同時に文化審議会による選定について推薦の決定ではなく、これを受け、今後政府が総合的な検討を行っていきますと報道発表しています。

 1月5日の官房長官記者会見で総合的な検討予定の具体的にどういうことを検討されるのかという記者の質問に対して官房長官、総合的な様々な状況、懸案事項、条件等を考えてと答えておられました。文化審議会の答申が出た12月28日に韓国外交部報道官が『韓国人強制使役被害の現場である佐渡鉱山の世界遺登録を推進することについて非常に嘆かわしく思い、これを撤回することを求める』と論評しました。

 佐渡の金山は17世紀に於ける世界最大の金産地です。海外の鉱山で機械化が進む中、鎖国下だった江戸時代の日本では伝統的手工業による生産技術とそれに適した生産体制による大規模で今まで高品質の金生産を実現しておりました。で、江戸時代はこの独自性を以って発展した貴重な産業遺産であります。これは戦時中と全く関係はありません。

 本件は文部科学省と外務省の協賛事項だと伺いましたので、外務大臣にお尋ね致しますが、佐渡の金山のユネスコへの推薦について韓国外交部報道官の論評や3月に大統領選挙を控える韓国への外交的配慮も官房長官は仰った。懸案事項に該当するでしょうか」

 林芳正「文化審議会からの答申を受けまして、佐渡の金山の世界遺産登録を実現する上で何が最も効果的かという観点から政府内で総合的な検討を行っております。韓国への外交的配慮といったものは全くないということでございます。なお佐渡金山に関する韓国側の独自の主張については日本側としては全く受け入れられず、韓国側に強く申し入れを行ったそうでございます。

 また、韓国国内に於いて事実に反する報道が多数なされていることは極めて遺憾であり、引き続き我が国の立場を国際社会に説明してまいりたいと思っております」

 高市早苗「早々に抗議を行って頂いたということで、外務省に申し上げます。仮に年度の申請を見送った場合、日韓併合条約によって同じ日本人として戦時中、日本人と共に働き、国民徴用令に基づいて旅費や賃金を受け取っていた朝鮮半島出身者について誤ったメッセージを国際社会に発信することになりかねないと考えます。また1965年の日韓国交正常化の際に締結された日韓請求権協定に明らかに違反して、日本製鉄や三菱重工業に対する慰謝料請求権を認めた2018年韓国大法院判決や昨年9月と12月に日本企業の差押え資産に関して裁判所による特別現金化命令が出たということについても日本政府の反論や抗義に対して国際社会の理解が得られにくくなるのではないかと懸念しております。

 我が国はユネスコに対して主要国として貢献してきました。ユネスコの世界遺産諸事業も当初から支援してきた関係国の一つです。日本政府は江戸時代の貴重な産業遺産を誇りを持ってユネスコに推薦をし、来年6月までの決定まで1年4カ月の期間を活用して、審議決定を行うユネスコ世界遺産委員会の委員国に対して江戸時代の伝統的手工業については韓国は当事者ではあり得ないということを積極的に説明すべきです。

 もしもそれもできないと諦めているのであれば、国家の名誉に関わる事態でございます。日本政府としてユネスコ世界遺産委員会に推薦するためには閣議了解が必要で、推薦期限の2月1日に決まっています。1年に1件しか推薦できない貴重な機会ですから、必ず今年度に推薦を行うべきだと考えますが、外務大臣のご見解を伺います」

 林芳正「政府と致しましては佐渡の金山に関する文化庁の文化審議会の答申を受け、佐渡の金山の文化遺産としての価値、今、ご指摘があったばかりでございますが、これに鑑み、是非登録を実現したいと考えておりまして、現在文科省及び外務省に於いて総合的な検討を行っておるところでございます。政府と致しましては登録の実現に向けて必要な諸準備を進める中で様々な事項考慮しているわけでございますが、考慮予想と致しまして先ず、他国から疑義が予定される場合に佐渡金山に関わる歴史や技術関係については証拠を挙げて反論を行うために十分な準備が整っているか検討しているところでございます。

 また我が国はユネスコ改革を主導し、昨年の4月には世界の記憶(※旧世界記憶遺産)について関係国間で見解の相違のある案件は関係国家の対話で解決するまでは登録を進めないこととするための異議申立制度を導入するなどして参りました。政府としては佐渡金山の登録に向けて何が最も効果的かという観点から以上の所見を含め、総合的に検討を進めたいと考えております」

 高市早苗「今、外務大臣が仰った世界の記憶に関するルールでございますが、これは世界文化遺産のルールとは別のものでございます。江戸時代の金山について韓国が当事者であり得ないと、これは明確でございます。仮に今年度推薦しないとすると、来年度以降、佐渡の金山の推薦はさらに困難になると思います。世界遺産への一覧表への記載候補への審議決定を行うユネスコ世界遺産委員会は締約国のうち21カ国で構成され、日本も昨年11月から2025年秋までは委員国です。世界遺産委員会では委員国にのみ意思表示の権利があり、現在韓国は委員国ではございません。世界遺産委員会の決定は世界遺産条約第13条第8項に基づき、3分2の以上の多数により議決、つまり委員国14カ国の賛成で認められます。日本政府が今年2月1日までに推薦した場合、結果は兎も角、世界遺産委員会に於ける審議決定は来年の夏、6月でございます。

 しかし来年2023年秋に任期終了となる委員国が9カ国ありまして、来年秋から2027年秋までの任期の委員国に韓国が立候補する可能性が高いと外務省から伺っております。来年の推薦、そして再来年の審議決定となると、委員国として韓国が反対するという最悪の状況を招きます。その後の2027年の秋から2031年の秋までの任期には中国が委員国に立候補する可能性が高いことから、来年から8年に亘って韓国と中国による歴史戦に持ち込まれると容易に想像されます。

 新潟県知事は結果に関わらず国際舞台で日本の主張を堂々と行って欲しいと仰っております。1年間、佐渡の金山の推薦を延期した場合、来年の文化庁文化審議会では他の遺産が選定される可能性もあり、20年間以上も情熱を持って来られた新潟県の方々があまりにも気の毒でございます。仮に今年度の推薦が見送られるようなことになった場合、来年度まで確実に佐渡の金山を世界遺産一覧表に記載できるような環境をつくれる自信と戦略をお持ちなのか、外務大臣に伺います」

 林芳正「先程申し上げましたようにまだ今年度の推薦しないということを決めたということではございません。今、先程申し上げたように総合的な検討しておるところでございます。従って、我々としては今、この申し上げたようにこの検討を進めながら、どうやったら、この登録が実現できるか、そういうことを考えながらですね、十分な準備を進めた上でということを検討させて頂きたいと考えているところでございます」

 高市早苗「先ず実現への可能性ということを一番大臣、考えておられると言うことは先程ご答弁を頂きました。まあ、2月1日に日本から推薦を出して決定までに1年4カ月あります。まあ、十分な準備を平行して進めながら、是非とも今年度の推薦を頂ますように心からお願いを申し上げます。

 さて、朝鮮半島から内地に移入して働いておられた方々については菅内閣時の2021年4月27日に旧国家総動員法第4条の規定に基づく国民徴用令により徴用された朝鮮半島からの労働者の移入についてはこれら法令により実施されたものであることが明確になるよう、『強制連行、また連行ではなく、徴用を用いることが適切である』。強制労働に関する条約は緊急の場合、即ち戦争の場合に於いて強要される労働を包含しないものとされていることから、徴用による労務者については同条約上の強制労働には該当しないという日本政府の考え方が閣議決定されています。

 岸田内閣に於いても今右変更することなく、この閣議決定を踏襲されますでしょうか。岸田総理に伺います」

 岸田文雄「ご指摘の令和3年4月27日に閣議決定された答弁書に示された政府の立場、岸田内閣に於いても変わっておりません」

 ここで高市早苗は歴史戦にかかる摩擦対象は本来は外務省の仕事だが、安倍内閣時は安倍晋三の指示で内閣官房副長官補室による国際社会に向けた歴史広報が始まり、菅義偉も引き継いでいる、事実関係に踏み込んだ体系的歴史認識の国際広報を急速強化することが日本の名誉と国益を守る上で必要だが、岸田内閣でもこの方法を受け継いでいるのかと問い、岸田文雄は自身の内閣も受け継ぎ、歴史問題にしっかり取組んでいきたいと答え、官房長官松野博一も同様の答弁をする。

 高市早苗「私は戦争が繰り返され、列強各国が植民地支配を行っていた不幸な時代に自らの国籍を変更しなくてはならんかった方々が民族としての誇りを傷つけられたこと、また日本人として共に戦争を戦わねければならなかったことについては深く思いを致さなければならないと考えております。

 とかく当時の国際法や国内法や国際情勢を勘案せずに現在の価値観だけで歴史を裁き続けるならば、多くの国々が謝罪や賠償を続けなくてはならなくなり、未来を開く外交関係というものは成り立ちません。岸田総理は史上最長の外務大臣として活躍してこられました。国家の名誉を守りつつ、国益を最大化するというのはとても困難な仕事ではございますが、岸田内閣として毅然とした外交をお願い申し上げます」(以上)

 歴史修正主義満載の高市早苗の発言となっている。この発言から4日後の1月28日夜、岸田文雄は首相官邸のぶら下がり取材で「佐渡島金山」のユネスコ推薦を正式表明、4日後の2月1日にネスコへの推薦を閣議了解、推薦書を提出した。一部のマスコミはそれまで推薦に慎重だった岸田内閣を安倍晋三や高市早苗等の自民党右派の圧力によって動かざるを得なくなったといったことを報じたが、少なくとも上記高市早苗の歴史修正主義満載の言葉巧みなゴリ押しが推薦に強く影響したはずだ。

 高市発言の正体が歴史修正主義満載であることを暴いていかなければならないが、その一環として先ず最初に菅内閣時2021年4月27日に閣議決定したという1930年のILO「強制労働に関する条約(第29号)」(以下「強制労働条約」)が強制労働は「戦争の場合に於いて強要される労働を包含しない」としていることと「旧国家総動員法第4条の規定に基づく国民徴用令により徴用された朝鮮半島からの労働者の移入」は「強制連行、また連行」に当たらず、あくまでも「徴用」であり、いわば強制労働を意味していないとしていることを取り上げてみるが、菅内閣時の閣議決定とは岸田文雄が答弁しているように質問趣意書を受けた答弁書を指す。「河野談話」が従軍慰安婦の募集に官憲の関与を認めているのに対してそれを否定する答弁書の閣議決定を安倍晋三が行なったことに代表されるように一般的となっている歴史認識を自らの歴史認識に修正するために保守派の首相による答弁書の閣議決定はよく用いられる手となっている。

 日本維新の会馬場伸幸が朝鮮半島出身者の徴用は国民徴用令に基づいているものだから、「強制連行」や「連行」との誤った用語を用いるべきではない、「徴用」を用いるべきであるということと、彼らが強制労働させられたとの見解があることの政府の考えを問う「質問主意書」を2021年4月16日に菅内閣に提出、菅内閣は同年4月27日の「答弁書」で最初の質問に対して、〈旧国家総動員法(昭和13年法律第55号)第4条の規定に基づく国民徴用令(昭和14年勅令第451号)により徴用された朝鮮半島からの労働者の移入については、これらの法令により実施されたものであることが明確になるよう、「強制連行」又は「連行」ではなく「徴用」を用いることが適切であると考えている。〉、次の質問に〈強制労働ニ関スル条約(昭和7年条約第10号)第2条において、「強制労働」については、「本条約ニ於テ「強制労働」ト称スルハ或者ガ処罰ノ脅威ノ下ニ強要セラレ且右ノ者ガ自ラ任意ニ申出デタルニ非ザル一切ノ労務ヲ謂フ」と規定されており、また、「緊急ノ場合即チ戦争ノ場合・・・ニ於テ強要セラルル労務」を包含しないものとされていることから、いずれにせよ、御指摘のような「募集」、「官斡旋」及び「徴用」による労務については、いずれも同条約上の「強制労働」には該当しないものと考えており、これらを「強制労働」と表現することは、適切ではないと考えている。〉とご都合主義よろしく答弁している。

 要するに高市は江戸時代の佐渡金山は「戦時中と全く関係ない」と言いつつ、菅内閣の閣議決定を利用、自らの歴史修正主義に則って国民徴用令に基づいた戦時中の朝鮮人徴用の強制労働を否定してみせた。

 このことの正当性はあとで検証することにして、「強制労働条約」を楯とした戦争の場合は例外規定としていることの正当性を先に検証してみる。答弁書では「強制労働条約」は「昭和7年条約第10号」となっているが、日本国内での順番付なのか、実際は「第29号」となっていて、1930年(昭和5年)6月28 日採択、日本の批准は1932年11月21日。

 「強制労働条約(第29号)」(部分抜粋)

 第2条第1項 本条約ニ於テ「強制労働」ト称スルハ或者ガ処罰ノ脅威ノ下ニ強要セラレ且右ノ者ガ自ラ任意ニ申出デタルニ非ザル一切ノ労務ヲ謂フ
    第2項 尤モ本条約ニ於テ「強制労働」ト称スルハ左記ヲ包含セザルベシ

 (a) 純然タル軍事的性質ノ作業ニ対シ強制兵役法ニ依リ強要セラルル労務
 (b) (略)
 (c) (略) 
 (d) 緊急ノ場合即チ戦争ノ場合又ハ火災、洪水、飢饉、地震、猛烈ナル流行病若ハ家畜流行病、獣類、虫類若ハ植物ノ害物ノ侵入ノ如キ災厄ノ若ハ其ノ虞アル場合及一般ニ住民ノ全部又ハ一部ノ生存又ハ幸福ヲ危殆ナラシムル一切ノ事情ニ於テ強要セラルル労務
 (e) (略) 

 最初にこの条約が締結された時代背景をネットで調べつつざっと眺めてみることにする。この当時の日本は日清戦争(明治27年7月25日~明治28年4月17日)に勝利し、下関条約(明治28年)を経て台湾の割譲を受け領有、植民地とし、1904年(明治37年)の日露戦争勝利でロシアから中国遼東半島の租借権を引き継ぎ、半植民地化し、さらに中国を支配し植民地とする野望のもと領土内に軍隊を進め、1905年(明治38年)には韓国に対して「日韓協商条約」を締結させ、保護国とし、さらに一歩進んで1910年(明治43年)に併合(日韓併合)、植民地とし、第1次世界大戦(1914年・大正3年7月28日~大正7年11月11日)の戦勝国となって、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島を国際連盟から委任統治領として受任、植民地経営に乗り出し、他の戦勝国アメリカ、イギリス、フランス、イタリアを加えた世界五大国の一角を占めるに至っていた。

 そして軍事進出を進めていた中国では日露戦争後に譲渡を受けた南満州鉄道の線路を日本の関東軍自らが爆破(柳条湖事件・昭和6年9月18日)、中国軍による犯行と言いがかりをつけて中国軍に対して武力攻撃を開始(満州事変)、中国の東北部満州一体を占領し、1932年(昭和7年)3月1日に満州国建国宣言を行い、のちに中国の清朝最後の皇帝溥儀を執政に据えて傀儡政権を樹立、2年後の1934年(昭和9年)に溥儀を満州国皇帝の地位に変えて、帝政を政治体制とする植民地を整えるに至った。

 要するに日本が米英仏伊と共に世界五大国の一角を占めていたということは他の国とは規模は劣るものの、軍事力を背景に植民地経営国家として十分に仲間入りを果たしていたからこそ可能となった列強の一員であった。安倍晋三は2013年の自著『新しい国へ』の中で、「昭和17、8年の新聞には『断固戦うべし』という活字が躍っている。列強がアフリカ、アジアの植民地を既得権化する中、マスコミを含め、民意の多くは軍部を支持していたのではないか」と主張、日本の戦争を正当化しているが、遠いアフリカはさておいて、近いアジアの植民地の既得権化は欧米列強に負けじと手を広げていたのだから、安倍晋三のこの手の発言は歴史修正主義で成り立たせているに過ぎない。

 「強制労働条約」が締結された1930年には列強海軍の補助艦保有量の制限を主な目的としたロンドン海軍軍縮会議が開催され、日本は米英仏伊と共に五大列強として参加している。こういった世界情勢のもと、「強制労働条約」は締結された。いわば世界的に世界五大列強の意向が優勢な状況にあり、そのような意向が反映されたことは「強制労働」を「或者ガ処罰ノ脅威ノ下ニ強要セラレ且右ノ者ガ自ラ任意ニ申出デタルニ非ザル一切ノ労務ヲ謂フ」と定義づけながら、戦争ノ場合は例外規定としたことに現れている。五大列強、あるいはそれに準ずる列強が植民地獲得と植民地維持のために被植民地と戦争を行い、あるいは今後行う可能性と被植民地国民を強制労働に駆り立てていた、あるいは今後駆り立てる必要可能性から戦争に関係する上記免除規定は列強こそが最大の受益国家となり、一番の好都合を被ることになるが、逆に一番の不都合を被るのは被植民地国民なのは断るまでもないが、「第29号」条約のこういった利害構造は当時の列強に有利に働く契約となっていたことからも列強の意向を窺うことができる。

 つまりその分全体的な正当性を欠くことになり、このことを無視して高市早苗が1930年の条約を持ち出して、日本の戦争当時の強制労働を強制労働ではなかったと否定すること自体が歴史修正主義そのものだが、国際労働機関(ILO)は列強に有利に働く利害構造を反省、戦争等々の枠を設けずに全ての種類の強制労働を禁止し、どのような利用も不可とする「強制労働廃止条約(第105号)」を 1957年(昭和32年)に採択、2020年6月現在批准国は175カ国、日本はG8加盟国中唯一の未批准国の名誉を担っている。さらにこの「第105号」の「締結のための関係法律の整備に関する法律案」を議員立法により2021年 5月31日に衆議院提出、その後参議院送付、同年6月3日に参議院本会議に於いても可決・成立。議員立法だからか、自民党政府は「第105号」の批准に向けた動きを見せていない。勘繰るならば、批准してしまった場合、「戦争当時の強制労働は許されていた」とする主張の全面的な正当性が窮屈になる恐れが生じ、歴史修正的な臭いを漂わせる恐れが出かねないからだろう。

 では、高市早苗の発言「強制労働条約は緊急の場合、即ち戦争の場合に於いて強要される労働を包含しないものとされていることから、徴用による労務者については同条約上の強制労働には該当しないという日本政府の考え方が閣議決定されています」の歴史認識上の正当性、歴史修正でも何でもないのかを探ってみる。

 第2条第1項の「或者ガ処罰ノ脅威ノ下ニ強要セラレ」る、あるいは「自ラ任意ニ申出デタルニ非ザル一切ノ労務」とは本人の意向、人権を一切無視しているゆえに、"奴隷的使役"そのものを指していて、その禁止を謳っていることになる。

 そして戦争に関わるメインの例外規定、〈(a)純然タル軍事的性質ノ作業ニ対シ強制兵役法ニ依リ強要セラルル労務〉としている条件付けは「強制兵役法」に則った「純然タル軍事的性質ノ作業」に関しての"奴隷的使役"は強制労働に当たらずの規定となる。このことを裏返すと、「強制兵役法」に則っていたとしても、「純然タル軍事的性質ノ作業」以外の労務への強制労働は条約上の例外とすることはできないし、「純然タル軍事的性質ノ作業」であったとしても、「強制兵役法」に則らない強制労働も、"奴隷的使役"外だとすることはできないことになる。

 そして「(d)」の「緊急ノ場合即チ戦争ノ場合」その他の場合は全てを例外としているわけではなく、していたら、強制労働に対する白紙委任となる、「一般ニ住民ノ全部又ハ一部ノ生存又ハ幸福ヲ危殆ナラシムル一切ノ事情ニ於テ強要セラルル労務」を限定としている。一例を挙げるなら、空からか陸上からか激しい敵襲を受けて多くの建物が崩壊、住民が建物に閉じ込められるか、下敷きになっていると想定される場合の緊急を要するガレキ撤去、人命救助のために生存住民に課す強制労働か、他の例として敵軍がある地域に迫っていて、多くの住民の生命が危険に曝されることが予想され、その防御のために住民の退避壕造りか味方軍の塹壕造りを住民にも命じる場合の強制労働といったところだろう。

 当然、ある国が戦争状態にあるからと言って、「純然タル軍事的性質」の有無に関わらず、「強制兵役法」に則っとらない労務と「(d)」の限定外の労務に強制的に駆り立てた"奴隷的使役"までが強制労働にあらずとしているわけではない。高市早苗がこのように読み取ることができないとするなら、想像力を著しく欠いてるために頭に血が回らない状態にあるからだろう。

 日本が様々な名目で朝鮮人を日本植民地下の韓国内各地や日本内地に軍の労務者や軍属として送り込んだ当時の日本の「強制兵役法」に当たる法令は1873年(明治6年)陸軍省発布の「徴兵令」を改正、1927年(昭和2年)施行、敗戦時廃止の「兵役法」であるが、「兵役法」は徴兵の年齢的、身体的等の各条件、兵役の義務、その年限、その免除のケース、退役等を規定しているのみで、どこにも「純然タル軍事的性質ノ作業」に該当する強制労働を規定した条文は見当たらない。戦争遂行目的から国の経済や国民生活等全てに亘って動員・統制可能とする権限を国に付与した国家総動員法に関しても、その第4条「政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ帝國臣民ヲ徵用シテ總動員業務ニ從事セシムルコトヲ得但シ兵役法ノ適用ヲ妨ゲズ」の規定に応じて国民の労働力の強制的な徴発を定めた国民徴用令に関しても、朝鮮人の軍関係への徴用の場合は強制労働を可能とするとの文言はどこにもない。勿論、「純然タル軍事的性質ノ作業」の場合はといった類いの特定条件を付けた文言も見当たらない。

 戦争中のタイ-ビルマ間に突貫敷設された、連合国軍捕虜と現地人労働者その他1万人以上が過酷な労働や栄養失調、コレラ、マラリアで死亡した泰緬鉄道(死の鉄道)は日本軍の物資輸送目的の「純然タル軍事的性質ノ作業」ではあるが、戦後、日本軍関係者がBC級戦犯として「捕虜虐待」などの戦争犯罪に問われ、死刑や禁固10年等の宣告を受けたのは上記「強制労働条約」が強制労働を正当と裏付ける根拠となる「強制兵役法」に当たる日本の「兵役法」が強制労働に関わるどのような規定も設けていないからだろう。設けていたなら、高市早苗のように「同条約上の強制労働には該当しない」と言って、裁判を免れることができたはずだ。

 日本の陸海軍が関係する「純然タル軍事的性質ノ作業」での強制労働であっても、その正当性を裏付ける根拠法が存在しないということなら、国家総動員法の第4条に基づく国民徴用令によって1942年1月から始まった日本人だけではない、韓国内の朝鮮人の日本企業への徴用による強制労働は「純然タル軍事的性質ノ作業」であるなしに関わらず、「強制労働条約」を以ってしても、例外規定とすることはできないことは明らかな事実としなければならない。

 さらに「強制労働条約」が「第21条」で「強制労働ハ鉱山ニ於ケル地下労働ノ為使用セラルルコトヲ得ズ」としているが、このことの例外規定を設けていない関係から、条文通りの制約となり、鉱夫が陸海軍の徴用を受け、その鉱物発掘が大砲や戦闘機等々の製造に供する目的の「純然タル軍事的性質ノ作業」だと口実づけたとしても、許されない強制労働であり、ましてや民間の労務動員による鉱山強制労働は一切禁止となる。果たして佐渡金山で強制労働を押し付けられていなかっただろうか。

 高市早苗は佐渡金山の歴史を江戸時代のみに限って、江戸時代以降の、特に朝鮮人に対する徴用が始まった戦中の佐渡金山の歴史を避けているが、「江戸時代の伝統的手工業については韓国は当事者ではあり得ない」は事実そのものであろうが、佐渡金山としての歴史は現在までひと続きであり、例え時代ごとに評価を区分することになったとしても、戦争中の歴史を排除することは歴史がひと続きであること、その一貫性を損なうことになり、誰にもそうする資格はないのだから、歴史に対する謙虚な姿勢とは正反対の思い上がりとなる。戦争中の歴史を加えることに不都合の臭い、歴史修正の臭いを感じる。

 技術という点だけを取るとしても、「江戸時代の伝統的手工業」だとしている掘削技術と戦争中の掘削技術が異なっていたとしても、一般的には後者は前者の発展型、もしくは継続型であって、やはりひと続きの歴史を成していると同時に技術は技術だけの問題ではないことに留意しなければならない。技術を用いて目的の仕事を進めるのはその時代その時代の人間であり、使う人間と使われる技術が一体となって、技術に応じた人間の使い方の価値が評価を受け、人間の使い方に応じた技術の価値が評価を受けることになる。この過程がなければ、技術は技術としての意味を失う。例えば昭和の時代にも素晴らしい車があったと言うとき、その車を多くの人間が運転することによって手に入れることができた共通した価値観で成り立つことになった評価であって、使う人間抜きの技術は意味を持たない。

 だが、高市早苗は人間抜きに技術のみを語ろうとしている。例え江戸時代であったとしても、優れた伝統的手工業のもとに強制労働を強要されていたり、低賃金労働を当たり前とされていたりしたら、その技術は技術開発者の一般的な意図を外れて、強制労働や低賃金労働に存在意義を与えられていることになり、褒められる技術とは言えなくなる。高市早苗の言う佐渡金山に於ける「江戸時代の伝統的手工業」が鉱夫たちにどのような存在意義を与えていたのかを見なければならない。高市早苗が技術だけを見て、世界遺産登録を願うのは前のブログで言及したように国家に向ける目を十二分に持っているが、国民という存在に向ける目を疎かにしているからだろう。

 「佐渡金山」(Wikipedia)

 「江戸時代」(文飾は当方)

〈慶長6年(1601年)徳川家康の所領となる。同年、北山(ほくさん)(金北山)で金脈が発見されて以来、江戸時代を通して江戸幕府の重要な財源となった。特に17世紀前半に多く産出された。

江戸時代における最盛期は江戸時代初期の元和から寛永年間にかけてであり、金が1年間に400 kg以上算出されたと推定され、銀は1年間に1万貫(37.5 トン)幕府に納められたとの記録がある。当時としては世界最大級の金山であり、産銀についても日本有数のものであり江戸幕府による慶長金銀の材料を供給する重要な鉱山であった。なかでも相川鉱山は、江戸幕府が直轄地として経営し、大量の金銀を産出した佐渡鉱山の中心であった。産出し製錬された筋金(すじきん/すじがね)および灰吹銀は幕府に上納され、これを金座および銀座が預かり貨幣に鋳造した。また特に銀は生糸などの輸入代価として中国などに大量に輸出され、佐渡産出の灰吹銀はセダ銀とも呼ばれた。

しかし江戸中期以降佐渡鉱山は衰退していった。1690年には佐渡奉行を兼任していた荻原重秀が計15万両の資金を鉱山に投入する積極策を取って復興を図り、その結果一時的に増産に転じたが、結局その後は衰微の一途を辿り、以降江戸時代中に往年の繁栄が戻ることはなかった。

江戸時代後期の1770年頃からは江戸や大阪などの無宿人(浮浪者)が強制連行されてきて過酷な労働を強いられたが、これは見せしめの意味合いが強かったと言われる。無宿人は主に水替人足の補充に充てられたが、これは海抜下に坑道を伸ばしたため、大量の湧き水で開発がままならなくなっていたためである。

水替人足の労働は極めて過酷で、「佐渡の金山この世の地獄、登る梯子はみな剣」と謳われた。江戸の無宿者はこの佐渡御用を何より恐れたといわれる。水替人足の収容する小屋は銀山間の山奥の谷間にあり、外界との交通は遮断され、逃走を防いでいた。小屋場では差配人や小屋頭などが監督を行い、その残忍さは牢獄以上で、期限はなく死ぬまで重労働が課せられた。

 無宿人と言えども、戸籍を持たない浮浪者であって、犯罪者ではない。それを捕まえて、佐渡金山に強制連行し、過酷な強制労働を課した。

 序に佐渡金山の「水替人足」について同じ「Wikipedia」から見てみる。

 〈当初、水替人足は募集により行われており通常の町方や農民の者が中心であった。また、各国から石高に応じて在方から強制的に割り当てられてくる農民も存在した。極めて重労働であるため、それに見合った高い賃金が支払われており、周辺の町村は非常に潤ったとされる。

 しかしながら、坑道が掘り進められるとともに労働環境の過酷さも増し、また水替人足もより大人数が必要となったが、それに見合った応募者数が得られず、採鉱に支障が生じ始めたため、安永6年(1777年)から、組織的に無宿者が佐渡金山へ水替人足として送られることとなり、翌年から使役が始まった。

 天明の大飢饉など、折からの政情不安により発生した無宿者が大量に江戸周辺に流入し、様々な凶悪な罪を犯すようになった。その予防対策として懲罰としての意味合いや、将軍のお膝元である江戸の浄化のため、犯罪者の予備軍になりえる無宿者を捕らえて佐渡島の佐渡金山に送り、彼らを人足として使役しようとしたのである。

 発案者は勘定奉行の石谷清昌(元佐渡奉行)。佐渡奉行は治安が悪化するといって反対したが、半ば強引に押し切る形で無宿者が佐渡島に送られることになり、毎年数十人が送られた。総数では、開始された1778年から幕末まで、1874人が送られたとの記録がある。

 当地の佐渡では遠島の刑を受けた流人(いわゆる「島流し」)と区別するため(佐渡への遠島は元禄13年(1700年)に廃止されている)、水替人足は「島送り」と呼ばれた。

 当初は無宿者のみを佐渡に送ったが、天明8年(1788年)には敲(むち・鞭打ち刑)や入墨の刑に処されたが身元保証人がいない者、さらに文化2年(1805年)には人足寄場での行いが悪い者や追放刑を受けても改悛する姿勢が見えない者まで送られるようになった。

 犯罪者の更生という目的もあった(作業に応じて小遣銭が支給され、改悛した者は釈放された。佃島(石川島)の人足寄場とおなじく、囚徒に一種の職を与えたから、改悟すれば些少の貯蓄を得て年を経て郷里に帰ることを許された)が、水替過酷な重労働であり、3年以上は生存できないとまでいわれるほど酷使された。そのため逃亡する者が後を絶たず、犯罪者の隔離施設としても、矯正施設としても十分な役割を果たすことが出来なかった。

 島においてさらに犯罪のあったときは鉱穴に禁錮されたが、これは敷内追込といい、また島から逃亡した者は死罪であった。〉――

 島からの逃亡者は死罪とされていたが、それでも「逃亡する者が後を絶た」なかった。無宿人は犯罪者の予備軍となる恐れがあったとしても、犯罪者ではない。のちに刑を終えた者までが連行され、強制労働に従事させられた。いわば江戸時代の佐渡金山は高市早苗が言う「伝統的手工業」なる技術のみでは片付けることのできない“鉱夫残酷物語”の舞台となっていた。あるいは「伝統的手工業」なる技術の陰で“鉱夫残酷物語”が演じられていた。日本独自のものだからとその技術のみを取り上げて、世界文化遺産への登録を目指す感覚は果たして正常だと言い切れるだろうか。歴史はその時代の人間が創るのであって、技術単独ではない。

 戦時中の佐渡金山に「募集」、「官斡旋」、「徴用」と言った名目で送られてきた朝鮮人鉱夫たちがどのような人間扱いを受けていたのか、高市早苗は江戸時代と「戦時中と全く関係はありません」と言っているが、歴史がひと続きであることと、江戸時代を学び、明治・大正と受け継いで、昭和を10年余も進んだ日本人がしていたことだから、どれ程のことを学んだのかを確かめないわけにはいかない。

 大日本帝国が韓国を明治43年に植民地としたことは韓国という国と韓国民に対して大日本帝国と日本国民を優越的地位に立たせことを意味する。端的に言うと、その優越性を権力・威力に変えて、相手の意思を無視する強圧的な態度を性格とすることとなった。強圧的とは友好的を一切欠いた状態を指す。保護国時代から韓国の土地・農地を奪い、1910年代の韓国併合後の「土地調査事業」によって土地・農地の収奪をさらに進め、最終的に小作人化した多くの朝鮮農民からの小作料で利益を得る地主制を定着させた。大正年間には千町歩以上の農地を所有していた日本人地主が30人近く存在したと言う(「旧植民地・朝鮮における日本人大地主階級の変貌過程(上)」)。20町歩が東京ドームの約4個分に相当すると言うから、日本人地主の30人近くが東京ドーム200個分の巨大な農地を抱えていた。それ以下の面積の農地を手に入れていた日本人も多くいたはずである。

 このような朝鮮人小作人からの搾取の構造は日本人の朝鮮人に対する強圧的な態度の罷り通りなくして存在し得ない。日本の朝鮮支配の最高機関である朝鮮総督府が朝鮮人に行なった強圧的な政策の代表格は被植民地国民である朝鮮人を天皇の民に変える皇民化政策の一環として1939年(昭和14年)11月公布、翌1940年(昭和15年)2月施行の朝鮮民事令改正によって強制した「創氏改名」(コトバンク)を挙げることができる。

 〈「創氏改名」は、日本風の氏をつくる「創氏」と、名前を変える「改名」に分けられ、創氏は強制、改名は任意であった。ただし、姓名が消されたり変更されたりしたわけではなく、戸籍には「氏名」と「本貫(ほんがん=本籍地)・姓」の両方が記載されていたが、これ以降、「氏名」が朝鮮人の公的な名前となり、それまでの「姓名」は通称として扱われることとなった。〉――

 1940年(昭和15年)8月までと期限を区切って改名を求め、〈改名しない者には公的機関に採用しない、食糧配給から除外するなどの圧力をかけたために、期限内に全戸数の80%が届け出た。『内鮮一体』を提唱する南次郎朝鮮総督の政策の一つ。〉(『日本史広辞典』(三省堂)

 最も効果的な圧力は「食糧配給から除外する」であったろう。戦国時代で言うところの兵糧攻めに相当する。このように強圧的・一方的に朝鮮民族として代々受け継いできた姓名を日常的に使うことから取り上げ、日本式の名字を名乗ることを強要した。

 当然、日本人の朝鮮人に対するこのような優越的地位からの強圧的・一方的態度は内地に向けた朝鮮人労務動員にも反映されないことはない。「戦時期日本へ労務動員された朝鮮人鉱夫(石炭、金属)の賃金と民族間の格差」(李宇衍・イ・ウヨン落星台経済研究所 : 研究委員/九州大学学術情報リポジトリ)は日本人、朝鮮人共に能力に応じた同一の賃金体系が適用されていて、経験年数による熟練度の差を受けた仕事量の違いによる賃金格差しかなかったと様々なデータを駆使して説明している。最初の頃は朝鮮人の経験年数が少ないことから、能率給に差が出ていたが、戦争が進むにつれて日本人鉱夫が徴兵で戦争に取られ、朝鮮人鉱夫の経験年数が相対的に上がって、日本人鉱夫よりも賃金を多く受け取る朝鮮人も出てきたとしている。

 但し著者は日本人と朝鮮人の間に賃金格差の事実が存在しないことの事情を次のように解説している。〈国家総動員という総力戦の状況で何より重要なことは増産であった。これのためには労務者に誘因を提供しなければならず、戦時下の貨幣の増刷と戦時産業に対する支援により企業は豊富な資金を持っている状況で金銭的な理由で生産能率と関係なく朝鮮人を差別する理由はなかったはずである、これは(※差別は)戦時体制を運営するにあたってむしろ否定的な影響を与えるからである。〉

 国家は戦争を勝利に導くために、実際には悪足掻きに過ぎなかったが、紙幣を大量に印刷し、戦時産業に武器生産の資源となる鉱物の産出の尻を叩くために資金を豊富に与えた。戦時産業側にしても国家の至上命令に応えなければならないから、下手に逃亡されたりストライキを起こされたりしたら、国の覚えが悪くなって、どのような介入を受けるか分からないから、賃金に差など付けてはいられなかった。できることは、能率給にすることで掘削の尻を叩くことぐらいだった。

 このことを裏返すと、非常時ではなかったら、人種間の賃金格差は存在していたという仮説は成り立つ。日本が金本位制に加わっていた頃は貿易の際の為替決済時に金を必要とすることから、佐渡金山の金は需要が高まったものの、日米開戦の際は欧米各国から輸出入禁止の措置を受けて金の貿易決済は必要なくなり、多くの金山が閉鎖措置を受けたものの佐渡金山は武器生産資源や他の工業資源としての銅も大量に算出していたために銅山として引き続いて掘削が続けられて、多くの朝鮮人が動員されたと言う。

 上記同著者は朝鮮人に対する強制連行があったかどうかの解説は行なっていない。朝鮮人労務動員の形式と内容を「韓国徴用工裁判とは何か」(竹内廉人)から見てみるが、大日本帝国が韓国を植民地化することによって日本国家と日本国民が朝鮮人に対して備えた優越的地位が仕向けることになる強圧的・一方的態度が労務動員にも発揮されていたことが分かる。

 先ず労務動員の形式と各時期について。〈労務動員は1939年からは「募集」、1942年からは「官斡旋」。1944年からは「徴用」の形でおこなわれました。日本政府は動員のために警察署内に協和会を設立して朝鮮人を監視し、動員数にあわせて警察官を増員しました。1944年には軍需会社を指定し、それにより、動員されていた朝鮮人も軍需徴用しました。

 軍務動員では、1938年から志願兵、1944年からは徴兵によって朝鮮人を動員しました。また、軍の労務のために工員、傭人、軍夫など、軍属としても動員しました。軍や事業所関係で「慰安婦」として動員された朝鮮人もいました。〉――

 「協和会」の「協和」とは「心を合わせ仲よくすること」を言うが、植民地支配者側が被支配者に対して支配と被支配の関係について「協和」の精神でいこうを謳い文句としていることになるのだから、被支配者側の朝鮮人からしたら、見え透いたおためごかし(表面は人のためにするように見せかけて、実は自分の利益を図ること。「goo辞書」)に過ぎなかっただろう。

 次に各動員の実態について。

 〈2 募集による動員

 1937年からの中国への全面戦争により、総力戦態勢がとられ、1938年4月には国家総動員法が、1939年7月には国民徴用令が公布されました。動員に先立ち、同年(※1939年)6月には中央協和会が設立され、各地に協和会がつくられていきました。(※1939年)7月、労務動員計画が閣議決定され、「朝鮮人労務者内地移住ニ関スル件」が出されました。それにより、募集の名による朝鮮人の労務動員がはじまったのです。

 朝鮮総督府警務局保安課が作成した『高等外事月報』の第2号(1939年8月)には、募集による動員方針を示す「朝鮮人労働者内地移住ニ関スル方針」、「朝鮮人労働者募集要綱」(内地側)、「朝鮮人労働者募集並取扱要綱」(朝鮮総督府側)などが収録されています。この計画によって、(※1939年)9月から朝鮮現地での募集がはじまりました。募集といっても動員計画によるものです。企業は地方長官(※明治憲法下における府県知事・東京都長官・北海道長官の総称「コトバンク」)経由で政府・厚生省に動員希望数を出し、厚生省の承認を得た後に、総督府から朝鮮人を募集する道と郡(※日本統治時代の朝鮮の行政区画。「Wikipedia」)の指定をうけ、現地の官憲と協力して募集していったのです。

 慶尚北道(キョンサンプクド)には開拓労務協会、慶尚南道(キョンサンナムド)には内鮮協会などの官制組織があり、募集企業は寄付金を出して、動員を委ねています。指定された郡で面(行政区分)の職員や警察の協力により、企業による集団募集がなされたのです。それは強権的な朝鮮総督府の警察機構を利用した、国策による強制的な集団動員でした。10月に入り、募集された朝鮮人は北海道や福岡の炭鉱などに連行されました。〉――

 募集動員の方針自体が「朝鮮総督府警務局保安課」(※朝鮮総督府に置かれた朝鮮における警察事務管掌「Wikipedia」)の作成という一点のみで、国策を背景とした官憲関与を証拠立てていて、「募集」という名称のみは穏やかな人集めに見えるが、植民地に於ける支配者側の官憲関与であり、そこに強圧的な力が働く余地を十分に備えていたことになって、強制連行にいつ姿を変えてもおかしくない要素を抱えていたと見ることができる。

 〈官斡旋の動員は1942年2月の「朝鮮人労務者活用ニ関スル方策」の閣議決定によってはじめられました。朝鮮総督府は「朝鮮人内地移入斡旋要綱」を策定し、総督府の下に置かれた朝鮮労務協会を利用しました。日本政府による承認を得た企業に、朝鮮総督府へと朝鮮人労務者斡旋申請書を提出させ、郡単位で人々を駆りあつめ、隊組織を編成し、軍事的な集団訓練をおこなったうえで動員したのです。また政府は同年(※1942年)2月、「移入労務者訓練及取扱要綱」を作成しました。これは労務動員された朝鮮人を職場で管理し、統制するためのものでした。

  (中略)

 増加する朝鮮人の動員に対応し、同年(※1942年)5月には、山口県の下関で石炭統制会、鉱山統制会、鉄鋼統制会、土木工業協会などが朝鮮人労務者輸送協議会をもち(下関会議)、動員の申し込みを総督府の労務課にすることや、東亜旅行社が輸送を担当することなどを決めます。また、現場から逃走する朝鮮人が多いため、同年(※1942年)8月には、「移入朝鮮人労務者逃走防止対策要綱」が示され、逃走防止のための会合がもたれました。〉――

 1942年8月に「移入朝鮮人労務者逃走防止対策要綱」を作成しなければならないこと自体が官(=朝鮮総督府)で斡旋した朝鮮人労務動員でありながら、強制労働を許していた状況を窺うことができる。1939年から「募集」が始まり、「官斡旋」が始まったのは1942年の3月からとなっていて、その2カ月後に「逃走防止対策要綱」を作成した。「募集」から「官斡旋」へと動員(人集め)の形式を変えたこと自体が前者の満足できない成果に対して後者の方法で満足できる成果を得るべく方向転換したことを窺わせて、当然、そこに強制性の加味を見ることになる。日本への労務動員に心理的に忌避感を抱えている者をそれを無視して連行したとしても、忌避感は鎮めることはできず、却って募らせることになり、一切を断ち切りたくなったとき、逃亡という衝動を芽生えさせ、断ち切りたいという思いの強さに応じて実行する者が出てくる。先に挙げた李宇衍(イ・ウヨン)氏の文章中に、〈朝鮮人は契約期間が2年であり、契約期間満了後に期間を延長する者はとても少なく、満了以前に逃走したものがとても多かった。〉の一文がある。

 満了まで我慢した者が満了に応じて期間延長を求められたとしても、「いえ、帰国します」と断ることができる体制にあったなら、満了以前に逃走する者など出てこない。期間延長によって人数を確保することも動員のうちに入る。継続動員ということかもしれない。人集めの段階から強制性を窺わせ、それが重労働であるなしに関係なしに使役の段階でも強制性を纏わせていた疑いが出てくる。

 〈4 徴用による動員

 労務動員では、官斡旋による動員の実施から2年を迎えようとするなか、1943年12月に軍需会社法が施行されました。それにより1994年1月、日本製鉄、三菱重工業、中島飛行機など主要な重化学工場が、1944年4月には、三井鉱山や三菱鉱業をはじめ、主要な炭鉱が軍需会社に指定されました。軍需会社に指定されると、そこで働く人々は徴用扱いとされました。これを軍需徴用、または現員徴用といいます。募集や官斡旋で動員され、現場に残っていた朝鮮人も徴用扱いとされました。軍需徴用されると、知事から徴用告知書が渡されました。

 官斡旋による動員者は2年契約のものが多く、1944年の4月以降、帰国を求める朝鮮人が増え、争議も起きました。それに対して政府は、4月に「移入朝鮮人労務者ノ契約期間延長ノ件」を出して、定着を強要しました。朝鮮現地では官斡旋による動員が続けられますが、動員への抵抗により、割り当てられた人数を確保できないことが多くなります。

 この頃、植民地の行政事務を内務省管理局が管轄していましたが、内務省は朝鮮に担当者を派遣し、状況を報告させています。内務省管理局から朝鮮に派遣された小暮泰用による復命書(報告書)は1944年7月に記されていますが、官斡旋での朝鮮現地での動員を「人質的略奪」、「拉致」と記しています。甘言で騙して連れてくる、これを欺罔(※欺き)よる連行といいますが、それができなくなると暴力的な拉致がなされたのです。現地の動員担当者はより強力な動員態勢を求め、徴用の発動による動員を願うようになりました。

 このようななかで、1944年8月、「半島人労務者ノ移入ニ関スル件」が閣議決定され、9月からは徴用による労務動員がおこなわれたのです。徴用は、政府・厚生省が地方長官経由で各企業に割当数の認可を伝え、企業は徴用申請書を政府・軍需省経由で朝鮮総督府に提出し、総督府の下で道知事が徴用を発令するという形ですすめられました。朝鮮総督府の鉱工局に勤労動員課がおかれ、動員業務をおこなうようになりました。11月、中央協和会は中央興生会に改組されました。

 1945年1月には、軍需充足会社令が公布されました。それにより、土建業や港湾・運輸業の労働者も徴用扱いになっていきます。

 (※1945年)6月、朝鮮総督府は「徴用忌避防遏(※ぼうあつ・ふせぎとめること)取締指導要綱」を作成しています。現地では徴用忌避の動きが強かったのですが、この要綱では徴用忌避があった場合、その家族、親戚、愛国班(日本における隣組)から代わりに人を送出することを求めています。このように6月に至るまで、現地では割当数を満たすために執拗な動員がすすめられました。日本への動員は6月で終わります。〉――

 国から軍需指定された工場や鉱山で働いていた日本人、朝鮮人等が1944年4月以降、突然、「お前は国の徴用を受け」たと告知される。この一点を以ってしても、国側の強圧的な態度が仕向ける強制性が見えてくる。労務動員を受ける韓国現地の民情等を視察した小暮泰用の1944年の「復命書」を取り上げ、労務動員を「暴力的な拉致」との表現でその強制性を指摘しているが、この「復命書」については原文のまま取り上げているPDF記事を参考にして後で取り上げてみる。

 朝鮮総督府が1945年6月に「徴用忌避防遏取締指導要綱」を作成、〈徴用忌避があった場合、その家族、親戚、愛国班(日本における隣組)から代わりに人を送出することを求めています。〉云々は国が勝手に法律や規則を作ってそれぞれの取り決めに個人の行動を規制し、その規制に応じないからと言って当人の行動に関係しない近接者に身代わりを求める遣り口で、この有無を言わせない強制的な手口は一種の連座制であって、江戸時代の封建主義にまで遡る。当時の大日本帝国国家が植民地国民に対しても、自国民に対してもどれ程に横暴であったかを如実に物語っている。その横暴に多くの朝鮮人や少なくない日本人が犠牲となった。犠牲の発端は欧米列強の植民地獲得レースの尻馬に乗って、自らも植民地獲得レースに参加したことから始まっている。

 労務動員自体が本人の意思に反して強権的かつ強制的に行われたなら、強制連行となり、動員先の労働が肉体的に耐えられる範囲のものであっても、本人の意思に反して課している労働であることに変わりはなく、強制労働となる。高市早苗は菅内閣の答弁書閣議決定を用いて対朝鮮人動員を「国民徴用令に基づく徴用だ」と言い、強制連行ではないとしているが、法令上に限ったことで、実態は強制連行は広く行われていた。

 そもそもの「募集」形式の労務動員の段階から朝鮮総督府と総督府一部局の朝鮮総督府警務局指揮下の最末端地方警察署警察官と駐在所巡査が関わっていた一事を以って強圧的な強制性を窺わなければならないが、それが「官斡旋」と名を変えて「官」の関与を強めた経緯からは強制性を強化したことの答しか出てこないが、「<論説>足尾銅山・朝鮮人強制連行と戦後処理」(古庄正)に「官斡旋」方式の労務動員で強制連行扱いを受けた一朝鮮人の証言が紹介されている。

 要約すると、1921年生れ、22歳になるのか、鄭雲模さんが1942年2月のある日突然面事務所に呼び出された。面事務所には足尾銅山通洞坑の斉藤坑夫長(後に足尾銅山副所長となる)と朝鮮人労務担当員がいた。斉藤は鄭さんに「お国のためだから栃木県足尾銅山に行って3年間働いてこい」と言った。父親を亡くし,年老いた母の面倒をみなければならなかった鄭さんは,これを断った。そのため,彼は「国のため,天皇のためということがわからないのか」と言われ,朝鮮人労務担当員に殴る蹴るの暴行を受けた。朝鮮人労務担当員には斉藤坑夫長からその場で札束が渡された。翌朝6時頃,鄭さんは母を連れて逃亡を企てたがすでに遅く、家の前にはトラックが止まり,3~4人の者が家を囲み監視していた。結局,鄭さんはそのままトラックに乗せられ清州に連行された。そこには100~150名の朝鮮人の若者が狩り集められていた。鄭さんたちは草色の作業服を支給され,着替えるよう命じられた。作業服は南京袋のような生地でごわごわしていて、大変目立つ色だから、逃亡防止のためだと思われた。全員がその晩のうちに特別列車で釜山まで送られた。車中では小用を足すところまでも厳重に監視され、下関に着いてからは監視はさらに強まり、1943年3月に足尾銅山に連行された。

 本人が断ったにも関わらず、暴行を加えて、連行した。全て本人の意思に反していることだから、それが国民徴用令に基づいていたとしても強制連行となり、命じた労働は例え賃金格差がなかったとしても、強制労働そのものとなる。

 上記場面には官憲と名称させた人物は登場していないが、斉藤坑夫長にしても、朝鮮人労務担当員にしても、こういった暴力的な動員に関して警察が承知していて眼をつぶることを当然視していなければ、動員を断っただけの人間に対して殴る蹴るの暴行を働くことはできなかったろうし、斉藤坑夫長はその暴力を脇で眺めていることもできなかったろう。その上斉藤坑夫長が「国のため,天皇のためということがわからないのか」と口にしていたのだから、「全ては国のため,天皇のためなんだ」と内心では朝鮮人労務担当員の暴行と強制連行を正当化していたはずだ。

 そしてこのような暴力的な強制連行が単なる一例でないことを竹内廉人氏が紹介していた文書、「小暮泰用より管理局長竹内徳治宛『復命書』」(外村太研究室)から覗いてみる。小暮泰用は内務省の嘱託として朝鮮民情の動向並びに地方行政状況調査のために朝鮮へ出張、敗戦約1年前の昭和19年(1939年)7月31日にその報告書を内務省管理局長竹内徳治宛に提出。生活環境も日本国内と同様に相当に悪化していたであろう。併合韓国内でも徴兵と徴用によって労働力不足と生産活動の低下。日本の米不足に対応させる朝鮮米の日本移入と韓国自体の米不足、配給の遅滞、物価高騰等々を生み(『復命書』文章中に次のような一節がある。〈一般に朝鮮の地方農村には勤労過重なる場合が多く極端になれば三食とも草根木皮の粥腹である為め体錬の時間にすら貧血率倒する頑是ない子供が勇々しく(※ゆゆしく・いさましく)も鍬や鎌を手にし文字通り身を粉にして勤労に従事しつつあるのを目睹し一掬の涙なきを得ない実情である〉)、大本営の連戦連勝の発表にも関わらず戦争勝利に対する懐疑が日本国内と同様に多くの朝鮮人の心に渦巻くことになっていたはずで、にも関わらず、大日本帝国政府も朝鮮総督府も韓国からの労務動員に躍起になっていた。当然、強圧的な強制性が全体的に強まっていったことは容易に想像できることで、当文書がそれを証明することになる。

 「四、第一線行政の実情」「ロ」の記述。

 〈(食糧供出に於ける殴打、家宅捜索、呼出拷問労務供出に於ける不意打的人質的拉致等)乃至稀には傷害致死事件等の発生を見る如き不祥事件すらある

 斯くて供出は時に掠奪牲を帯び志願報国は強制となり寄附は徴収なる場合が多いと謂ふ〉

 「供出」とは一定の価格で政府に売り渡させることを言う。目的の供出量に達しなかったためにだろう、殴打したり、家宅捜索したり、呼出拷問したりして、少数の例外はあるだろうが、殆どが有り余っているわけではない食糧を無理矢理供出させる。そしてこういったことができるのは日本の現地警察に雇われた朝鮮人巡査である。そして不意打的に人質的拉致同然に労務供出、つまり労務動員させる。結果、行き過ぎて傷害致死事件等が発生する。こうした横暴ができるのも植民地支配国家として優に優る軍事力と警察力で朝鮮人を人質に取っていたも同然だったからである。 

 「内地移住労務者送出家庭の実情」について、〈従来朝鮮に於ける労務資源は一般に豊富低廉と云はれて来たが支那事変が始つて以来朝鮮の大陸前進兵站基地としての重要性が非常に高まり各種の重要産業が急激に勃與し朝鮮自体に対する労務事情も急激に変り従って内地向の労務供出の需給調整に相当困難を生じて来たのである〉

 〈然し戦争に勝つ為には斯の如き多少困難な事情にあっても国家の至上命令に依って無理にでも内地へ送り出さなければならない今日である、然らば無理を押して内地へ送出された朝鮮人労務者の残留家庭の実情は果して如何であらうか、一言を以て之れを言ふならば実に惨憺目に余るものがあると云っても過言ではない

 蓋し朝鮮人労務者の内地送出の実情に当っての人質的掠奪的拉致等が朝鮮民情に及ぼず悪影響もさること乍ら送出即ち彼等の家計収入の停止を意味する場合が極めて多い様である、其の詳細なる統計は明かでないが最近の一例を挙げて其の間の実情を考察するに次の様である

 大邱府の斡旋に係る山口県下沖宇部炭鉱労務者967人に就て認査して見ると一人平均月76円26銭の内稼働先の諸支出月平均62円58銭を控除し残額13円68銭が毎月一人当りの純収入にして謂はば之れが家族の生活費用に充てらるべきものである

 斯の如く一人当りの月収入は極めて僅少にして何人も現下の如き物価高の時に之にて残留家族が生活出来るとは考へられない事実であり、更に次の様なことに依って一層激化されるのである

(イ)、右の純収入の中から若干労務者自身の私的支出があること
(ロ)、内地に於ける稼先地元の貯蓄目標達成と逃亡防止策としての貯金の半強制的実施及払出の事実上の禁止等があって到底右金額の送金は不可能であること
(ハ)、平均額が右の通りであって個別的には多寡の凹凸があり中には病気等の為赤字収入の者もあること、而も収入の多い者と雖も其れは問題にならない程の極めて僅少な送金額であること

以上の如くにして彼等としては此の労務送出は家計収入の停止となるのであり况(※いわんや)作業中不具廃疾となりて帰還せる場合に於ては其の家庭にとっては更に一家の破滅ともなるのである〉

 〈私が今回旅行中慶北義城邑中里洞金本奎東(23才)なるものが昭和18年7月1日北海道へ官の斡旋に依り渡航した家庭を直接訪問して調査したるに、最初官の斡旋の時は北海道松前郡大沼村荒谷瀬崎組に於て本俸95円、手当を加へ合計月収130円となる見込みとの契約にて北海道より迎へに来た内地人労務管理人に引率され渡航したる後既に1年近くになっても送金もなければ音信もない家に残された今年63才の老母1人が病気と生活難に因り殆んど頻死の状態に陥って居る実情を目撃した、斯の如き実情は此の義城のみならず西鮮、北鮮地方に極めて多く、之等送出家庭に於ける残留家族の援護は緊急を要すべき問題と思はれる〉――

 満身創痍の日本の経済を回すためだけのために朝鮮人を日本に強制的に徴用して、徴用された朝鮮人の家庭が瀕死の状態に陥ろうと顧みなかった。賃金の半強制的貯蓄と払出の事実上の禁止は逃亡防止策と同時に企業の回転資金転用を目的としていたはずだ。例え帰国時に全額支払ったとしても、雇用中は低賃金で雇っていた計算になる。しかも1965年締結「日韓請求権協定」の際の交渉では韓国側から被徴用韓国人未収金を当時のレートで2億3700万円(Wikipedia)も請求されていたのだから、賃金が支払われなかった朝鮮人被徴用は相当数にのぼっていたことになる。

 〈「 (ハ)、動員の実情」

徴用は別として其の他如何なる方式に依るも出動は全く拉致同様な状態である

其れは若し事前に於て之を知らせば皆逃亡するからである、そこで夜襲、誘出、其の他各種の方策を講じて人質的掠奪拉致の事例が多くなるのである、何故に事前に知らせれば彼等は逃亡するか、要するにそこには彼等を精神的に惹付ける何物もなかったことから生ずるものと思はれる、内鮮を通じて労務管理の拙悪極まることは往々にして彼等の身心を破壊することのみならず残留家族の生活困難乃至破滅が屢々あったからである〉――

 以上のように韓国からの「募集」、「官斡旋」、「徴用」による対朝鮮人労務動員は情け容赦のない強圧的な強制連行を実態としていた。そしてこのことを可能にしていた要因は、繰り返しになるが、日本が植民地支配国家であり、植民地被支配国家韓国とその国民である朝鮮人を軍事力と警察力で人質に取っていたも同然の関係を築いていたからであるが、高市早苗はこういった両者関係と労務動員の実態を頭に置かずに、「日韓併合条約によって同じ日本人として戦時中、日本人と共に働き」と認識し、「国民徴用令に基づいて旅費や賃金を受け取って朝鮮半島から内地に移入して働いておられた方々」、「旧国家総動員法第4条の規定に基づく国民徴用令により徴用された朝鮮半島からの労働者の移入についてはこれら法令により実施されたものである」と、日本の対韓国植民地経営と朝鮮人支配を友好・平和な関係と片付けることのできる歴史認識は大日本帝国国家を正当化したい気持ちからだろうが、お目出度い頭をした歴史修正主義以外のなにものでない。

 佐渡金山鉱夫の非人間的な強制連行・強制労働は江戸時代の日本人鉱夫から戦前の労務動員された朝鮮人鉱夫までひと続きの歴史であり、前者は幕府によって、後者は大日本帝国によって歴史とされるに至った。この消し難い歴史を高市早苗や安倍晋三等の歴史修正主義者たちはご都合主義から直視せずに美しい内容に仕立て、ユネスコ世界遺産登録を目指す。

 歴史を反省して、反省のための負の遺産として登録を目指すなら理解もできるが、そうでなければ、対象が江戸時代限定であったとしても、その実態は非人間的な強制連行・強制労働の“鉱夫残酷物語”の世界遺産登録を目指すことに他ならない。

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高市早苗と安倍晋三の歴史認識に見る頭の中に国家のみを鎮座させ、国民を国家鎮座の下に位置させた日本国家優越主義

2022-01-31 08:21:38 | 政治

 2021年12月20日付け「毎日新聞」記事(後半有料)が自民党高市早苗の戦前の日本の戦争に関わる歴史認識を、自民党総裁選に名乗りを上げたことによる月刊誌「Hanada」10月号のインタビュー紹介という形で載せている。記事題名は〈「開戦詔書」そのまま受け止め?80年後の自民「保守」派の歴史観〉

 自衛か侵略か、戦争をどう捉えるかは「当時の『国家意志』の問題です」と持論を述べた高市氏、「先の大戦への認識」を問われてこう答えた。

 「当時の日本国民は、天皇陛下の詔書によって国家意志を理解したものだと思われます。先の大戦開戦時の昭和天皇の開戦の詔書は〈米英両国は、帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与え(中略)帝国は今や自存自衛のため、決然起って、一切の障害を破砕するのほかなきなり〉というものでした」

 要するに当時の日本国民は昭和天皇の開戦の詔書によって太平洋戦争を自存自衛の戦争であるとする国家意志を理解し、承認したのだから、侵略戦争という歴史認識は決して存在させていなかったということになる。

 但し一つ問題が生じる。侵略戦争ではないとする歴史認識は当時の日本国民に限ったことで、戦後の国民は必ずしも侵略戦争ではないと見ていないのではないかという疑義である。尤も高市早苗はこの疑義に対して答を用意している。毎日記事自体が高市早苗の2002年8月27日付ブログからその答を紹介している。〈「田原総一朗さんへの反論」(高市早苗ブログ/2002年08月27日)〉内の発言である。  

 〈私は常に『歴史的事象が起きた時点で、政府が何を大義とし、国民がどう理解していたか』で判断することとしており、現代の常識や法律で過去を裁かないようにしている〉(毎日記事紹介文章)

 毎日記事はこの高市早苗と同じ考えの歴史認識に当たる安倍晋三の言葉を2013年の著書『新しい国へ』の中から取り上げている。「当時を生きた国民の目で歴史を見直す」

 著書の実際の文言は、『その時代に生きた国民の目で歴史を見直す』の小見出しで、「その時代に生きた国民の視点で、虚心に歴史を見つめ直してみる。それが自然であり、もっと大切なことではないか」。そしてその根拠を次のように挙げている。

 「昭和17、8年の新聞には『断固戦うべし』という活字が躍っている。列強がアフリカ、アジアの植民地を既得権化する中、マスコミを含め、民意の多くは軍部を支持していたのではないか」

 対米英戦争はマスコミを含めた民意の賛同の上に成り立っていたということなのだろう。実際もそうであったはずだが、果たして正当な歴史認識と言えるだろうか。ただ、高市早苗と安倍晋三は共同歩調を取った歴史認識を構えていることになる。二人は歴史認識に於いてベッドを共にしていると比喩することもできる程に親密な見解となっている。

 記事は高市早苗の、安倍晋三も含めてのことなのだろう、このような歴史認識をどう見るか、戦争責任研究の第一人者である関東学院大教授の林博史氏に尋ねているが、結論は有料箇所に回されていて、無料読者は覗くことはできない。当方はド素人、専門家には敵わないのは分かりきっているが、当方なりに高市早苗と安倍晋三の歴史認識の正当性を解釈してみることにする。

 両者共に国民がその当時、何に賛成し、何に反対したのか、そのことによってのみ、歴史は価値づけられる、あるいは歴史は解釈されるとしている。だが、二人のこの考え方自体が論理矛盾に彩られている。なぜなら、日本が米英に宣戦布告した出来事自体は当時はまだ歴史にはなっていない、国家の政策遂行(=国家行為)に過ぎないからである。何らかの国家のその時々の政策遂行(=国家行為)が歴史の形を取るためには時間の経過、時代の経過が必要条件となる。つまり当時の国民ができたことは開戦、あるいは戦争という国家の政策遂行(=国家行為)に対する賛否――是非の解釈のみである。

 逆に後世の国民ができることは戦前当時の国家状況及び世界状況や社会状況等を起因とした国家の政策遂行(=国家行為)が時間の経過、時代の経過を経て歴史となった時点で時間・時代の経過と共に蓄積することになった知識を背景とした現在の国民の目を通した是非の解釈である。決して国家の政策遂行(=国家行為)に当時のままそのとおりに同調することが歴史解釈ではない。

 その一例が1942年2月19日にルーズベルト大統領が署名した大統領令により日系米国人が「敵性外国人」とされ、約12万人が全米各地で数年間強制収容されることになった国家の政策遂行を1988年8月10日になってレーガン大統領が「1988年市民自由法」に署名、その過ちを認めて謝罪したことに見ることができる。対日戦争当時の米国国家の政策遂行を時間・時代の経過を経た歴史として顧みることになったとき、その間に蓄積することとなった知識を背景としたその当時の時代の目を通して是非を判断した結果の謝罪であろう。と言うことは、米国国家の政策遂行として日系人を敵性外国人として収容した当時は、国家レベルに於いても、そして多くの米国民のレベルに於いても、間違っていたという考えは起きなかった時代性であったことを証明することになる。

 こういったことに対応した戦前当時の日本人の間でも日中戦争も太平洋戦争も、間違っていたとする考えは起きなかった時代の戦争に関わる国民の認識であったと見ることができるが、高市早苗も安倍晋三も、そのような制約を受けていた当時の時代に限った国民の認識をさも歴史認識であるかのように見せかけるペテンを働かせていることになる。そしてペテンをペテンでないと見せかける仕掛けが高市早苗の場合は「現代の常識や法律で過去を裁かない」とする時間と時代を経て形を取ることになる歴史と、同じく時間と時代を経て蓄積することになる知識とその知識の駆使の否定であり、安倍晋三の場合は直接的には言及していないが、当時の国民の考え方を採用することによって現在から過去に遡った歴史的事実に対する眺望、あるいは検証を許さない点、高市早苗の仕掛けと同じ形式のペテンを踏んでいることになる。

 また高市早苗の「現代の常識や法律で過去を裁かない」は戦前の日本国家――大日本帝国を当時の国民が支持していることを根拠に裁くことのできない対象、無謬の存在に祭り上げ、絶対化していることになる。絶対化は高市早苗による大日本帝国擁護に他ならない。安倍晋三が2012年4月28日の自民党主催「主権回復の日」にビデオメッセージを寄せて、「占領時代に占領軍によって行われたこと、日本がどのように改造されたのか、日本人の精神にどのような影響を及ぼしたのか、もう一度検証し、それをきっちりと区切りをつけて、日本は新しスタートを切るべきでした」と主張していることも、占領軍によって改造される前の大日本帝国を擁護する考えに基づいているのであって、その擁護は大日本帝国を無謬の存在とし、絶対化する考えがなければ成り立たない。

 そして戦前国家に対するこのような扱いはそもそもからして大日本帝国国家自体が皇国史観(日本の歴史を万世一系の天皇を中心とする国体の発展・展開ととらえる歴史観「goo辞書」)に基づいて日本の歴史の優越性を抱え込み、このことと相まって日本は神国(大日本は神国なり「国体の本義」)であるとしていた選民思想が日本民族の優越性を培養する素地を成していたのだから、高市・安倍にしても、日本民族優越主義を精神の素地としていることになる。戦前国家の政治決定に無条件に同調することだけでも、大日本帝国国家が抱え込んでいた日本民族優越主義(=大和民族至上主義)の側に寄り添っていることに他ならない。 

 歴史は「その時代に生きた国民の視点」に立つのではなく、あくまでも後世に生きている国民の視点で眺めなければならない。日本の戦争を歴史という文脈で補足可能となるからである。そしてその当時の「国民の視点」にしても、それが正しかったのか、正しくなかったのかが歴史判定の対象となる。当時の視点は正しかった・正しくなかったの両意見があるだろうが、いずれの場合も正しい・正しくないの検証が必要であって、当時の視点にそのままに同調することではない。同調したら、すべての歴史が正しくなってしまう。何のために時間・時代を経たのかも、その間の知識の蓄積も意味を成さなくしてしまう。歴史解釈に関して「現代の常識や法律で過去を裁かない」、「その時代に生きた国民の視点で、虚心に歴史を見つめ直してみる」方法のみに正当性を与えたなら、ナチスのホロコーストも歴史的に正しい行為と評価しなければならなくなる。

 要するに「大日本は神国なり」とする大日本帝国国家を無謬の存在とする絶対化は日本民族優越主義と相互呼応した関係を取る。日本民族優越主義を精神の素地としているからこそ、「大日本は神国なり」とする大日本帝国国家を無謬の存在とし、絶対化することができる。そうすること自体が日本民族優越主義の発動なくして成り立たない。

 だが、高市早苗も安倍晋三も、当時の国民の考え方を絶対とし、その考え方への同調を迫っている。大日本帝国の無謬化・絶対化・擁護には好都合だからなのは論じるまでのないことだが、単なる同調は歴史をどう認識するのか、どう解釈するのか、そういったことへの思考の発動とは全く以って異なる。そもそもからして当時の日本国民がどのような国家的・社会的状況に制約された環境下に置かれていたのか、高市早苗も安倍晋三も、どのような制約も考慮せずに当時の国民の判断・認識に頭から正当な価値づけを施している。当時は表向きは天皇を絶対君主とする、内実は軍部・政府が実権を握る二重権力構造下の思想・言論統制の時代にあり、天皇を含めた国家権力に対するどのような批判も許されなかった。許されたのは天皇と国家に対する無条件の従属のみだった。当然、昭和天皇の開戦の詔書に対して当時の日本国民は誰が表立って批判し得たであろうか。

 つまり戦前の大日本帝国は国家の意思が国民の意思を常に覆っていた。譬えるなら、当時の大日本帝国はお釈迦様であり、国民はその手のひらの中でのみ自由な行動を許されていた孫悟空に過ぎなかった。にも関わらず、高市早苗が「当時の日本国民は、天皇陛下の詔書によって国家意志を理解したものだと思われます」の言葉で示している「当時の日本国民」が、あるいは安倍晋三が「その時代に生きた国民の視点で、虚心に歴史を見つめ直してみる」の言葉で示している「その時代に生きた国民」がどのような思想・言論の統制下に置かれていたのか、そのことによって国家行為に対する国民の主体的判断が可能であったのかどうかの要件として考慮することができないのは高市早苗も安倍晋三も、頭の中では戦前国家を国民という存在の上に常に鎮座させているからだろう。

 もし両者共に国民という存在の上に国家を鎮座させていなかったなら、思想・言論統制の時代下にあった戦前の国民を国家の政策遂行(=国家行為)に対して主体的判断の主語とさせ得るかどうかぐらいの区別をつける頭はあるはずだが、その頭はなく、その当時の実情に反して主体的判断の主語として扱い、戦前の大日本帝国をまともな国家であったと見せかけるペテンをものの見事にやってのけている。大日本帝国を無謬の存在と看做して絶対化し、擁護するためには自分の判断に基づいて意思表示できる国民の存在は必要不可欠な条件となるからだろう。いわば当時の日本国民は自由意志を持って帝国国家の政策に賛成し、支持していたかのように見せかけるペテンを必要とせざるを得なかった。

 歴史認識に関してこういった仕掛けを施すことができるのは高市早苗も安倍晋三も、戦前を振り返るとき、国家のみに目を向け、国民には殆ど目を向けていないからである。結果的に当時の国民が天皇という存在と大日本帝国国家によってどのようなコントロール下に置かれ、主体的存在たり得ていたのか、いなかったのかの視点を欠いた認識を必然的に持つに至った。

 大日本帝国国家の国民を国家の従属物とするような(実際にも従属物としていた)この関係は当然のことだが、日本民族優越主義にしても、国民を国家鎮座の下に置いた形式を採ることになる。いわば国家の優越を主体とし、その下に国民の優越を置いた構造の日本民族優越主義である。まさに戦前の大日本帝国国家と国民はこのような関係にあった。でなければ、日本の歴史を万世一系の天皇を中心とする国体の発展・展開と捉える皇国史観は身の置所を得ることはなかっただろう。

 このような日本民族優越主義は、国民の権利など認めていなかったその実質性に鑑みて、日本国家優越主義と表現した方がより現実に適う。今後、そう表記することにする。

 高市早苗の頭の中に国家というもののみを鎮座させ、国民を国家鎮座の下に置いた思想――高市早苗の日本国家優越主義を反映させた国家観は2021年9月29日投開票の自民党総裁選に向けて自身の思想と政策を纏めた『美しく、強く、成長する国へ。私の「日本経済強靭化計画」』(電子書籍から)にも、当然のことと言えば、当然のことだが、反映されている。

 序章「日本よ、美しく、強く、成長する国であれ」

日本人の素晴らしさ

 「日本人が大切にしてきた価値」とは何なのか、と思われる方も居られるだろう。例えば、ご先祖様に感謝し、食べ物を大切にし、礼節と公益を守り、しっかりと学び、勤勉に働くこと。困っている方が居られたら、皆で助けること。そして、常に「今日よりも良い明日」を目指して力を尽くすこと。

 かつては家庭でも当たり前に教えられてきた価値観が、近年まで称賛された日本の治安の良さや国際競争力の源泉だったのだろうと考えている。

 幕末以降に来日した外国人が書き残された当時の日本の姿からも、日本人の本質が見えてくる。先ず、E・S・モースの『日本その日その日』の記述だ。「衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり・・・これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である」

 次に、H・シュリーマンの『シュリーマン旅行記』の記述だ。「この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕された土地が見られる」「日本人は工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達している」「教育は、ヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。(中略)アジアの他の国では女たちが完全な無知の中に放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」

 そして、シーボルトの『江戸参府紀行』の記述だ。「日本の農民は驚くほどの勤勉さを発揮して、岩の多い土地を豊かな穀物や野菜の畑に作りかえていた。深い溝で分けられている細い畝には、大麦・小麦・菜種や甜菜の仲間、芥菜・鳩豆・エンドウ豆・大根・玉葱などが1フィートほど離れて1列に栽培されている。雑草1本もなく、石1つ見当たらない。(中略)旅行者を驚かす千年の努力と文化の成果である」

 大自然への畏敬の念を抱きながら勤勉に働き、懸命に学び、美しく生き、国家繁栄の礎を築いて下さった多くの祖先の歩みに、感謝の念とともに喜びと誇らしさを感じずにはいられない。現在においても、126代も続いてきた世界一の御皇室を戴き、優れた祖先のDNAを受け継ぐ日本人の素晴らしさは、本質的に変わっていないと感じている。

 高市早苗が「日本人の本質が見えてくる」と感じ、「126代も続いてきた世界一の御皇室を戴き、優れた祖先のDNAを受け継ぐ日本人の素晴らしさは、本質的に変わっていないと感じている」と結論づけた訪日外国人の日本及び日本人を褒めちぎった日本の景色は"矛盾なき国家"、"矛盾なき社会"、"矛盾なき人々"に仕立て上げられ、善なる存在としか映らない。

 最も時代を遡るのはシーボルトの『江戸参府紀行』の1826年(文政9年)であり、次がH・シュリーマンの『シュリーマン旅行記』は江戸幕府終了3年前の1865年(慶応元年)のもので、最後がE・S・モースの『日本その日その日』の1877年(明治10年)6月18日から1883年(明治16年)2月までの5年余のうちの実質滞在の2年5カ月間の見聞録となる。古い時代から新しい時代へと順を追って眺めてみることでその間の日本社会と人々の生活を概観できると思うから、その方法でそれぞれの描写の的確性、日本人なるものに対する洞察力の確かさを見定めてみる。

 シーボルト『江戸参府紀行』の文政9年(1826年)は1603年に徳川家康が江戸に幕府を開設してから224年、明治まで40年余を残す幕末に当たる。江戸時代はほぼ一貫して日本人口のたかだか1割の武士が8割の農民と1割の町人・商人その他を支配して、8割の農民に対して四公六民とか、五公五民とかの年貢を課し、武士が4割、5割の収穫米を取り上げ、農民には6割、5割の収穫米しか分かち与えない過酷な税制を敷いていた。結果、ちょっとした出水や日照りで田畑が損傷を受け、その損傷が長引くと、ときには年貢減免の措置が取られこともあったそうだが、殆どは納める年貢の量は変わらないために高持百姓(本百姓――江戸時代、田畑・屋敷を持ち、年貢・諸役の負担者として検地帳に登録された農民。農耕のための用水権・入会 (いりあい) 権を持った、近世村落の基本階層『goo辞書』)の中でも田畑をたくさん持っている者以外は食うに事欠くことになった。

 そして究極の生活困窮が百姓一揆という形で暴発することになった。「コトバンク」に出ていた数字だが、江戸時代を通して約3200件もの百姓一揆が発生することになる。1603年の江戸開幕から1868年江戸閉幕までの266年間で計算すると、年間12件の百姓一揆となり、日本のどこかで月1の割合で発生、計算上はそれが266年間も続いていたことになり、なおかつ明治時代に入ってからも百姓一揆が起きていることから見て、農民の生活困窮はある種、在り来たりの日常的な光景となっていたことを窺わせる。

 また、こういった村落単位の集団の闘争だけではなく、個人的に食えなくなった百姓が土地を捨て、村を捨てて、江戸や大阪といった大都会に逃げ出す走り百姓が跡を絶たなかったという。江戸では無宿人が溢れ、治安対策から収容所(寛政年間1789~1801の人足寄場が有名)を設けて収容し、今でいう職業訓練を施したそうだが、文政(1818~1830)の次の天保(1830~1844)になって、江戸人別帳(今で言う戸籍)に無記載の者を帰村させる「人返しの法」(帰農令)を出すに至ったが、効果はなかったという。食えなくなって出奔した同じ村に帰されるのだから、本人自身が希望を見い出すことができない幕府の命令と言うことだったのだろう。

 「百姓一揆義民年表」から文政年間の百姓一揆を眺めてみる。文政元年の大和国吉野郡竜門郷15か村は旗本・中坊広風の知行所だったが、出役(代官)の浜島清兵衛が増税を企てたため、西谷村又兵衛ら6百人程が平尾代官所や平尾村大庄屋宅を打ちこわした竜門騒動

 文政4年の松平宗発(むねあきら)の猟官運動で財政が窮乏した宮津藩で沢辺淡右衛門らの主導で年貢先納や万人講とよばれる日銭の賦課が行われたため、これに反対した農民が大挙して宮津城下で打毀しを行った宮津藩文政一揆

 文政5年の三大名間で行われ三方領知替え(さんぽうりょうちがえ)で桑名藩主松平忠堯が武蔵忍藩に移封を命じられたことに伴い、助成講の掛金が返還されないことを危惧した農民が城下に押しかけ、やがて数万人規模の全藩一揆に発展し、庄屋宅の打ちこわしなどが行われた桑名藩文政一揆

 この一揆は領地替えの際、大名がその地での借金を踏み倒していってしまう事例を情報としていた可能性を窺わせる。

 文政8年の特産物の麻の不作や米価高騰で困窮した信濃国松本藩領の四ヶ庄(今の長野県北安曇郡白馬村)の農民が発頭(ほっとう「先に立って物事を企てること」)となり、3万人ほどが庄屋や麻問屋などを打ち壊しながら松本城下に迫ったが、藩に鎮圧された赤蓑騒動

 そして文政11年にシーボルト事件(シーボルトが帰国の際に、国禁の日本地図や葵紋付き衣服などを持ち出そうとして発覚した事件。 シーボルトは翌年国外追放、門人ら多数が処罰された「コトバンク」)が起きている。

 文政12年間に4件もの大きな百姓一揆が発生していた。江戸時代という封建時代に忍従の生活を強いられていた農民が余程のことがない限り百姓一揆にまで持っていくことはなかっただろうという意味からしても、百姓一揆前の生活の困窮の程度が知れる。農民を苦しめたのは年貢上納の過酷な割合だけではなく、江戸中期の儒学者が1729年(享保14年)に著した書物の中で伝えている年貢取り立て行為自体の不合理なまでの過酷さを取り上げてみる。『近世農民生活史』(児玉幸多著・吉川弘文館)が紹介している一文である。

 『経済録』(太宰春台著)

 〈代官が毛見(けみ・検見――役人が行う米の出来栄え(収穫量)の検査と年貢率の査定)にいくと、その所の民は数日間奔走して道路の修理や宿所の掃除をなし、前日より種々の珍膳を整えて到来を待つ。当日には庄屋名主などが人馬や肩輿を牽いて村境まで出迎える。館舎に至ると種々の饗応をし、その上に進物を献上し、歓楽を極める。手代などはもとより召使いに至るまでその身分に応じて金銀を贈る。このためにかかる費用は計り知れないほどである。もし少しでも彼らの心に不満があれば、いろいろの難題を出して民を苦しめ、その上、毛見をする時になって、下熟(不作)を上熟(豊作)といって免(年貢賦課の割合)を高くする。もし饗応を盛んにして、進物を多くし、従者まで賂(まいない)を多くして満足を与えれば、上熟をも下熟といって免を低くする。これによって里民(りみん・さとびと)は万事をさしおいて代官の喜ぶように計る。代官は検見に行くと多くの利益を得、従者まであまたの金銀を取る。これは上(うえ)の物を盗むというものである。毛見のときばかりではない。平日でも民のもとから代官ならびに小吏にまで賄を贈ることおびただしい。それゆえ代官らはみな小禄ではあるが、その富は大名にも等しく、手代などまでわずか二、三人を養うほどの俸給で十余人を養うばかりでなく巨万の富を貯えて、ついには与力や旗本衆の家を買い取って華麗を極めるようになるのである。このように代官が私曲をなし、民が代官に賄賂を贈る状況は、自分が久しく田舎に住んで親しく見聞したことである。これは一に毛見取(けみとり)から起ることで、民の痛み国の害というのはこのことである。定免(一定の年貢率)であれば、毎年の毛見も必要なく、民は決まったとおりに納めるので代官に賄を贈ることもなく使役されることもなく苦しみがない。それ故に、少しは高免であっても定免は民に利益がある。毛見がなければ代官を置く必要もない。代官は口米(くちまい)というものがあって多くの米を上(うえ)より賜る。代官を置かなければ口米を出す必要もなく国家の利益である。今世の田租の法として定免に勝るものはない。〉――

 江戸幕府の基本法典『公事方御定書』は、勿論賄賂を禁止している。

  賄賂差し出し候者御仕置の事
一、公事諸願其外請負事等に付て、賄賂差し出し候もの並に取持いたし候もの 軽追放
  但し賄賂請け候もの其品相返し、申し出るにおいてハ、賄賂差し出し候者並に取持いたし候もの共ニ、村役人ニ侯ハバ役儀取上げ、平百姓ニ候ハバ過料申し付くべき事。

 この『公事方御定書』は8代将軍徳川吉宗が中国法の明律(みんりつ)に素養があり、それを参考に1720年(享保5)に編纂を命じ、1742年(寛保2)に完成している。各藩は中国法の明律を直接参考にするか、徳川吉宗の『公事方御定書』を参考にするかで自藩の刑法典を用意したという。また、賄賂を取る者、差し出す者はいつの時代になってもなくならないという分かりきった事実の点からも、断るまでもないことだが、太宰春台の『経済録』1729年(享保14)からシーボルト『江戸参府紀行』の1826年(文政9年)まで100年近くあるが、『明治初期の告訴権・親告罪』に、〈大政奉還の後、徳川慶喜からの伺に対して明治新政府は1867年(慶応3年)10月22日に新法令が制定されるまでは徳川時代の慣例(幕府天領には幕府法(公事方御定書)各大名領地には各藩法)を適用する(「是迄之通リ可心得候事」)との指令を出した。〉との記述があるから、『公事方御定書』は文政年間も生きていて、取り締まる側の代官自身の年貢取立てに関わる賄賂強要がその当時も百姓を苦しめていたことは想像に難くない。

 ところが、シーボルトの『江戸参府紀行』は「日本の農民は驚くほどの勤勉さを発揮して」云々と日本の農業文化の伝統的で高度な進歩性を称賛するのみで、その光景からは過酷な年貢で生活困窮を強いられている百姓の持つ宿命的側面など一切窺わせない。

 現実の農民の多くは「驚くほどの勤勉さ」の裏で過酷な重税に苦しめられていた。「勤勉さ」は主体的な行動ではなく、年貢納付、あるいは小作料納付というノルマが強制する従属的な行動に過ぎなかった。過酷な年貢徴収、小作料徴収に応じて、どうにか命を繋いでいくための必死な足掻きは実質的には「勤勉さ」とは異なる。

 シーボルトが「旅行者を驚かす千年の努力と文化の成果」と見た、その実態は悲惨と苦渋と百姓という宿命への諦めに満ちた内実で成り立っていて、そこで働く農民の姿や田畑の状景を表面的に眺めただけでは見えてこない。にも関わらず、高市早苗は驚く程に無邪気にシーボルトが描いた農民の姿をそのままそっくりに素直に受け止めて、勤勉と見た黙々とした作業を「日本人の本質」と解釈するに至った。「大自然への畏敬の念を抱きながら勤勉に働き、懸命に学び、美しく生き、国家繁栄の礎を築いて下さった多くの祖先の歩み」をそこに見ることになった。

 このお目出度さはどこから来ているのだろう。いつの時代も多くの矛盾を抱えていて、矛盾のない社会は存在しない。そしてその矛盾の多くは政治権力者によって作り出される。その一方で政治は大本のところで国家の政治機能を通して社会の矛盾の解消に努めることを役目の一つとしている。高市早苗は政治家でありながら、このような矛盾に関わる諸状況を頭に置くことができずに過去の訪日外国人のまっさらな日本及び日本人描写に対してその裏側の日本社会を覗く理解能力を完璧に失っていた。

 国家の優越を主体とし、その下に国民の優越を置いた日本国家優越意識が仕向けてしまう理解の限界と見るほかはない。安倍晋三に取り憑いている自分は優秀で特別な存在だと思い込む自己愛性パーソナリティ障害がそうであるように優越意識なる感性は自身が優越と見る対象に対してはどのような矛盾も欠点も認めまいとする意識が働いてしまうように高市早苗にしても矛盾のない時代も社会も存在しないという簡単な事実さえも見落としてしまって、自身の日本国家優越主義を満足させる情報のみに、その真偽を確かめずにアンテナを向けてしまうから、日本人や日本についていいことが書いてある情報のみを書いてあるままに受け入れて、日本国家の優越性やその二番手に置いた日本人の優越性を再確認したり、再発見したりすることになっているのだろう。

 こういった認識が働くのも、国民がどう存在していたのか、向ける目を持っていないことが災いした見解と言うほかはなく、結果的に日本の歴史を美しい姿に変える歴史修正まで同時並行的に行っていることになる。日本国家優越主義自体が歴史修正の仕掛けを否応もなしに抱え持っている。

 不正な手段で利益を得て、社会の矛盾を作り出している収賄や贈賄は年貢取り立ての代官やその手代たちと百姓の間だけで行われたわけではない。江戸時代の大名たちは江戸城で将軍に謁見するときの席次が同じ石高である場合は将軍の推挙を受けて天皇から与えられる正三位とか従三位といった官位によって決まり、将軍の朝廷への推挙は老中の情報が左右するために大名たちは老中に賄賂を贈ることを習慣としていたという。当然、賄賂の額を競うことになるばかりか、官位による席次の違いがそれぞれの名誉と虚栄心と政治力に影響し、自らの権威ともなっていたのだろうが、賄賂資金の原資は百姓から取り立てた年貢米をカネに替えた一部であり、彼らの汗と苦痛の結晶ではあるものの、年貢を取り立てていることに支配者という立場から何ら痛痒を感じていない点、感じていたなら、虚栄心や名誉心のために賄賂のためのカネに回すことなどできなかったはずだが、支配者としての武士という立場上、こういった矛盾が矛盾として認知されていなかったことの矛盾は恐ろしい。

 幕末を3年後に控えた1865年(慶応元年)の日本訪問の見聞記H・シュリーマンの『シュリーマン旅行記』には「この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕された土地が見られる」の描写がある。前記シーボルト『江戸参府紀行』の1826年(文政9年)から39年経過していて、その経過で政治は社会の矛盾を綺麗サッパリと拭い去ることができて、初めてH・シュリーマンの描写は生きてきて、100%の説得力を持ことができる。ところが、1853年(嘉永6年)にペリーが浦賀に来航以降、尊王攘夷派と開国派、公武合体派が入り乱れて武力衝突を繰り返し、世情不安を招くと、大名や商人が米の買い占めに走って物価高騰を引き寄せ、生活面からも社会不安を引き起こして、年貢の重税と借金に苦しむ小作人に都市貧民が加わり、幕末から明治初期に掛けて「世直し」を唱え、村役人や特権商人、高利貸などを襲撃、建物を打ち壊す世直し一揆が多発することになった。

 「Wikipedia」には『シュリーマン旅行記』見聞と同年の〈慶応2年5月1日(旧暦)(1865年)に西宮で主婦達が起こした米穀商への抗議行動をきっかけに起きた(世直し)一揆はたちまち伊丹・兵庫などに飛び火し、13日には大坂市内でも打ちこわしが発生した。打ちこわしは3日間にわたって続き米穀商や鴻池家のような有力商人の店が襲撃された。その後、一揆は和泉・奈良方面にも広がり「大坂十里四方は一揆おからさる(起こらざる)所なし」(『幕末珎事集』)と評された。〉と出ている。

 同じ慶応2年には武蔵国秩父郡で武州世直し一揆が起きているし、1749年(寛延2)の陸奥国信夫(しのぶ)・伊達両郡(福島市周辺)に跨り起こった大百姓一揆が慶応2年に信達(しんだつ)世直し騒動と名を変えて再発している。この再発は百姓の困窮の恒常性を物語る一例となる。だが、シュリーマンは情報未発達時代の情報収集の限界なのだろうが、武士以外の国民の困窮や不平不満の気配、これらに起因した騒動を舞台裏に置くこともなく、「この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序」をその目に入れていた。 

 だが、高市早苗は情報発達時代の今日に政治家として呼吸していながら、それぞれの時代の内実を眺望することなく、訪日外国人たちの時代の矛盾や社会の矛盾と乖離した底の浅い日本見聞の夢物語を日本国家優越主義には好都合な情報だからだろう、オレオレ詐欺に引っかかるよりもたやすく騙されてしまっている。

 百姓の困窮は生活そのものの困窮であって、生まれてくる子供にまで影響する。食い扶持が増えると、家族全体の生活が逼迫されることになる。「Wikipedia」に、〈堕胎と「間引き」即ち「子殺し」が最も盛んだったのは江戸時代である。関東地方と東北地方では農民階級の貧困が原因で「間引き」が特に盛んに行われ、都市では工商階級の風俗退廃による不義密通の横行が主な原因で行われた。また小禄の武士階級でも行われた。〉とある。

 間引きは産んでから殺す、堕胎は生まれる前に堕胎薬や冷たい水に腰まで浸かり身体を冷やしたり、腹に圧迫を加えたりして死産を導くことを言う。間引きの多発に幕府は1865年(慶応元年)の『シュリーマン旅行記』から遡ること約100年前の1767年(明和4年)に〈百姓共大勢子共有之候得は、出生之子を産所にて直に殺候国柄も有之段相聞、不仁之至に候、以来右体の儀無之様。村役人は勿論、百姓共も相互に心を附可申候、常陸、下総辺にては、別て右の取沙汰有之由、若外より相顕におゐては、可為曲事者也〉(百姓ども、大勢の子どもこれありそうろうえば、出生の子を産所にてじかに殺しそうろう国柄もこれあり段、相聞く、道に背く(不仁)の極みである。以来、このようなことがないよう、村役人は勿論、百姓共の相互に気をつけるよう申しべくそうろう。常陸、下総辺りではわけて右のような子殺しがあるよし、もしほかよりお互いに明らかになった場合はけしからぬことをなす者である。)と、間引き禁令を出すことになり、各藩もこれに倣うが、生活の困窮を手つかずのままにして禁令だけを出しただけではなくなるはずはない。『近世農民生活史』(児玉幸多著・吉川弘文館))の記述を見てみる。

 「美作の久世と備中の笠岡および武蔵久喜の代官であった早川八郎左衛門正紀(まさとし)」が「美作・備中の任地に赴いた時に、いたるところの河端や堰溝に古茣蓙(ござ)の苞(つと)があるのを怪しんで調べてみると、いずれも圧殺した嬰児を包んだもので、男子には扇子、女子には杓子を付けてあって、その惨状に目を覆ったということである」

 早川八郎左衛門正紀が代官として美作国に赴いたのは推定で2万人の死者を出した天明の大飢饉のさなかの1787年(天明7年)のことで、幕府が間引き禁令を1767年(明和4年)に出し、各藩が倣ってから20年経過しているが、飢饉が原因しているものの、このような有様であった。堕胎と間引きを免れた子どもであっても、長男以外の男の子なら、10歳前後まで育てて口減らしのために商家の丁稚奉公か職人の見習い小僧などに出して、親が支度金とか前渡金の名目でそれ相応のカネにするか、女の子なら6、7歳の頃まで育てててから同じく口減らしのために女衒を通して女郎屋に禿(かぶろ・遊女見習い)として売って、10両前後の、百姓にしたら大金となるカネを手にするかしたりしている。後者の場合、親が売って得たカネは女衒の手数料を上乗せして借金として背負うことになり、遊女になるまでの経費をプラスして稼いで支払うことになる。要するに子どもを10歳近くまで育てる余裕のない親が子どもを堕胎したり間引いたりした。生活の困窮が全ての原因だった。

 『シュリーマン旅行記』の慶応年間を跨いで明治時代まで口減らしの堕胎は続いていたことは1880年(明治13年)制定の旧刑法と1908年(明治41年)施行の現行刑法に堕胎罪が設けられていることと、貧困が続く限り、法律が制定されてピタッと止むものではないことが証明することになる。但し両刑法に「間引き」なる文字は出てこないが、殺人罪でひと括りしていたとしたら、闇で行う者が存在していた可能性はあるが、「第336条」は「八歳ニ滿サル幼者ヲ遺棄シタル者ハ一月以上一年以下ノ重禁錮ニ處ス 2 自ラ生活スルコト能ハサル老者疾病者ヲ遺棄シタル者亦同シ」とあるから、間引きや堕胎以外に同じく江戸時代に行われていた捨て子や姥捨てが引き続いて行われていたことになって、否応もなしに生活困窮の光景が浮かんでくる。

 2011年の「asahi.com」の記事だが、20年程前から開発業者などが持ち込む江戸時代の人骨を研究用に受け入れてきた国立科学博物館が分析したところ、日本の全ての時代の中で最も小柄な上に特に鉄分が不足していて、総体的に栄養状態が悪く、伝染病がたびたび流行したことも一因だということだが、栄養状態が悪いからこそ、伝染病に罹りやすいのだろう、死亡率が低いはずの若い世代の骨が多かったという。つまり若死にを強いられていた。農民が過酷な年貢取り立てに応じるために満足に食事をせずに激しい労働を日常的に余儀なくされていただけではなく、町の住人も多くが貧しい生活を余儀なくされていた。

 政治の矛盾が社会の矛盾となって跳ね返る。H・シュリーマンの「平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序」は異国の地に於ける情報の未発達に守られた旅先での感傷に過ぎないだろう。多分、自分の生まれた国と社会が余りにも矛盾に満ちているから、矛盾のない国と社会に憧れる余り、少ない表面的な様子を見ただけで、ユートピアを見てしまったのかもしれない。あるいはその他の訪日外国人も含めて矛盾のない如何なる時代も、如何なる社会も存在しないというごくごく当たり前の常識を未だ情報とするに至っていない時代に棲息することになっていた知識の限界を受けてのことなのかもしれない。しかし何度でも言わなければならないことは高市早苗はこのような当たり前のことを常識としていなければならない現在の情報化社会に生息しているはずで、政治家なのだからなおさらのことだが、各時代の日本人の実際の姿とは異なる訪日外国人が描いた日本人の姿を「日本人の本質」と見て、「美しく生き」てきたと価値づけ、日本人の歴史を通した恒常的な姿だと結論、それを以って「日本人の素晴らしさ」だと、日本人という民族全体の評価にまで高めている。当然、この評価は支配権力が政治を行い、社会を成り立たせていく過程でどうしようもなく生み出してしまう各方面に亘る様々な矛盾というものを眼中に置いていない見識と言うことになって、日本国家優越主義なくして成り立たない思考停止であろう。国家なる存在だけを見ていて、国家を構成する実際の国民、その姿は見ていない。

 H・シュリーマンは当時の日本の教育について、「アジアの他の国では女たちが完全な無知の中に放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」と称賛しきっているが、確かに江戸時代の民衆の識字率は高かったと言われている。だが、教育の機会は教育を受ける権利の保障が一定程度整っている(それでもまだ様々な矛盾を抱えている)現代と違って江戸時代の教育を受ける機会は武士も町人も農民も各家庭の経済力任せであったから、産まれてくる子に対して捨て子や間引き、堕胎を迫られる貧しい農民や貧しい都市住民、あるいは走り百姓となって故郷の村を捨てる農民たちや、収穫米の中から本百姓に小作料を物納すると殆ど残らず、あとは粟、稗などの雑穀で命をつないでくといった貧農にとって縁のないもので、貧富の影響をまともに受けることになる。こういった限定条件下での「読み書き」が実態であったはずだから、「日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」は過大も過大、買いかぶりの過大評価であろう。

 勿論、このように言うからには証明が必要になる。「日本の就学率は世界一だったのか」(角知行)が先ず1986年9月22日の静岡県で開催の自民党全国研修会での当時首相であった中曽根康弘の発言を紹介してる。人種差別発言だと非難を浴びることになって、当時評判となった発言である。

 中曽根康弘「日本はこれだけ高学歴社会になって相当インテリジェント(知的)なソサエティーになってきておる。アメリカなんかよりはるかにそうだ。平均点からみたら、アメリカには黒人とか、プエルトリコとか、そういうのが相当おって、平均的にみたら非常にまだ低い。(中略)

 徳川時代になると商業資本が伸びてきて、ブルジョアジーが発生した。極めて濃密な独特の文化を日本はもってきておる。驚くべきことに徳川時代には識字率、文盲率は50%くらい。世界でも奇跡的なぐらいに日本は教育が進んでおって、字を知っておる国民だ。そのころヨーロッパの国々はせいぜい20―30%。アメリカでは今では字をしらないのが随分いる。ところが日本の徳川時代には寺子屋というものがあって、坊さんが全部、字を教えた」

 「坊さんが全部、字を教えた」は恐れ入る。寺子屋師匠は僧侶だけではなく、武士、浪人、医者などが担っていたと言われている。寺子は入門料である「束脩(そくしゅう)」と授業料である「謝儀」を納めていたから、特に浪人にとっては生計を成り立たせていく大きな糧となったに違いない。

 中曽根康弘は当時日本国総理大臣だったが、識字率・文盲率が必ずしも人間性判断の基準とはならないという常識は弁えていなかったらしい。弁えていたなら、識字率だけで人種の優劣のモノサシとするような発言はしなかったろう。

 角知行氏はイギリスの社会学者のロナルド・フィリップ・ドーア(1925年2月1日~2018年11月13日)が著した『江戸時代の教育』を用いて、〈明治維新当時、「男児の40%強、女児の10%」が家庭外であらたまった教育をうけ、よみかきできたと推計〉し、〈補論においては先行研究をふまえて、よりくわしく「男児43%、女児10%」とみつもっている。〉と幕府末期から明治維新当時の日本の教育事情を紹介している。と言うことは、中曽根康弘の「徳川時代には識字率、文盲率は50%くらい」とする日本の教育の進歩性の証明は相当程度当たっていることになる。但し大きな男女格差に触れないのは一種の情報隠蔽、あるいは情報操作に当たる。

 角知行氏はドーアの研究を紹介する一方で、現東北大学教育学部教授八鍬友広(やくわ・ともひろ)氏の明治初期文部省実施の自署率(6歳以上で、自己の姓名を記しうるものの割合)の調査に基づいた学制公布(1872年(明治5年))まもない時期の、分かっている県のみの識字状況を紹介している

 滋賀県:64.1%(1877年・明治10年)
 岡山県:54.4%(1887年・明治20年)
 青森県:19.9%(1884年・明治17年)
 鹿児島県:18.3%(1884年・明治17年)

 そして、〈八鍬は、近世日本では一部の地域では識字がかなり普及していた反面、ごく一部の人だけがよみかきをおこなって大半はそれを必要としない地域もあったことをあげ、地域間格差のおおきさに注意をうながしている。〉と解説を加えている。

 津軽藩のあった青森県は、「第5章 ケガツ(飢饉)と水争い」(水上の礎/(一社)農業農村整備情報総合センター)の情報を要約すると、〈元和5年(1619年)、元禄4年~8年(1691年~1695年)、宝暦3年~7年(1753年~1757年)、天明2年、7年(1782年、1787年)、天保4年、10年(1833年、1839年)と飢饉が襲い、餓死者が数万人単位から10万人も出したという。生死を問わず犬・猫・牛・馬等の家畜類を食べ、親や子どもを殺して食した。時疫(じえき・はやり病)による死者も何万と出て、天明の飢饉時には他国に逃れた者が8万人もあった。〉と出ている。

 この家畜食・人肉食は『近世農民生活史』も触れている。〈農民の生活は、大土地所有者である封建領主およびその家臣らの、全国民の一割ぐらいに相当する人々を支えるために営まれていた。飢饉の年には木の根・草の根を掘り起こし、犬猫牛馬を食い、人の死骸を食い、生きている人を殺して食い、何万何十万という餓死者を出した時でさえも、武士には餓死するものがなかったという」

 最下級の武士は内職を営まなければ生活をしていけなくても、飢饉に際して命に関わる悲惨な境遇に見舞われることのない安住地帯にいた。

 こういったことも時代や社会の矛盾そのものであるが、上記記事に青森県の最後の飢饉が記されている天保10年(1839年)は『シュリーマン旅行記』の1865年(慶応元年)から遡ること27年も前となるが、青森県は寒冷地ゆえに農業ではまともな生活を維持できない宿命を背負わされていたことは戦後の日本の1960年代の高度経済成長期に青森県や他の東北県は集団就職や出稼ぎ労働の一大供給地で、成長を支える側にあったことが証明していて、こういった事実を踏まえると、津軽藩が厳しい寒冷地帯であったことから貧しい生活を余儀なくされていて、一方の鹿児島藩は年貢の取り立てが厳しく、農民は貧しかったということからの明治に入ってからのそれぞれの自署率20%以下と捉えると、滋賀県、岡山県の自署率50、60%以上は貧富の格差が招いた教育の格差という答しか出てこない。

 そしてこの地域ごとの貧富の格差は江戸時代も似たような状況にあったことから類推すると、当然、教育の格差を引きずっていたことは確実に言えることで、例え自署率が滋賀県、岡山県が50%を超えていたとしても、江戸幕府末期の日本の全ての地域で自署率100%という事実は存在しないことになり、シュリーマンの「日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」は美しい思い込みで成り立っているファンタジーに過ぎないことになる。だが、高市早苗のこの非現実的な美しいファンタジーをそのまま事実として受け止め、「日本人の本質」と見抜く事実誤認はやはり自身の精神に根付いている日本国家優越意識に適う情報であることと、いつの時代の国民にも向ける目を持っていないと解釈しなければ、事実誤認との整合性が取れなくなる。

 ここでシュリーマンが日本人の賄賂を拒絶する潔癖性について触れている姿を紹介している一文を参考のために取り上げてみる。 

 「ひと息コラム『巨龍のあくび』」(東洋証券)の「第98回:清国と日本・・・シュリーマンは見た!」

 シュリーマンは日本訪問の前に清国を訪れていた。〈そんな不潔な清国をほうほうの体で脱出して辿り着いた日本をシュリーマンは絶賛している。彼によると日本人は世界で最も清潔な国民であり、それは街の様子や日本人の服装だけではないという。たとえば、賄賂の授受は当時の未開発国では当然の現象であったが日本では違った。シュリーマンが横浜港に到着したとき、彼の荷物を埠頭に運んでくれた船頭は、わずか4天保銭(13スー)しか受け取らなかった。もしも天津のクーリーだったらその4倍は平気で吹っ掛けただろうとシュリーマンは記している。また横浜の税関でトランクを開けろと命じられたシュリーマンは、そのトランクを一旦開けてしまうと閉め直すのに苦労することから、清国と同じように賄賂を渡したところ、税関の侍は自分を指して「ニッポン・ムスコ」と言い、賄賂の受け取りを拒否したという。江戸時代に「ニッポン・ムスコ」という表現が存在したか不詳だが、たぶん「日本男児」という日本語を聞き取れなかったシュリーマンが、あとで誰かに発音を尋ね、その聞きとりのなかで誤解を生んだよう。〉

 「世界で最も清潔な国民」の清潔さは身体的もの等々に関してだけではなく、道徳的にも「世界で最も」潔癖であった。何しろ賄賂を拒絶したのだから。だが、1767年(明和4)に完成した江戸時代の基本法典『公事方御定書』も、1880年(明治13年)制定の旧刑法も、明治41年施行の現刑法も、共に贈収賄を禁止していることは贈収賄が現代にまで続いて延々と密かに、どこかでやり取りされていることを物語っている。要するにシュリーマンは一事を以って万事に当てはめる勘違いを起こしたに過ぎない。モースのように何度かの来日で数年に亘った日本見聞であったとしても、情報の未発達な時代の情報過疎の檻の中での見聞の機会しかなかった。横浜の税関の侍はほかに誰かがいたか、外国人ということでいいところを見せるために賄賂を断った程度のことだった可能性は疑い得ない。何しろ江戸時代はワイロが文化として横行した時代と言われているぐらいである。

 最後に動物学者E・S・モースの明治10年頃から明治15年頃の日本を描いた『日本その日その日』の記述が高市早苗が評価しているとおりに日本人全般に亘って当てはめることができる「日本人の素晴らしさ」の表現となっているのか、祖先が「美しく生き」たことの証明とすることができるのかどうか、「日本人の本質」を突いているのかどうかを見てみる。

 「衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり・・・これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である」

 恵まれた階級の日本人も貧しい日本人も等しく備えている「特質」だとしている以上、この文章から窺うことのできる日本人が全般的に備えている性格は質素で、驕ることのない物静かな謙虚さと寛大さと言うことができる。質素で、謙虚で寛大な性格だからこそ、挙動は礼儀正く、他人の感情に思いやりを持つことができる。

 つまりどのような境遇に置かれていようと、恨み言一つ吐かず、その境遇を心穏やかに受け入れることができていた。でなければ、謙虚とは言えなくなる。明治時代に入ってからも百姓一揆が起きているということは既に触れたが、1873年(明治6)7月から始まった地租改正に対する百姓一揆は全国各地で発生、打毀や焼打ちに発展することもあったという。さらに1880年(明治13年)制定の旧刑法と1908年(明治41年)制定の現行刑法に堕胎罪と幼者、老者、疾病者、身体障害者を遺棄することを禁止していることは現実には行われていることの裏返しだということも既に触れた。

 妊娠した子どもの堕胎、間引きは江戸時代、明治に続いて大正、昭和に入ってからも続けられていたことは「歴史の情報蔵」(三重県の文化)が取り上げている。避妊技術の未発達と恒常的な貧困が動機の慣習化となっていた。農民人口は1900年(明治33年)には総人口の70%近くまで減少することになったが、『日本の農地改革』(大和田啓氣著・日本経済新聞社)に、〈国民の8割は農業に従事し、国庫収入の8割は地租(土地に対して課した租税)であり、農産物の輸出額が総輸出額の8割を占めるというのが明治初年の日本であった。農業が最大の産業であったのである。〉(15P)と出ていて、明治の初期までは江戸時代と変わらない農民人口であったが、〈(地租改正条例発布の明治6年)当時の小作地は3割弱であったと推定されるが、(小作地での取り前は国34%、地主34%、小作人32%と決められていて)政府は小作料を現物納のままとし、地租(土地に対して課した租税)だけを金納としたので、米価が上昇する過程で地主が有利に、小作が不利になった。〉(16P)結果、自作田が減っていって、小作田が増えていき、〈小作田の面積が自作田をこえたのは、明治42年である。大正11年には田では小作地が51.8%、昭和5年には53.8%となった。農地改革(1946年~1950年)直前の状況もこれとそれほど変わらず、昭和20年11月23日現在の小作地が45.9%、自作地が54.1%であった。〉(21~22P)と出ている。

 小作地は地主の所有物で、地租は土地に対して課した税金だから(明治6年の地租改正条例発布の際、地価の3%を地租とする地券を発行)、小作人は国に対しては税金を納める義務はなく、地主に対して収穫物のうち小作人の取り分32%を残して、68%分の田なら米で、畑なら、収穫野菜で物納し、地主は物納された68%のうち自身の取り分34%を残して、残り34%を国の取り分としてカネに変えて、国に対して金納した。勿論、地主は自身の所有する土地屋敷と田畑に対する地価3%の地租を金納しなければならないが、この地租3%は江戸時代の年貢額を減らさない方針で地租率が決定されたそうで、一部の富裕な地主を除いて地主一般にとっては負担が大ききく、だからこそ、中小の地主が自前の田畑を大地主に売って、小作人化し、小作地の割合が増えることになり、そもそもの悪の根源を地租改正に置くことになって、地租改正反対一揆が全国的に発生し、明治政府は1877年(明治10年)に地租率を3%から2.5%に引き下げることになった。但し一番割りを食ったのは小作人だそうで、作物のうち、68%もの収穫物を持っていかれて、残り32%から種籾代・肥料代等々を差し引くと、小作人の取り分は20%を切ったという。要するに自作田の減少とこれと対応した小作田の増加は明治時代を通して農民が全国民の70~80%を占めている以上、明治社会全体と言っていい、江戸時代以上の貧困化への傾斜を示すバロメーターでもあった。農村だけではなく、魚山村でも堕胎、間引きが行われていたことも明治社会全体の貧困を示す証明となる。貧困は人間性への拘りを無頓着にさせる。

 しかしモースの言葉「挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり」が「恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である」としている以上、人間性豊かな日本人の提示であり、貧困ゆえに人間性への拘りに無頓着にならざるを得ずに堕胎や間引きや捨て子や姥捨てや身体障害者の遺棄を行う現実の多くの日本人の姿を消し去っている。

 要するに日本人について触れたE・S・モースの言葉にしても、H・シュリーマンの言葉にしても、シーボルトの言葉にしても、非現実そのもので、何を勘違いしたのか、人間という存在の本質も、時代というものの本質も、社会というものの本質も見ない、ユートピア(理想郷)仕立てにした美しいお伽噺を作り上げたに過ぎない。結果的としていつの時代も多くの矛盾を抱えていて、矛盾のない国家も社会も人間集団も存在しないにも関わらず、その真逆の矛盾というものを消しゴムで消し去ってしまったシミ一つない日本人像・日本像をデッチ上げてしまった。

 尤も訪日外国人が異国情緒も手伝ってか、あるいは生国の社会の矛盾等への反動からか、それぞれが見た日本人をお伽噺の国の住人に仕立てたとしても無理はないと言えるが、高市早苗はそれぞれの訪日外国人が訪れた時代時代の日本の歴史を振り返ることのできる位置に立っている以上、それぞれの歴史が本質として抱え込んでいるそれぞれの矛盾に留意して眺め直す作業を通して、彼らの日本人描写が適正かかどうか判定しなければならないにも関わらず、それぞれの矛盾に向ける目を持たずにそれぞれの訪日外国人が描いた日本人の矛盾一つない姿と日本像をそっくりそのまま受け入れて、「日本人の本質」を突いていると感服し、「美しく生き」た祖先の姿を各描写に見ることになった。

 モースの日本人観察が如何に非現実的か、モース自身の言葉が証明している。「江戸東京博物館開館20周年記念特別展 明治のこころ モースが見た庶民のくらし」

 〈世界中で日本ほど、子供が親切に取扱われ、そして子供の為に深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい。〉(E.S.モース『日本その日その日』二巻(石川欣一訳)より抜粋)

 通算2年5カ月程に過ぎない日本滞在で子どもたちがニコニコしている所を見て、「朝から晩まで幸福であるらしい」と解釈するのはお前の勝手だと言いたくなるが、国全体の子どもがそういう境遇にあり、それが世界一だと断定的に価値づけるには一事が万事なのか、一事が例外的事例なのか、明らかにし、前者であることを証明して初めて日本程子ども天国の国はないと断定すべきだったろう。問題は日本人自身がほんのちょっとの間日本を訪れた外国人の書いたことだと無視するならいいが、それぞれの国がそれぞれに抱えている時代の現実、社会の現実がそれぞれに背負い込むことになっている何らかの矛盾というものの存在は日本という国も抱えているはずだと合理的に判断するのではなく、世界一日本の子どもが親切に取り扱われいると観察された通りの情報と看做して無条件に後世にまで生き永らえさせている。

 日本人自身が国家の矛盾も時代の矛盾も社会の矛盾も、人間が自らの生き様にそれぞれに抱えてしまう矛盾も一切無縁の完璧な存在として作り上げた訪日外国人の日本人像、あるいは日本像を何の疑いもなく積極的に受け入れてしまうのは日本人自身の内面に同じ日本人像、あるいは同じ日本像を抱えていて、両者を響き合わせるからであって、その日本人像は過ちのないパーフェクトな人種として存在させていることになるし、戦前を対象とした内面性として発揮させているなら、大日本帝国という国家を、その運営・人材も含めて常に正しい国家と見ていることになる。その典型的な例が高市早苗であり、安倍晋三ということであろう。日本人は人種的に優れているとしていながら、その実、国家を国民の上に鎮座させ、国民を国家の下に鎮座させた関係に置いて日本国家を優れているとする日本国家優越意識を精神の下地としていなければ、どのような国家体制であったのかを無視したり、国民の人権状況に無頓着であったりはできない。

 高市早苗の先に挙げた「126代も続いてきた世界一の御皇室」とか、「優れた祖先のDNAを受け継ぐ日本人の素晴らしさ」云々にしても、自らの精神に日本国家優越意識を大雨が降ったあとの川の水のように満々と湛えていていなければ、口に出てこない言葉であろう。論理的な判断に基づいて「世界一の御皇室」としているわけでもなく、単に日本国家優越性証明のスローガンとして口にしているに過ぎない。日本人が「優れた祖先のDNAを受け継いている」が真正な事実だとしても、そのことによって国家の矛盾も、時代時代の矛盾も、社会の矛盾も、日本人が人間存在として抱えることになる様々な矛盾も絶対的に無縁とすることができるわけではなく、特に政治の矛盾は今後も、様々な場面で噴き出ることになるだろう。

 高市早苗は皇室が「126代」も続いた理由を万世一系であること、男系であること、いわば血の優秀さに置いているだろうが、このことも高市早苗や安倍晋三だけではなく多くの日本人に日本国家優越意識を育む誘因となっているが、歴代天皇自身が自らの力で126代の地位の全てを紡いできたわけではない。大和朝廷成立近辺からは世俗権力者である豪族たちが自分の娘を天皇の后(きさき)に据えて生まれた子を後に天皇の地位に就け、自身は外祖父として世俗上の実権を握り、天皇を名ばかりとする二重権力構造は豪族たちの権力掌握と権力操作の伝統的な常套手段となっていた。

 例えば蘇我馬子が自分の娘を聖徳太子に嫁がせて山背大兄王(やましろのおおえのおう)を生ませているが、聖徳太子没後約20年の643年に蘇我入鹿の軍が斑鳩宮(いかるがのみや)を襲い、一族の血を受け継いでいる山背大兄王を妻子と共に自害に追い込んでいる例は、外祖父として権力の掌握を目論んだことの失敗例であろう。成功した一例として、蘇我稲目が2人の娘を欽明天皇の后とし、用明・推古・崇峻の3天皇を生んでいる例を挙げることができる。

 藤原道長にしても同じ常套手段を利用した。一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)とし、次の三条天皇には次女の妍子(けんし)を入れて中宮とするが、三条天皇とは深刻な対立を生じると、天皇の眼病を理由に退位に追い込んで、長女彰子の生んだ後一条天皇を9歳で即位させ、自らは後見人として摂政となっている。
1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り、後継体制を固める。後一条天皇には四女の威子(たけこ)を入れて中宮となし、「一家立三后」(いっかりつさんこう)と驚嘆された。そして藤原氏の次に権力を握ることになった平清盛も娘を天皇に嫁がせて、外戚(がいせき・母方の親戚)となって権勢を誇ることになった。

 要するに世俗権力者である豪族たちが自分の娘を天皇の后(きさき)に据えて生まれた子を後に天皇の地位に就け、自身は外祖父か外戚として世俗上の実権を握り、天皇を名ばかりとする二重権力構造は豪族たちの権力掌握と権力操作の常套的手段として忠実に受け継がれていった。時代が下って自分の娘を天皇に嫁がせて、その子を天皇に据える傀儡化――血族の立場から天皇家を支配する方法は廃れ、源頼朝以降、距離を置いた支配が主流となっていったが、天皇の権威を国民統治装置に利用し、天皇の背後で実質的政治権力を好きに握る権力の二重構造は引き続いて源氏から足利、織田、豊臣、徳川、明治に入って薩長・一部公家、そして昭和の軍部に引き継がれて、終戦まで歴史とし、伝統とすることとなった。歴代天皇を歴史的・伝統的に国民統治の優れた装置とするための必要性から生じた、いわば国民向けの勿体づけのための万世一系であり、男系という一大権威であって、世俗権力者にとってのその手の利便性から結果的に126代も延々と続いたということであろう。

 そもそもからして多くの歴史学者が神話上の人物としか見ていない神武天皇を初代天皇として、その即位年から日本建国の年数を数える日本式の紀年法である"皇紀"なる名称は4世紀末頃から5世紀頃の大和朝廷成立当時からあったものではなく、1872年(明治5年)に「太政官布告第342号」を以ってして制定したものであって、政府は1940年(昭和15年)が皇紀2600年に当たるとしてその年に大々的に奉祝行事を行うことになったが、明治に入ってから使い始めたという経緯からすると、皇紀元年を西暦紀元前660年に当てていることから、西洋の歴史よりも長いとする日本の歴史及び大日本帝国と天皇を権威付ける仕掛けであったことがミエミエとなる。

 戦争中は大本営は天皇直属の最高戦争指導機関でありながら、国民に対してだけではなく、天皇に対してもウソの戦況報告をした。軍部は実質的には天皇の下に位置していたのではなく、天皇の上に位置していた。だから、対米戦争反対の天皇の意向を無視して、対米戦争に突入することができた。

 要するに戦前日本に於ける軍部を含めた政治権力者たちは歴史的に伝統的な権力の二重構造に従って天皇を神格化し、その神性によって国民を統一・統制する国民統治装置として利用したが、国策の場では「大日本帝国憲法」で規定した「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とか、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」といった天皇像が実在することを許さず、お飾りとも言える名目的な存在にとどめておく巧みな国家運営を行った。あるいはそのような権力の二重構造によって大日本帝国憲法が見せている天皇の絶大な権限は国民のみにその有効性を発揮させ、国民統治装置として機能させていたが、軍部を含めた政治権力層には通用させず、そのような権限の埒外に常に存在させていた。

 各武家政権時代は歴史的踏襲としてその権威だけが利用され、存在自体は蔑ろにされてきた天皇は江戸幕府末期になって将軍という一方の権威に対抗する他方の権威として薩長・一部公家といった徳川幕府打倒勢力に担ぎ出されることになって、再び歴史の表舞台に躍り出ることになった。この経緯自体も天皇の権威のみが必要とされた事情を飲み込むことができる。その一端を窺うことができる記述がある。『大宅壮一全集第二十三巻』(蒼洋社)に明治維新2年前の慶応2年に死去した明治天皇の父である幕末期の孝明天皇(満35歳没)に関して、「当時公武合体思想を抱いていた孝明天皇を生かしておいたのでは倒幕が実現しないというので、これを毒殺したのは岩倉具視だという説もあるが、これには疑問の余地もあるとしても、数え年16歳の明治天皇をロボットにして新政権を樹立しようとしたことは争えない」と『大宅壮一全集第二十三巻』(蒼洋社)に書いてある。

 大宅壮一は岩倉具視孝明天皇暗殺説を全面否定しているわけではない。岩倉具視以外の誰かが行った可能性を残している。「数え年16歳の明治天皇をロボットにして新政権を樹立しようとしたことは争えない」と言っていることは藤原道長が一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后とし、彰子の生んだ後一条天皇を9歳で即位させて、自らは後見人として摂政となり、好きに政(まつりごと)を行った例を窺わせ、薩長・一部公家が明治天皇の後見人となって自分たちの思い通りの政治を行った可能性は十分に考えられる。そういった中での1872年(明治5年)、明治天皇21歳のときの「太政官布告第342号」による皇紀年号の制定である。薩長・一部公家にとっては天皇の名に於いて政治を行う関係上、若い天皇により大きな権威付けが必要になったといったところなのだろう。熱烈な天皇主義者は現在でも改まった時と場合には皇紀年号を使う。

 こうのように歴代天皇が歴史的・伝統的に置かれてきた実態を眺め渡してみると、天皇の権威なるものは歴史を彩ってきた世俗権力者たち歴代に亘る政治的産物以外の何ものでもなく、高市早苗の「126代も続いてきた世界一の御皇室を戴いてきた」とする最大限の称揚は中が空洞の巨大な竹の骨組みを紙で覆った程度の空疎な内容しか与えない。科学的な合理性はどこにもなく、万世一系だ、男系だと騒ぐのは滑稽ですらある。だが、高市早苗の精神の中では天皇家126代の権威は歴代天皇が自らの政(まつりこと)によって自ら育み、歴史を経て積み重ねられ、重みを持つに至った価値あるものとして根付いていて、彼女の日本国家優越意識をしっかりと支えている。

 頭の中に国家のみを鎮座させ、国民を国家鎮座の下に位置させた、いわば真に国民に向ける目を持っていない日本国家優越主義を内面の奥底で信条とする政治家に、当然の成り行きとして一般国民に寄り添った政治は行うことはできない。安倍晋三のように「国民のため」は方便で、国民よりも国家を優先させて、国家の繁栄だけを目的とすることは間違いない。
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高市早苗と安倍晋三の歴史認識に見る頭の中に国家のみを鎮座させ、国民を国家鎮座の下に位置させた日本国家優越主義

2022-01-31 08:00:40 | 政治

 2021年12月20日付け「毎日新聞」記事(後半有料)が自民党高市早苗の戦前の日本の戦争に関わる歴史認識を、自民党総裁選に名乗りを上げたことによる月刊誌「Hanada」10月号のインタビュー紹介という形で載せている。記事題名は〈「開戦詔書」そのまま受け止め?80年後の自民「保守」派の歴史観〉

 自衛か侵略か、戦争をどう捉えるかは「当時の『国家意志』の問題です」と持論を述べた高市氏、「先の大戦への認識」を問われてこう答えた。

 「当時の日本国民は、天皇陛下の詔書によって国家意志を理解したものだと思われます。先の大戦開戦時の昭和天皇の開戦の詔書は〈米英両国は、帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与え(中略)帝国は今や自存自衛のため、決然起って、一切の障害を破砕するのほかなきなり〉というものでした」

 要するに当時の日本国民は昭和天皇の開戦の詔書によって太平洋戦争を自存自衛の戦争であるとする国家意志を理解し、承認したのだから、侵略戦争という歴史認識は決して存在させていなかったということになる。

 但し一つ問題が生じる。侵略戦争ではないとする歴史認識は当時の日本国民に限ったことで、戦後の国民は必ずしも侵略戦争ではないと見ていないのではないかという疑義である。尤も高市早苗はこの疑義に対して答を用意している。毎日記事自体が高市早苗の2002年8月27日付ブログからその答を紹介している。〈「田原総一朗さんへの反論」(高市早苗ブログ/2002年08月27日)〉内の発言である。  

 〈私は常に『歴史的事象が起きた時点で、政府が何を大義とし、国民がどう理解していたか』で判断することとしており、現代の常識や法律で過去を裁かないようにしている〉(毎日記事紹介文章)

 毎日記事はこの高市早苗と同じ考えの歴史認識に当たる安倍晋三の言葉を2013年の著書『新しい国へ』の中から取り上げている。「当時を生きた国民の目で歴史を見直す」

 著書の実際の文言は、『その時代に生きた国民の目で歴史を見直す』の小見出しで、「その時代に生きた国民の視点で、虚心に歴史を見つめ直してみる。それが自然であり、もっと大切なことではないか」。そしてその根拠を次のように挙げている。

 「昭和17、8年の新聞には『断固戦うべし』という活字が躍っている。列強がアフリカ、アジアの植民地を既得権化する中、マスコミを含め、民意の多くは軍部を支持していたのではないか」

 対米英戦争はマスコミを含めた民意の賛同の上に成り立っていたということなのだろう。実際もそうであったはずだが、果たして正当な歴史認識と言えるだろうか。ただ、高市早苗と安倍晋三は共同歩調を取った歴史認識を構えていることになる。二人は歴史認識に於いてベッドを共にしていると比喩することもできる程に親密な見解となっている。

 記事は高市早苗の、安倍晋三も含めてのことなのだろう、このような歴史認識をどう見るか、戦争責任研究の第一人者である関東学院大教授の林博史氏に尋ねているが、結論は有料箇所に回されていて、無料読者は覗くことはできない。当方はド素人、専門家には敵わないのは分かりきっているが、当方なりに高市早苗と安倍晋三の歴史認識の正当性を解釈してみることにする。

 両者共に国民がその当時、何に賛成し、何に反対したのか、そのことによってのみ、歴史は価値づけられる、あるいは歴史は解釈されるとしている。だが、二人のこの考え方自体が論理矛盾に彩られている。なぜなら、日本が米英に宣戦布告した出来事自体は当時はまだ歴史にはなっていない、国家の政策遂行(=国家行為)に過ぎないからである。何らかの国家のその時々の政策遂行(=国家行為)が歴史の形を取るためには時間の経過、時代の経過が必要条件となる。つまり当時の国民ができたことは開戦、あるいは戦争という国家の政策遂行(=国家行為)に対する賛否――是非の解釈のみである。

 逆に後世の国民ができることは戦前当時の国家状況及び世界状況や社会状況等を起因とした国家の政策遂行(=国家行為)が時間の経過、時代の経過を経て歴史となった時点で時間・時代の経過と共に蓄積することになった知識を背景とした現在の国民の目を通した是非の解釈である。決して国家の政策遂行(=国家行為)に当時のままそのとおりに同調することが歴史解釈ではない。

 その一例が1942年2月19日にルーズベルト大統領が署名した大統領令により日系米国人が「敵性外国人」とされ、約12万人が全米各地で数年間強制収容されることになった国家の政策遂行を1988年8月10日になってレーガン大統領が「1988年市民自由法」に署名、その過ちを認めて謝罪したことに見ることができる。対日戦争当時の米国国家の政策遂行を時間・時代の経過を経た歴史として顧みることになったとき、その間に蓄積することとなった知識を背景としたその当時の時代の目を通して是非を判断した結果の謝罪であろう。と言うことは、米国国家の政策遂行として日系人を敵性外国人として収容した当時は、国家レベルに於いても、そして多くの米国民のレベルに於いても、間違っていたという考えは起きなかった時代性であったことを証明することになる。

 こういったことに対応した戦前当時の日本人の間でも日中戦争も太平洋戦争も、間違っていたとする考えは起きなかった時代の戦争に関わる国民の認識であったと見ることができるが、高市早苗も安倍晋三も、そのような制約を受けていた当時の時代に限った国民の認識をさも歴史認識であるかのように見せかけるペテンを働かせていることになる。そしてペテンをペテンでないと見せかける仕掛けが高市早苗の場合は「現代の常識や法律で過去を裁かない」とする時間と時代を経て形を取ることになる歴史と、同じく時間と時代を経て蓄積することになる知識とその知識の駆使の否定であり、安倍晋三の場合は直接的には言及していないが、当時の国民の考え方を採用することによって現在から過去に遡った歴史的事実に対する眺望、あるいは検証を許さない点、高市早苗の仕掛けと同じ形式のペテンを踏んでいることになる。

 また高市早苗の「現代の常識や法律で過去を裁かない」は戦前の日本国家――大日本帝国を当時の国民が支持していることを根拠に裁くことのできない対象、無謬の存在に祭り上げ、絶対化していることになる。絶対化は高市早苗による大日本帝国擁護に他ならない。安倍晋三が2012年4月28日の自民党主催「主権回復の日」にビデオメッセージを寄せて、「占領時代に占領軍によって行われたこと、日本がどのように改造されたのか、日本人の精神にどのような影響を及ぼしたのか、もう一度検証し、それをきっちりと区切りをつけて、日本は新しスタートを切るべきでした」と主張していることも、占領軍によって改造される前の大日本帝国を擁護する考えに基づいているのであって、その擁護は大日本帝国を無謬の存在とし、絶対化する考えがなければ成り立たない。

 そして戦前国家に対するこのような扱いはそもそもからして大日本帝国国家自体が皇国史観(日本の歴史を万世一系の天皇を中心とする国体の発展・展開ととらえる歴史観「goo辞書」)に基づいて日本の歴史の優越性を抱え込み、このことと相まって日本は神国(大日本は神国なり「国体の本義」)であるとしていた選民思想が日本民族の優越性を培養する素地を成していたのだから、高市・安倍にしても、日本民族優越主義を精神の素地としていることになる。戦前国家の政治決定に無条件に同調することだけでも、大日本帝国国家が抱え込んでいた日本民族優越主義(=大和民族至上主義)の側に寄り添っていることに他ならない。 

 歴史は「その時代に生きた国民の視点」に立つのではなく、あくまでも後世に生きている国民の視点で眺めなければならない。日本の戦争を歴史という文脈で補足可能となるからである。そしてその当時の「国民の視点」にしても、それが正しかったのか、正しくなかったのかが歴史判定の対象となる。当時の視点は正しかった・正しくなかったの両意見があるだろうが、いずれの場合も正しい・正しくないの検証が必要であって、当時の視点にそのままに同調することではない。同調したら、すべての歴史が正しくなってしまう。何のために時間・時代を経たのかも、その間の知識の蓄積も意味を成さなくしてしまう。歴史解釈に関して「現代の常識や法律で過去を裁かない」、「その時代に生きた国民の視点で、虚心に歴史を見つめ直してみる」方法のみに正当性を与えたなら、ナチスのホロコーストも歴史的に正しい行為と評価しなければならなくなる。

 要するに「大日本は神国なり」とする大日本帝国国家を無謬の存在とする絶対化は日本民族優越主義と相互呼応した関係を取る。日本民族優越主義を精神の素地としているからこそ、「大日本は神国なり」とする大日本帝国国家を無謬の存在とし、絶対化することができる。そうすること自体が日本民族優越主義の発動なくして成り立たない。

 だが、高市早苗も安倍晋三も、当時の国民の考え方を絶対とし、その考え方への同調を迫っている。大日本帝国の無謬化・絶対化・擁護には好都合だからなのは論じるまでのないことだが、単なる同調は歴史をどう認識するのか、どう解釈するのか、そういったことへの思考の発動とは全く以って異なる。そもそもからして当時の日本国民がどのような国家的・社会的状況に制約された環境下に置かれていたのか、高市早苗も安倍晋三も、どのような制約も考慮せずに当時の国民の判断・認識に頭から正当な価値づけを施している。当時は表向きは天皇を絶対君主とする、内実は軍部・政府が実権を握る二重権力構造下の思想・言論統制の時代にあり、天皇を含めた国家権力に対するどのような批判も許されなかった。許されたのは天皇と国家に対する無条件の従属のみだった。当然、昭和天皇の開戦の詔書に対して当時の日本国民は誰が表立って批判し得たであろうか。

 つまり戦前の大日本帝国は国家の意思が国民の意思を常に覆っていた。譬えるなら、当時の大日本帝国はお釈迦様であり、国民はその手のひらの中でのみ自由な行動を許されていた孫悟空に過ぎなかった。にも関わらず、高市早苗が「当時の日本国民は、天皇陛下の詔書によって国家意志を理解したものだと思われます」の言葉で示している「当時の日本国民」が、あるいは安倍晋三が「その時代に生きた国民の視点で、虚心に歴史を見つめ直してみる」の言葉で示している「その時代に生きた国民」がどのような思想・言論の統制下に置かれていたのか、そのことによって国家行為に対する国民の主体的判断が可能であったのかどうかの要件として考慮することができないのは高市早苗も安倍晋三も、頭の中では戦前国家を国民という存在の上に常に鎮座させているからだろう。

 もし両者共に国民という存在の上に国家を鎮座させていなかったなら、思想・言論統制の時代下にあった戦前の国民を国家の政策遂行(=国家行為)に対して主体的判断の主語とさせ得るかどうかぐらいの区別をつける頭はあるはずだが、その頭はなく、その当時の実情に反して主体的判断の主語として扱い、戦前の大日本帝国をまともな国家であったと見せかけるペテンをものの見事にやってのけている。大日本帝国を無謬の存在と看做して絶対化し、擁護するためには自分の判断に基づいて意思表示できる国民の存在は必要不可欠な条件となるからだろう。いわば当時の日本国民は自由意志を持って帝国国家の政策に賛成し、支持していたかのように見せかけるペテンを必要とせざるを得なかった。

 歴史認識に関してこういった仕掛けを施すことができるのは高市早苗も安倍晋三も、戦前を振り返るとき、国家のみに目を向け、国民には殆ど目を向けていないからである。結果的に当時の国民が天皇という存在と大日本帝国国家によってどのようなコントロール下に置かれ、主体的存在たり得ていたのか、いなかったのかの視点を欠いた認識を必然的に持つに至った。

 大日本帝国国家の国民を国家の従属物とするような(実際にも従属物としていた)この関係は当然のことだが、日本民族優越主義にしても、国民を国家鎮座の下に置いた形式を採ることになる。いわば国家の優越を主体とし、その下に国民の優越を置いた構造の日本民族優越主義である。まさに戦前の大日本帝国国家と国民はこのような関係にあった。でなければ、日本の歴史を万世一系の天皇を中心とする国体の発展・展開と捉える皇国史観は身の置所を得ることはなかっただろう。

 このような日本民族優越主義は、国民の権利など認めていなかったその実質性に鑑みて、日本国家優越主義と表現した方がより現実に適う。今後、そう表記することにする。

 高市早苗の頭の中に国家というもののみを鎮座させ、国民を国家鎮座の下に置いた思想――高市早苗の日本国家優越主義を反映させた国家観は2021年9月29日投開票の自民党総裁選に向けて自身の思想と政策を纏めた『美しく、強く、成長する国へ。私の「日本経済強靭化計画」』(電子書籍から)にも、当然のことと言えば、当然のことだが、反映されている。

 序章「日本よ、美しく、強く、成長する国であれ」

日本人の素晴らしさ

 「日本人が大切にしてきた価値」とは何なのか、と思われる方も居られるだろう。例えば、ご先祖様に感謝し、食べ物を大切にし、礼節と公益を守り、しっかりと学び、勤勉に働くこと。困っている方が居られたら、皆で助けること。そして、常に「今日よりも良い明日」を目指して力を尽くすこと。

 かつては家庭でも当たり前に教えられてきた価値観が、近年まで称賛された日本の治安の良さや国際競争力の源泉だったのだろうと考えている。

 幕末以降に来日した外国人が書き残された当時の日本の姿からも、日本人の本質が見えてくる。先ず、E・S・モースの『日本その日その日』の記述だ。「衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり・・・これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である」

 次に、H・シュリーマンの『シュリーマン旅行記』の記述だ。「この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕された土地が見られる」「日本人は工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達している」「教育は、ヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。(中略)アジアの他の国では女たちが完全な無知の中に放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」

 そして、シーボルトの『江戸参府紀行』の記述だ。「日本の農民は驚くほどの勤勉さを発揮して、岩の多い土地を豊かな穀物や野菜の畑に作りかえていた。深い溝で分けられている細い畝には、大麦・小麦・菜種や甜菜の仲間、芥菜・鳩豆・エンドウ豆・大根・玉葱などが1フィートほど離れて1列に栽培されている。雑草1本もなく、石1つ見当たらない。(中略)旅行者を驚かす千年の努力と文化の成果である」

 大自然への畏敬の念を抱きながら勤勉に働き、懸命に学び、美しく生き、国家繁栄の礎を築いて下さった多くの祖先の歩みに、感謝の念とともに喜びと誇らしさを感じずにはいられない。現在においても、126代も続いてきた世界一の御皇室を戴き、優れた祖先のDNAを受け継ぐ日本人の素晴らしさは、本質的に変わっていないと感じている。

 高市早苗が「日本人の本質が見えてくる」と感じ、「126代も続いてきた世界一の御皇室を戴き、優れた祖先のDNAを受け継ぐ日本人の素晴らしさは、本質的に変わっていないと感じている」と結論づけた訪日外国人の日本及び日本人を褒めちぎった日本の景色は"矛盾なき国家"、"矛盾なき社会"、"矛盾なき人々"に仕立て上げられ、善なる存在としか映らない。

 最も時代を遡るのはシーボルトの『江戸参府紀行』の1826年(文政9年)であり、次がH・シュリーマンの『シュリーマン旅行記』は江戸幕府終了3年前の1865年(慶応元年)のもので、最後がE・S・モースの『日本その日その日』の1877年(明治10年)6月18日から1883年(明治16年)2月までの5年余のうちの実質滞在の2年5カ月間の見聞録となる。古い時代から新しい時代へと順を追って眺めてみることでその間の日本社会と人々の生活を概観できると思うから、その方法でそれぞれの描写の的確性、日本人なるものに対する洞察力の確かさを見定めてみる。

 シーボルト『江戸参府紀行』の文政9年(1826年)は1603年に徳川家康が江戸に幕府を開設してから224年、明治まで40年余を残す幕末に当たる。江戸時代はほぼ一貫して日本人口のたかだか1割の武士が8割の農民と1割の町人・商人その他を支配して、8割の農民に対して四公六民とか、五公五民とかの年貢を課し、武士が4割、5割の収穫米を取り上げ、農民には6割、5割の収穫米しか分かち与えない過酷な税制を敷いていた。結果、ちょっとした出水や日照りで田畑が損傷を受け、その損傷が長引くと、ときには年貢減免の措置が取られこともあったそうだが、殆どは納める年貢の量は変わらないために高持百姓(本百姓――江戸時代、田畑・屋敷を持ち、年貢・諸役の負担者として検地帳に登録された農民。農耕のための用水権・入会 (いりあい) 権を持った、近世村落の基本階層『goo辞書』)の中でも田畑をたくさん持っている者以外は食うに事欠くことになった。

 そして究極の生活困窮が百姓一揆という形で暴発することになった。「コトバンク」に出ていた数字だが、江戸時代を通して約3200件もの百姓一揆が発生することになる。1603年の江戸開幕から1868年江戸閉幕までの266年間で計算すると、年間12件の百姓一揆となり、日本のどこかで月1の割合で発生、計算上はそれが266年間も続いていたことになり、なおかつ明治時代に入ってからも百姓一揆が起きていることから見て、農民の生活困窮はある種、在り来たりの日常的な光景となっていたことを窺わせる。

 また、こういった村落単位の集団の闘争だけではなく、個人的に食えなくなった百姓が土地を捨て、村を捨てて、江戸や大阪といった大都会に逃げ出す走り百姓が跡を絶たなかったという。江戸では無宿人が溢れ、治安対策から収容所(寛政年間1789~1801の人足寄場が有名)を設けて収容し、今でいう職業訓練を施したそうだが、文政(1818~1830)の次の天保(1830~1844)になって、江戸人別帳(今で言う戸籍)に無記載の者を帰村させる「人返しの法」(帰農令)を出すに至ったが、効果はなかったという。食えなくなって出奔した同じ村に帰されるのだから、本人自身が希望を見い出すことができない幕府の命令と言うことだったのだろう。

 「百姓一揆義民年表」から文政年間の百姓一揆を眺めてみる。文政元年の大和国吉野郡竜門郷15か村は旗本・中坊広風の知行所だったが、出役(代官)の浜島清兵衛が増税を企てたため、西谷村又兵衛ら6百人程が平尾代官所や平尾村大庄屋宅を打ちこわした竜門騒動

 文政4年の松平宗発(むねあきら)の猟官運動で財政が窮乏した宮津藩で沢辺淡右衛門らの主導で年貢先納や万人講とよばれる日銭の賦課が行われたため、これに反対した農民が大挙して宮津城下で打毀しを行った宮津藩文政一揆

 文政5年の三大名間で行われ三方領知替え(さんぽうりょうちがえ)で桑名藩主松平忠堯が武蔵忍藩に移封を命じられたことに伴い、助成講の掛金が返還されないことを危惧した農民が城下に押しかけ、やがて数万人規模の全藩一揆に発展し、庄屋宅の打ちこわしなどが行われた桑名藩文政一揆

 この一揆は領地替えの際、大名がその地での借金を踏み倒していってしまう事例を情報としていた可能性を窺わせる。

 文政8年の特産物の麻の不作や米価高騰で困窮した信濃国松本藩領の四ヶ庄(今の長野県北安曇郡白馬村)の農民が発頭(ほっとう「先に立って物事を企てること」)となり、3万人ほどが庄屋や麻問屋などを打ち壊しながら松本城下に迫ったが、藩に鎮圧された赤蓑騒動

 そして文政11年にシーボルト事件(シーボルトが帰国の際に、国禁の日本地図や葵紋付き衣服などを持ち出そうとして発覚した事件。 シーボルトは翌年国外追放、門人ら多数が処罰された「コトバンク」)が起きている。

 文政12年間に4件もの大きな百姓一揆が発生していた。江戸時代という封建時代に忍従の生活を強いられていた農民が余程のことがない限り百姓一揆にまで持っていくことはなかっただろうという意味からしても、百姓一揆前の生活の困窮の程度が知れる。農民を苦しめたのは年貢上納の過酷な割合だけではなく、江戸中期の儒学者が1729年(享保14年)に著した書物の中で伝えている年貢取り立て行為自体の不合理なまでの過酷さを取り上げてみる。『近世農民生活史』(児玉幸多著・吉川弘文館)が紹介している一文である。

 『経済録』(太宰春台著)

 〈代官が毛見(けみ・検見――役人が行う米の出来栄え(収穫量)の検査と年貢率の査定)にいくと、その所の民は数日間奔走して道路の修理や宿所の掃除をなし、前日より種々の珍膳を整えて到来を待つ。当日には庄屋名主などが人馬や肩輿を牽いて村境まで出迎える。館舎に至ると種々の饗応をし、その上に進物を献上し、歓楽を極める。手代などはもとより召使いに至るまでその身分に応じて金銀を贈る。このためにかかる費用は計り知れないほどである。もし少しでも彼らの心に不満があれば、いろいろの難題を出して民を苦しめ、その上、毛見をする時になって、下熟(不作)を上熟(豊作)といって免(年貢賦課の割合)を高くする。もし饗応を盛んにして、進物を多くし、従者まで賂(まいない)を多くして満足を与えれば、上熟をも下熟といって免を低くする。これによって里民(りみん・さとびと)は万事をさしおいて代官の喜ぶように計る。代官は検見に行くと多くの利益を得、従者まであまたの金銀を取る。これは上(うえ)の物を盗むというものである。毛見のときばかりではない。平日でも民のもとから代官ならびに小吏にまで賄を贈ることおびただしい。それゆえ代官らはみな小禄ではあるが、その富は大名にも等しく、手代などまでわずか二、三人を養うほどの俸給で十余人を養うばかりでなく巨万の富を貯えて、ついには与力や旗本衆の家を買い取って華麗を極めるようになるのである。このように代官が私曲をなし、民が代官に賄賂を贈る状況は、自分が久しく田舎に住んで親しく見聞したことである。これは一に毛見取(けみとり)から起ることで、民の痛み国の害というのはこのことである。定免(一定の年貢率)であれば、毎年の毛見も必要なく、民は決まったとおりに納めるので代官に賄を贈ることもなく使役されることもなく苦しみがない。それ故に、少しは高免であっても定免は民に利益がある。毛見がなければ代官を置く必要もない。代官は口米(くちまい)というものがあって多くの米を上(うえ)より賜る。代官を置かなければ口米を出す必要もなく国家の利益である。今世の田租の法として定免に勝るものはない。〉――

 江戸幕府の基本法典『公事方御定書』は、勿論賄賂を禁止している。

  賄賂差し出し候者御仕置の事
一、公事諸願其外請負事等に付て、賄賂差し出し候もの並に取持いたし候もの 軽追放
  但し賄賂請け候もの其品相返し、申し出るにおいてハ、賄賂差し出し候者並に取持いたし候もの共ニ、村役人ニ侯ハバ役儀取上げ、平百姓ニ候ハバ過料申し付くべき事。

 この『公事方御定書』は8代将軍徳川吉宗が中国法の明律(みんりつ)に素養があり、それを参考に1720年(享保5)に編纂を命じ、1742年(寛保2)に完成している。各藩は中国法の明律を直接参考にするか、徳川吉宗の『公事方御定書』を参考にするかで自藩の刑法典を用意したという。また、賄賂を取る者、差し出す者はいつの時代になってもなくならないという分かりきった事実の点からも、断るまでもないことだが、太宰春台の『経済録』1729年(享保14)からシーボルト『江戸参府紀行』の1826年(文政9年)まで100年近くあるが、『明治初期の告訴権・親告罪』に、〈大政奉還の後、徳川慶喜からの伺に対して明治新政府は1867年(慶応3年)10月22日に新法令が制定されるまでは徳川時代の慣例(幕府天領には幕府法(公事方御定書)各大名領地には各藩法)を適用する(「是迄之通リ可心得候事」)との指令を出した。〉との記述があるから、『公事方御定書』は文政年間も生きていて、取り締まる側の代官自身の年貢取立てに関わる賄賂強要がその当時も百姓を苦しめていたことは想像に難くない。

 ところが、シーボルトの『江戸参府紀行』は「日本の農民は驚くほどの勤勉さを発揮して」云々と日本の農業文化の伝統的で高度な進歩性を称賛するのみで、その光景からは過酷な年貢で生活困窮を強いられている百姓の持つ宿命的側面など一切窺わせない。

 現実の農民の多くは「驚くほどの勤勉さ」の裏で過酷な重税に苦しめられていた。「勤勉さ」は主体的な行動ではなく、年貢納付、あるいは小作料納付というノルマが強制する従属的な行動に過ぎなかった。過酷な年貢徴収、小作料徴収に応じて、どうにか命を繋いでいくための必死な足掻きは実質的には「勤勉さ」とは異なる。

 シーボルトが「旅行者を驚かす千年の努力と文化の成果」と見た、その実態は悲惨と苦渋と百姓という宿命への諦めに満ちた内実で成り立っていて、そこで働く農民の姿や田畑の状景を表面的に眺めただけでは見えてこない。にも関わらず、高市早苗は驚く程に無邪気にシーボルトが描いた農民の姿をそのままそっくりに素直に受け止めて、勤勉と見た黙々とした作業を「日本人の本質」と解釈するに至った。「大自然への畏敬の念を抱きながら勤勉に働き、懸命に学び、美しく生き、国家繁栄の礎を築いて下さった多くの祖先の歩み」をそこに見ることになった。

 このお目出度さはどこから来ているのだろう。いつの時代も多くの矛盾を抱えていて、矛盾のない社会は存在しない。そしてその矛盾の多くは政治権力者によって作り出される。その一方で政治は大本のところで国家の政治機能を通して社会の矛盾の解消に努めることを役目の一つとしている。高市早苗は政治家でありながら、このような矛盾に関わる諸状況を頭に置くことができずに過去の訪日外国人のまっさらな日本及び日本人描写に対してその裏側の日本社会を覗く理解能力を完璧に失っていた。

 国家の優越を主体とし、その下に国民の優越を置いた日本国家優越意識が仕向けてしまう理解の限界と見るほかはない。安倍晋三に取り憑いている自分は優秀で特別な存在だと思い込む自己愛性パーソナリティ障害がそうであるように優越意識なる感性は自身が優越と見る対象に対してはどのような矛盾も欠点も認めまいとする意識が働いてしまうように高市早苗にしても矛盾のない時代も社会も存在しないという簡単な事実さえも見落としてしまって、自身の日本国家優越主義を満足させる情報のみに、その真偽を確かめずにアンテナを向けてしまうから、日本人や日本についていいことが書いてある情報のみを書いてあるままに受け入れて、日本国家の優越性やその二番手に置いた日本人の優越性を再確認したり、再発見したりすることになっているのだろう。

 こういった認識が働くのも、国民がどう存在していたのか、向ける目を持っていないことが災いした見解と言うほかはなく、結果的に日本の歴史を美しい姿に変える歴史修正まで同時並行的に行っていることになる。日本国家優越主義自体が歴史修正の仕掛けを否応もなしに抱え持っている。

 不正な手段で利益を得て、社会の矛盾を作り出している収賄や贈賄は年貢取り立ての代官やその手代たちと百姓の間だけで行われたわけではない。江戸時代の大名たちは江戸城で将軍に謁見するときの席次が同じ石高である場合は将軍の推挙を受けて天皇から与えられる正三位とか従三位といった官位によって決まり、将軍の朝廷への推挙は老中の情報が左右するために大名たちは老中に賄賂を贈ることを習慣としていたという。当然、賄賂の額を競うことになるばかりか、官位による席次の違いがそれぞれの名誉と虚栄心と政治力に影響し、自らの権威ともなっていたのだろうが、賄賂資金の原資は百姓から取り立てた年貢米をカネに替えた一部であり、彼らの汗と苦痛の結晶ではあるものの、年貢を取り立てていることに支配者という立場から何ら痛痒を感じていない点、感じていたなら、虚栄心や名誉心のために賄賂のためのカネに回すことなどできなかったはずだが、支配者としての武士という立場上、こういった矛盾が矛盾として認知されていなかったことの矛盾は恐ろしい。

 幕末を3年後に控えた1865年(慶応元年)の日本訪問の見聞記H・シュリーマンの『シュリーマン旅行記』には「この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕された土地が見られる」の描写がある。前記シーボルト『江戸参府紀行』の1826年(文政9年)から39年経過していて、その経過で政治は社会の矛盾を綺麗サッパリと拭い去ることができて、初めてH・シュリーマンの描写は生きてきて、100%の説得力を持ことができる。ところが、1853年(嘉永6年)にペリーが浦賀に来航以降、尊王攘夷派と開国派、公武合体派が入り乱れて武力衝突を繰り返し、世情不安を招くと、大名や商人が米の買い占めに走って物価高騰を引き寄せ、生活面からも社会不安を引き起こして、年貢の重税と借金に苦しむ小作人に都市貧民が加わり、幕末から明治初期に掛けて「世直し」を唱え、村役人や特権商人、高利貸などを襲撃、建物を打ち壊す世直し一揆が多発することになった。

 「Wikipedia」には『シュリーマン旅行記』見聞と同年の〈慶応2年5月1日(旧暦)(1865年)に西宮で主婦達が起こした米穀商への抗議行動をきっかけに起きた(世直し)一揆はたちまち伊丹・兵庫などに飛び火し、13日には大坂市内でも打ちこわしが発生した。打ちこわしは3日間にわたって続き米穀商や鴻池家のような有力商人の店が襲撃された。その後、一揆は和泉・奈良方面にも広がり「大坂十里四方は一揆おからさる(起こらざる)所なし」(『幕末珎事集』)と評された。〉と出ている。

 同じ慶応2年には武蔵国秩父郡で武州世直し一揆が起きているし、1749年(寛延2)の陸奥国信夫(しのぶ)・伊達両郡(福島市周辺)に跨り起こった大百姓一揆が慶応2年に信達(しんだつ)世直し騒動と名を変えて再発している。この再発は百姓の困窮の恒常性を物語る一例となる。だが、シュリーマンは情報未発達時代の情報収集の限界なのだろうが、武士以外の国民の困窮や不平不満の気配、これらに起因した騒動を舞台裏に置くこともなく、「この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序」をその目に入れていた。 

 だが、高市早苗は情報発達時代の今日に政治家として呼吸していながら、それぞれの時代の内実を眺望することなく、訪日外国人たちの時代の矛盾や社会の矛盾と乖離した底の浅い日本見聞の夢物語を日本国家優越主義には好都合な情報だからだろう、オレオレ詐欺に引っかかるよりもたやすく騙されてしまっている。

 百姓の困窮は生活そのものの困窮であって、生まれてくる子供にまで影響する。食い扶持が増えると、家族全体の生活が逼迫されることになる。「Wikipedia」に、〈堕胎と「間引き」即ち「子殺し」が最も盛んだったのは江戸時代である。関東地方と東北地方では農民階級の貧困が原因で「間引き」が特に盛んに行われ、都市では工商階級の風俗退廃による不義密通の横行が主な原因で行われた。また小禄の武士階級でも行われた。〉とある。

 間引きは産んでから殺す、堕胎は生まれる前に堕胎薬や冷たい水に腰まで浸かり身体を冷やしたり、腹に圧迫を加えたりして死産を導くことを言う。間引きの多発に幕府は1865年(慶応元年)の『シュリーマン旅行記』から遡ること約100年前の1767年(明和4年)に〈百姓共大勢子共有之候得は、出生之子を産所にて直に殺候国柄も有之段相聞、不仁之至に候、以来右体の儀無之様。村役人は勿論、百姓共も相互に心を附可申候、常陸、下総辺にては、別て右の取沙汰有之由、若外より相顕におゐては、可為曲事者也〉(百姓ども、大勢の子どもこれありそうろうえば、出生の子を産所にてじかに殺しそうろう国柄もこれあり段、相聞く、道に背く(不仁)の極みである。以来、このようなことがないよう、村役人は勿論、百姓共の相互に気をつけるよう申しべくそうろう。常陸、下総辺りではわけて右のような子殺しがあるよし、もしほかよりお互いに明らかになった場合はけしからぬことをなす者である。)と、間引き禁令を出すことになり、各藩もこれに倣うが、生活の困窮を手つかずのままにして禁令だけを出しただけではなくなるはずはない。『近世農民生活史』(児玉幸多著・吉川弘文館))の記述を見てみる。

 「美作の久世と備中の笠岡および武蔵久喜の代官であった早川八郎左衛門正紀(まさとし)」が「美作・備中の任地に赴いた時に、いたるところの河端や堰溝に古茣蓙(ござ)の苞(つと)があるのを怪しんで調べてみると、いずれも圧殺した嬰児を包んだもので、男子には扇子、女子には杓子を付けてあって、その惨状に目を覆ったということである」

 早川八郎左衛門正紀が代官として美作国に赴いたのは推定で2万人の死者を出した天明の大飢饉のさなかの1787年(天明7年)のことで、幕府が間引き禁令を1767年(明和4年)に出し、各藩が倣ってから20年経過しているが、飢饉が原因しているものの、このような有様であった。堕胎と間引きを免れた子どもであっても、長男以外の男の子なら、10歳前後まで育てて口減らしのために商家の丁稚奉公か職人の見習い小僧などに出して、親が支度金とか前渡金の名目でそれ相応のカネにするか、女の子なら6、7歳の頃まで育てててから同じく口減らしのために女衒を通して女郎屋に禿(かぶろ・遊女見習い)として売って、10両前後の、百姓にしたら大金となるカネを手にするかしたりしている。後者の場合、親が売って得たカネは女衒の手数料を上乗せして借金として背負うことになり、遊女になるまでの経費をプラスして稼いで支払うことになる。要するに子どもを10歳近くまで育てる余裕のない親が子どもを堕胎したり間引いたりした。生活の困窮が全ての原因だった。

 『シュリーマン旅行記』の慶応年間を跨いで明治時代まで口減らしの堕胎は続いていたことは1880年(明治13年)制定の旧刑法と1908年(明治41年)施行の現行刑法に堕胎罪が設けられていることと、貧困が続く限り、法律が制定されてピタッと止むものではないことが証明することになる。但し両刑法に「間引き」なる文字は出てこないが、殺人罪でひと括りしていたとしたら、闇で行う者が存在していた可能性はあるが、「第336条」は「八歳ニ滿サル幼者ヲ遺棄シタル者ハ一月以上一年以下ノ重禁錮ニ處ス 2 自ラ生活スルコト能ハサル老者疾病者ヲ遺棄シタル者亦同シ」とあるから、間引きや堕胎以外に同じく江戸時代に行われていた捨て子や姥捨てが引き続いて行われていたことになって、否応もなしに生活困窮の光景が浮かんでくる。

 2011年の「asahi.com」の記事だが、20年程前から開発業者などが持ち込む江戸時代の人骨を研究用に受け入れてきた国立科学博物館が分析したところ、日本の全ての時代の中で最も小柄な上に特に鉄分が不足していて、総体的に栄養状態が悪く、伝染病がたびたび流行したことも一因だということだが、栄養状態が悪いからこそ、伝染病に罹りやすいのだろう、死亡率が低いはずの若い世代の骨が多かったという。つまり若死にを強いられていた。農民が過酷な年貢取り立てに応じるために満足に食事をせずに激しい労働を日常的に余儀なくされていただけではなく、町の住人も多くが貧しい生活を余儀なくされていた。

 政治の矛盾が社会の矛盾となって跳ね返る。H・シュリーマンの「平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序」は異国の地に於ける情報の未発達に守られた旅先での感傷に過ぎないだろう。多分、自分の生まれた国と社会が余りにも矛盾に満ちているから、矛盾のない国と社会に憧れる余り、少ない表面的な様子を見ただけで、ユートピアを見てしまったのかもしれない。あるいはその他の訪日外国人も含めて矛盾のない如何なる時代も、如何なる社会も存在しないというごくごく当たり前の常識を未だ情報とするに至っていない時代に棲息することになっていた知識の限界を受けてのことなのかもしれない。しかし何度でも言わなければならないことは高市早苗はこのような当たり前のことを常識としていなければならない現在の情報化社会に生息しているはずで、政治家なのだからなおさらのことだが、各時代の日本人の実際の姿とは異なる訪日外国人が描いた日本人の姿を「日本人の本質」と見て、「美しく生き」てきたと価値づけ、日本人の歴史を通した恒常的な姿だと結論、それを以って「日本人の素晴らしさ」だと、日本人という民族全体の評価にまで高めている。当然、この評価は支配権力が政治を行い、社会を成り立たせていく過程でどうしようもなく生み出してしまう各方面に亘る様々な矛盾というものを眼中に置いていない見識と言うことになって、日本国家優越主義なくして成り立たない思考停止であろう。国家なる存在だけを見ていて、国家を構成する実際の国民、その姿は見ていない。

 H・シュリーマンは当時の日本の教育について、「アジアの他の国では女たちが完全な無知の中に放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」と称賛しきっているが、確かに江戸時代の民衆の識字率は高かったと言われている。だが、教育の機会は教育を受ける権利の保障が一定程度整っている(それでもまだ様々な矛盾を抱えている)現代と違って江戸時代の教育を受ける機会は武士も町人も農民も各家庭の経済力任せであったから、産まれてくる子に対して捨て子や間引き、堕胎を迫られる貧しい農民や貧しい都市住民、あるいは走り百姓となって故郷の村を捨てる農民たちや、収穫米の中から本百姓に小作料を物納すると殆ど残らず、あとは粟、稗などの雑穀で命をつないでくといった貧農にとって縁のないもので、貧富の影響をまともに受けることになる。こういった限定条件下での「読み書き」が実態であったはずだから、「日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」は過大も過大、買いかぶりの過大評価であろう。

 勿論、このように言うからには証明が必要になる。「日本の就学率は世界一だったのか」(角知行)が先ず1986年9月22日の静岡県で開催の自民党全国研修会での当時首相であった中曽根康弘の発言を紹介してる。人種差別発言だと非難を浴びることになって、当時評判となった発言である。

 中曽根康弘「日本はこれだけ高学歴社会になって相当インテリジェント(知的)なソサエティーになってきておる。アメリカなんかよりはるかにそうだ。平均点からみたら、アメリカには黒人とか、プエルトリコとか、そういうのが相当おって、平均的にみたら非常にまだ低い。(中略)

 徳川時代になると商業資本が伸びてきて、ブルジョアジーが発生した。極めて濃密な独特の文化を日本はもってきておる。驚くべきことに徳川時代には識字率、文盲率は50%くらい。世界でも奇跡的なぐらいに日本は教育が進んでおって、字を知っておる国民だ。そのころヨーロッパの国々はせいぜい20―30%。アメリカでは今では字をしらないのが随分いる。ところが日本の徳川時代には寺子屋というものがあって、坊さんが全部、字を教えた」

 「坊さんが全部、字を教えた」は恐れ入る。寺子屋師匠は僧侶だけではなく、武士、浪人、医者などが担っていたと言われている。寺子は入門料である「束脩(そくしゅう)」と授業料である「謝儀」を納めていたから、特に浪人にとっては生計を成り立たせていく大きな糧となったに違いない。

 中曽根康弘は当時日本国総理大臣だったが、識字率・文盲率が必ずしも人間性判断の基準とはならないという常識は弁えていなかったらしい。弁えていたなら、識字率だけで人種の優劣のモノサシとするような発言はしなかったろう。

 角知行氏はイギリスの社会学者のロナルド・フィリップ・ドーア(1925年2月1日~2018年11月13日)が著した『江戸時代の教育』を用いて、〈明治維新当時、「男児の40%強、女児の10%」が家庭外であらたまった教育をうけ、よみかきできたと推計〉し、〈補論においては先行研究をふまえて、よりくわしく「男児43%、女児10%」とみつもっている。〉と幕府末期から明治維新当時の日本の教育事情を紹介している。と言うことは、中曽根康弘の「徳川時代には識字率、文盲率は50%くらい」とする日本の教育の進歩性の証明は相当程度当たっていることになる。但し大きな男女格差に触れないのは一種の情報隠蔽、あるいは情報操作に当たる。

 角知行氏はドーアの研究を紹介する一方で、現東北大学教育学部教授八鍬友広(やくわ・ともひろ)氏の明治初期文部省実施の自署率(6歳以上で、自己の姓名を記しうるものの割合)の調査に基づいた学制公布(1872年(明治5年))まもない時期の、分かっている県のみの識字状況を紹介している

 滋賀県:64.1%(1877年・明治10年)
 岡山県:54.4%(1887年・明治20年)
 青森県:19.9%(1884年・明治17年)
 鹿児島県:18.3%(1884年・明治17年)

 そして、〈八鍬は、近世日本では一部の地域では識字がかなり普及していた反面、ごく一部の人だけがよみかきをおこなって大半はそれを必要としない地域もあったことをあげ、地域間格差のおおきさに注意をうながしている。〉と解説を加えている。

 津軽藩のあった青森県は、「第5章 ケガツ(飢饉)と水争い」(水上の礎/(一社)農業農村整備情報総合センター)の情報を要約すると、〈元和5年(1619年)、元禄4年~8年(1691年~1695年)、宝暦3年~7年(1753年~1757年)、天明2年、7年(1782年、1787年)、天保4年、10年(1833年、1839年)と飢饉が襲い、餓死者が数万人単位から10万人も出したという。生死を問わず犬・猫・牛・馬等の家畜類を食べ、親や子どもを殺して食した。時疫(じえき・はやり病)による死者も何万と出て、天明の飢饉時には他国に逃れた者が8万人もあった。〉と出ている。

 この家畜食・人肉食は『近世農民生活史』も触れている。〈農民の生活は、大土地所有者である封建領主およびその家臣らの、全国民の一割ぐらいに相当する人々を支えるために営まれていた。飢饉の年には木の根・草の根を掘り起こし、犬猫牛馬を食い、人の死骸を食い、生きている人を殺して食い、何万何十万という餓死者を出した時でさえも、武士には餓死するものがなかったという」

 最下級の武士は内職を営まなければ生活をしていけなくても、飢饉に際して命に関わる悲惨な境遇に見舞われることのない安住地帯にいた。

 こういったことも時代や社会の矛盾そのものであるが、上記記事に青森県の最後の飢饉が記されている天保10年(1839年)は『シュリーマン旅行記』の1865年(慶応元年)から遡ること27年も前となるが、青森県は寒冷地ゆえに農業ではまともな生活を維持できない宿命を背負わされていたことは戦後の日本の1960年代の高度経済成長期に青森県や他の東北県は集団就職や出稼ぎ労働の一大供給地で、成長を支える側にあったことが証明していて、こういった事実を踏まえると、津軽藩が厳しい寒冷地帯であったことから貧しい生活を余儀なくされていて、一方の鹿児島藩は年貢の取り立てが厳しく、農民は貧しかったということからの明治に入ってからのそれぞれの自署率20%以下と捉えると、滋賀県、岡山県の自署率50、60%以上は貧富の格差が招いた教育の格差という答しか出てこない。

 そしてこの地域ごとの貧富の格差は江戸時代も似たような状況にあったことから類推すると、当然、教育の格差を引きずっていたことは確実に言えることで、例え自署率が滋賀県、岡山県が50%を超えていたとしても、江戸幕府末期の日本の全ての地域で自署率100%という事実は存在しないことになり、シュリーマンの「日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」は美しい思い込みで成り立っているファンタジーに過ぎないことになる。だが、高市早苗のこの非現実的な美しいファンタジーをそのまま事実として受け止め、「日本人の本質」と見抜く事実誤認はやはり自身の精神に根付いている日本国家優越意識に適う情報であることと、いつの時代の国民にも向ける目を持っていないと解釈しなければ、事実誤認との整合性が取れなくなる。

 ここでシュリーマンが日本人の賄賂を拒絶する潔癖性について触れている姿を紹介している一文を参考のために取り上げてみる。 

 「ひと息コラム『巨龍のあくび』」(東洋証券)の「第98回:清国と日本・・・シュリーマンは見た!」

 シュリーマンは日本訪問の前に清国を訪れていた。〈そんな不潔な清国をほうほうの体で脱出して辿り着いた日本をシュリーマンは絶賛している。彼によると日本人は世界で最も清潔な国民であり、それは街の様子や日本人の服装だけではないという。たとえば、賄賂の授受は当時の未開発国では当然の現象であったが日本では違った。シュリーマンが横浜港に到着したとき、彼の荷物を埠頭に運んでくれた船頭は、わずか4天保銭(13スー)しか受け取らなかった。もしも天津のクーリーだったらその4倍は平気で吹っ掛けただろうとシュリーマンは記している。また横浜の税関でトランクを開けろと命じられたシュリーマンは、そのトランクを一旦開けてしまうと閉め直すのに苦労することから、清国と同じように賄賂を渡したところ、税関の侍は自分を指して「ニッポン・ムスコ」と言い、賄賂の受け取りを拒否したという。江戸時代に「ニッポン・ムスコ」という表現が存在したか不詳だが、たぶん「日本男児」という日本語を聞き取れなかったシュリーマンが、あとで誰かに発音を尋ね、その聞きとりのなかで誤解を生んだよう。〉

 「世界で最も清潔な国民」の清潔さは身体的もの等々に関してだけではなく、道徳的にも「世界で最も」潔癖であった。何しろ賄賂を拒絶したのだから。だが、1767年(明和4)に完成した江戸時代の基本法典『公事方御定書』も、1880年(明治13年)制定の旧刑法も、明治41年施行の現刑法も、共に贈収賄を禁止していることは贈収賄が現代にまで続いて延々と密かに、どこかでやり取りされていることを物語っている。要するにシュリーマンは一事を以って万事に当てはめる勘違いを起こしたに過ぎない。モースのように何度かの来日で数年に亘った日本見聞であったとしても、情報の未発達な時代の情報過疎の檻の中での見聞の機会しかなかった。横浜の税関の侍はほかに誰かがいたか、外国人ということでいいところを見せるために賄賂を断った程度のことだった可能性は疑い得ない。何しろ江戸時代はワイロが文化として横行した時代と言われているぐらいである。

 最後に動物学者E・S・モースの明治10年頃から明治15年頃の日本を描いた『日本その日その日』の記述が高市早苗が評価しているとおりに日本人全般に亘って当てはめることができる「日本人の素晴らしさ」の表現となっているのか、祖先が「美しく生き」たことの証明とすることができるのかどうか、「日本人の本質」を突いているのかどうかを見てみる。

 「衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり・・・これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である」

 恵まれた階級の日本人も貧しい日本人も等しく備えている「特質」だとしている以上、この文章から窺うことのできる日本人が全般的に備えている性格は質素で、驕ることのない物静かな謙虚さと寛大さと言うことができる。質素で、謙虚で寛大な性格だからこそ、挙動は礼儀正く、他人の感情に思いやりを持つことができる。

 つまりどのような境遇に置かれていようと、恨み言一つ吐かず、その境遇を心穏やかに受け入れることができていた。でなければ、謙虚とは言えなくなる。明治時代に入ってからも百姓一揆が起きているということは既に触れたが、1873年(明治6)7月から始まった地租改正に対する百姓一揆は全国各地で発生、打毀や焼打ちに発展することもあったという。さらに1880年(明治13年)制定の旧刑法と1908年(明治41年)制定の現行刑法に堕胎罪と幼者、老者、疾病者、身体障害者を遺棄することを禁止していることは現実には行われていることの裏返しだということも既に触れた。

 妊娠した子どもの堕胎、間引きは江戸時代、明治に続いて大正、昭和に入ってからも続けられていたことは「歴史の情報蔵」(三重県の文化)が取り上げている。避妊技術の未発達と恒常的な貧困が動機の慣習化となっていた。農民人口は1900年(明治33年)には総人口の70%近くまで減少することになったが、『日本の農地改革』(大和田啓氣著・日本経済新聞社)に、〈国民の8割は農業に従事し、国庫収入の8割は地租(土地に対して課した租税)であり、農産物の輸出額が総輸出額の8割を占めるというのが明治初年の日本であった。農業が最大の産業であったのである。〉(15P)と出ていて、明治の初期までは江戸時代と変わらない農民人口であったが、〈(地租改正条例発布の明治6年)当時の小作地は3割弱であったと推定されるが、(小作地での取り前は国34%、地主34%、小作人32%と決められていて)政府は小作料を現物納のままとし、地租(土地に対して課した租税)だけを金納としたので、米価が上昇する過程で地主が有利に、小作が不利になった。〉(16P)結果、自作田が減っていって、小作田が増えていき、〈小作田の面積が自作田をこえたのは、明治42年である。大正11年には田では小作地が51.8%、昭和5年には53.8%となった。農地改革(1946年~1950年)直前の状況もこれとそれほど変わらず、昭和20年11月23日現在の小作地が45.9%、自作地が54.1%であった。〉(21~22P)と出ている。

 小作地は地主の所有物で、地租は土地に対して課した税金だから(明治6年の地租改正条例発布の際、地価の3%を地租とする地券を発行)、小作人は国に対しては税金を納める義務はなく、地主に対して収穫物のうち小作人の取り分32%を残して、68%分の田なら米で、畑なら、収穫野菜で物納し、地主は物納された68%のうち自身の取り分34%を残して、残り34%を国の取り分としてカネに変えて、国に対して金納した。勿論、地主は自身の所有する土地屋敷と田畑に対する地価3%の地租を金納しなければならないが、この地租3%は江戸時代の年貢額を減らさない方針で地租率が決定されたそうで、一部の富裕な地主を除いて地主一般にとっては負担が大ききく、だからこそ、中小の地主が自前の田畑を大地主に売って、小作人化し、小作地の割合が増えることになり、そもそもの悪の根源を地租改正に置くことになって、地租改正反対一揆が全国的に発生し、明治政府は1877年(明治10年)に地租率を3%から2.5%に引き下げることになった。但し一番割りを食ったのは小作人だそうで、作物のうち、68%もの収穫物を持っていかれて、残り32%から種籾代・肥料代等々を差し引くと、小作人の取り分は20%を切ったという。要するに自作田の減少とこれと対応した小作田の増加は明治時代を通して農民が全国民の70~80%を占めている以上、明治社会全体と言っていい、江戸時代以上の貧困化への傾斜を示すバロメーターでもあった。農村だけではなく、魚山村でも堕胎、間引きが行われていたことも明治社会全体の貧困を示す証明となる。貧困は人間性への拘りを無頓着にさせる。

 しかしモースの言葉「挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり」が「恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である」としている以上、人間性豊かな日本人の提示であり、貧困ゆえに人間性への拘りに無頓着にならざるを得ずに堕胎や間引きや捨て子や姥捨てや身体障害者の遺棄を行う現実の多くの日本人の姿を消し去っている。

 要するに日本人について触れたE・S・モースの言葉にしても、H・シュリーマンの言葉にしても、シーボルトの言葉にしても、非現実そのもので、何を勘違いしたのか、人間という存在の本質も、時代というものの本質も、社会というものの本質も見ない、ユートピア(理想郷)仕立てにした美しいお伽噺を作り上げたに過ぎない。結果的としていつの時代も多くの矛盾を抱えていて、矛盾のない国家も社会も人間集団も存在しないにも関わらず、その真逆の矛盾というものを消しゴムで消し去ってしまったシミ一つない日本人像・日本像をデッチ上げてしまった。

 尤も訪日外国人が異国情緒も手伝ってか、あるいは生国の社会の矛盾等への反動からか、それぞれが見た日本人をお伽噺の国の住人に仕立てたとしても無理はないと言えるが、高市早苗はそれぞれの訪日外国人が訪れた時代時代の日本の歴史を振り返ることのできる位置に立っている以上、それぞれの歴史が本質として抱え込んでいるそれぞれの矛盾に留意して眺め直す作業を通して、彼らの日本人描写が適正かかどうか判定しなければならないにも関わらず、それぞれの矛盾に向ける目を持たずにそれぞれの訪日外国人が描いた日本人の矛盾一つない姿と日本像をそっくりそのまま受け入れて、「日本人の本質」を突いていると感服し、「美しく生き」た祖先の姿を各描写に見ることになった。

 モースの日本人観察が如何に非現実的か、モース自身の言葉が証明している。「江戸東京博物館開館20周年記念特別展 明治のこころ モースが見た庶民のくらし」

 〈世界中で日本ほど、子供が親切に取扱われ、そして子供の為に深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい。〉(E.S.モース『日本その日その日』二巻(石川欣一訳)より抜粋)

 通算2年5カ月程に過ぎない日本滞在で子どもたちがニコニコしている所を見て、「朝から晩まで幸福であるらしい」と解釈するのはお前の勝手だと言いたくなるが、国全体の子どもがそういう境遇にあり、それが世界一だと断定的に価値づけるには一事が万事なのか、一事が例外的事例なのか、明らかにし、前者であることを証明して初めて日本程子ども天国の国はないと断定すべきだったろう。問題は日本人自身がほんのちょっとの間日本を訪れた外国人の書いたことだと無視するならいいが、それぞれの国がそれぞれに抱えている時代の現実、社会の現実がそれぞれに背負い込むことになっている何らかの矛盾というものの存在は日本という国も抱えているはずだと合理的に判断するのではなく、世界一日本の子どもが親切に取り扱われいると観察された通りの情報と看做して無条件に後世にまで生き永らえさせている。

 日本人自身が国家の矛盾も時代の矛盾も社会の矛盾も、人間が自らの生き様にそれぞれに抱えてしまう矛盾も一切無縁の完璧な存在として作り上げた訪日外国人の日本人像、あるいは日本像を何の疑いもなく積極的に受け入れてしまうのは日本人自身の内面に同じ日本人像、あるいは同じ日本像を抱えていて、両者を響き合わせるからであって、その日本人像は過ちのないパーフェクトな人種として存在させていることになるし、戦前を対象とした内面性として発揮させているなら、大日本帝国という国家を、その運営・人材も含めて常に正しい国家と見ていることになる。その典型的な例が高市早苗であり、安倍晋三ということであろう。日本人は人種的に優れているとしていながら、その実、国家を国民の上に鎮座させ、国民を国家の下に鎮座させた関係に置いて日本国家を優れているとする日本国家優越意識を精神の下地としていなければ、どのような国家体制であったのかを無視したり、国民の人権状況に無頓着であったりはできない。

 高市早苗の先に挙げた「126代も続いてきた世界一の御皇室」とか、「優れた祖先のDNAを受け継ぐ日本人の素晴らしさ」云々にしても、自らの精神に日本国家優越意識を大雨が降ったあとの川の水のように満々と湛えていていなければ、口に出てこない言葉であろう。論理的な判断に基づいて「世界一の御皇室」としているわけでもなく、単に日本国家優越性証明のスローガンとして口にしているに過ぎない。日本人が「優れた祖先のDNAを受け継いている」が真正な事実だとしても、そのことによって国家の矛盾も、時代時代の矛盾も、社会の矛盾も、日本人が人間存在として抱えることになる様々な矛盾も絶対的に無縁とすることができるわけではなく、特に政治の矛盾は今後も、様々な場面で噴き出ることになるだろう。

 高市早苗は皇室が「126代」も続いた理由を万世一系であること、男系であること、いわば血の優秀さに置いているだろうが、このことも高市早苗や安倍晋三だけではなく多くの日本人に日本国家優越意識を育む誘因となっているが、歴代天皇自身が自らの力で126代の地位の全てを紡いできたわけではない。大和朝廷成立近辺からは世俗権力者である豪族たちが自分の娘を天皇の后(きさき)に据えて生まれた子を後に天皇の地位に就け、自身は外祖父として世俗上の実権を握り、天皇を名ばかりとする二重権力構造は豪族たちの権力掌握と権力操作の伝統的な常套手段となっていた。

 例えば蘇我馬子が自分の娘を聖徳太子に嫁がせて山背大兄王(やましろのおおえのおう)を生ませているが、聖徳太子没後約20年の643年に蘇我入鹿の軍が斑鳩宮(いかるがのみや)を襲い、一族の血を受け継いでいる山背大兄王を妻子と共に自害に追い込んでいる例は、外祖父として権力の掌握を目論んだことの失敗例であろう。成功した一例として、蘇我稲目が2人の娘を欽明天皇の后とし、用明・推古・崇峻の3天皇を生んでいる例を挙げることができる。

 藤原道長にしても同じ常套手段を利用した。一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)とし、次の三条天皇には次女の妍子(けんし)を入れて中宮とするが、三条天皇とは深刻な対立を生じると、天皇の眼病を理由に退位に追い込んで、長女彰子の生んだ後一条天皇を9歳で即位させ、自らは後見人として摂政となっている。
1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り、後継体制を固める。後一条天皇には四女の威子(たけこ)を入れて中宮となし、「一家立三后」(いっかりつさんこう)と驚嘆された。そして藤原氏の次に権力を握ることになった平清盛も娘を天皇に嫁がせて、外戚(がいせき・母方の親戚)となって権勢を誇ることになった。

 要するに世俗権力者である豪族たちが自分の娘を天皇の后(きさき)に据えて生まれた子を後に天皇の地位に就け、自身は外祖父か外戚として世俗上の実権を握り、天皇を名ばかりとする二重権力構造は豪族たちの権力掌握と権力操作の常套的手段として忠実に受け継がれていった。時代が下って自分の娘を天皇に嫁がせて、その子を天皇に据える傀儡化――血族の立場から天皇家を支配する方法は廃れ、源頼朝以降、距離を置いた支配が主流となっていったが、天皇の権威を国民統治装置に利用し、天皇の背後で実質的政治権力を好きに握る権力の二重構造は引き続いて源氏から足利、織田、豊臣、徳川、明治に入って薩長・一部公家、そして昭和の軍部に引き継がれて、終戦まで歴史とし、伝統とすることとなった。歴代天皇を歴史的・伝統的に国民統治の優れた装置とするための必要性から生じた、いわば国民向けの勿体づけのための万世一系であり、男系という一大権威であって、世俗権力者にとってのその手の利便性から結果的に126代も延々と続いたということであろう。

 そもそもからして多くの歴史学者が神話上の人物としか見ていない神武天皇を初代天皇として、その即位年から日本建国の年数を数える日本式の紀年法である"皇紀"なる名称は4世紀末頃から5世紀頃の大和朝廷成立当時からあったものではなく、1872年(明治5年)に「太政官布告第342号」を以ってして制定したものであって、政府は1940年(昭和15年)が皇紀2600年に当たるとしてその年に大々的に奉祝行事を行うことになったが、明治に入ってから使い始めたという経緯からすると、皇紀元年を西暦紀元前660年に当てていることから、西洋の歴史よりも長いとする日本の歴史及び大日本帝国と天皇を権威付ける仕掛けであったことがミエミエとなる。

 戦争中は大本営は天皇直属の最高戦争指導機関でありながら、国民に対してだけではなく、天皇に対してもウソの戦況報告をした。軍部は実質的には天皇の下に位置していたのではなく、天皇の上に位置していた。だから、対米戦争反対の天皇の意向を無視して、対米戦争に突入することができた。

 要するに戦前日本に於ける軍部を含めた政治権力者たちは歴史的に伝統的な権力の二重構造に従って天皇を神格化し、その神性によって国民を統一・統制する国民統治装置として利用したが、国策の場では「大日本帝国憲法」で規定した「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とか、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」といった天皇像が実在することを許さず、お飾りとも言える名目的な存在にとどめておく巧みな国家運営を行った。あるいはそのような権力の二重構造によって大日本帝国憲法が見せている天皇の絶大な権限は国民のみにその有効性を発揮させ、国民統治装置として機能させていたが、軍部を含めた政治権力層には通用させず、そのような権限の埒外に常に存在させていた。

 各武家政権時代は歴史的踏襲としてその権威だけが利用され、存在自体は蔑ろにされてきた天皇は江戸幕府末期になって将軍という一方の権威に対抗する他方の権威として薩長・一部公家といった徳川幕府打倒勢力に担ぎ出されることになって、再び歴史の表舞台に躍り出ることになった。この経緯自体も天皇の権威のみが必要とされた事情を飲み込むことができる。その一端を窺うことができる記述がある。『大宅壮一全集第二十三巻』(蒼洋社)に明治維新2年前の慶応2年に死去した明治天皇の父である幕末期の孝明天皇(満35歳没)に関して、「当時公武合体思想を抱いていた孝明天皇を生かしておいたのでは倒幕が実現しないというので、これを毒殺したのは岩倉具視だという説もあるが、これには疑問の余地もあるとしても、数え年16歳の明治天皇をロボットにして新政権を樹立しようとしたことは争えない」と『大宅壮一全集第二十三巻』(蒼洋社)に書いてある。

 大宅壮一は岩倉具視孝明天皇暗殺説を全面否定しているわけではない。岩倉具視以外の誰かが行った可能性を残している。「数え年16歳の明治天皇をロボットにして新政権を樹立しようとしたことは争えない」と言っていることは藤原道長が一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后とし、彰子の生んだ後一条天皇を9歳で即位させて、自らは後見人として摂政となり、好きに政(まつりごと)を行った例を窺わせ、薩長・一部公家が明治天皇の後見人となって自分たちの思い通りの政治を行った可能性は十分に考えられる。そういった中での1872年(明治5年)、明治天皇21歳のときの「太政官布告第342号」による皇紀年号の制定である。薩長・一部公家にとっては天皇の名に於いて政治を行う関係上、若い天皇により大きな権威付けが必要になったといったところなのだろう。熱烈な天皇主義者は現在でも改まった時と場合には皇紀年号を使う。

 こうのように歴代天皇が歴史的・伝統的に置かれてきた実態を眺め渡してみると、天皇の権威なるものは歴史を彩ってきた世俗権力者たち歴代に亘る政治的産物以外の何ものでもなく、高市早苗の「126代も続いてきた世界一の御皇室を戴いてきた」とする最大限の称揚は中が空洞の巨大な竹の骨組みを紙で覆った程度の空疎な内容しか与えない。科学的な合理性はどこにもなく、万世一系だ、男系だと騒ぐのは滑稽ですらある。だが、高市早苗の精神の中では天皇家126代の権威は歴代天皇が自らの政(まつりこと)によって自ら育み、歴史を経て積み重ねられ、重みを持つに至った価値あるものとして根付いていて、彼女の日本国家優越意識をしっかりと支えている。

 頭の中に国家のみを鎮座させ、国民を国家鎮座の下に位置させた、いわば真に国民に向ける目を持っていない日本国家優越主義を内面の奥底で信条とする政治家に、当然の成り行きとして一般国民に寄り添った政治は行うことはできない。安倍晋三のように「国民のため」は方便で、国民よりも国家を優先させて、国家の繁栄だけを目的とすることは間違いない。
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立憲民主の採るべき道 その1:「批判ばかり」の起因理由解明 その2:国会追及のスキル向上 その3:政権交代はなぜ必要なのかの定義づけ(1)

2021-12-27 09:39:34 | 政治

 1.2021衆議院選挙立憲民主党の敗因:「批判ばかりの政党」というマイナス評価と共産党アレルギー
 2.「立憲は批判ばかりの政党」のマイナス評価に対する立候補者それぞれの見解 
 3.小川淳也の「立憲は批判ばかり」の受け止め方
 4.立憲民主党という党自体の「批判ばかり」のマイナス評価に対する認識
 5.なぜ政権交代は必要なのか、その定義づけを行わなければならない
 6.立憲代表泉健太の具体像が何も見えてこない野党第1党としての役割と責任 
  1.2021衆議院選挙立憲民主党の敗因:「批判ばかりの政党」というマイナス評価と共産党アレルギー

 2021年10月31日投開票の第49回衆議院議員選挙は自民党は15議席減らしたものの全議席465の過半数を28議席超える261議席を獲得、連立与党公明党の32議席と合わせて293議席を獲得した。参院で法案否決の場合、自公で衆院再可決可能定数465の3分の2の310議席には届かなかったものの、憲法改正に前向きな自民・公明・維新の3党で発議に必要な衆院の3分の1議席を確保。

 対する野党第1党の立憲民主党は日本維新を除いた他野党と289小選挙区のうちの220近い選挙区で候補の一本化を行い、そのうち共産党とは70程度の小選挙区に対して25選挙区で一本化を図ったものの、結果的には相乗効果を発揮することなく選挙前109議席から13議席減らして96議席にとどまることとなった。枝野幸男は選挙敗北の責任を取って代表を辞任、大きな代償を支払うことになった。

 立憲民主党の敗因理由はマスコミの報道を見る限り、批判ばかりしている政党で政権担当能力がないと見られたことと共産党との間に合意した候補者の一本化と “限定的な閣外からの協力”の取決めに共産党アレルギーのある有権者を刺激し、アレルギーがなくても、有権者の理解上の拒絶反応を招くことになったことだと判断できる。

 2021年9月30日に枝野幸男代表と共産党委員長志位和夫が国会内で会談し、会談後の記者会見で枝野幸男は「消費税減税」や「安全保障法制の違憲部分の廃止」等、民間団体「市民連合」と合意した政策の実現に限定した閣外からの協力を提案し、志位和夫が受け入れたことを明らかにしたという。

 「消費税減税」の政策主張は国民民主党も行っており、この点での閣外協力は合理的な認識性から言っても何ら騒ぎ立てる問題でもないし、「安全保障法制の違憲部分の廃止」とは安倍自民党の憲法の拡大解釈による集団的自衛権行使容認等を立憲も共産党も、さらに加えて多くの憲法学者も、平和志向の市民団体も憲法違反と見ている政策視点であって、何の問題もなく、こういったことの延長線上の政策の実現に限定した閣外からの協力ということなら、これまた何の問題もないはずだが、自民党は内実は有権者への語りかけを念頭に置いて「選挙協力しながら、政権を取った場合は閣外協力と言うのは理解が難しい」といった趣旨で同協力への疑義申し立てを行い、麻生太郎に至っては2021年10月23日の川崎市新百合ヶ丘駅前の応援演説でかつての中国国民党と中国共産党との協力体制「国共合作」を引き合いに出して共産党の、いわば危険性をデマゴーグよろしく有権者へ直接の語りかけている。2021年10月25日付「J-CASTニュース」から見てみる。

 麻生太郎「どこの国でも共産党と組んだら共産党がリーダーシップを取っている。みんな同じです。立憲ナントカ党が連立を組みました。どこと?共産党。立憲共産党になったんだな。じゃあ聞こう。共産党は日米安保条約反対、自衛隊は違憲、天皇制反対。じゃあ、そういう政党と一緒になったら、内閣はどうするんです?『いや、内閣には入れないんです』(と立憲は主張している)。選挙だけ世話になって、(与党に)なった途端に『あんたら入れない』って、できると思う?選挙で散々世話になっといて、そして、いざなったら『あんたら入れない』。そういうようなことができると思ってるのが、先ず間違いなんですよ!」

 麻生太郎は「共産党がリーダーシップを取っている」との物言いを使っているが、「乗っ取り」を意味させていることは明らかである。共産党が仮に立憲民主党内閣に入ることになったとしても、武器を持って戦うわけではなく、最終的には多数決の原理で物事を決めていく民主主義の時代に数で上回る立憲民主党に数で下回る共産党がどうリーダーシップを取る(乗っ取る)ことができると言うのか、ほんのちょっと頭を働かせれば理解できることを頭に置かずにこの手の情報を垂れ流すのは有権者をバカにしていることになる。麻生のこの応援演説を直接聞いた有権者やマスコミ記事を通してこの情報に触れた有権者が例え熱烈な自民党支持者であっても、言っていることに無理があると気づくはずである。気づかないとなったら、麻生と同じ程度の頭、認識力しか持っていない大人の部類に入る。

 もし選挙で共産党の議席数が立憲の議席数を上回ることになったなら、その連立内閣は共産党がリーダーシップを取ることになる。しかし決して乗っ取りの類いではない。民意に基づいた民主主義に於ける多数決の原理が自ずと働いた結末に過ぎない。

 麻生の応援演説は表向きは危険体質の共産党実体論と見せかけているが、他と違って少々手の込んだ同工異曲の共産党アレルギーの有権者に対する植え付けに過ぎない。要するに過度に敏感な拒絶反応として現れるアレルギーと言うものの性質が頭からの思い込みであることが多く、実際のところはどうなっているのかを勉強する手間を省きがちな性質を利用して、少なくない日本国民が共産党アレルギーに冒されていることを幸いに思い込みを増幅させると同時に共産党アレルギーに無縁な有権者をもアレルギー疾患に誘い込むことを狙ったデマゴーグといったところなのだろう。

 だが、現実には少なくない有権者が共産党アレルギーの症状を心のうちに抱くことになって、立憲民主党に対する投票行動にブレーキを掛けた可能性は十分に考えられる。

 立憲民主党代表枝野幸男は選挙協力と限定的閣外協力を共産党と取り決める意思を持った時点で敵対政党の共産党アレルギーを増幅させるか、そのアレルギーに誘い込む意図を持ったデマゴーグに備えて、理論武装していなければならなかった。どのように理論武装していたのか、選挙敗北の責任を取って辞任した際の記者会見発言から見てみることにする。

 「枝野幸男辞任記者会見」(BLOGOS編集部/2021年11月12日 18:44)(一部抜粋)

 記者「フリーランスのミヤザキです。4年1か月間お疲れさまでした。『野党共闘』という言葉についてお伺いしたいんですけれども。マスコミでも、大学教授とかでもみんな『野党共闘』という言い方をしています。ただ2015年の平和安全法制ができて、その後市民連合といったものもできて、共産党からの呼びかけもあって、2016年の参院選は32ある1人区すべて野党で一本化しましたけれども、その当時から野党の枝野幹事長や岡田代表は『野党共闘』という言い方はしないようにしようと。そして政権を共にしないということはここ5、6年のうち5年くらいはその体制がメインストリームだったんですけれども、枝野代表はこの4年間『野党共闘』という言い方は恐らく1度もされていないかと思います。

 執行部でそういう言葉は使わないようにしていたのに、マスコミで使われている。それから何と言っても志位委員長が使っていますので、なかなかこの4年間志位さんに対して『野党共闘』という言葉はやめてもらえませんか、野党一本化とか統一候補とか言ってもらえませんか』っていうことはなかなか言えなかったんじゃないかと思うんですけど、『野党共闘』という言葉に関しての、マスコミの使い方に関しての思いと、今後この言葉はどういうふうに扱われるべきとお考えか」

 枝野幸男「ご承知の通り私は一貫して『野党連携』という言葉を使ってまいりました。この言葉の使い方だけに留まらず他の野党との関係についてはかなり緻密に言葉を使い、進めてきたにもかかわらず、それが有権者のみなさんにきちっと伝わらなかったという客観的な事実はあると思っています。それは私自身の力不足だと思っておりまして、きちっと実態通り報道していただき、実態通り有権者に伝わるような努力はさらに必要だと思っています」

 記者「『野党共闘』という言葉は、志位委員長に対して使わないでとは言う機会はなかったでしょうか」

 枝野幸男「他の政党について、私が今ここで具体的に何を言ったのか、何を言わなかったを含めて、結論として私たちは候補者の一本化と限定的な閣外からの協力ということは結論であったということであって、そこでは『野党共闘』という言葉も『野党連携』ということもありません」

 記者「同じことをもう1回聞かせてください。数は力じゃないけど、ある程度最大野党の方が議席が多いわけですから、そっちの方の言葉に報道なんかは合わせた方がいいんじゃないかと思うんですが、その辺は何度かサジェスチョンされていたと思いますけど改めてどうでしょう」

 枝野幸男「報道がどうお伝えになるかということについて、私の立場から申し上げるべきではない。報道が正確に伝えていただけるように努力するのが私たちの立場だと思っています」

 記者「日経新聞のヨダです。先ほどありました共産党との『限定的な閣外からの協力』という言葉なんですけど。9月の初めに政策協定を市民連合さんを介して結んだ後、9月末に直接共産党と合意したわけなんですけども。『限定的な閣外からの協力』という言葉は与党から言葉尻を捉えて批判の材料になったかと思うんですけれども、今振り返って『限定的な閣外からの協力』っていう合意というのは必要不可欠なものであったというふうにお考えでしょうか」

 枝野幸男「申し上げている通り、閣外協力とは全く違うということを言葉の上でも明確にしたんですが、残念ながらそれを十分に伝えきれなかったということを残念に思っています」

 枝野幸男は「ご承知の通り私は一貫して『野党連携』という言葉を使ってまいりました」と言いながら、共産党との「候補者の一本化と限定的な閣外からの協力」の取り決めに関しては「そこでは『野党共闘』という言葉も『野党連携』ということもありません」と、両文言は入れてはいないといった趣旨の発言をしている。

 要するに共産党とは「野党共闘」でも、「野党連携」でもなく、「候補者の一本化と限定的な閣外からの協力」のみを取り決めたに過ぎないと、まるで簡単には説明がつかない言葉遊びのようなことを言っている。説明がつかない状況を自ら作り出しているから、「(全面的な)閣外協力とは全く違うということを言葉の上でも明確にしたんですが、残念ながらそれを十分に伝えきれなかったということを残念に思っています」と、実際には"言葉で明確"にできなかった実態を浮かび上がらせることになったのだろう。

 では、立憲と共産党との「候補者の一本化と限定的な閣外からの協力」を簡略化した言葉一言で言うと、何と表現ししたらいいのだろうか。枝野幸男は誤解のない、的確な理解を求めるために自らが造語すべきだったはずだ。本人は「私は一貫して『野党連携』という言葉を使ってまいりました」と発言しているが、野党は立憲と共産党以外にも存在する。立憲と共産党に限った部分連携だということなら、「野党」という言葉を冠せずにより直接的に「立共部分連携」といった造語を行ってから、その内容を言葉の説明で補って、造語が意味するところの理解を求めたなら、逆に造語によって立憲民主党の共産党に対する立場の明瞭化に役立ち、共産党アレルギーが立憲民主党に対する投票の妨げとなる危険性の除去に少しは役立った可能性は捨てきれないし、共産党アレルギー自体への縮小に役立った可能性も捨てきれない。

 あるいは分かりやすいところで連立内閣を組むが、政府の安全保障関連の会議には発言権はあるが議決権のないオブザーバーの参加資格のみを与える取り決めが可能ならば、選挙協力もできるし、共産党アレルギーの立憲民主党への転嫁防止に役立つ可能性は否定できない。

 記者が野党時代の「枝野幹事長や岡田代表は『野党共闘』という言い方はしないようにしようと。そして政権を共にしないということはここ5、6年のうち5年くらいはその体制がメインストリームだったんですけれども」と質問しているが、ではなぜ候補者一本化の選挙協力だけにとどめないで、僅かなりとも"政権を共にする"ことになる限定的な閣外協力に足を踏み入れることになったのだろう。

 物事の取り引きには何事も「ギブ・アンド・テークの原則」が常に働く。そして取引間の力関係に応じて、「ギブ」と「テーク」の比重が前者が後者よりもウエイトを占めたり、逆に後者が前者よりもウエイトを占めたりする。「ギブ」=「テーク」という関係はなかなか求めにくい。であったとしても、「ギブ」が最初に来て、「テーク」はあとに従う。だから、「ギブ・アンド・テーク」という語順になっていて、「テーク・アンド・ギブ」の語順にはなっていない。「テーク」が先に来て、お返しとしての「ギブ」が「テーク」に満たない価値で終わらせてしまうことが無条件に許されたのは権威主義がおおっぴらにのさばっていた封建主義時代か国家主義の時代であるが、平等主義の今日であっても、取引間の力関係がどうしようもなく干渉することになるものの、あくまでも「ギブ・アンド・テーク」、与えて取るという関係を取る。

 枝野幸男は立憲民主党を一気に政権選択可能な議席数の確保に持っていくために共産党の候補者を取り下げさせて立憲の候補者へと差し替える候補者一本化の「テーク」と引き換えに先ずは「消費税減税」や「安全保障法制の違憲部分の廃止」等の政策に限った限定的な閣外協力を「ギブ」とする取り引きを結ばざるを得なくなったのではないだろうか。そして共産党としては立憲民主党からのこの「ギブ」が立憲民主党の共産党からの「テーク」以上に価値を持っていたということなのだろう。立憲民主党が政権を取ることができたなら、部分的な閣外協力であったとしても、日本の政治の表舞台に足を一歩踏み入れることができるからだ。

 枝野幸男は「消費税減税」や「安全保障法制の違憲部分の廃止」等の政策に限った共産党との限定的な閣外協力であるならば、政策の違いを無視した協力だとか、野合だといった批判は撥ねつけることができるのだから、胸を張ってこのことの説明責任を有権者に対して丁寧に尽くすべきだった。

 要するにどこにも後ろめたいところはない以上、どこの国でも主義主張の異なる政党が連立政権を組む場合は違いのある政策はどう扱うかの協定を全面的に結ぶことになるが、そのことと違って、候補者1本化の見返りにほぼ違いのない政策に限った協定なのだと説明すれば済むことだったが、満足に説明責任は果たさないばっかりに麻生太郎やその他の自民党の面々に有権者の共産党アレルギーを利用したデマに等しい批判を受けることになり、「批判ばかりの政党」だと思わせていたことと抱き合わせになって、立憲民主党への引力を日本維新の会に向かわせる結果を招いたように思える。

 結果、代表という舞台から降りることになった枝野幸男に代わる新しい代表を決める選挙でご承知のように泉健太、小川淳也、逢坂誠二、西村智奈美の4人が立候補、一回目で決まらずに二回目の決選投票で泉健太が新代表に選出されることになった。

 2.「立憲は批判ばかりの政党」のマイナス評価に対する立候補者それぞれの見解

 立憲民主党代表選に立候補した泉健太、逢坂誠二、小川淳也、西村智奈美が衆院選敗北理由となった共産党との連携に関して来年の参院選ではどう考えているのか、「批判ばかりの政党」というマイナス評価をどう捉え、どのように解消に向けて取り組もうとしているのかを見ていくことにする。なぜ4氏かと言うと、西村智奈美は幹事長、逢坂誠二は代表代行、小川淳也は政調会長として執行部に参加、それぞれの発言・主張が立憲民主党の今後の政策に影響していくことになるだろうからである。
 
 4人の立候補が出揃ったところで揃い踏みの記者会見を開いたり、一緒にテレビに出たり、遊説を行ったりして発言しているが、全部の発言を追いかけるわけにはいかないだけではなく、どうせ似たり寄ったりの発言に終止しているだろうから、2021年11月21日放送のNHK日曜討論「どうする立憲民主党 代表選4候補に問う」から主に共産党との来年の参院選での選挙協力と立憲は「批判ばかりの政党」というマイナス評価が何に起因し、対処方策をどのように思い描き、乗り越え可能な障害とするのかを見ていくことにする。

 最初に記事のテーマと離れるが、この手の番組の恒例となっている、各候補者のパネルへの書き込みを取り上げてみる。質問趣旨は「立憲民主党代表としてどのような社会を目指すのか」

 要するにそれぞれの目指す社会のキャッチフレーズということになる。

 逢坂誠二「人への投資で希望と安心のある社会」
 小川淳也「対話型の新しい政治が創る持続可能な社会」
 泉健太「普通の安心が得られる社会 公正な政治行政」
 西村智奈美「多様性を力に理不尽を許さない政治」
  
 実際には目指す社会を実現させることができていない現実の政治を反面教師としたそれぞれの目指す社会の体裁を取ることになるから、そのことを各候補者が認識しているかどうかは分からないが、代表になれば、政権獲得というもう一手間を踏まなければならないものの、さも実現を保証できるかのような発言となっているところを見ると、殆どが厳しくは認識していないようにも見えるが、現実の政治の反面教師という関係にある以上、お題目で終わりかねない前途多難な目指す社会の側面を否応もなしに抱えることになる。

 パネルを掲げ、それぞれがキャッチフレーズとした自らの目指す社会について説明したあと、最初のコーナーの「野党第1党責任と役割は」では若手論客として招待された「日本若者協議会」代表理事の室橋祐貴と慶應義塾大学総合政策学部教授で経済学者の白井さゆりが立憲が衆院選挙で掲げた政策や選挙戦の長所・短所、敗因の理由等について発言しているが、この記事のテーマに即している室橋祐貴の発言のみを取り上げることにする。

 キャスター井上あさひ「野党第1党の代表選に何が求められるとお考えですか」

 室橋祐貴「そうですね、やっぱり先の衆院選では基本的には与党の支持率、投票が多くて、基本的には立憲民主党、野党が負けたという結果になっていると思うのですけども、先程の4方の主張(代表選立候補4者それぞれがパネルに書いた「目指す社会」について述べたこと)と基本的にこれまでの立憲民主党の掲げていた主張とあんまり変わらない印象で果たして今後はどう変わっていくのかっていうのはあんまりイメージがつかない。

 やっぱり若者からの投票っていうのは、実は立憲民主党というのは低くて、それはこの4年間、基本的に低かった。で、その中でやっぱり若者から今回、団体(日本若者協議会)内でも、選挙のあとにですね、どういう理由で各党に投票したのかっていう話だったりとか、あと、なぜ逆に立憲民主党に投票しなかったと言うの聞いているのですが、大きく3つあって、それは1つはやっぱり批判ばかりっていう話。政策担当能力がない、任せられないというところ。

 2点目が外交・安保、経済政策中心に政策の評価が低い。3つ目がやっぱり共産党との距離感が違いすぎるっていうところがやっぱり基本的にはここ3つに纏まっていて、それに対しての明確な回答が得ない限り、なかなかやっぱり若者からの支持が得られないと思って、そこはもう少し明確に主張して頂けると、やっぱりどう変わっていくのかというのが分かるのかなあと思います」

 「日本若者協議会」の代表理事室橋祐貴は組織内の若者からの聞き取りによる立憲民主党の敗因理由を3つ挙げた。

 1、批判ばかり。政策担当能力がない、任せられない。
 2、外交・安保、経済政策中心に政策の評価が低い。
 3、共産党との距離感が違いすぎる。

 3番目の「共産党との距離感が違いすぎる」は「日本若者協議会」の会員たちの若者の視点から見た場合、若者たちが立憲民主党に対して感じている距離感と共産党に対して感じている距離感が違いすぎて、「限定的な閣外からの協力」というものに素直にはついていけなかったといったところなのだろう。

 この室橋祐貴の立憲敗因の理由に泉健太以下がどう答えているか見ていくことにする。先ずは共産党との関係。

 キャスター伊藤雅之「この(次の)参議院選挙でもですね、4人のお話を伺っていると、定員1人の選挙区では選挙協力を基本的に目指していこうと、地域の実情にも配慮しようと言うことなんですが、政権構想を考える上で共産党をどう位置づけていくのかということなんですが、小川さんにお伺いしますが、次の参議院選挙の前にですね、この政権構想と共産党の位置づけ、今は、思えば総選挙でないという状態ということで(政権選択選挙ではないということで)、改めて検討し直すということなのか、如何でしょうか」
 
 小川淳也「これはですね、野党共闘という言葉がまさに安保法制のときから始まったんです。この随分、この言葉が大義化していまして、片や連合政権、連立政権という概念もあれば、閣外共闘、国会内共闘、今回であれば部分的共闘、そしてまあ、選挙区調整。

 選挙区調整は私は一般的に必要だと思いますし、進めるべきだと思いますが、そこから先になりますと、やっぱりある程度政策合意前提にしなければ、一般的にはできない話だろうなと。そんなに簡単な話ではない。難しい話だなという認識で現状おります」

 キャスター伊藤雅之「泉さん、泉さんは政権構想と共産党との関係、これどういうふうにお考えですか」

 泉健太「あのー、次、参議院選挙ですね。取り敢えず先ずは参議院選挙という話、よくあるんですが、その前に先ず立憲民主党がしっかりと再生するということだと思います。そういう意味では先程室橋さんの指摘は非常に厳しいですけど、受け止めなければいけないことであって、我が党は反省をして、党の政策に自信があるからこそ、見直していかなければならないですね。批判ばかりというイメージがあったのはのは事実なんです。

 ま、ちゃんとそれを受け止めて、やはり政策発信型であるということ、これまで様々、是々非々な政策で対応してきましたし、そして議員立法も数多く出してきたけれども、イメージがそうであるとすれば、これはやっぱりちゃんと変える努力をしなければならない。そして魅力を高めることによって、国民民主党やれいわや社民や共産、そういう方々と話し合いにいくんであって、先ず先にその話し合いにいく前に先ずやっぱり党が先に改革をしていくこと。これが最重要だというふうに思います」

 キャスター伊藤雅之「西村さんはどう考えますか」

 西村智奈美「私はまずは党の自力を高めていくということ。これは勿論のことだと思っています。立憲民主党が目指してきた社会像は私は全否定されていないと考えるんですね。今、現に起きている、例えば非正規の方々に対する差別、それを解消せずしてどうやって日本全体の経済をよくしていこうというふうに考えられるのか。

 私は先ず格差の是正が優先されてきたというふうに考えています。そういった中で今回の衆議院選挙では野党のみなさんが直前に候補者調整に協力してくださって、候補者を下げてくださったり、あるいは他党であっても、立憲民主党の候補者に投票をしてくださったりということがありました。感謝しています。この協力関係、参議院選挙では1人区、32ありますので、ここではしっかりと協力していきたいと考えています」

 キャスター伊藤雅之「逢坂さんはどう考えますか」

 逢坂誠二「今、これまでの3人が述べてたこと、私は全く同感でありまして、先ずは我が党の自力をつけるということが何より大事なことです。ただ、そうは言うものの、我々は少しでも勢力を拡大していくということをしなければなりませんので、そのためにはやはり1人区、小選挙区では与党1、野党1、1対1の構造をつくっていくということにやっぱり全力を挙げていく必要があると思っておりす。

 ただそのこととですね、政権構想をどうするかということは少し切り離して考えなければいけない。これは先程小川さんが言ったとおり、よく共闘という言葉を安易に色んな場面で使いがちですけれども、様々なパターンがあるわけですね。だから、そこは丁寧に、やっぱり考えていく必要があるいうふうに思っています。

 ただ私は今、この間、安倍内閣からですね、公文書改ざんしたり、廃棄したり、国会でウソの答弁を、もう繰り返し行って、こういうデタラメな状況が続いていますので、これを何としてもストップしなければいけないという強い思いがあります」―― 

 番組冒頭で「日本若者協議会」代表理事の室橋祐貴は立憲敗因理由の一つに共産党との関係では、「共産党との距離感が違いすぎる」ことを挙げた。そしてキャスターの伊藤雅之は最初の質問として「次回参議院選挙での共産党との関係はどうするのか」を尋ねた。当然、泉健太以下はこの課題に答えなければならない。対して小川淳也は野党との協力関係には「野党共闘もあれば、連合政権、連立政権、閣外共闘、国会内共闘、部分的共闘、選挙区調整もある」と突きつけられた課題とは関係しないことを頭の回転よろしく立て板に水を流すようにペラペラと喋っているが、必要もない知識のひけらかしに過ぎない余分な発言だろう。必要な発言は選挙区調整は必要だが、政策合意が前提となるだけでいい。
 
 但し「選挙区調整は必要」も、「政策合意が前提」も自分の側からの要望のみとなっていて、「ギブ・アンド・テークの原則」に照らすと、意識の上では「テーク・アンド・テーク」となっている。「必要」という関係を求める以上、「相手もあることだから」という考えのもと、どこかに何らかの「ギブ」を用意しなければならないことは頭に入れていない。勿論、選挙区調整だけを行うことができるが、既に触れたようにその場合は可能な限り「ギブ=テーク」でいかなければならない。毎度、毎度、立憲民主党の都合ばかりではいかないということである。

 では、共産党を除いた国民民主党やれいわや社民党等の野党のみとの選挙区調整だけで次の参議院選で自公の議席減を狙い、立憲の議席を伸ばして、与党の政権運営を少しでも困難にさせる方策をどうするのか(こういった状況を目指し、先の長い話となるかもしれないが、次の衆院選挙で衆議院の自公の議席減を狙い、政権交代に一歩でも近づけるようにすることを目標としていなければならないはずである)、立憲の次期代表を狙っている以上、少なくとも頭に置いているはずだが、発言の前段の知識のひけらかしにしかならない「連合政権、連立政権・・・・」等々の言葉の達者さの印象が強くて、次期代表にふさわしいのかどうかの重みは伝わってこない。

 但しこの言葉の達者さが国会での追及を彷彿とさせたが、殆ど言葉の達者さを披露するだけで、追及を成功させることはできていない。

 泉健太は党の再生を先に置いて、野党連携はそのあとの課題だとしている。そして実際には議員立法を数多く提出してきた政策発信型なのだが、「批判ばかりというイメージがあったのはのは事実」だから、「ちゃんと変える努力をしなければならない」と答えている。

 自分たちは政策発信型だと思っていながら、ではなぜ「批判ばかりというイメージ」が流布することになったのか、その原因追求への姿勢は見当たらない。批判ばかりというイメージが何に起因しているのかを明らかにできなければ、一旦固定化したイメージはなかなか変えようがない。立憲民主党だけではなく、他の野党をも含めて与党による「野党は批判ばかり」というレッテルをいつ頃から貼られたのか承知していないが、2016年10月、農林水産大臣の山本有二が佐藤勉衆議院議院運営委員長の政治資金パーティーで、「(TPP法案)を強行採決するかどうかは、(その権限がある)この佐藤勉さんが決める」と発言、野党が国会で問題視し、辞任要求を突きつけたが、辞任させることができないままに一件落着後、11月に入ったばかりの1日に自民党議員パーティーの挨拶で「こないだ冗談を言ったら(農相を)首になりそうになった」と発言、再び問題となった際、当時民進党代表の蓮舫が大津市で開かれた2016年11月6日の党の会合で、「暴言をした山本農林水産大臣の責任を明らかにすることなく、前に進めることは絶対にありえない。国会はもめていて、私たちは『審議拒否」ではないか、批判ばかりではないか』と必ず言われる。しかし、大臣の放言や暴言に対して、対案や提案があるだろうか」(「Wikipedia」と「NHK NEWS WEB」記事から)と言っていることは気の利いた発言に見えるが(本人も気の利いた発言だと思っているだろうが)、「大臣の放言や暴言」を「対案や提案」で対処できる事柄ではないのは分かりきったことで、それをわざわざ問いかけること自体が考えが浅い。なぜなら、「大臣の放言や暴言」に対処すべき手段はそれが不適切であることを追及して相手に認めさせ、不適切であることの責任を取らせる以外になく、それができないから、負け惜しみか、犬の遠吠えにしならないことを口にせざるを得なかった小賢しさから出た、一見したところ気の利いた発言ふうになったといったところなのだろう。

 強行採決は与党にとってルール違反ではないが、野党にとっては常にルール違反となる。この法則が間違いだと言うなら、野党は与党になったとしても、永遠に強行採決はできないことになる。ところが民主党政権時代も強行採決を行っている。山本有二の問題点は審議のある時点で強行採決を用いて法案の国会突破を念頭に置いていたとしても、あくまでも国会審議の場に限定した政治行為であり、内々の秘密としておかなければならない案件であるはずなのに自身の政治資金パーティーの会場であっても口外していい資格も場でもないのに、ましてや同僚とは言え、国会の場とは関係しない他人の政治資金パーティーの会場で口外するのは法案を担当する大臣であろうと、軽はずみな行為であり、不適切の誹りは免れ得ず、その口の軽さは大臣としての適格性に欠けるのは事実として批判・追及し、責任を認めさせる以外に手はなく、相手が認めなければ、自分たちの批判・追及の力が甘いと臍を噛むしかないだろう。

 同じ2016年の参議院選挙が公示された6月22日、安倍晋三は第一声を熊本市で上げている。
 
 安倍晋三「私はどうしても第一声を熊本から発しようと考えました。あの震災を一生懸命復旧に向けて頑張っておられる熊本の皆様を少しでも励ますことができれば。そして熊本の復興に対する私たちの強い意思を全国に発信しようと、そう考えたところであります。今回の選挙戦の最大のテーマは経済政策であります。野党は口を開けば批判ばかりをしている。『アベノミクスは失敗した』、そればかりであります」

 2016年以前から「野党は批判ばかり」と言われていた。そのイメージがついて回っていた。そして現在、立憲民主党が「野党は批判ばかり」の野党の代表とされていて、「立憲は批判ばかり」の有り難くないマイナス評価を戴くことになっている。このような状況を鑑みるなら、代表に選出された泉健太ではなくても、誰かが「批判ばかりというイメージ」が何に起因しているのか、なぜついて回ることになっているのか、突き止めない限り、この先何年も「批判ばかり」に付き合っていかなければならなくなる。だが、誰も突き止めようとする意思すら見せていない。

 西村智奈美はキャスターである伊藤雅之の問いかけに「立憲は批判ばかり」というイメージは脇に置いて、「立憲民主党が目指してきた社会像は全否定されていない」としている点と、共産党も含めなければならない参議院選挙1人区32の候補者調整に活路を見い出す腹づもりでいる。だが、立憲民主党が掲げる社会像が全否定されることはないと見ていたとしても、今回の衆院選敗北の原因の一つが「立憲は批判ばかり」と見られている以上、このマイナス評価が来年夏の参院選にまでついて回って、今回の衆院選と同様に全体的結果として「立憲民主党が目指してきた社会像」までが無視されることになる立憲に対する票の引き剥がしに役立たないことはないと考えることはできないのだろうか。衆院選の二の舞にならないためには参院選までに「立憲は批判ばかり」を払拭しなければならないが、西村智奈美はこの社会像にかなりの自負を置いているのか、「立憲は批判ばかり」のレッテルにはさしたる注意を払っていない。

 共産党を含めた候補者調整に関しては共産党は原則、全選挙区への立候補を目指している関係から衆院選と同様に自党の候補者の取り下げを行って立憲の候補者に差し替える事例が多くなることが予想される以上、共産党側から「ギブ・アンド・テーク」の原則を持ち出されて、単なる候補者調整では終わらない確率は高い。当然、候補者調整が望ましいと言うだけでは済まないが、西村智奈美の候補者調整は立憲民主党側からの「テーク」の思惑のみで、他の野党側からの、特に共産党側に対する「ギブ」の思惑、他の野党、共産党にとっての「テーク」に対する配慮は小川淳也同様に、そして次に発言した逢坂誠二同様に何ら意識に置いていない.

 逢坂誠二は立憲民主党の勢力拡大には西村智奈美と同様に1人区の候補者調整は必要だが、政権構想とは別の話だといった趣旨の発言をしている。この発想は
断るまでもなく、小川淳也や西村智奈美と同様に「ギブ・アンド・テーク」ではなく、立憲民主党側からの「テーク・アンド・テーク」の考え方で、共産党が果たして納得するだろうかどうかの考えを入れていない。もし共産党を政権に近づけたくないという考えなら、候補者調整は共産党抜きにするか、入れたとしても、後腐れなく同人数の差し替えとし、「ギブ」=「テーク」の等価交換の関係に持っていくべきだろう。但し立憲が望むだけの議席増は計算に入れることはできなくなる可能性は生じる。

 逢坂誠二は候補者調整とは別に今後の国会対応について安倍内閣で噴出した疑惑隠しのための公文書改ざん・廃棄、虚偽答弁等々が今後とも起こりうると見てのことだろう、再発を「ストップしなければいけない」と強い決意を示して、何かあった場合には追及の継続に怯まない姿勢を見せている。但しこの姿勢は「立憲は批判ばかり」のマイナス評価を誘発し、さらに拡大しかねない危険性を背中合わせとすることになる。

 こういったことを逢坂誠二が認識しているかどうかは分からないが、認識していたとしたら、「立憲は批判ばかり」のマイナス評価の誘発・拡大を前以って予測する危機意識が当然のこと働くだろうから、やはりそれが何に起因しているのかを突き詰めて、誘発・拡大させない追及なり、批判なりを行わなければならないが、そこまで考えていなければならないのにその手の危機意識は持っていないらしく、発言からは窺うことはできない。

 3.小川淳也の「立憲は批判ばかり」の受け止め方

 番組が少し進んでから、キャスターの伊藤雅之が衆院選の敗戦を踏まえた参院選の取り組みを西村智奈美、逢坂誠二、泉健太と続いて問い(全て省略)、最後の小川淳也には「代表になったときに問われる政策の中でどう参院選に取り組むのか」といったことを尋ねた。

 小川淳也「私は兎も角、野党第1党は政権の受け皿たるべきだと。今回も衆議院選挙の厳しい結果がそこが認知されなかった思っています。ただ、批判ばかりというお話にも答えなければいけなくて、やっぱり権力に対して批判的立場からきちんと検証していくことなんですね。

 但し批判するときはされる側も問われますが、する側も問われるんです。それは何のための批判なのか、何を目指しての批判なのか。ですから、まあ、ちょっと言葉を選ばずに言うと、批判するときは国民が惚れ惚れするような批判してこその野党だと。それを含めたイメージを改革していかないと。それはつまり、体質改善だと言うことだと思います」――

 小川淳也は若くて力強い言葉の発信を得意とするから、なる程なと勘違いさせやすいが、実際には中身のないことしか言っていない。「野党第1党は政権の受け皿たるべきだ」ではなく、これはごくごく当たり前のことであって、答えるべきは「立憲は政権の受け皿としての資格・存在意義をどこに置くべきか」、その説明だろう。説明せずに、「衆議院選挙の厳しい結果がそこが認知されなかった思っています」の発言はただ単に事実関係を表面的になぞっているに過ぎない。但し以上の短い発言を見ただけでも、バイタリティ溢れる才気煥発な言葉の達者さだけは十分に窺わせる。

 そして室橋祐貴が口にした、代表理事を務めている「日本若者協議会」の若者たちの「立憲は批判ばかり」のマイナス評価に対して「批判ばかりというお話にも答えなければいけなくて、やっぱり権力に対して批判的立場からきちんと検証していくことなんですね」と答えてから次の発言に移る。記憶すべき立派な発言だから、改めてここに取り上げる。

 「但し批判するときはされる側も問われますが、する側も問われるんです。それは何のための批判なのか、何を目指しての批判なのか。ですから、まあ、ちょっと言葉を選ばずに言うと、批判するときは国民が惚れ惚れするような批判してこその野党だと。それを含めたイメージを改革していかないと。それはつまり、体質改善だと言うことだと思います」

 この発言は「立憲は批判ばかり」のマイナス評価を払拭するために今後の課題として好ましい批判の方法論を提示したものである。決して既に行ってきたことではない。

 但し今後「国民が惚れ惚れするような批判」を展開するにはそれなりの素地がなければならない。素地がないのにいきなり「国民が惚れ惚れするような批判」はできない。果たして野党の政府の持つ国家権力に対する様々な追及で「国民が惚れ惚れするような批判」の片鱗を見せたことがあるだろうか。見せたことがあるなら、国民は僅かなりとも「惚れ惚れ」するところまでいかなくても、それなりに感心して、「批判ばかり」のマイナス評価にまでは至らなかったろう。 

 「国民が惚れ惚れするような批判」とは小川淳也は勿論、立憲民主党議員が政府内で国家権力を利用した不正関連の何らかの疑惑が発生し、国会で追及することになったとき、政府側に逃げ道を作らせずに疑惑を暴き出し、役職の辞任なり、議員辞職なりの責任を取らせるところまで追い詰めることができたとき始めて、その評価を受けることになるはずである。あるいは国会に提出された与党法案に与党の支持層には十分な恩恵を与えることになっても、野党の支持層に対する恩恵は必ずし十分ではない欠陥や不備、偏りが認められたときに、その不公平を追及・批判するとき、欠陥や不備、偏りを認めさせて謝罪させ、法案の手直しに応じさせたり、時間切れ等の理由からではなく、あるいは国民世論反対の助けを借りることもなく廃案に追い込むことができた追及・批判は「国民が惚れ惚れするような批判」に相当することになるだろう。特に安倍政権下の安全保障関連法案に向けた野党側の反対・廃案に対する政権側の抵抗には結果的に手も足も出ずに終えた。

 繰り返しになるが、小川淳也を始めとして立憲民主党の枝野幸男も蓮舫も、辻元清美も、逢坂誠二も、勿論、頻繁に国会質問に立つ面々として知られている今井雅人、大西健介、後藤祐一、その他その他、あるいは他野党の著名どころも一度も「国民が惚れ惚れするような批判」を展開したことはない。展開していたなら、モリカケ問題でも、桜を見る会でも、黒川東京高検検事長の定年延長問題でも、安倍晋三を追い詰め、辞任に追い込むことができていたはずであるし、日本学術会議会員6名任命拒否問題で首相菅義偉に学問の自由の侵害に当たると認めさせて、6名任命拒否を撤回できていたはずである。

 女性蔑視や人権否定の失言、国民蔑視の失言を犯したその他多くの閣僚のうち何人かは辞任させることはできたが、幕引きを図らなければならない何らかの政局上の理由などがあったことからの任命権者による更迭が実態で、それ以外の多くは「しっかりと説明責任を果たすことで職責を全うしたい」とか、「職務を全うすることで責任は果たしたい」などと言わせて延命を許すのが常態となっていて、「国民が惚れ惚れするような批判」の不在を証明して余りある。国会という場で同じ逃げの答弁を引き出すだけの似たり寄ったりの批判・追及で臨んで堂々巡りを招く場面がお馴染の光景となっているのみで、結果的にその程度の甘い、延々と続けるだけといった批判・追及が安倍晋三たちの延命に手を貸すことになった。その挙げ句の果てが「野党は批判ばかり」であり、「立憲は批判ばかり」なのである。課題に取り組むだけで、答を出さなければ、その能力が疑われるのは当然と見なければならない。

 ここに「立憲は批判ばかり」といったマイナス評価の起因理由がある。要するに「野党は批判ばかり」、「立憲は批判ばかり」は「国民が惚れ惚れするような批判」ができていないことの逆説として成り立っているマイナス評価ということであろう。小川淳也はこれまでにその片鱗を見せたことがない自分たちの国会追及の程度・批判の程度も弁えずに「国民が惚れ惚れするような批判してこその野党だ」と一気に目標を富士山の高みに持っていった。但しこれまでの中途半端で終わっている追及・批判を見る限り、目標を富士山の高みでなくても、実現可能性もあやふやな未知数に見えてくる。小川淳也はそのような批判方法を獲得するにはどうすべきか、方法論を先ずは述べるか、以後の国会追及・批判で見せなければならない。とは言え、小川淳也自身が威勢のよい追及だけで、単なる批判で終わる国会追及に終止していたのだから、どのような方法論も提示できるかは疑わしい。実現可能性も考えずに言葉の達者さだけを見せたと受け取られても仕方があるまい。

 小川淳也はこの発言によって少なくとも本人自身は以後、「国民が惚れ惚れするような批判」を展開する責任を負ったことに気づいているのだろうか。2021年12月13日の衆議院予算委員会午後質疑。

 小川淳也「総理、先ずはご就任、遅ればせながらお目出度うございます。様々な重要閣僚、そして党の要職を務められた方ですが、やはり総理・総裁の重責、これまたひとしおではないかと想像に余りあることながら、それに対処しております。本題に入る前に先週末、石原内閣官房参与が辞任されたということの報告を受けました。

 これ、かなり世間の評価厳しいんですね。落選者の失業対策じゃないかと。そして官邸が民意を軽視してるんじゃないかと。さらにお友達人事、上級国民なんていう言葉が飛び交っています。そこでお尋ねしますが、そもそも何のための任命だったんですか。そして一連の辞任に至る経緯の中で総理大臣自身の任命責任をどのようにお考えになっているのか、先ずはその点からお聞きします」

 岸田文雄「先ず石原伸晃氏、参与就任につきましては私自身、石原伸晃氏のこれまでの政治経験、政府に於いては国土交通大臣、環境大臣、経済再生担当大臣、要職を務めてこられた。こうした取り組みをつう・・・・、こうした役職を通じて政策に於ける能力、さらには自民党に於いても幹事長、政調会長、要職を務めてこられた。

 この政治に於ける様々な力、まあ、こうしたものを勘案した中で是非、今新しい内閣がスタートした。そして今、具体的に重要な課題が山積している。その中で特に環境の分野、これ自民党の中でも国土交通大臣経験者、もう数少なくなってきました。こうした経験を評価して私として是非、助けて貰いたいということで参与をお願いしました。

 それ責任ということについてご質問がありました。こうしたことで参与をお願いしましたが、結果としてこの様々な点が指摘をされ、本人として混乱を生じることは本意ではないということで自ら辞職を申し出られた。私がそれを認めたということです。そしてその経緯を振り返りますときに混乱と言うことについては否めないと思っております。この点については私は申し訳ないと言うことを申し上げているところであります」

 小川淳也「色んなご経験があった方であることは事実ですが、それは受け止めたいと思いますが、ただ今私が申し上げた世論の批判、これもしっかりと受け止めて頂きたいと思います。その上で発端となった政党支部による今般の雇用調整金の受給について総理はこれをどう評価なされるか、ちょっとその点をお聞きしたいと思います」

 岸田文雄「先ず制度ということで申し上げるならば、政党支部は雇用保険の適用事業所であり、雇用保険も納めていると言うんであるならば、これは被保険者たる従業員の方が要件を満たしたときに失業手当等の雇用保険給付を受けること、これは法律的には適法であると認識をしております。

 しかしながら今回のケースについては政党助成金等を主たる収入の原資とする政党支部がこの制度を使うことがよいのかどうなのか。さらに言うと、コロナによって政治活動の制約を受けた、そして収入が減少した、こうしたことと一般の事業者の方がコロナによって収入減となったこと、これを同じように扱うということについて国民のみなさんがこの疑問を感じられた。このことについては疑問を感じると言うことについては理解をできます。こうした制度については私自身、今申し上げたように考えているところでございます」
 
 岸田文雄のこの答弁に対して小川淳也は、「これ、法律上は明確に除外はされていないんですよ。我々の政治家活動は基本的に安定的な財源によって賄われております」と言い、「安定的な公費で支えられている政治活動が安易にこのコロナ禍で苦しむ方々と同様に、同等に受け止めるという判断は不適切だ」と強い調子で批判、次に「今日は敢えて大岡副大臣にお越し頂きました。私はね、この場をお借りして申し上げますが、大岡さんとは厚労委員会でも一緒でね、個人的には党派を超えて友情を感じていました、だから厳しくお尋ね致しますが」と容赦しない姿勢を見せ、同じ雇用調整助成金の約30万円を受給していた環境副大臣の大岡敏孝に標的を変えて追及、最後に「引責したらどうですか」と迫ったものの、「全て私が雇用主、事業主として判断した。国民感情に照らして理解を得られるものではないと自省をしている」と反省を示したのみで、引責を否定、言葉の勇ましさに反して大山鳴動ネズミ一匹も出すことができないどうってことのない結末となった。

 小川淳也がいくら言葉勇ましく攻め立てたとしても、攻め立てただけの結果を得ることができなければ、言葉の勇ましさも、攻め立てた意味も失う。「批判するときは国民が惚れ惚れするような批判してこその野党だ」と小川淳也自身がそこに目標を置いているはずだが、「惚れ惚れするような批判」どころか、言葉の勇ましさだけが目立つ、中身のない追及で終えている。

 小川淳也は「批判するときはされる側も問われますが、する側も問われる」と立派な指摘もした。批判・追及が批判しただけ、追及しただけで終えて、結果を何も生まなければ、不毛な批判・追及となって、その程度の批判・追及であることが問われることになる。小川淳也はこういったことを自覚して国会の場に臨んでいるはずだが、言葉を勇ましく仕立てることだけにエネルギーを費やして、それだけで何かを成し遂げたような満足感に浸っているように見える。

 小川淳也は質問の最初で岸田文雄による石原伸晃の内閣官房参与起用を批判・追及した際、世間の評価を持ち出して、間接的に批判・追及したのみである。「落選者の失業対策」、「民意の軽視」、「お友達人事」、「上級国民」等々。但し小川淳也自身が世間の評価に共鳴するところがあり、国会の場に持ち出したはずである。そしてこの中で簡単に「ノー」の一言で片付けられないフレーズは「民意の軽視」であろう。選挙で落選した者を内閣の一員に迎える。これが民意の軽視に当たるのか、当たらないのかに絞って、批判・追及する頭はなかったのだろうか。だが、自身共鳴するものがありながら、世間の評価を並べるだけで終えた。

 国政選挙立候補者は衆議院選挙では1選挙区のみで最高得票を獲得した1人(参議院2人区では上位2人)か比例で復活した当選者が、そのことのみで主権者である国民の信託を受けたとされ、全国民を代表することになる。直接的に全国民に選ばれて、そのことによって全国民の信託を受けたと看做されるわけではない。逆に言うと、1選挙区の民意を日本全国の民意に匹敵させて全国民の代表とさせ、全国民の信託を負わせることになるのだから、1選挙区の民意は非常に重いことになる。石原伸晃は過去の実績まで含めて1選挙区のその重い民意に拒絶され、全国民の代表とされることにふさわしくないと評価され、全国民の信託を受けるに至らなかった。

 そのような民意を突きつけられた石原伸晃の国土交通大臣、環境大臣、経済再生担当大臣等々の内閣の要職にしても、幹事長、政調会長等の党要職にしても、民意を回復するまでは過去の実績として切り離さなければならず、それを貴重な政治経験として扱うこと自体、民意に背き、民意の軽視そのものであって、その上内閣官房参与として内閣の一員として迎えたことは二重の民意違反であり、二重の民意軽視を犯したことになるはずで、この点から岸田文雄による石原伸晃の内閣官房参与への起用とその責任を問い質すべきではなかったろうか。民意が絡んでいる首相人事である以上、総理大臣自身の任命責任とは無関係とすることはできなかったはずである。
 
 要するに国民が信任を拒否したことになる石原伸晃を内閣に迎え入れ、内閣官房参与に据え付けた。国民の信託を受けないで済む民間人や官僚を参与に迎え入れることとは訳が違う。

 立憲民主の採るべき道 その1:「批判ばかり」の起因理由解明 その2:国会追及のスキル向上 その3:政権交代はなぜ必要なのかの定義づけ(2)に続く

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立憲民主の採るべき道 その1:「批判ばかり」の起因理由解明 その2:国会追及のスキル向上 その3:政権交代はなぜ必要なのかの定義づけ(2)

2021-12-27 09:37:46 | 政治
 4.立憲民主党という党自体の「批判ばかり」のマイナス評価に対する認識

 泉健太はこのNHK日曜討論2021年11月21日2日前の2021年11月19日の「立憲民主党代表選4立候補者共同記者会見」(BLOGOS編集部/2021年11月19日 17:08)で「立憲は批判ばかり」のマイナス評価について触れている。文飾を当方。

 泉健太「立憲民主党は(衆院選敗戦について)自らを反省し、再生していかなくてはいけない。私は思っています。例えば今回、我々の政権政策の冊子には一番最後のページに『批判ばかりとは言わせない』という異例のページを設けさせていただきました。

 これはどういう意味を持つか。それぐらいに実は、私たち立憲民主党はこれまでも、議員立法を提案し、政府には対案を提案し、建設的な議論を数多くしてきたけれども、やはりどこかで国民のみなさまからは『批判ばかりの政党ではないか』『追及ばかりや反対ばかりをしている政党ではないか』と、そういうイメージを背負ってしまっていた。仲間たちの努力の一方で、私たちはそういうイメージを背負ってしまっていたということを、やはり受け止めなくてはいけないと思います。
 この我々の頑張っているという意識と、しかし国民のみなさまの持つイメージのズレというものを立憲民主党は今一度、自己反省した上で再生していく必要がある。このように感じております」(以上)――

 では、泉健太が言う「政権政策の冊子」から、党としてどのように「批判ばかりの政党ではない、追及ばかりや反対ばかりをしている政党ではない」と解釈していたのか、問題箇所を見てみることにする。発行日は2021年10月21日となっていて、今回の衆院選の公示日は10月19日だから、公示日よりも3日遅れとなっているが、公示日と同時に街頭に飛び出た立憲候補者は「批判ばかりの政党ではない」ことを、その理由・根拠と共に訴えたはずである。

 「立憲民主党政権政策2021_政策パンフレット」

 「批判ばかり」とは言わせません

 提出議員立法
 議員立法は政策提案そのものです。立憲民主党は、批判や反対ばかりの政党ではありません。203回国会(昨年秋の臨時国会)では政府よりも多くの法案を提出しました。加えて、立憲民主党は、国会で日々多くの質問・提案をしています。
 「昨年秋の臨時国会」(10/26~12/5/約1ヶ月半)10法案(うち5法案成立)
 「今年の通常国会」(1/18~6/16/約5ヶ月)46法案(うち18法案成立)
 「法案審議・政策論議」
 国会での審議は予算審議ばかりが取り上げられますが、実際には衆議院、参議院合わせて50を超える常任・特別委員会などがあります。そこでは日々法案の審議や政策論議を行っています(国会会議検索システム参照)。そして、政府提出法案の7割以上に、「反対」ではなく「賛成」しています。
 「新型コロナウイルス対策も立憲民主党が主導」
 新型コロナウイルス感染症への主な対策は、いずれも立憲民主党が政府・与党に先んじて提案してきました。政府・与党は、私達の提案を遅れて採用するなど後手に回っています。

 根本的に認識を間違えている。「立憲民主党は批判ばかり」のマイナス評価に対する自己正当化理論を、「議員立法は政策提案そのものです。立憲民主党は、批判や反対ばかりの政党ではありません。203回国会(昨秋秋の臨時国会)では政府よりも多くの法案を提出しました。加えて、立憲民主党は、国会で日々多くの質問・提案をしています」に置いている。

 「議員立法は政策提案」であるものの、批判によって成り立つ。逆説するなら、批判なくして、どのような対案も、独自案も成り立たない。対案の場合、政府法案に何らかの欠陥がある、あるいは不足や漏れや偏りあると見ているからこそ(どの党の法案にしても、全ての階層の利益を満足させる完全なものなど存在しない)欠陥、不足、漏れ、偏りを直すための対案を用意するのであって、政府法案の欠陥や不足や漏れ、偏りに対するそんなことでは法案の体をなしていないと見る批判が対案作成、あるいは対案提出の動機となるからである。

 政府法案の対案ではない独自案の場合にしても、ときどきの社会情勢に応じて社会生活や経済活動の利便性向上の貢献に全ての方面に亘って網羅すべき政府法案が何らかの方面に抜け落ちや不足があるからこそ、その方面の抜け落ちや不足を埋める独自案を提出するのであって、根底には抜け落ちに対する批判が動機となって、独自案の作成・提出に至る。
 
 要するに野党の政府が握る国家権力の監視はその不正や不始末のみに対してではなく、政府行政の欠陥・不備を加えた全般に亘るものであり、権力の監視は批判をエネルギー源とし、批判なくして成り立たない。戦前の新聞は批判を麻痺させたからこそ、国家権力に屈することとなり、御用新聞に成り下って、軍部や政府の言い分のみを一方的に流すことになった。対案提出も、独自案の提出も、不正・不始末の追及も権力の監視から始まり、全てが批判を動機とする。

 与党が衆院選に破れて、野党となり、野党が政権を取って、与党として国家権力を握ると、国家権力の監視は攻守を変え、元与党が野党の立場から元野党の国家権力を握った政府に対して批判の目を全開にして政権の運営全般に亘って追及を行うことになる。ゆえに野党の立場からの政府与党に対する批判は野党の属性として存在し、存在意義となる。自民党政権から民主党政権に変わったとき、経験しているはずだ。その時の野党自民党は民主党政権に対して批判ばかりしていた。当然、「議員立法は政策提案そのものです。立憲民主党は、批判や反対ばかりの政党ではありません」云々はお門違いの自己批判となる。もっと胸を張って、「批判のどこが悪い」と開き直るべきだろう。「批判なくして国家権力の不正や不始末を正すことはできず、政府立法の欠陥・不備を正す対案提出も独自法案も提出することはできない」と。これこれのことをしましたと具体例を挙げるのはそれからである。

 但し開き直って、その開き直りを有権者に当然だと思わせるためには政府の不正追及や疑惑追及の際に定番となっている似たような追及でほぼ同じ答弁を引き出して時間だけを費やす堂々巡りの質疑応答で疑惑を疑惑のまま残してしまう不毛な国会対応から抜け出さなければならない。抜け出せないでいたり、小川淳也のように「批判するときは国民が惚れ惚れするような批判してこその野党だ」と勇ましい目標を掲げながら、実行できないていたりしたら、「国会での審議は予算審議ばかりが取り上げられ」ることに限定された印象を全体的な印象と勘違いされて有権者に与えることになり、いつまで経っても「批判や反対ばかり」と映ることになる。

 あるいは不正追及や疑惑追及が追及しきれずに尻切れトンボに終わるから、政府側から逆襲を食らうことになる。2018年10月30日の参議院本会議での代表質問に対する安倍晋三の答弁。

 安倍晋三「政治家が激しい言葉で互いの批判に終始したり、行政を担う公務員を萎縮させても、これも民主主義の発展に資するとは考えません。それぞれが国民の皆さんの前にしっかりと政策の選択肢を示すこと、そして建設的な議論を通じて政治を前に進めていくことこそが民主主義の王道であると考えます」

 2015年1月22日安倍晋三施政方針演説。

 安倍晋三「批判だけに明け暮れ、対案を示さず、後はどうにかなる、そういう態度は国民に対してまことに無責任であります。是非とも、具体的な政策をぶつけ合い、建設的な議論を行おうではありませんか」――

 疑惑追及、不正追及が不完全燃焼で終わらせしまっているから、「批判ばかり」と世間が見ることになり、それを逆手に取り(世間がそう見ていなければ、逆手に取ることはできない)、「建設的な議論」と対比させて、自民党議員がヨイショ議論ではなく、「建設的な議論」に終始しているかのような印象を作り出し、自身が言っていることを正論中の正論に見せることで「野党は批判ばかり」の印象を有権者へのなおのことの刷り込みに利用する。

 だが、このような発言を延々と許してきた。政府の不正や疑惑追及をしても、堂々巡りの質疑応答か尻切れトンボで終わらせてばかりいるから、対案も出しています、独自案も出しています、政府法案に賛成もしていますと説明しても、「批判ばかり」の印象をこびりつかせたまま、今以って引き剥がすことができないでいる。

 追及・批判のスキルをもっと磨いて、堂々巡りや尻切れトンボで終わらせない国会場面を演出する以外に「批判ばかり」のマイナス評価を引き剥がすことはできないだろう。

 新代表泉健太は立憲の今回の衆院選の敗因の一つに「立憲は批判ばかり」というマイナス評価を払拭するためにだろう、上記NHK「日曜討論」でも、そのマイナス評価を事実と受け止めて、政策発信型であることを訴えていきたいといった趣旨の発言をしているが、2021年12月2日の党役員人事指名・了承の両院議員総会終了後の記者会見でも、今後の党のカラーについて「国民の皆さまと向き合い、国民の皆さまのために働く。政策立案型ということかもしれませんが、我々はこれを一つのカラーとしていきたい」(立憲サイト)と述べ、政策立案型を党のメインカラーとすることを表明、その後も政策立案型ということを発信している。

 泉健太のこのような発信も一つの理由となっているのだろう、2021年12月13日付「NHK NEWS WEB」記事世論調査は、批判ばかりしているという党のイメージを政策立案型の政党に変えていくとしている立憲民主党代表泉健太の姿勢を例に挙げて、野党の役割を有権者に質問している。各質問と各回答率は画像のとおり。
 「政策の提案」33%+「どちらかといえば政策の提案」28%=61%
 「政権の監視」11%+「どちらかといえば政権の監視」16%=27%

 有権者の圧倒的多数が野党は「政策の提案」を自らの役割とすべしと見ている。この結果を見る限り、泉健太の政策立案型の路線は正解ということになる。但しこの世論調査にしても、泉健太が「立憲は批判ばかり」というマイナス評価が衆院選敗因の主たる一つとなったことを受けて、その反作用として政策立案型の政党を前面に押し出すことになったことと同様に衆院選の結果に一定程度の影響を受けた有権者の結果値と見えないこともない。

 岸田内閣が発足したのは2021年10月4日。10月31日の衆議院選挙で国民の信任を受けて政権を維持することができたこの約3カ月間、疑惑や不正に関してはほぼ無風状態にある。モリカケ疑惑、桜を見る会、黒川検事長定年延長問題、アベノマスクに関わる不明瞭な発注等々数々の政権の私物化疑惑が噴出した安倍内閣期間中や日本学術会議会員6名任命拒否に於ける学問の自由への侵害疑惑、当時の首相菅義偉の長男菅正剛が関係していた総務省高級官僚接待に於ける特定企業への利益供与疑惑が表沙汰となった菅内閣の期間中に同じ世論調査を行ったなら、政権の監視は低い評価しか与えられなかったではないだろうか。これらの疑惑に関わる当時の世論調査は「政府は十分に説明を尽くしていない」と見る向きが圧倒的に多かった。

 要するに安倍内閣に対しても、菅内閣に対しても国民世論は十分な説明を求めていた。安倍晋三にしても菅義偉にしても自分から十分な説明をするはずはないのだから、疑惑解明には野党側の追及に期待する以外になかった。追及は政権の監視によって維持される。そして追及は批判の形を取る。だが、その期待は裏切られた。

 野党である以上、国家権力を私的に利用した不正行為を横行させないためにも政権の監視は必要だし、政策の提案も必要だということである。どちらがより重要とは比較はできない。そのときどきに応じなければならないからだ。当然、野党としては政権の監視と政策の提案の二本立てで対峙することを自らの役目と責任としなければならない。あるいは野党第1党としての存在意義としなければならない。そして政権の監視も、政策の提案も、両者共に政府の政権運営に対する批判を骨組みとして成り立たせているアクションだということを広く知らしめなければならない。

 と言うことなら、立憲新代表の泉健太が衆院選敗因理由の「立憲は批判ばかり」のマイナス評価解消を願って党のメインのカラーを政策立案型に据えて発進し始めたということは羹に懲りて膾を吹く類いと受け取れないことはない。もっと積極的に安倍政権や菅政権の数々の疑惑を例に挙げて、「国家権力を私的に利用した行政を歪める不正行為や省庁側の政治を歪めることになることもある事務上の違反行為や政治全般に影響する重大な落ち度、これらに対する責任逃れから往々にして逃げ込むことになる隠蔽工作、政府の政策自体に関して言うと、政策や法案の欠陥・欠落等がなくならない現状では批判や追及を用いた政権の監視を怠るわけにはいかないし、政府法案を上回る政策の立案も推し進めていく」と二本立てを党の姿勢として明確に打ち出すべきではなかったのではないか。

 5.なぜ政権交代は必要なのか、その定義づけを行わなければならない

 なぜ政権交代は必要なのか。

 政党はどの階層、どの団体の利害を代弁するかで成り立っている。一つの政党が全ての階層、全ての団体の利害を代弁できる程に広範な、且つオールマイティな能力を有してはいない。自民党の最大支持母体は日本の代表的な1500社近くの大企業を企業会員とし、日本自動車工業会や日本鉄鋼連盟等々の150以上の業界団体、宇宙システム開発利用推進機構、九州経済連合会、国際開発センター、国際経済連携推進センター、国際人材協力機構等々30以上の特別会員を抱えている経団連である。企業会員の入会資格は純資産額(単体または連結)(資産から負債を控除した正味財産)が1億円以上あること、または経団連団体会員の会員企業であることとなっている。借金抜きで1億円以上の資産があるというのは大企業が大勢を占めていて、中小企業は少数派に所属する存在であろう。つまりおカネ持ち中のおカネ持ちが会員として鎮座している。このことは経団連が大企業中心の組織であることが証明している。

 立憲民主党の最大支持母体は連合(日本労働組合総連合会)であり、加盟労働組合数は55、組合員数約681万人となっている。勿論、お金持ち企業トヨタ自動車と関連企業が加わる全トヨタ労働組合連合会も連合の会員労働組合だが、トヨタ関連の会社イコールトヨタ労組ではない。ある意味、反対のベクトルに位置する日本教職員組合(日教組)も傘下組合となっている。

 そのほかに中小企業の労働組合団体、全国中小企業団体中央会は2万8千団体以上を抱えているが、なぜか昭和24年の「中小企業等協同組合法」の第5条3項で〈組合は、特定の政党のために利用してはならない。〉、昭和32年の「中小企業団体の組織に関する法律」の第7条3項で、〈組合は、特定の政党のために利用してはならない。〉と規定されている。実効性が担保されているのかどうかは窺うことはできないが、圧力団体となりうる規模は備えている。

 いずれにしても自民党は最大支持母体の経団連の利害を代弁し、立憲民主党は最大支持母体の連合の利害を代弁する。代弁しなければ、たちまち最大支持母体から与えられている様々な保護を失うことになる。保護を失えば、大半の政治資金や選挙のときの大半の票を失うことになる。利害とは損得である。利害を代弁するとは損を排除し、得を増やすことを意味する。

 と言うことは自民党は「国民のための政治」と言いながら、経団連のためにとは言わないが、経団連の方向に顔を向けた政治を行うことになる。経団連傘下企業の損を排除し、得を増やす政治を長年に亘って行ってきた結果、政治の恩恵に偏りが生じ、それが格差という形を取り、社会全般に亘る格差社会の構造を取るに至った。

 この格差を是正するためにはかつての民主党が自身の最大支持母体連合に顔を向けた政権3年では焼け石に水で、たった3年で終わった民主党政権に変わる自民党安倍政権7年8ヶ月で格差に拍車がかかり、大企業に顔を向けた政治を歴代自民党が続けてきた成果としてある格差をさらに積み上げることになった。

 特に安倍政権下では経団連傘下の多くの企業が年々戦後最高益とか、過去最高益を手に入れ、ほぼ安倍政権と重なる2012年度末から2020年度末までの内部留保は9年連続で過去最高を更新した。具体的には2012年度末は304兆5千億円、2020年度末は484兆3千億円。8年間で59%、半分以上も膨らましている。一方で安倍政権7年8カ月のアベノミクス経済政策では実質賃金はほぼ横ばい。GDPの6割を占める消費は低迷し、一般サラリーマンや一般労働者の生活は向上せず、上に厚く、下に薄い偏りのある、いびつな利益構造を取ることになった。譬えるなら、土台の床面積は1平方メートしかないのに階が上に行く程に床面積を広げていき、100階の床面積は100平方メートルもある高層ビルに似た社会・経済的な利益空間が構築されるに至った。

 自民党政権は自分たちが積み上げてきた格差を埋めるためにこのコロナ禍の経済縮小状況下で10万円給付だとか、教育支援だとか、学生支援だと名前をつけては支援を続けているが、このような支援を持ち出さなければならないこと自体が格差の証明だが、ないよりはマシ、焼け石に水で、格差は有権者が最大の支持母体である経団連傘下の大企業や富裕層に顔を向けた政治を基本のところでは取り続けている自民党に政権を任せている間は目に見える程に縮小することはない。

 政権交代可能な二大政党制とは単に二つの異なる政党が政策を競い合う形で交互に政権を担うことを意味しているわけではない。二大政党のうちの政権を担っている側の政党が利害を代弁する団体・階層に顔を向けた政治を行う結果、その団体・階層に利益が偏ることになり、他の団体・階層にとって不公平が生じることになって、それが顕著になった場合、後者の団体・階層の利害を代弁するもう一方の政党に政権を取らせて、不公平を被っていた団体・階層に顔を向けた政治を行わせることで利害を代弁して貰い、政治の恩恵の平均化を図って、利益の偏りを是正する役目を主とする制度である。

 立憲民主党が「1億総中流社会の復活」を政策として掲げているのは自民党政治によって、特に安倍政治によって川の水の流れとは逆に上流の大企業や高所得層により多く流れる政治の恩恵を、その流れを是正して、中流から下流により多く流れるように是正するためであろう。当然、立憲民主党が利害を代弁する最大支持母体の連合傘下の組合や組合員の側から、あるいは連合傘下の組合に所属していない中低所得層に分類される一般サラリーマンを含む一般労働者の側から政治の恩恵の偏りを是正する政権交代の声がもうそろそろどころか、かなり以前から上がっていてもよさそうだったが、例え一部で上がっていたとしても、大きな塊となることはなかった。

 上がらなかった理由は民主党政権に対するイメージの悪さも影響していただろうが、その後継政党たる立憲民主党に対して「批判ばかり」と見られていたことにあるはずである。「批判ばかり」とは批判しか能がない、あるいは批判以外に能はないという意味を取り、ない能のうちには物事の全体としての政権担当能力が入っていたことになる。いわば「批判ばかり」の究極の意味は政権担当能力なしの意味に行き着く。「日本若者協議会」の代表理事室橋祐貴が組織内の若者からの聞き取った立憲民主党に対する「批判ばかり。政策担当能力がない、任せられない」のマイナス評価は前者後者、別々の評価ではなく、イコールで繋がった意味を取ると受け止めなければならない。

 そして有権者が持っていたこのような評価に対して立憲民主党は衆議院選挙期間中、「政権選択選挙」を叫び、「1億総中流社会の復活」を訴え続けたのだが、政権交代が可能となる位置にまで攻め込むことができなかったばかりか、逆に議席を減らす結果となったのはある意味必然であった。獲らぬ狸の皮算用で増やすつもりでいた議席数から減らした13議席数を差し引きすると、20議席を超える議席数を失った計算となる可能性が出てくる。

 「政権選択選挙」を叫び、「1億総中流社会の復活」を訴えるだけではなく、「政権交代がなぜ必要なのか」、自民党が最大の支持母体としている経団連傘下の大企業の利害を代弁していることによって生じている格差を立憲民主党が最大の支持母体としている連合の組合員と組合に入っていなくても、組合員と似た生活階層の一般サラリーマンを含めた一般労働者の利害を代弁する政治を行う政権交代によってこそ、政治の恩恵の流れを変えて、格差を是正させることができるのだと政治の恩恵の観点から政権交代の意義と必要性を認識させるところから手を付けるべきだったのではないだろうか。

 例え格差是正の政権交代の必要性を薄々感じている有権者がそれなりに存在していたとしても、現在の政治体制である与党側からの野党は「批判ばかり」で、「政策担当能力がない、任せられない」の宣伝に過去の民主党政権に対する苦い思い出が合わさって有権者の多くが乗せられていたとしたら、政治の恩恵の偏りや格差に向ける目を忘れて、あるいは向けていたことも忘れて、政権交代という冒険を冒すよりも一応の生活が成り立っている現状を維持する安心感を選択したということもありうる。

 政権交代の意義と必要性を説いた上で、「今一度政権交代を冒険してみませんか。失敗はスキルを高めるものです。民主党政権と同じ失敗を繰り返す程に我々はおバカ政党ではありません」と誘いかけ、安心感を持って貰うようにするのも一つの手だろう。  

 6.立憲代表泉健太の具体像が何も見えてこない野党第1党としての役割と責任

 2021年11月30日に立憲民主党の新代表に選出された泉健太がそれから最初の日曜日2021年12月5日のNHK「日曜討論」に中継出演し、その中で行った立憲民主党の役割と責任についての発言から彼自身が考えている立憲政治の基本方針を見てみることにする。

 キャスター井上あさひ「野党第1党としての役割や責任はをどう果たしていきますか」

 泉健太「やはり野党第1党というのは今の政権とは違う社会像、ビジョン、こういうものを打ち出すことが大事だと思います。私は早速、新しい執行部の中でですね、経済・外交・安全保障・社会保障・教育、また環境・エネルギーなどの分野で調査会を発足させて、党内外の知見を集めて、中長期ビジョンを作るべきだということで指示を致しました。

 まさにそういうですね、私はまだ岸田政権というのは口で言っている優しい資本主義よりもですね、新自由主義が抜けきれていない、そういう政権だと思っていますので、そこは我々は新自由主義ではない、人に優しい持続可能な資本主義というものはどういうものか、これを打ち出していきたいと、そう思っています」――

 野党第1党としての役割や責任を問われた。「今の政権とは違う社会像、ビジョン」、「我々は新自由主義ではない、人に優しい持続可能な資本主義というもを打ち出していきたい」云々・・・・・

 具体像が何も見えてこないだけではなく、有権者に政権の選択肢となる何らかのキーワードすら示し得ていない。「新自由主義」とは断るまでもなく、政府の介入を最小限に抑えて、市場の競争原理を重視する経済思想で、競争原理任せがときには弱肉強食の風潮を生む。弱肉強食の風潮が手段を問題にしない、勝ちさえすればいい、勝ったもん勝ちの領域にまで足を踏み込むことがしばしば起きた。自民党はこういった傾向の経済政策を続けてきた。その答が現在の格差社会である。これとは反対の政治の原理が泉健太が目指す「新自由主義ではない、人に優しい持続可能な資本主義」なるものということかもしれないが、簡単にピントを合わせた状態で目に見える言葉にはなっていない。

 では、岸田文雄が口にしている「資本主義」は2021年10月8日の自らの所信表明演説で取り上げているが、ここではより新しい情報として2021年12月6日の「所信表明演説」の中から拾ってみる。

 岸田文雄「人類が生み出した資本主義は、効率性や、起業家精神、活力を生み、長きにわたり、世界経済の繁栄をもたらしてきました。

 しかし、1980代以降、世界の主流となった、市場や競争に任せれば、全てがうまくいく、という新自由主義的な考えは、世界経済の成長の原動力となった反面、多くの弊害も生みました。

 市場に依存し過ぎたことで、格差や貧困が拡大し、また、自然に負荷をかけ過ぎたことで、気候変動問題が深刻化しました。

 これ以上問題を放置することはできない。米国の『ビルド・バック・ベター』、欧州の『次世代EU』など、世界では、弊害を是正しながら、更に力強く成長するための、新たな資本主義モデルの模索が始まっています。

 我が国としても、成長も、分配も実現する『新しい資本主義』を具体化します。世界、そして時代が直面する挑戦を先導していきます。

 日本ならできる、いや、日本だからできる」(以上)

 そしてこの「新しい資本主義」を「人がしっかりと評価され、報われる、人に温かい資本主義」だと言い換え説明をしているが、欧米の後追いの発想だということも分かる。

 経団連会長の十倉雅和は2021年10月8日の所信表明演説での岸田発言を受けてのことだが、岸田文雄表明の「成長と分配の好循環を目指す『新しい資本主義』」に賛同を示したものの、「具体的なビジョンの策定が急務である」ことを要求しているところを見ると、また欧米の後追いの発想であることから考えても、経団連の中から出てきた「新しい資本主義」ではないことを証明する発言となる。いわば経団連傘下の大企業群の総体的意思として「今の格差は行き過ぎている。我々の利益を削って、分配に回さなければならない」と決めることになった新しい気運ではないことが分かる。

 となると、岸田文雄の考える「人に温かい資本主義」と経団連側が考える「資本主義」と、本質のところで利害が衝突する可能性も生じることになる。利害の衝突が予想される時点で、あるいは実際に衝突が起きて、経団連側の利害が削られる事態(得を増やし、損を減らす機能が損なわれる事態)が生じた場合、経団連は最大の支持母体として自らの利害を最大限に守るために「人に温かい資本主義」にブレーキを掛ける可能性が生じる。いわば経団連側の利害を決定的に損なうことができない制約下にこれまでの自民党政治と同様に岸田政治は置かれていると言っても過言ではない。

 このことの最適な証明例がある。岸田文雄は自民党総裁選(2021年9月17日~2021年9月29日)の際に預金、株式、投資信託等の金融商品の売買や配当等で得た所得に対して課税する金融所得課税の見直しに触れた。見直しとは現在一律20%(所得税15%+住民税5%)の課税率の引き上げを示す。

 例えば日本の所得税の最高税率は4千万円を超える金額(超過累進税率方式)に対する45%だそうだが、現状は金融所得課税率が20%で一定だから、金融所得と合わせた一般所得が1億円を超えると、税負担が下降し始めるという。これを「1億円の壁」と言うそうだ。当然、金融所得が大きければ大きい程、税率が一定だから、一般所得と合わせた税負担は小さくなって、ネットには50億円を超えると、16%台まで税率が低くなると出ている。当然、この金融所得税制は金持ち優遇税制の異名を持つに至っていた。これを改めることによって金持ちの利益を削り、削った利益を中間層への分配へと回して、中間層をベースに成長を促し、目的としては「成長と分配の好循環を実現する」ことに置いている。まるで「1億総中流社会の復活」を掲げる立憲民主党のお株を奪った政策に見える。

 立憲民主党自身も衆院選に向けた「政策集2021」で、〈金融所得課税については、所得再分配機能回復の観点から、国際標準まで強化するとともに、中長期的には総合課税化を目指します。〉と謳っている。

 2021年10月11日「枝野幸男代表質問」

 枝野幸男「金融所得についても、国際標準である30%を視野に、まずは遅くとも令和5年度までに原則25%まで引き上げ、将来的には総合課税化します」

 金融所得税率の国際標準は30%(日本の金持ち優遇は国際的に突出していたことになるが、これも偏に経団連が自民党の最大の支持母体となっていることから受けることになっている一大恩恵なのだろう)、2023年度までに25%にまで引き上げて、一般所得と金融所得と合算した総合課税化を目指して、累進課税の網にかける。

 とは言っても、岸田自民党政権の金融所得課税の見直しは自民党最大の支持母体である経団連傘下の金融商品を大量に抱えているおカネ持ち企業やおカネ持ちたちの利害とは真っ向から対立することになる。このことの影響が総裁選当選当日(2021年9月29日)を含めた前後数日の間の株価下落という事態を招き、2021年10月10日にフジテレビ番組「日曜報道ザ・プライム」に出演した際にはさらに一歩踏み込んで、「当面は金融所得課税に触ることは考えていない」と発言、そして衆院選期間中(2021年10月19日~2021年10月31日)は金融所得課税の見直し発言は封印することになったとマスコミは伝えている。いわば自民党最大の支持母体である経団連の利害に応えた。

 かくかように岸田政権は経団連の利害の制約下にあるという法則性を取ることになり、そしてこのような法則性の影響は岸田政権のみが受けるわけではなく、経団連を歴史的に最大の支持母体としている以上、自民党政権全体に波及することになり、当然、この法則性は格差形成の法則性をも担っていることになる。

 泉健太はこのようなことを指して岸田文雄の「人に温かい資本主義」を「新自由主義が抜けきれていない」と説明しているのだろうが、「自民党政権は岸田政権であろうと経団連の利害の制約下にあるから、新自由主義から抜けきることはできない」と説明すれば、有権者に分かりやすく説明ができ、自民党政治と立憲民主党政治の違いを際立たせることができるが、抽象的で中途半端な説明で終えている。

 自民党政治が最大の支持母体である経団連の利害の制約下にあることから、新自由主義から完全に抜けきることが不可能である以上、岸田文雄が「成長と分配の好循環」をいくら言おうと、成長も分配も上に偏った、下の満足に行き届かない仕組みの実現ということになり、結果的に「人それぞれが評価され、報われる温かい資本主義」は中流階層以下の国民には欠陥を抱えることは道理として簡単に予想がつくことであるし、こういったことの道理を順々に説いていけば、岸田文雄の「人に温かい資本主義」に対して泉健太自身の「新自由主義ではない、人に優しい持続可能な資本主義」との違いを明らかにすることができるはずだが、違いを不明なままにした説明で終わらせている。

 岸田文雄は以後も「人に温かい資本主義」を発信し続けるだろうし、自民党幹事長茂木敏充にしても、2021年12月8日の「代表質問」(自民党サイト)で次のように岸田政権下での新自由主義経済を否定している。

 茂木敏充「我々は、成長戦略によって、デジタル、グリーンなど成長分野への投資を加速し、そこで生み出された利益が国民、すなわち消費者にまわり、それがマーケットの拡大、そして更なる投資へとつながる好循環を作っていきます。これこそ、まさに資本主義なのですが、ただ、我々は『新自由主義』と言われるような競争一辺倒で、もうこれ以上消費できない『勝ち組』と意欲を失ってしまう『負け組』をつくるような市場原理主義には組みしません。

 一方、『分配』と言うと、資本家、大企業からお金を吸い上げて労働者に回すというような、社会主義的なゼロサムゲームを思い浮かべるかもしれませんが、我々の目指すものは全く違います。ウィンストン・チャーチルも資本主義と社会主義の違いについて、『資本主義に内在する悪徳は、幸運を不平等に分配することだ。社会主義に内在する美徳は、不幸を平等に分配することだ』と語っています。

 資本主義をより適正に機能させる。『神の見えざる手』が及ばない、マーケットに任せておくだけではうまく行かない、例えば、正規・非正規の壁や看護・介護の公定価格など、マーケットが機能しにくいところを官が補完することで、より多くの受益者、アクティブ・プレーヤーを生み出す。そういう分配政策が必要です」

 確かに発言自体は新自由主義経済・市場原理主義を否定しているが、1947年5月施行の日本国憲法が全ての国民の法の下の平等を保障してから三四半世紀の75年もの間、新自由主義経済で格差を作っておきながら、「もうこれ以上消費できない『勝ち組』と意欲を失ってしまう『負け組』をつくるような市場原理主義には組みしません」は今更何を言うのかの感がするだけではなく、社会の矛盾や不足を「官が補完すること」自体が格差の存在を前提としなければできないことなのだから、例えば「正規・非正規の壁」を前以って作っておかなければ、どのような補完も必要としないのだから、格差を止むを得ない必然と見ていて、あとからそれを埋めようという考え方となっているから、本質的には新自由主義経済・市場原理主義に足を置いていることになる。

 だが、立憲民主党側が岸田政権側のこのような言葉の発信に対してその言葉を否定できる、分かりやすい、説得力ある言葉の発信を行い言えなかったなら、逆に「市場原理主義には組みしません」云々とか、「マーケットが機能しにくいところを官が補完する」云々といった言葉の数々がより強い説得力を持って有権者の耳に届くことになるだろう。

 岸田文雄は同じ所信表明で「信頼と共感を得ることができる、丁寧で寛容な政治を進める」と請合っているが、やはり最大支持母体の経団連に顔を向けた政治を行わざるを得ない制約から、「信頼と共感」も、「丁寧で寛容な政治」も、エンジョイできる範囲は限られることになるということ、中流以下の人口の方が多いことから、エンジョイできる範囲からこぼれる人数の方が多いことになり、現状とさして変わらない社会生活状況を迎えることになるだろうと予測可能で、こういったことを岸田政治否定の主眼点として立憲民主党は自らの最大支持母体である連合に顔を向けた政治を行うことにより、連合傘下の組合員や、あるいは連合傘下の組合に所属していない中低所得層に分類される一般サラリーマンを含む一般労働者に顔を向けた政治を行うことになって、こちらの構成者の方が圧倒的に多い人口を占めている関係から、成長も分配も広範囲に行き渡ることになって、結果として格差の是正に役立たせることができる自らの政治の効能を主張、その差の違いを強調すれば、立憲政治を目に見える形に持っていくことができるだけではなく、「分配」だとか、「人に優しい」とか、同じような言葉が飛び交っていたとしても、立憲政治と自民党政治との明らかな違いと対立軸を明快に提示することができ、有権者の理解も得やすくなるのだが、そこまでの状況には至っていない。

 次のように説明することもできる。政党ごとの利害を代弁する対象が違えば、政治の結果としてのその恩恵の向かう先も違い、恩恵の多い少ないも違ってくる。恩恵を1票を投じた見返りと価値づけてもいい。どちらの利害を代弁する政治を選択して、自らの見返りとするのか、その価値づけが政党選択の基準になると、それぞれの投票行動を意義づけて、自覚的な選択を促す。

 こういったことの有権者に対する周知は断るまでもなく、代表一人が行うことではなく、党員が一体的に行わなければ意味をなさない。2021年12月14日衆院予算委員会。午後のトップバッター。

 逢坂誠二「総理、今日はお世話になります。特に政調会長時代はお世話になりまして、ありがとうございますが、岸田総理とお話をしていてですね、政治や考え方に私と近いところがあるなあと思いますので、非常に期待をしておりますので、どうぞよろしくお願いいたします――」

 「政治や考え方に私と近いところがある」からと言って、首相としての岸田文雄が自身の利害のみで首相を成り立たせているわけではなく、既に触れてきたように自民党最大の支持母体である経団連の利害の制約下にあるだけではなく、自民党の利害にも左右されるし、閣僚間の利害にも影響を受けないと保証はできない。影響を受ければ、政治や考え方が近くても、その近さは何の意味もなくなる。その上、政治の現実は一つの党が全ての階層、全ての団体の利害を代弁できる程に広範な能力、あるいはオールマイティな能力を有していないことを示している以上、自民党政治と立憲政治の全体的な結果としての政治の恩恵が全階層にそれぞれの収入に関係なしに、あるいは全企業にそれぞれの経営規模に関係なしに等しく分配されるという答を出すことはないのだから、答えを出していたとしたら、格差社会など存在することはなかったろう、政治や考え方が近いというだけのことでは片付かない立場の違いを認識していなければならないずだが、認識すらできずに、「非常に期待をしております」と岸田政治と自身の政治の近さを以って期待さえ見せている。この平和な距離感は何を意味するのだろう。

 逢坂誠二が自民党入りに色気を示しているなら話は別だが、そうでなければ、政治や考え方が近いという観点のみで想定しうる先のことを頭に置かずに岸田文雄個人に期待をかけるというのは常に胸に秘めていなければならない政治の違いを示して対峙していなければならない姿勢の手ぬるさをどうしようもなく与えることになる。

 岸田文雄が例え首相という地位にあっても経団連の利害以外に様々な利害の影響を受けて、個人の思いとは離れた態度を取る例を、実際には挙げるまでもないことだが、挙げざるを得ない。2021年3月25日、自民党の「選択的夫婦別氏制度を早期に実現する議員連盟」が設立総会を開いた。そのとき岸田文雄は閣僚としても、党役員としても無役のときだったが、会の呼びかけ人の一人となった。だが、首相に就任しても、選択的夫婦別氏制度早期実現に何らの指導力も発揮していない。首相として国会で質問を受けても、「国会議員がこの制度を利用するのではなく、広く国民全体がこれを受け入れる制度で、子どもの氏をどうするのかも含めて、もっと議論していくことは重要だ」(2021年12月17日参院予算委員会)と共産党の小池晃に答弁しているが、早期に実現する呼びかけ人の立場から議論継続の立場へと姿勢を後退させている。

 2021年9月29日投開票の自民党総裁選第1回投票は岸田文雄256票、河野太郎255票、高市早苗188票で過半数を超える者がなく、岸田文雄と河野太郎の決選投票となった。第1回投票の国会議員票を見てみると、岸田146票、高市早苗114票、河野太郎86票で2位をツケたのは河野ではなく、高市だった。安倍晋三が高市を支持したことから獲得した国会議員票と見られていた。

 第2回決選投票は岸田文雄257票、河野太郎170票で岸田が制したが、国会議員票のみを見てみると、岸田246票、河野131票。岸田が103票増やしたのに対して河野は45票しかプラスさせていない。第2回投票で安倍晋三が高市から岸田に支持を変えたことの影響で高市の第1回の国会議員票の多くが岸田に流れたと見られていた。しかも安倍晋三は現在は自民党最大派閥のボスに収まっている。

 安倍晋三も高市早苗もコチコチの選択的夫婦別姓制度導入反対派である。いくら岸田文雄が「選択的夫婦別氏制度を早期に実現する議員連盟」の呼びかけ人に名前を連ねていたとしても、無役当時のこのことに関する利害と首相となった現在の同様問題に対する利害は明らかに違いを見せることになる。安倍晋三と高市のご機嫌を損ねたら、岸田内閣は立ち行かなくなる利害下にある。夫婦別姓制度導入に寝たふりをしなければならないことからの後退姿勢なのは明らかである。

 かくこのように首相と言えども、その態度も発言も様々な利害の影響下にある。これで「政治や考え方に私と近いところがある」などと言ってはいられないノー天気なことだと理解できるはずである。大体が明確に反自民・立憲支持の有権者は逢坂誠二の発言に「一体どうなってるんだ」と戸惑うに違いない。

 もう一つ、首相個人の利害のみで純粋に行動できるわけではなく、他の利害を受けざるを得ない例を挙げてみる。この記事を書いていたときにNHKの朝のニュースでやっていたのだが、安倍晋三と麻生太郎と茂木敏充の各派閥のボスが2021年12月22日の夜に会談して、3派閥が結束して岸田政権を支え、来年参院選での勝利を目指すことで一致したと伝えていた。安倍派95人、麻生派53人、茂木派53人の自民党衆参議員373人中の半数を超える計201人となって、この3派閥の結束が無視できない人数を構成する以上、岸田文雄にとって有り難かろうと、有り難迷惑であろうと、首相職を維持する上での利害は3派閥の利害に折に触れて制約を受けることになる。茂木敏充が代表質問で新自由主義の「市場原理主義には組みしません」と約束しても、特に安倍晋三と麻生太郎が新自由主義の市場原理を奉じている以上、経団連だけではなく、身近なところから2人に引っ張られ、望むと望まざるに関わらず新自由主義の市場原理主義への引力が働き、「人に温かい資本主義」のはずが大企業や富裕層に「温かい資本主義」となる、今までと同様の同じ光景を見ることになるだろうということは十分に予想できる。そしてその一つが既に触れた金融所得課税強化の先延ばしに2人が一枚噛んでいたファクターとして鎮座していた可能性は否定できない。

 その一つの証拠。「asahi.com」(2021年12月26日 14時11分)

 2021年12月26日放送のBSテレ東番組発言。

 安倍晋三「(「新しい資本主義」を掲げる岸田文雄首相の経済運営について)根本的な方向をアベノミクスから変えるべきではない。市場もそれを期待している。ただ、味付けを変えていくんだろうと(思う)。『新自由主義は取らない』と岸田さんは言っているが、成長から目を背けると、とられてはいけない。改革も行わなければならない。社会主義的な味付けと受け取られると市場も大変マイナスに反応する」

 安倍晋三は自身と麻生太郎、茂木敏充の3派閥が2021年12月22日の夜に会談してから4日後の早々に自らの利害を以ってして岸田文雄の利害を支配下に置こうと画策している。安倍晋三の利害とは勿論のこと、新自由主義を基本原理としているアベノミクスの呪縛下に岸田文雄の利害――「新しい資本主義」を絡め取って、可能な限り経済政策をアベノミクスの領域から足を踏み出さないように派閥圧力を掛けることである。例え茂木敏充が2021年12月8日の「代表質問」で、「我々は『新自由主義』と言われるような競争一辺倒で、もうこれ以上消費できない『勝ち組』と意欲を失ってしまう『負け組』をつくるような市場原理主義には組みしません」と言った手前、内心は安倍晋三のこの発言にまずいなと思ったとしても、いつかは総理総裁を目指す身、安倍晋三の手を借りなければならない利害が自らに見て見ぬ振りを強いることになるだろう。

 こういった利害の制約に否応もなしに縛られている岸田自民党政治と立憲民主党の政治の違いを有権者に差し出すには、その気があるならの話だが、立憲民主党は連合を最大の支持母体としていて、連合傘下の組合員とその組合に加入していなくても、同じ階層の一般サラリーマンや労働者の利害を代弁していること、その最大の利害は格差の縮小を政治の恩恵とすることなどをもっと正々堂々と訴える以外にないはずだ。
 
 泉健太にしても、逢坂誠二にしても、小川淳也にしても、その他その他が政権交代を狙わなければならない自分たちの立ち位置に対する自覚が甘いということなのだろう。自分たちは自覚を十二分に持っていると思っているのだろうが、有権者にその自覚をストレートに伝えることができる発言や態度となっていない。思いと実際とのズレによって生じている甘さが立憲民主党ばかりか、野党全体に亘って現れている国家権力の監視に向けた追及・批判の時間ばかり費やして徒労に終わらせ、結果的に政権の延命に手を貸す要因となっているのだろう。少なくとも政権交代がなぜ必要なのかの定義づけだけは行って、中流階層とそれ以下の階層に自らの存在意義がどこにあるのかを明確に伝えていかなければならない。

 「野党第1党は政権の受け皿たるべきだ」のみでは理由も目的も、またどの階層に向かっての発信なのかも伝わっていかない。「批判ばかり、政権担当能力なし」と見ている有権者からしたら、その見方を変える気も起こらない、ただの強がりしにしか映らないだろう。

 以上、立憲民主党は政権の受け皿としての資格・存在意義をどこに置くべきかを述べてきた。自民党政治の恩恵から置き去りにされ、生活格差の底辺及びその近辺に置かれた中流階層以下の国民に政治の光を当てて、受けるにふさわしい政治の恩恵を正当な権利として受け取ることができる政治状況に持っていくためには自民党政治と対決して、自らの政権の受け皿としての資格・存在意義を如何に有権者に訴えることができかどうかは偏に立憲民主党の力量――所属議員一人ひとりの力量にかかっている。

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安倍晋三、高市早苗、丸川珠代等々の夫婦別姓反対理由にジャンケンで決めてもいい子どもの氏の安定性喪失を挙げる政治家は教育を語る資格なし

2021-11-29 08:37:06 | 政治
 2021年10月18日に10月31日投開票衆院選の政策を問う日本記者クラブ主催の9党首討論会が開催され、「第1部党首同士の討論」で立憲民主党代表の枝野幸男が選択夫婦別姓政策に関して自民党総裁岸田文雄に議論を仕掛けた。その答弁は岸田政権の選択夫婦別姓政策の今後の行方をほぼ確実に予想させることになる。その部分だけを取り上げてみる。

「枝野×岸田:夫婦別姓」
(2021年10月18日 13:00 〜 15:00 日本記者クラブ10階ホール)
 
 枝野幸男「ジェンダー多様性について岸田総裁にお尋ねしたいと思います。選択的夫婦別姓について法制審議会が進めるべきだと答申を出したのは四半世紀前です。当事者は待ってはくれません。岸田さんご自身が自民党内の推進議連の呼びかけ人だったはずですが、総裁になった途端にどっかに行ってしまいました。

 子どもたちの氏のことをどうも色んなところでおっしゃっておられますが、選択的夫婦別姓が実現されていないために止む無く法律上の婚姻届を出さない。事実婚で対応しているご家庭、そうしたご家庭が、いずれも子どもの氏については夫婦間の合意によって何の問題もなく、子どもたちもすくすく成長し、もはやそうしたみなさんが成人となって、早く選択的夫婦別姓を実現して欲しいという声を上げておられます。

 まさにジェンダー平等の推進、多様性ある社会を進めていく上で何としても入り口のところの大きな、大きなハードルがこの選択的夫婦別姓が進まないということです。

 私自身、28年間、国会議員としてこの問題、取り組んでまいりました。ぜひ岸田総裁に前向きのお答えをお願いしたいと思っております」

 岸田文雄「先ず選択的夫婦別姓の問題については多様性を尊重する立場から、また困っている方がおられるわけですから、こうした問題にしっかりと向き合って、議論していくことは大変重要だと思っています。

 枝野代表は28年間、こういう議論に関わっているというお話がありました。しかしこの問題は社会全体で受け入れる問題です。えー、社会全体、私も地元で車座になって、多くの皆さんと意見交換する中で選択的夫婦別姓の問題、これを取り上げることもあります。そういった際に多くのお母さんたちから『子どもがたくさんいるけれども、この子どもたち、それぞれバラバラの氏を選ぶんですか。いつ選ぶんですか。誰が選ぶんですか。あとから変えられるんですか』、色んな疑問の声出ています。

 あの、一般の方々にとってはまだまだ、この問題、深めなければならない点、たくさんあるんではないか。そういった点から、引き続き議論していくことは大変重要だと思っています」

 司会者「枝野さん、一言簡潔に」

 枝野幸男「えー、あのー、当事者の皆さん、待ってはおられませんし、世論調査などでもですね、えー、もう過半の皆さん、特にですね、婚姻の当事者である、確率の高い若い世代ではですね、こんなことは当たり前なんで、こんな当たり前のことが通用しないんだというのが多くの若い皆さん、当事者的な立場にある皆さんの声です。是非、そうした皆さんの声をしっかり踏まえながらも、そうした皆さん(子ども氏の問題はどうするのかと言っている皆さん)を説得して早く実現すべきだというふうに思っています」

 枝野幸男は岸田文雄に対して選択的夫婦別姓の法制化に「前向きのお答えをお願いしたい」と申し出た。申し出るのは岸田文雄がかつては自民党内の法制化推進議連の呼びかけ人だったはずだが、「総裁になった途端にどっかに行ってしまって」、「子どもたちの氏のことをどうも色んなところでおっしゃって」法制化に慎重な姿勢になっている。そのような姿勢を「ジェンダー平等の推進、多様性ある社会」の実現のために、いわば改めて欲しいと求めた。

 枝野幸男が岸田文雄のことを「子どもたちの氏のことをどうも色んなところでおっしゃっている」と指摘したのは「子どもの氏の問題」が自民党内の法制化反対派の反対の大きな理由の一つとしていることを承知しているからで、そのことを前提とした発言であろう。もう一つの大きな反対理由は子どもの氏を含めた家族別姓だと「家族の一体感」が損なわれることを挙げている。

 岸田文雄は枝野幸男の選択的夫婦別姓法制化推進の申し出に対して案の定と言うべきか、自民党内法制化反対派の反対の大きな理由の一つである「子どもの氏の問題」を持ち出した。「多くのお母さんたちから『子どもがたくさんいるけれども、この子どもたち、それぞれバラバラの氏を選ぶんですか。いつ選ぶんですか。誰が選ぶんですか。あとから代えられるんですか』、色んな疑問の声出ています」ことを理由にまだまだ議論を深めていかなければならないから、早急な法制化の推進はできないと示唆した。

 安倍晋三も岸田文雄と同様、議論の進捗の必要性を訴える一人であるのは2018年2月5日の衆議院予算委員会で当時希望の党所属、現在自民党議員の井出庸生が、戸籍法では日本人同士の婚姻の場合のみが一方の氏を名乗る義務付けが行われていて、外国人と日本人の婚姻では両方の氏を名乗ることができる、離婚した際、外国人と日本人の場合も、旧姓に戻すことも、結婚時の姓のままでも許される。なぜ日本人同士の結婚だけが一方の氏を名乗ることを義務付けられているのか、「感想を一言頂ければと思います」と安倍晋三に質問した。

 安倍晋三「総理大臣としては感想というわけにはまいらないのでございますが、この問題は、我が国の家族のあり方に深くかかわるものでありまして、国民の間にさまざまな意見があることから、国民的な議論の動向を踏まえながら慎重に対応する必要があるものと考えております」

 「国民的な議論の動向を踏まえる」ということは議論の行方を見極めるということだが、見極めるについては議論の進捗が必要となるが、夫婦別姓法制化に向けて議論をリードするといった姿勢は微塵も見せていない。尤も安倍晋三が使う「リードする」の言葉は勇ましくは聞こえるが、実質を伴わないことの代名詞となっているケースが多い。「世界の温暖化対策をリードする」、「唯一の戦争被爆国として日本が世界の核軍縮、不拡散をリードしてまいります」、「21世紀こそ、女性に対する人権侵害のない世界にしていく。日本は、紛争下での性的暴力をなくすため、国際社会の先頭に立ってリードしていきます」等々。特に最後の言葉、日本は国同士の紛争に国際社会の先頭に立って調停役として乗り込んだことがあっただろうか。殆どが他国に追随するか、求められてのPKO派遣といったことが多い。

 安倍晋三はまた、2020年11月25日発足の夫婦別姓法制化反対の活動拠点である議員連盟「絆を紡ぐ会」(共同代表に高市早苗前総務相、山谷えり子元拉致問題担当相)の第4回会合に講師として招かれ、「日本を護る〜これからの政治」をテーマに講演している。(「上野宏史衆議院議員オフィシャルサイト」

 講演内容は、〈中国との外交関係における心構え、マスメディアの在り方など、安倍前総理からも「この場限りで」という言葉が何度も出るほど踏み込んだお話。若手議員の頃のエピソード、故中川昭一衆議院議員との関係などについても触れられ、大変刺激的で勉強になる内容でした。〉と触れているだけで、肝心の夫婦別姓については何の説明もないが、夫婦別姓法制化が「家族単位の社会制度の崩壊」と考えている高市早苗と山本えり子が共同代表を務める「絆を紡ぐ会」に講師として招かれ、「日本を護る〜これからの政治」をテーマに講演しているのである。「日本を護る」の中に従来の家族同姓を単位とした社会制度の維持を念頭に置いていないことはなく、少なくとも夫婦別姓反対の意思を窺わせる発言をしなかったとは考えにくい。

 安倍晋三が2019年7月21日参院選投開票前の2019年6月30日「ネット党首討論」で、立憲民主党代表枝野幸男から選択的夫婦別姓の導入の是非を問われて「経済成長としての課題ではない」と答弁したというが、別姓導入の是非そのものについては答弁を拒否していることになって、別姓反対の意思表示となるが、この態度には導入を明確には否定すまいとする意思表示も同時に現れている。野党やマスコミ、世論から明確に反対派だと刻印された場合、他の女性政策等に悪影響することを避ける意味合いからの曖昧戦術なのだろう。「絆を紡ぐ会」第4回会合での講演でも、導入に明確には否定しなくても、婉曲的に導入反対の発言はしていると思われる。

 枝野幸男は岸田文雄が「子どもたちの氏のことをどうも色んなところでおっしゃっている」と指摘している以上、岸田文雄のこの回答を当然のことと予測し、子どもたちの氏の問題が選択的夫婦別姓反対の理由にならないことを理論武装し、その武装した理論を以ってして岸田の「引き続きの議論」の必要性を論破しなければならなかった。理論武装とは、断るまでもなく言葉を武器に自らの理論(=主張)を武装し、その武装した理論(=主張)を駆使して事の是非を戦わせることである。相手の武装した理論(=主張)と自らが武装した理論(=主張)で戦わせて、事の是非に決着をつけることである。

 だが、枝野幸男は岸田文雄の回答に対して一言、異議なり、賛意なりを申し立てる権利を与えられていながら、子どもたちの氏の問題に答えることと関係しない世論調査を持ち出して、夫婦別姓の当事者となり得る可能性の高い若い世代の賛成が多いのだから、そういった声を踏まえて欲しいとお願いに出るだけで、反対派が最も重視している問題点の一つである子どもたちの氏の問題に的を絞って武装した理論を前以って用意し、それを用いて岸田文雄の理論(=主張)を論破することを怠った結果、問題提起も問題提起に対する反応も既に見てきた遣り取りと同じ繰り返しを見せることになった。要するに堂々巡りを演じたに過ぎない。

 相手は与党の代表であり、自身は野党第1党の代表である。総選挙を控えて気骨のあるところをアピールしなければならない場面でこのような情けない有様では頼り甲斐がないなと心配していたが、総選挙で議席を減らしたということは一事が万事、選挙戦を通して有権者の多くは枝野代表に気骨を感じることが少なかったということなのだろう。

 枝野幸男は最初の議論のところで、「私自身、28年間、国会議員としてこの問題、取り組んでまいりました」と28年間の取り組みを誇っているが、28年間も取り組んでもなお、自民党を法制化のスタートラインに立たせることもできないのだから、誇るどころか、実際は枝野自身の28年間の無力を曝け出したに過ぎない。恥じ入って然るべきなのだが、逆に誇る自身に対する甘さは気骨のなさに通じ、一政党の代表を務める資格があったのかどうかを疑わせる。

 自民党内の選択的夫婦別姓法制化反対の強硬派、安倍晋三の秘蔵っ子高市早苗も、秘蔵っ子かどうか知らない山谷えり子も夫婦別姓によって夫婦の間の氏の違いだけではなく、子どもの氏が夫婦いずれかの氏と違いが出たり、子どもが複数の場合、ときには子どもの間でも氏の違いが出ることを「社会の秩序」や「家族の絆」、「家族の一体感」を破壊する要因と見て、法制化反対の主たる根拠としている。

 立憲民主党などが選択的夫婦別姓導入賛同の意見書を地方議会に送付、採択の動きに危機感を募らせたのだろう、自民議員50人が採択しないよう求める文書を全国40議会の議長に送付したという。その中には勿論、高市早苗も入っているし、山谷えり子も入っている。選択的夫婦別姓制度導入反対の世間によく顔を出す常連と言ってもいい。ほかに片山さつき、有村治子、西田昌司、丸川珠代などなど、有名どころが顔を揃えている。特に丸川珠代はこの文書に名を連ねて地方議会送付約半月後に3つの基本コンセプトの1つ、「一人ひとりが互いを認め合う(多様性と調和)」を掲げた東京オリンピック・パラリンピックの競技大会担当相に就任、自らの思想との矛盾に気づかなかったのか、薄々気づきながら、閣僚就任の栄誉のために矛盾を無視したのか、誤魔化し答弁の多い丸川珠代の人物像に照らし合わせた場合、後者の見事な使い分けではないかと見たが、どうだろうか。

 マスコミ報道から見つけた、埼玉県議会議長の田村琢実県議に送った文書から子どもの氏の問題が選択的夫婦別姓法制化の反対理由にはならないことを、以前ブログで取り上げたことがあるが、今回は親の子どもに対する教育力という観点から根拠づけて見ることにする。

 「選択的夫婦別姓の反対を求める文書」(東京新聞/ 2021年2月25日 19時46分) 

 厳寒のみぎり、先生におかれましては、ご多用の日々をお過ごしのことと存じます。貴議会を代表されてのご活躍に敬意を表し、深く感謝申し上げます。

 本日はお願いの段があり、取り急ぎ、自由民主党所属国会議員有志の連名にて、書状を差し上げることと致しました。

 昨年来、一部の地方議会で、立憲民主党や共産党の議員の働き掛けにより「選択的夫婦別氏制度の実現を求める意見書」の採択が検討されている旨、仄聞しております。

 先生におかれましては、議会において同様の意見書が採択されることのないよう、格別のご高配を賜りたく、お願い申し上げます。

 私達は、下記の理由から、「選択的夫婦別氏制度」の創設には反対しております。

1 戸籍上の「夫婦親子別氏」(ファミリー・ネームの喪失)を認めることによって、家族単位の社会制度の崩壊を招く可能性がある。

2 これまで民法が守ってきた「子の氏の安定性」が損なわれる可能性がある。

※同氏夫婦の子は出生と同時に氏が決まるが、別氏夫婦の子は「両親が子の氏を取り合って、協議が調わない場合」「出生時に夫婦が別居状態で、協議ができない場合」など、戸籍法第49条に規定する14日以内の出生届提出ができないケースが想定される。

※民主党政権時に提出された議員立法案(民主党案・参法第20号)では、「子の氏は、出生時に父母の協議で決める」「協議が調わない時は、家庭裁判所が定める」「成年の別氏夫婦の子は、家庭裁判所の許可を得て氏を変更できる」旨が規定されていた。

3 法改正により、「同氏夫婦」「別氏夫婦」「通称使用夫婦」の3種類の夫婦が出現することから、第三者は神経質にならざるを得ない。

※前年まで同氏だった夫婦が「経過措置」を利用して別氏になっている可能性があり、子が両親どちらの氏を名乗っているかも不明であり、企業や個人からの送付物宛名や冠婚葬祭時などに個別の確認が必要。

4 夫婦別氏推進論者が「戸籍廃止論」を主張しているが、戸籍制度に立脚する多数の法律や年金・福祉・保険制度等について、見直しが必要となる。

※例えば、「遺産相続」「配偶者控除」「児童扶養手当(母子家庭)」「特別児童扶養手当(障害児童)」「母子寡婦福祉資金貸付(母子・寡婦)」の手続にも、公証力が明確である戸籍抄本・謄本が活用されている。

5 既に殆どの専門資格(士業・師業)で婚姻前の氏の通称使用や資格証明書への併記が認められており、マイナンバーカード、パスポート、免許証、住民票、印鑑証明についても戸籍名と婚姻前の氏の併記が認められている。

 選択的夫婦別氏制度の導入は、家族の在り方に深く関わり、『戸籍法』『民法』の改正を要し、子への影響を心配する国民が多い。

 国民の意見が分かれる現状では、「夫婦親子同氏の戸籍制度を堅持」しつつ、「婚姻前の氏の通称使用を周知・拡大」していくことが現実的だと考える。

※参考:2017年内閣府世論調査(最新)

夫婦の名字が違うと、「子供にとって好ましくない影響があると思う」=62.6%

 以上、貴議会の自由民主党所属議員の先生方にも私達の問題意識をお伝えいただき、慎重なご検討を賜れましたら、幸甚に存じます。

 先生のご健康と益々のご活躍を祈念申し上げつつ、お願いまで、失礼致します。

令和3年1月30日

 以下自民党の衆院議員と参院議員の50人の名前が雁首よろしく並んでいる。

 文書から選択的夫婦別姓の場合の「子どもの氏」がどのような点で社会維持の障害になると主張しているのか見てみる。

 〈1 戸籍上の「夫婦親子別氏」(ファミリー・ネームの喪失)を認めることによって、家族単位の社会制度の崩壊を招く可能性がある。〉

 「認めることによって」と断っているから、「選択的夫婦別姓制度」が成立した場合のことを前提とした危惧を取り上げていることになる。「夫婦親子別姓」家族であっても、「夫婦親子同姓」家族同様に一つの家族であることに変わりはなく、そうである以上、社会を構成する家族の単位として存在する。どこに社会制度の崩壊を招く要因があるというのだろうか。もし「夫婦親子別姓」は家族ではないと言うなら、その根拠を示すべきである。「夫婦親子別姓」家族でも、「夫婦親子同姓」家族でも、夫婦、子どもの間でそれぞれが信頼関係を持ち得なくなっていたとしても、名ばかりの家族、あるいは形だけの家族と言うだけのことで、どちらの家族にしても社会を構成する家族の単位としての地位を失うわけではない。

 家庭内離婚状態の家族であっても、引きこもりの歳のいった子どもを抱えている家族であっても、そういった家族が社会の少なくない割合を占めることになったとしても、そのことがそのまま「家族単位の社会制度の崩壊」を意味するわけではない。家族の崩壊と家族単位の崩壊とは別物である。

 勿論、夫婦親子別姓だろうが、夫婦親子同姓だろうが、成員全てが相互の信頼関係で成り立っていることが理想だが、そのような成り立ちでなくても、「夫婦親子別姓」の家族であろうと、「夫婦親子同姓」家族であろうと、血の継がながっていない夫婦養子家族であろうと、社会を構成する単位としての一つ一つの家族そのものである。「夫婦親子別氏」(ファミリー・ネームの喪失)を認めることになったなら、何故に「家族単位の社会制度の崩壊」を意味することになると言うのだろうか。

 要するに夫婦別姓を法律が認めることになってもなお、家族とは夫婦同姓の家庭と頭から思い込んでいるから、「家族単位の社会制度の崩壊」に見えることになるのだろう。

 「夫婦親子別氏」は「ファミリー・ネームの喪失」と把えているが、別々のファミリー・ネームを持つだけのことで、「喪失」という過程を踏むわけではない。ファミリー・ネームが2つになるだけのことに過ぎない。娘が結婚して夫の氏を名乗ることになったが、親の家に同居することになって、表札が2つとなる家族は多いが、近所への挨拶回りで周囲は納得する。夫婦別姓で一つの家族を構えることになったとしても、そのことを告げる近所への挨拶回りをすることで、近所の不審や勝手な推測を回避できる。「当家は夫婦別姓家族で、表札は2つ出すことになりますから、よろしくお願いします」と説明しさえすれば、安倍晋三や高市早苗のように戦前日本国家を理想の国家像とし、戦前の家族制度を絶対と狂信さえしていなければ、それ相応の対応をしてくれる。さらに夫婦別姓が一般的になれば、挨拶回りをしなくても、2つの表札を見るだけで、近所の住人は夫婦別姓の家だろうかと予測する習慣を身につけることになる。「一家族一氏(一ファミリー・ネーム)」と頭から決めてかかっているから、「ファミリー・ネームの喪失」などといった大袈裟な発想が飛び交うことになる。

 2つの表札を見て、近所の住人が夫婦別姓の家だろうかと予測する習慣を身につければ、〈3 法改正により、「同氏夫婦」「別氏夫婦」「通称使用夫婦」の3種類の夫婦が出現することから、第三者は神経質にならざるを得ない。〉は回避可能となる。

 〈2 これまで民法が守ってきた「子の氏の安定性」が損なわれる可能性がある。〉 

 言っていることはそれぞれの夫婦の氏が子どもによって代々受け継がれていくことを「氏の安定性」と見ているのだろうが、人間を見ずに氏という形式だけを見ていることになる。別姓夫婦の間の子どもが両親の影響を受けて同じ別姓の結婚を選択した場合、別姓が慣習化され、最初は一つであった氏の家庭から異なる氏が枝分かれしていく可能性が生じて、何々家という同一の氏の連続性は不確かなものになるかもしれないが、最も弁えなければならない点は父親も母親も子どもも、この世に生を受け、出生届によって自分の意思とは無関係に付与された一人ひとりの氏にプラスした自分の名前は他者と自分を区別し、行為の主体を明示する名称に過ぎないということである。

 実際には行為の主体は氏と名前ではなく、あくまでも自分自身である。自分という人間、自分という存在である。だが、その自分自身、自分という人間、自分という存在はそれぞれが特定の氏と名前を持ち、結果的に氏と名前によって行為の主体を表すことになる。第三者にしても、彼自身(あるいは彼女自身)、彼(あるいは彼女)という人間、彼(あるいは彼女)という存在が様々な行為を作り出しているのだが、便宜的に相手の氏と名前によって行為の主体と看做すことになる。

 自分は何者であるのか(=どういった人間であるのか)、何者であろうとするのか(=どういった人間を目指すのか)を目的とする、人間なら誰しも行うが、多くが無意識的に行い、意識的に取り掛かる少数の自己確立は自分自身、自分という人間、自分という存在をベースにして継続的に行うことになるものの、自分自身、自分という人間、自分という存在は氏と名前によって特定されることから、それぞれの自己確立は氏と名前付きで説明されることになる。誰それは何を成し遂げたとか、成し遂げなかったとか。結果、自己確立は氏と名前と相互に密接不可分の関係を築くことになる。

 自己確立は一方で業績や経歴の形を取り、業績や経歴は自分という存在に対する周囲や社会からの評価の対象となるが、その評価はやはり氏と名前が代弁することになる。一方で業績や経歴を生み出している様々な資質や能力・才能、性格等々を統合させた形の自己同一性(アイデンティティ)を形作り、形作った自己同一性(アイデンティティ)に基づき、相当程度の固定性を持って社会的行動も個人的行動も見せていくことになるから、その自己同一性(アイデンティティ)にしてもやはり氏と名前に紐付けられてあれこれの評価を受けることになる。

 そして自己確立と自己同一性(アイデンティティ)は両者相互作用を受けて、氏と名前に紐付けられた自他の生き方の曲りなりの全体像、あるいは自他の存在の曲りなりの全体像を示すことになる。勿論、中には十全な全体像を示すことになる自己確立や自己同一性(アイデンティティ)に到達する者も数多く存在している例もあるに違いない。いずれにしても自己確立と自己同一性(アイデンティティ)は意識しても意識しなくても、自他の存在の核を成すことになり、氏と名前に従ってそれぞれがどのような核となっているのかの評価を受けることになる。

 かくかように自他の全体像を輪郭付けると同時に自他の存在の核となる自己確立も自己同一性(アイデンティティ)も、自他の存在性の問題であるにも関わらず、氏と名前で世に紹介し、紹介され、それぞれの評価を受けることになる。当然のこと、自己確立について回る業績や経歴にしても、自己同一性(アイデンティティ)が映し出すことになる資質や能力・才能、性格等々にしても、氏や名前を励みとするものの、氏や名前そのものが作り出すのではなく、存在自体が生み出す数々の要素でありながら、氏と名前に代表させて世間に問い、世間は氏と名前でそれらの要素と向き合う。

 例えば自身の氏と名前が山田太郎だとする。他者と自身を区別して、自身の存在を特定する符号である氏と名前が自己確立や一定程度の成長後に獲得していくことになる自己同一性(アイデンティティ)を形成していくわけではなく、氏と名前を与えられた存在自体の成長が自然と両方の形成を促していくことになるのだが、当初は生まれてから当分の間は無意識的な存在であったものの、山田太郎と氏と名前を与えられたことで自分は山田太郎という人間であり、他人からも山田太郎という名の人間だと区別されることで知る自他の認識能力を身につける物心つく年齢から、社会的本能(父親や母親との関わりに始まって、大小様々な社会を作ろうとする本能)によって手始めに父親や母親を含めた、あるいは先に生まれた兄や姉と呼ばれる他者との関わりの中で自分はどのような人間であるかを知り始め、自分にとってどのような人間であるのが望ましいのかのごくごく初歩的な自己確立の歩みを始め、と同時にその歩みは、ごく当たり前のことだが、現在も進行途中にあり、将来に向かって歩みは続いていくのだが、その歩みは氏と名前を継続的な支えとして行われることになる。

 だからこそ、既に触れたように自己確立の成果の一つとしてある業績や経歴にしても、自己同一性(アイデンティティ)が資質や能力・才能、性格等々を統合して成り立たせることになる人となりにしても、氏と名前に紐付けて、あれこれと取り沙汰したり、取り沙汰されたりする切っても切れない関係を築いていくことになる。

 この点は同姓夫婦の子どもであっても、別姓夫婦の子どもであっても同じであって、両親から与えられた両親いずれかの氏と同じく両親から与えられた両親とは異なる自分の名前に基づいて「自分は」という自身に対する言い聞かせを継続的な支えとし、当初からの他者にプラスした幼稚園の友達や友達の父母、小学校の友達やその両親といった新たな他者との関わりの中で何者であるのか(=どういった人間であるのか)、何者でありたいのか(=どういった人間を目指すのか)の初期段階の自己確立の旅を進めていく。そのような自己確立は例え言葉で説明されなくても、あるいは理解するための言葉を自分から編み出さなくても、「自分は」という自身に対する言い聞かせを本能的な指令として、その旅を前進させていき、成長と共に自分自身の上に重層的に築かれ、整えられていく。但しプラスの資質のみで整えられるわけではない。マイナスの資質も混じることになる。

 つまり本質のところで重要な要素は氏と名前ではなく、当然、氏の連続性を意図する「氏の安定性」でもなく、自分という人間がどう生きるかの生き方にこそ重点を置かなければならないことになる。この逆の構図を重視する考え方は個人にではなく、家とか氏を重要な権威として崇める権威主義者、形式主義者の類いであろう。

 氏の連続性が自己確立の確かな後ろ盾とはならない例を挙げてみる。映画や演劇に於ける有名な演技者の息子や娘が父親と同じ道を進んだとしても、父親同様の創造的な才能に恵まれる保証はなく、凡庸な演技者に終わることが少なくないことは自己確立の素材は名前にプラスした由緒ある氏といったことではなく、あくまでも自身の氏と名前で特定される自分という存在そのものに置くべきウエイトを氏の連続性へと置き方を間違えたことによるのだろう。

 父親が社会的に認められる自己確立を果たしたとき、その子どもが父親と同様の自己確立を果たさなければならないわけではない。子どもは子どもなりの自己確立を果たして、社会の生き物の一人として社会にあり続けることになる。自分とは何者か、自分は何者であろうとするのかの自己を確立した自分自身は何者であるかを作り出している様々な資質や能力・才能を統合した自己同一性(アイデンティティ)に基づいて行動し、自己同一性(アイデンティティ)を生き方そのものとして社会的存在として在り続ける。政治家が有力支持者のために政治を私物化し、個人的に何らかの便宜を図るのも、様々な資質や能力・才能を統合した自己同一性(アイデンティティ)に基づいた生き方の一つとして行っていることになる。

 新庄剛志が日本ハムの監督になった。「俺は新庄剛志だ」と自らの氏と名前を最大限の支えにしたとしても、実際には「新庄剛志だ」と特定した自分という存在、特定した自己を支えに現在の自己確立と自己同一性を獲得してきたはずだし、今後監督として成功するのか成功しないのかは現在のところ未知数だが、「俺は新庄剛志だ」と特定した自己存在に応じて優勝という新たな自己確立の獲得とその栄誉を加えた自己同一性の獲得に挑戦していくはずだ。

 いわば自分の曲りなりの生き方の全体像、あるいは自身の存在の曲がりなりの全体像の決定要素となる自己確立と自己同一性(アイデンティティ)は自分自身、あるいは自分という人間、あるいは自分という存在をこの社会に如何に生かしていくかに関係するが、氏と名前を支えに行われることから、自己確立と自己同一性(アイデンティティ)から氏と名前は外せない重要なピースとなる。

 こういった事情が結婚後、夫の氏とは異なる自分の氏を名乗ることができる選択的夫婦別姓制度の導入を求める女性が出てくる理由となっているはずだ。選択的夫婦別姓反対派は生まれながらの氏を通称として用いれば、業績も評価も経歴も、結婚前と変わりなく維持できると簡単に考えているようだが、そう簡単にはいかないことになる。生後、自他の認識能力が身につく物心つく年齢から結婚までの20年有余の人生の前半をかけ、自分はどうあるべきかの自己確立を積み重ね、自己同一性(アイデンティティ)へと発展させるについては生まれたときに与えられた氏と名前を一体的で大事な拠り所、あるいはバックボーンとしてきた。結婚後は自己確立と自己同一性(アイデンティティ)への取組みが終わるわけではなく、結婚後も取組み続けなければならない。両者共に半生をかけて成し遂げていかなければならない自己存在性への挑戦だからだ。自己確立と自己同一性(アイデンティティ)の継続に従って氏と名前の継続性を求めたとしても、無理はない、人間的に自然な道理だろう。

 ところが結婚後に通称を用いることになった場合、生まれながらの氏から夫の氏への変更を強いられて、以後の業績や評価や経歴に関しては通称としての元々の氏で世に問う変化があったとしても、これといった差し障りは生じないかもしれないが、自己確立と自己同一性(アイデンティティ)への取組みに関しては生まれながらの氏と名前を一体的な拠り所あるいはバックボーンとして成り立たせてきた関係が生まれながらの氏から夫の氏に変更を強いられることによって、物心つく年齢から結婚までの20年有余もの間保ってきた拠り所あるいはバックボーンに変化が生じることになり、以後の自己確立と自己同一性(アイデンティティ)への取組みに継続性や一貫性を失う恐れが生じる。

 継続性や一貫性を少しでも保とうとして旧氏名を用いて「何と言っても自分は誰々だ」とした場合、現実の夫の氏と元々の氏との間にゆくゆくは二重人格的な意識の衝突が起こり、自己確立の混乱や自己同一性(アイデンティティ)の混乱に繋がっていかない保証はない。最善策は結婚しても、夫の氏を名乗らずに自身の生まれたときからの氏を名乗る夫婦別姓ということになり、夫婦別姓制度を望む女性が存在する現実があるということである。ここに通称では簡単に片付かない理由がある。

 明石家さんまは本名は杉本高文と言うそうだが、明石家さんまとして「ひょうきん族」や「踊る!さんま御殿!!」や「さんまのまんま」や「ホンマでっか!?TV」等々のテレビ番組で芸人人生を送り、映画俳優や舞台俳優としての様々な演技人生を長年に亘って積み重ねてきた。これらの業績や経歴は明石家さんまに付属した一体のものであって、この一体性が明石家さんまとしての自己確立や自己同一性(アイデンティティ)へと繋がっていったはずで、この自己確立と自己同一性(アイデンティティ)を本名の杉本高文に付属させて一体のものとすることはできない。本人の意思とは無関係のところで明石家さんまを仕事上も本名の杉本高文に戻させた場合、自己確立や自己同一性(アイデンティティ)という点でも、人格面でも、想像もつかない混乱や不利益を与えることになるだろう。

 夫婦別姓を望む女性は明石家さんまの例とは逆だが、自身の自己確立や自己同一性(アイデンティティ)を旧姓と一体のものとすることに何の差し障りもないが、新姓と一体のものとすることに不利益を感じる人格を有することになっていったということなのだろう。

 2021年6月23日に夫婦同姓は「合憲」と判断した最高裁で「合憲」との判断に対する補足意見、あるいは「合憲」との判断に対する反対意見の中で夫婦別姓は「個人の重要な人格的利益」だと位置づけている。結婚するまでの間に旧姓と名前を拠り所あるいはバックボーンとして積み上げてきた自己確立と自己同一性(アイデンティティ)の生涯に亘る継続性や一貫性こそが「個人の重要な人格的利益」に相当するとの意味を取ることになる。

 生まれたときからの氏と名前を一体的な拠り所あるいはバックボーンとして自己確立と自己同一性(アイデンティティ)を含めて自分という人間を成り立たせてきた生き方に鈍感となることができる夫であるなら、妻がもし夫婦別姓を望む場合、夫の方こそが妻の氏にして、必要であるなら、自らは最初からの氏を通称として用いればいい。そのことに耐えられる男はどれ程に存在するだろうか。男尊女卑の血を引く日本の男にとって、数多く存在するとは考えにくい。特に社会的に業績を残し、そのことが経歴となっている男程に生まれたときからの自分の姓と名前を大事にするに違いない。この女性版が男尊女卑の風潮に抗って現れたとしても、「個人の重要な人格的利益」と認めて、受け入れるべき時代に来ている。

 次に、〈2 これまで民法が守ってきた「子の氏の安定性」が損なわれる可能性がある。〉についての注釈、〈※同氏夫婦の子は出生と同時に氏が決まるが、別氏夫婦の子は「両親が子の氏を取り合って、協議が調わない場合」「出生時に夫婦が別居状態で、協議ができない場合」など、戸籍法第49条に規定する14日以内の出生届提出ができないケースが想定される。〉ことと、〈※民主党政権時に提出された議員立法案(民主党案・参法第20号)では、「子の氏は、出生時に父母の協議で決める」「協議が調わない時は、家庭裁判所が定める」「成年の別氏夫婦の子は、家庭裁判所の許可を得て氏を変更できる」旨が規定されていた。〉と子の氏の安定性に関しての懸念事項を挙げているが、先ずは「戸籍法第49条に規定する14日以内の出生届提出ができないケース」として取り上げている2項目を最初に検討してみる。

 〈その1「両親が子の氏を取り合って、協議が調わない場合」〉
 〈その2「出生時に夫婦が別居状態で、協議ができない場合」〉

 「その1」は要するに両親共々、自分の氏そのものに価値を置いていることになる。先祖代々何年続いた氏で、そこら辺の氏とは違うとか、3代続いた医者の家系で、地元では尊敬を集めていたとか、政治家の家系に育って、自分も政治家になっていて、子どもにも政治家になって欲しいから、代々続いた政治家の家系を名乗るのは知名度獲得に役立つため、夫は俺の氏にすべきだ、妻は私の氏にすべきだと争って、決着がつかないといったことなのだろう。

 確かに歴史があり、社会的に著名な氏に恵まれた場合、自尊心や自己肯定感を高めるのに役立つ小道具になるし、社会に生きていく上での際立った動機づけや世間的信用獲得の有力な道具立てともなるが、あくまでも行為の基準、あるいは行為の主体は自分自身である。行為の成果も自分自身である。常に試されるのは実質的には自分自身であって、氏でもないし、名前でもない。安倍晋三に批判的な者が問題視している事柄は友人や支持者に対する政治の私物化を平気で行う性根であり、答弁にウソが多い鉄面皮な性格であって、安倍晋三という氏と名前ではない。

 歴史を紐解いて氏が評価されても、自分自身の評価に直結するわけではない。自分自身が社会から試されて、社会の試練に合格しなければ、逆に氏の限界を世間に知らしめるだけである。氏とは無関係に自分自身が何者であるのか、何者であろうとするのかの自覚を強く持って、自己確立に努めることの方が自分自身を賢明にもするし、力強くもする。氏とは離れたところでしっかりと自己確立を果たしたとき、単に氏に連なることとは異なる自分自身に独自の、個性的な自己同一性(アイデンティティ)でもって自分は何者であるのかを押し出していくことができるはずである。

 要するに肝心なことはどのような氏なのか、誰の氏なのかではなく、与えられた氏と名前を拠り所あるいはバックボーンとするものの、より肝心なことは自分自身をどのような自分に持っていくのか、あるいは自分という人間をどのような人間に導いていくかの自覚と努力であって、自覚と努力が自分に独自の自己確立を形作っていって、独自の自己確立に応じた独自の業績や経歴を生み出し、生み出す原動力となる様々な資質や能力・才能、性格等々を統合させた形の独自の自己同一性(アイデンティティ)を成り立たせていくということである。

 このことは次の、〈その2「出生時に夫婦が別居状態で、協議ができない場合」〉についても言うことができる。

 別姓夫婦の間の子どもは自らの氏を親の判断で社会的認識能力を獲得する前に親のどちらかの氏と同じく両親から与えられた名前を所与のものとし、同姓夫婦の間の子どもにしても、社会的認識能力を獲得する前に夫婦(親)から機械的に受け継いだ氏と同じく両親から与えられた名前を所与のものとし、社会的認識能力の獲得以後、所与とした氏と名前を他者と区別する自分という人間を認識したり、判断したりする基準とすると同時に励みの対象としたり、叱ったりする対象の呼び名としながら、他者との関わりの中で自分は何者であろうとするのか、何者でありたいのかの自己確立を進め、その先に自己同一性(アイデンティティ)を手に入れていく。

 要するに氏と名前は自分という人間を表すものの、その氏と名前の自分という人間をどのような自分、どのような人間に持っていくのか、育てていくのかの自覚と実践が誰にとっても大切なことで、その自覚と実践の内容と質が自己確立の内容と質にも関係していき、自己確立の内容と質次第で自己同一性(アイデンティティ)の内容と質も決まってきて、これらのことがそのまま人間成長という形を取るということである。

 以上のことを言い変えると、父親の氏であろうと、母親の氏であろうと、常に試されるのは実質的には氏と名前ではなく、その氏と名前を持った自分自身、自分という人間、あるいは自分という存在であるということと、それらが試されて、成長の機会を与えられることになり、自分は何者であろうとするのかの自己確立を促していって、自己同一性(アイデンティティ)を手中に収めていく順序を取るのであって、一方で子どもという立場に立たされる存在は与えられた氏と名前を所与のものとしなければならない以上、親が子どもに伝えて、納得させることができる言葉の力(=教育力)を持ちさえすれば、極端なことを言うと、別姓夫婦の間の子どもの氏を父親と母親の氏のどちらにするかはジャンケンで決めて所与のものとしもいい性格のものということになる。

 と言うことなら、〈その2「出生時に夫婦が別居状態で、協議ができない場合」〉といったことは教育力のない夫婦のケースに限られることになる。協議で決めた子どもの氏であろうと、ジャンケンで決めた子どもの氏であろうと、氏が問題ではなく、子どもが一人ひとりの生き方の問題にかかっているとの常日頃からの教え(言葉の力=教育力)が重要となる。人生を決定づけるのは氏や名前ではなく、自分自身の生き方だと常日頃から遠回しに子どもに語りかける習慣が大切になる。当然、〈戸籍法第49条に規定する14日以内の出生届提出ができないケース〉の想定は選択的夫婦別姓制度の反対理由の一つとする目的の為にする懸念としか思えない。

 わざわざ「※」を付けて民主党政権時提出の議員立法案では夫婦別姓家庭の子どもの氏が簡単に決まらない事態に備えた条文になっていることを例にして、暗に混乱が生じるかのような印象づけを行っているが、家庭裁判所のお出ましまでお願いしなければ夫婦の間で決められないのは自分自身に対する教育力も子どもに対する教育力もない証拠としかならない。

 では、具体的にはどのような言葉を力(教育力)としたらいいのか、考えついたことを書いてみる。ほかの家と違って、なぜお父さんとお母さんの名字が違うのか、自分がお母さんと同じ名字で、お父さんと名字が違うのはどうしてなのか、自分の家庭とほかの家庭とで違うのはなぜなのかといったことに子どもが保育園児・幼稚園児の頃か、小学校低学年の頃か、気づいて尋ねられた場合、あるいは一旦は親が決めた父母いずれかの氏を受け入れた生活を送っていたが、反抗期になったといった理由で氏をくれた側の親の言動に苛立ったりして同じ氏であることが疎ましくなり、もう一方の親の氏の方がよく見えて、その氏にしたいと言い出す子どもも出て来た場合、同姓夫婦の間の子どもには先ずは起こり得ない現象だが、自己確立とか、自己同一性(アイデンティティ)といった難しい言葉を使って納得させようとしたら、混乱させるだけだろう。使わずに子どもを納得させるのが親の言葉の力(=教育力)ということになる。

 先ずは親の氏の違いと自分の氏が一方の親との違いを尋ねられる前の子どもの成長段階の早い時期から実質的には氏と名前が人間の発展、人間としての成長をもたらしてくれる力となるわけではないことを頭に置いて年齢に応じた言葉の丁寧さや簡易な言葉遣いで、「名字と名前が字を上手にしてくれるわけではない」、「名字と名前がかけっこで一番を取らせてくれはしない」、「名字と名前が、将来、野球選手にしてはくれるわけではない」、「名字と名前が成績を上げてくれるわけではない」等々と機会を見つけては話しかけ、それらの答として、「かけっこが早くなるのも、スポーツが上手になるのも、成績を上げるのも、頑張ろうとする自分の気持」だと、目的とする才能や能力を向上させるには自分自身の姿勢によって決まってくるといった教えとしての言葉掛けを何度も繰り返すことで、何者であろうとするのかを決めるのは氏と名前ではなく、あくまでも自分という存在、自分という人間であるという道理を子どもの意識に刷り込んでいき、否応もなしに認識という形に持っていくように仕向ける。

 以上の言葉かけを子どもが両親の名字の違いと自分の名字が一方の親とだけ同じことの理由を聞いてきた場合や現在の氏は嫌だから、もう片方の氏にしたいと言い出してきた場合の親の回答の前提としなければならない。

 その上で両親が別姓にした理由と子どもの氏を両親どちらの氏に決めたかの理由を述べることにする。

 「名字と名前は自分を表し、お父さんもお母さんも生まれてから結婚するまで、自分の名字と名前で成長してきて、今のような大人になった。名字と名前が大人の資格を与えてくれるのではないことは前々から話していたことで、理解していることと思うが、自分を表す名字と名前を支えにして成長してきたことは事実だから、そのことを大切にして、結婚してからもそれぞれが自分の名字と名前で成長の続きをしていくことにした。

 だけど、子どもの場合はお父さんもお母さんもそうだったが、どのような名字と名前にするのか、子どもに決定権はなくて、与えられた名字と名前で成長していくことになる。お父さんの方のお父さんもお母さんも同じ名字だったから、お父さんはそのままの名字を受け継ぎ、お母さんの方のお父さんもお母さんも同じ名字だったから、お母さんもそのままの名字を受け継いだけど、お父さんとお母さんは別々の名字を名乗ることになったから、お前はどちらかの名字を名乗らなければならなくなった。お母さんと相談してお母さんの名字を名乗らせることにしたが、子どもは与えられた名字と名前で成長していくということと、何度でも繰り返し言っているように自分がどういう人間になるかは名字と名前が決めてくれるわけではないのだから、お母さんの名字であっても、お父さんの名字でもあっても、どちらの名字を与えられるかの違いだけであって、どっちの名字を与えられてもいいことになる。極端な話、ジャンケンで決めて与えられることになったとしても、変わらないということになるはずだ」

 以上の教えが子どもを十分に納得させることのできる言葉になるかどうか、評価に違いが出るかもしれないが、いずれにしても子どもの氏の問題は大人の、あるいは両親の子どもに対する言葉の力(=教育力)、学校の子どもに対する言葉の力(=教育力)を解決の鍵としなければならないことは明らかである。

 大体が選択的夫婦別姓制度の懸念事項として「両親が子の氏を取り合う」などの例を挙げること自体が物事を教条主義的にしか解釈できない柔軟な思考を欠いている上に固定化された社会常識に振り回され、その常識を覆すことができるだけの教育力を持っていない証拠で、その頭の固さが「夫婦同氏制度は明治末に我が国の法制度として採用され、我が国の社会に定着してきたものだ」(高市早苗)と120年も経過していながら、この間戦後民主主義の洗礼を受けながら、人権尊重や人格的利益に価値観を置く時代の流れに即した変化を無視して心情を遥か過去に置く原因となっているのだろう。

 こういった部類に入る政治家、特に「選択的夫婦別姓の反対を求める文書」を地方議会に送りつけた自民党の50人の面々を最筆頭に、こういった手合の背後に控えているのが国家主義者安倍晋三その人であるが、教育を語る資格はないのは明らかである。

 資格がないから、「最新」と銘打って、5年も前になる2017年12月回答の夫婦別姓に関わる「家族の法制に関する世論調査」の概要(内閣府政府広報室/2018年2月)を「参考」という形で持ち出して、〈夫婦の名字が違うと、「子供にとって好ましくない影響があると思う」=62.6%〉と自己正当化の方便に使う誤魔化しをやらかしているばかりではなく、都合のいい情報だけを抜き取る誤魔化しまで重ねている。

 「婚姻をする以上、夫婦は必ず同じ名字(姓)を名乗るべきであり、現在の法律を改める必要はない」 29.3%
 「夫婦が婚姻前の名字(姓)を名乗ることを希望している場合には、夫婦がそれぞれ婚姻前の名字(姓)を名乗ることができるように法律を改めてもかまわない」 
  42.5%
 「夫婦が婚姻前の名字(姓)を名乗ることを希望していても、夫婦は必ず同じ名字(姓)を名乗るべきだが、婚姻によって名字(姓)を改めた人が婚姻前の名字(姓)を通称としてどこでも使えるように法律を改めることについては、かまわない」 24.4%

 選択的夫婦別姓制度法制化賛成が42.5%、反対が29.3%、通称のみ容認が24.4%。 反対と通称のみを加えると、53.7%と過半数を超えるが、賛成42.5%と半数に迫っている事実は無視しこのことには触れずに「子供にとって好ましくない影響があると思う」62.6%だけを提示するのは誤魔化しそのものであろう。

 但し〈夫婦の名字が違うと、「子供にとって好ましくない影響があると思う」=62.6%〉は子どもに対する親としての言葉の説明(=教育力)というものに重点を置かない考え方であって、子どもに対する親の言葉の力(=教育力)を最初から放棄していることになる。

 内閣府にとって「最新」の世論調査ではあっても、マスコミや市民団体が行っている「最新」の世論調査と比較した場合、「最新」でも何でもなく、カビが生えた結果値に過ぎない。NHKが2021年10月15日から3日間行った世論調査では、「夫婦が希望すれば、結婚前の姓を名乗れる選択的夫婦別姓」は「賛成」28%、「どちらかといえば賛成」32%、「どちらかといえば反対」17%、「反対」14%で、積極的賛成と消極的賛成を合わせると60%、積極的反対と消極的反対を合わせると31%で、賛成寄りが反対寄りの倍となっている。

 内閣府の調査の方が国がやっていることだから、サンプル数が多いように思うかもしれないが、調査対象は18 歳以上5000人、有効回収数2952人(回収率59.0%)で、一方のNHKの調査の方の調査対象は18歳以上5430人、有効回答数2943人(回答率54.2%)で両者の調査に殆ど差はない。但し内閣府調査は調査員による個別面接聴取だというから、より正確に見えるが、言葉の尋ね方次第でバイアスがかからない保証はない。例えば、「一方の親との氏の違いがイジメの標的にならないといいですがね」と何気なく呟いた場合は誘導の力がかかる。そんなことはしないと言うだろうが、役人の世界では「そんなこと」が結構横行している。

 1年前になるが、2020年11月18日発表の早稲田大学法学部・棚村政行研究室と選択的夫婦別姓・全国陳情アクション合同調査による「47都道府県『選択的夫婦別姓』意識調査」(調査方法 インターネットモニター調査 サンプルサイズ7000)は、「自分は夫婦別姓が選べるとよい。他の夫婦は同姓でも別姓でも構わない」、「自分は夫婦同姓がよい。他の夫婦は同姓でも別姓でも構わない」、「自分は夫婦同姓がよい。他の夫婦も同姓であるべきだ」、「その他、わからない」の4択で調査、「夫婦別姓賛成」を「自分は夫婦別姓が選べるとよい。他の夫婦は同姓でも別姓でも構わない」+「自分は夫婦同姓がよい。他の夫婦は同姓でも別姓でも構わない」の2項目として集計、どの年代も「夫婦別姓賛成」が多数を占め、記事は、〈全国では70.6%が選択的夫婦別姓に賛成、一方で反対は14.4%という圧倒的な結果になりました。〉と書いている。

 特に男女どの年代でも、「自分は夫婦同姓がよい」としつつ、他者に対しても「同姓であるべきだ」としている割合よりも「他の夫婦は同姓でも別姓でも構わない」としている割合が多くなっていて、年代を通して夫婦別姓に対して寛容になっていることを窺うことができる。この寛容さは言葉で認識していなくても、突き詰めると、夫婦別姓を「個人の重要な人格的利益」と看做していることを意味することになる。

 自民党有志国会議員50人が選択的夫婦別姓制度に賛同する地方議員に対して慎重な検討を求める文書の作成年月日は2021年1月30日。上記世論調査の発表年月日は2020年11月18日。50人は夫婦別姓に関わる世論の動向を詳しく調査もせずに2017年の5年前で時間が停まっているような内閣府世論調査を用いて地方議会に対して選択的夫婦別姓反対へとリードしようとした。不都合な情報には目をつぶり、聞き耳は持たず、都合のいい情報にだけ目を向け、聞き取る。やることが狡猾に過ぎる。

 家族の一体感は親と子どもとの間の信頼関係の上に成り立つ。信頼関係はコミュニケーションを欠かさない日常を作り出す。よりよき絶え間のないコミュニケーションが信頼関係をより確かなものとする。双方が相互関係を築いている。コミュニケーションも信頼関係も、言葉の力が主たる原動力となる。言葉の力は教育力を背中合わせとする。親の言葉の力が子どもに対して教育力を発揮するだけではなく、親の言葉の力によって養われた子どもの言葉の力が自らの教育力に力を付けていくことになる。要するに信頼関係と親子の言葉の力と教育力は三者相互関係を築く。学校の教師と生徒との間に信頼関係が構築されている場合の例を見れば、理解できるはずである。

 信頼関係はお互いが相手の顔を見て、コミュニケーションを取ることになる。どのようなときにどのような表情をするのか、お互いが知ることになり、結果、普段見せない表情をすると、その異変に相手はすぐに気づくことになる。逆に信頼関係が崩れると、顔を合わせまいとするようになり、コミュニケーションが減り、顔を背ける頻度が多くなる。夫婦が会話をしなくなり、顔を合わせず、背けてばかりいたら、夫婦の間の信頼関係はもはやゼロに等しい状態に至ったときだろう。親子の信頼関係も同じ経過を辿る。引きこもりの子どもは親と満足に顔を合わせるだろうか。外に女を囲っている夫は妻と10秒も相手の顔を見つめていることができるだろうか。

 親子が信頼関係を築いていて、コミュニケーションが絶えることがなかったなら、引きこもりも家庭内暴力も発生の余地はないはずである。子どもが学校でイジメられていたなら、信頼関係が直ちに親に子どもの異変に気づかせてくれるはずである。世間を見て思うことは親子の信頼関係の構築は親が子どもの目線に立てるかどうかにかかっているように思える。極端な例を挙げるが、父親が小中高と優秀な成績で東大に入学、東大でも優秀な成績を収め、官庁に入省してエリート官僚と目され、出世コースに乗ることとなった。子どもに対しても自分目線で似たような人生を求めて、その求めに応じてくれた場合はそれ以上のことはないが、少しでも息苦しさや不自由さを与えた場合、子どもの方から親に対するコミュニケーションが途絶えがちとなり、親の視線から自分の顔を背けるようになって、ついには顔を合わせるのを避けるようになるだろう。父親がそんなことはお構いなしに自分目線で子どもに自分の人生の後追いを求めるばかりで、子ども目線で子どもなりの人生を眺めてやらなかったりしたら、子どもは日々の生活の息苦しさと不自由さから逃れるために自棄的に日常のルールを飛び越えてしまうということもあり得る。エリート家庭でありながら、その子どもが非行に走ったり、引きこもりになって、不登校になったり、父親からの抑圧の反動で誰かをイジメて解放感を味わったりするのは父親が自分は優秀な人間であるとの思い込みからついつい自分目線で子どもと向き合い、様々な要求をしてしまうからではないだろうか。

 父親や母親が子どもと向き合うとき、自分目線を抑えて、子どもが自分の子どもでいる間はそれぞれの成長の段階に応じて、例えば20歳になったなら、20歳の子ども目線に立つことができたなら、子どもが父親の後追いができなくても、社会人として一応の生活ができていさえしたら、信頼関係は生き続けるし、子どもに対する親の保護者としての立場も守ることができるだろう。何よりも選択的夫婦別姓制度が法制化されたとしても、親子の信頼関係が相互のコミュニケーションを支え、親の子どもに対する言葉の力(=教育力)が生きてきて、子どもの氏の問題を乗り越えていく原動力となるはずである。

 子どもの教育に関わる素晴らしい言葉をネットで最近見つけたから紹介してみようと思う。1年前の記事だが、その言葉の内側にいやが上にも教育力を覗かせている。「アンジェリーナ・ジョリーが養子に迎えた子どもたちのルーツを尊敬し、学ぶことの大切さを語る」(harpersbazaar/2020/06/22)
  
 アンジェリーナ・ジョリーはご存知のように米国人女優である。同じ米国人の男優ブラッド・ピットとの間に養子3人と実子3人がいる。両者は離婚し、現在子どもの親権を裁判で争っているが、養子3人はカンボジア人、エチオピア人、ベトナム人と元の国籍は違う。そして実子3人を含めた6人は、「ジョリー=ピット」と両親の氏を共に名乗っている。

「彼らが私たちの世界に入ってきているのではなく、私たちはお互いの世界に入っていくのです」

 子どもを加えて全く新しい世界へ入っていく。この考え方には親の世界を押し付ける意思は存在しない。親の価値観への同調を求める些かの欲求の影さえもない。勿論、両親それぞれの価値観を守るだろうが、子供といる世界では子どもとの関係性に関してはその世界なりの新たな価値観を築こうとする意思のみが顔を覗かせている。親と子どもの新たな価値観に基づいた関係性の中で子どもは親の価値観に影響は受けても、押し付けを受けてのことではなく、必要なものは吸収し、不必要は受け付けない取捨選択で自分たちに独自の価値観を築いていくことになるだろう。そうでなければ、「お互いの世界」という相互性を意味することはない。

 子どもたちはこういった親の言葉の力(=教育力)に導かれて、親の離婚を乗り越えていくことになるだろう、子どもの氏の問題にしても同じことが言えるはずで、乗り越えるについて言葉の力(=教育力)を必要条件とせずに夫婦別姓反対理由にただ子どもの氏の安定性の喪失を挙げるだけの政治家は、やはりどう見ても教育を語る資格はないことになる。

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名古屋入管ウィシュマ・サンダマリさん死亡はおとなしくさせるために薬の過剰投与で眠らせていたことからの手遅れか(1)

2021-10-29 04:15:34 | 政治
 スリランカ人女性ウィシュマ・サンダマリさんは令和2年(2020年)8月20日に名古屋出入国在留管理局に不法残留で収容され、翌令和3年(2021)3月6日に病死した。当時33歳の若さだったという。収容後約6ヶ月半、197日目の死亡である。

 収容施設内で何があったのか、マスコミ報道も国会質問も様々な疑惑を取り上げている。取り上げているマスコミの数は多いし、伝えている疑惑も多い。また国会でも様々に追及していることは推測できることで、纏まりがつかないから、出入国在留管理庁が2021年4月9日にウィシュマ・サンダマリさんが亡くなった経緯に関する調査の中間報告を公表したそうだが、ネットを探しても見つけることができなかったため、2021年8月1 0日に出入国在留管理庁調査チームが、「2021年3月6日の名古屋出入国在留管理局被収容者死亡事案に関する調査報告書」を発表している。この「調査報告書」の説明や証言、検証等の文言に添って、何が彼女を死に向かわせたのか、実際のところを大胆に推理してみようと思う。

 なお、文章中の「注」は「調査報告書」の要所要所のページ下に纏めてあるが、「注」を必要とする文章に続けて、「注番号」を分かりやすいように赤文字にして表記することに変えた。その他の文飾も当方。

 最初にウィシュマ・サンダマリさんの収容を管理していた体制を見てみる。

 「2 処遇部門の組織概要」

(1) 処遇部門の体制 (別紙3)(3ページ)

それぞれ統括入国警備官(8-男子区処遇担当の統括入国警備官及び女子区処遇担当の統括入国警備官を総称して「処遇担当統括」と呼ぶ。)が置かれていた。 また, 男子区処遇担当及び女子区処遇担当は,それぞれ複数の班に分けられていた。

収容場は,複数の収容区に分けられており,その中に女子用の区別された収容区(以下「女子区」という。)が設けられていた。

女子区では,担当する収容区を複数名の入国警備官が担当し,班ごとに交替で看守勤務者として24時間勤務に就き,被収容者の処遇を担っていた。また,看守勤務者とは別に,その上位者である看守責任者1名,副看守責任者2名が,各収容区における看守勤務者の業務の監督,指揮等を担っていた。

 参考のために収容施設の処遇を見ておく。

 「収容施設について(収容施設の処遇)」(出入国在留管理庁)

収容施設について(収容施設の処遇)

収容令書又は退去強制令書により入国者収容所や地方入管局の収容場に収容されている外国人(以下「被収容者」といいます。)は,保安上支障がない範囲内において,できる限りの自由が与えられ,その属する国の風俗習慣,生活様式を尊重されています。

これから入国者収容所の一例をもって被収容者の処遇を紹介します。

施設の構造及び設備

収容施設の構造及び設備は,通風,採光を十分に配慮しており,冷暖房が完備されています。

 上記「調査報告書」は「出入国在留管理庁」のサイトに「報道発表資料」として紹介されているが、同時に、

 別添【1月15日から3月6日までの経過等の詳細】(省略)
 別紙(省略)

 と説明書きがされていて、この〈【1月15日から3月6日までの経過等の詳細】〉とは「調査報告書」の29ページにウィシュマ・サンダマリさんを「以下A氏という」と仮名表記することを断っていて、同じく医師名も「甲医師」とか「乙医師」とか、「甲・乙・丙」表記、あるいは「A・B・C…」等表記しているが、医師名、その他はともかく、ウィシュマ・サンダマリさんは既に実名がマスコミによって広く報道されている上に「ウィシュマ・サンダマリ」として生きてきたという彼女のアイデンティティ、自分は常に「ウィシュマ・サンダマリ」であるという彼女独自の個人性を蔑ろにする扱いそのものであり、このことがウィシュマ・サンダマリさんに対する実際の処遇となって現れていないか読み解かなければならないが、「調査報告書」の29ページに、〈A氏が食欲不振,吐き気,体のしびれ等の体調不良を訴えるようになった1月15日以降,A氏が死亡した3月6日までの経過等の詳細は,別添【1月15日から3月6日までの経過等の詳細】(別紙5から別紙18までは,別添記載の事実経過に関連する参考資料である。)のとおりである。〉を指していて、さらに40ページと47ページにも、〈詳細については,別添【1月15日から3月6日までの経過等の詳細】24(4)参照。〉というふうに出ているが、上記「出入国在留管理庁」サイトの説明書きどおりに「省略」されていて、「調査報告書」のどこにも記載がない。いくら「とおりである」と説明されても、「省略」扱いでは「死人に口なし」だと疑いを掛けても、申し開きはできないはずだ。「死人に口なし」を否定したいなら、「省略」扱いをしないことである。

 監視カメラの映像を全部を出さないのも「死人に口なし」だからこそできる不都合の隠蔽に他ならないはずである。要するに「調査報告書」は「死人に口なし」で成り立っている可能性は十分に疑うことができるが、「死人に口なし」かどうかも読み解いていかなければならない。

 では、「調査報告書」の点検にかかる前に「目次」のみを一括して提示しておく。文飾を施した項目を主に取り上げる。

 目次

第1 はじめに
1 調査の経緯 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1
2 本報告書について ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2

第2 本件発生当時の名古屋局の体制
1 本件発生当時の名古屋局の組織概要 ・・・・・・・・・・・・・・3
2 処遇部門の組織概要 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
3 仮放免に関する決裁体制等 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・15
4 DV被害者等の取扱いに関する法令,通達等 ・・・・・・・・・・18

第3 事実経過
収容に至る経緯等 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 21
収容時の状況等(健康状態等を除く。) ・・・・・・・・・・・・ 24
3 収容後の健康状態等 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 26
4 1月15日(金)から3月6日(土)までの経過等 ・・・・・・ 29

第4 死因
1 調査により判明したA氏の死因に関する見解等 ・・・・・・・・・30
2 死亡後のA氏の検査結果等 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・32
3 結論 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・34

第5 本件の検討に先立つ事実関係の整理
1 医療的対応等の経過 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・36
2 A氏の体調に関する名古屋局職員の認識 ・・・・・・・・・・・・54
3 仮放免許可申請に関する事実経過 ・・・・・・・・・・・・・・・56
4 B氏との関係等 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・61

第6 本件における名古屋局の対応についての検討結果
1 収容中に体調不良を訴えたA氏に対する医療的対応の在り方
(1月中旬以降, A氏の体調が徐々に悪化していく過程での
医療的対応は適切であったか) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 66

2 A氏の死亡前数日間の医療的対応の在り方
(3月4日の外部病院の精神科受診以降, A氏の体調に外観上の顕著な変化が見られるようになった後の医療的対応は適切であったか) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・73

A氏に対する収容中の介助等の対応の在り方
(介助を要する状況の下で, A氏への対応は適切に行われていたか) ・・・・・80
A氏の仮放免を許可せずに収容を継続した判断は適切であったか ・・・・・・・84
A氏をDV被害者として取り扱うべきではなかったか ・・・・・・・・・・・・89
支援者への対応に問題はなかったか ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・92

第7 改善策
1 全職員の意識改革 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 94
2 被収容者の健康状態に関する情報を的確に把握・共有し, 医療的対応を行うための組織体制の改革 ・・・・・・95
3 医療体制の強化 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・95
4 被収容者の健康状態を踏まえた仮放免判断の適正化 ・・・・・95
5 その他の改善策 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・96

< 予め断っておくが、28ページに〈看守勤務者(女性。以下,特に言及しない場合,看守勤務者はいずれも女性である。)と断りが入っているから、承知しておいてもらいたい。もう一つ、「第3 事実経過」(21ページ~)の「3収容後の健康状態等」「(1) 収容開始時(令和2年8月20日)の健康状態等」からウィシュマ・サンダマリさんの体重の変化を27ページ記載の「イ 収容開始時の体重及びその後の体重の推移等」の画像によって載せておく。

 ここにはウィシュマ・サンダマリさんの収容時の健康状態は新規入所者全員に対して行なう「健康状態に関する質問書」に従った質問を令和2年(2020年)8月20日の収容開始時に行い、彼女は〈体調不良,服用中の薬,既往症(結核, 肝炎, 高血圧,ぜんそく,糖尿病,心疾患,脳疾患)及び入院・手術歴の有無を問う各質問に対し,いずれも 「ない」と回答し〉、〈これを踏まえ,立ち会った入国警備官は,「健康状態に関する質問書」の官用欄に,「健康状態は良好とのこと。」と記載した。〉との説明がなされていて、入管収容時には十分に健康であったことを窺うことができる。

 〈収容開始時の測定では,A氏の身長は158.0センチメートル,体重は84.9キログラムであった。〉、〈司法解剖時の体重は,63.4キログラムであった。〉の2つの注釈がつけてある。収容後約6ヶ月半、197日目で84.9グラムから、63.4キログラムに21.5キログラムも減っていた。

 画像中の「官給食の拒否者としての測定」「注63」は、〈A氏を官給食の拒食者として取り扱った経緯及びその終了については,別添9(10)ウのとおり。〉

 但し「別添」も「別紙」も省略扱いとなっていて、覗くことはできない。「死人に口なし」の疑惑が濃厚となるが、どのような経緯で体重が21.5キログラムも減ることになったのだろうか。

 同じく画像中の「注63」は、〈令和3年2月20日以降, 定期的な体重測定を実施しようとしていたが,A氏が「体が痛いので測定したくない。」旨述べていたため,この日の測定となった。〉となっている。

 ウィシュマ・サンダマリさんが「官給食の拒否」をしたことによる危惧すべき点は看守勤務者が、それが女性であっても、収容施設内で被収容外国人に対して支配者として君臨していた場合、(あるいはそれに近い状態で君臨していた場合)、入管施設では当たり前として従うべきとしている「官給食」を拒否することで当たり前としていた日常性を壊したとき、支配者としての君臨が意味をなさなくなって、支配者の気分を害することになり、君臨というただでさえ権威的な態度がなお権威的となって、何らかの報復感情を以って君臨をより強固にしたい衝動に駆られ、その衝動を実際の形に現すことである。

 入管施設で被収容外国人が自身に対する看守勤務者の扱いの乱暴なことに抗議したり、あるいは食事の改善を求めたりすると、生意気な態度を取ったとして、1人部屋に連れて行き、後ろ手に手錠をかけて何時間も放置したりする暴力的な例は看守勤務者が支配者として君臨していることからの自らの絶対性を押し通す行為にほかならない。支配者として君臨していなければ、(あるいはそれに近い状態で君臨していなければ)、相手の言い分を聞いて、どちらに正当性があるかを話し合い、譲るべきは譲り、譲れない場合は相手を説得し、民主的な解決方法を図ることになるだろう。余程のことがない限り、暴言や身体拘束等の暴力的な制圧は発生しない。

 当然、看守勤務者たちがウィシュマ・サンダマリさんをどういう人物として評価していたのか、評価に応じた態度を取っていたのか、評価とは無関係に一収容者と見て、与えられた職務を誠実にこなしていたのかが収容時は健康な体で、当時33歳の女性が健康を損ね、収容後約6ヶ月半、197日目に死亡した真相を読み解く鍵となる。

 先ず名古屋管理局がウィシュマ・サンダマリさんをどういう人物として評価していたのか、「調査報告書」の中の「第3 事実経過」「1 収容に至る経緯等」(21ページ)から窺ってみる。ウィシュマ・サンダマリさんは平成29年(2017年)6月29日にスリランカから「留学」の在留資格で日本に入国。在留期間は1年3カ月。彼女は千葉県内の日本語学校生となり、資格外活動の許可を受けてアルバイトをしていたが、2017年2月頃,アルバイト先で知り合ったスリランカ人男性と交際するようになって、学校は休みがちとなり、ついには所在不明となり、学校は除籍処分とし、その届け出を東京入国管理局(現東京出入国在留管理局)に行なった。彼女は不法残留扱いとなったが、「留学」を在留資格とした在留期限が切れる8日前の2017年9月21日に東京入国管理局(現東京出入国在留管理局)に出頭、難民認定申請を行い、同2017年10月15日に同申請に伴う 「特定活動」への在留資格変更を許可された。在留期間は2カ月。就労は不可。つまりこの2ヶ月間に難民認定されるか否かが審査されることになった。
 
 但し難民認定申請内容にウソがあり、このウソは交際していたスリランカ人男性と口裏合わせしたものだったが、ウソはウィシュマ・サンダマリさん死後にこの「調査報告書」の調査チームの調査によって明らかにされたもので、そのウソとは無関係に申請内容どおりの審査が行われていたことになる。つまりウソは難民認定申請の審査当時の東京入国管理局 (現東京出入国在留管理局)にしても、ウィシュマ・サンダマリさんを収容当時の名古屋出入国在留管理局にしても与り知らぬことだった。

 だが、ウィシュマ・サンダマリさんの「2 収容時の状況等 (健康状態等を除く。)」を報告する前に当時は気づいてもいなかった彼女のウソを並べるのは何らかの意図を感じないわけにはいかない。「1 収容に至る経緯等」の中で彼女のウソを並べているが、その3例を取り敢えず列記してみる。

 〈難民認定申請の理由について,「スリランカ本国において,恋人のB氏(交際していたスリランカ人男性のこと)がスリランカの地下組織の関係者とトラブルになった。同組織の集団が家に来て,B氏の居場所を教えなければ殺害すると脅迫され,暴力を受けた。危険を感じ,B氏が2017年(平成29年)4月に,私がその3か月後に来日した。帰国したらB氏と一緒に殺される。」〉

 以上のことをウソとする理由が2例目のウソとなっている。〈難民認定申請時のA氏の供述は,A氏とB氏が来日前から交際していたことを前提とするが,A氏が令和2年12月9日に支援者らと面会した際の面会簿 (別紙4)には,A氏が「来日してから恋人関係になった。」旨述べたことが記録されている。また,B氏も,調査チームの聴取に対し,「A氏とは来日後にアルバイト先で知り合い,2017年12月頃に交際を開始した。A氏と話し合い,日本に残るために難民認定申請をすることになり,お互いの申請理由をそろえることにした。」旨を述べている。〉

 3例目。〈A氏は,平成30年9月以降,静岡県内の弁当工場で働いており,前記のとおり同年10月15日に「特定活動」(就労不可)に在留資格が変更された後も就労を継続していた旨供述していた。この就労事実につき,調査チームにおいて当時の雇用先に確認したところ,遅くとも同年11月から令和2年4月23 日までの間,A氏は同弁当工場において就労しており,同雇用先は,A氏が「留学」の在留資格で適法に就労しているものと誤認していた。〉

 調査によってあとから知り得たにも関わらず、雇用先に対するウソまで取り上げている。「2 収容時の状況等 (健康状態等を除く。)」の中にも彼女のウソを取り上げているが、これはあとで述べる。

 「1 収容に至る経緯等」の中のこの3つのウソだけで、彼女の人物像を事実を偽る女性だとイメージさせるに十分である。大体がウィシュマ・サンダマリさんを収容後約6ヶ月半、197日目で死なせてしまった看守勤務者たちの、広く言えば名古屋出入国在留管理局の彼女に対する入管としての処遇が適切であったかどうかの調査・検証に彼女の人物像がどうであったかをわざわざ持ち出すのはどのような意図があってのことなのだろうか。必要不可欠な検証と言えるのだろうか、疑問そのものである。

 彼女は平成30年(2018年)10月15日に「『特定活動』(就労不可)」の在留資格変更で2カ月間の期限付きで認められた日本在留が切れる2日前の平成30年(2018年)12月13日に在留期間更新許可申請を行ったが,平成31年(2019年)1月22日に同申請について難民条約上の迫害事由に明らかに該当しない事情を主張して難民認定申請を行っているために在留期間の更新を適当と認めるに足りる相当の理由が認められないとの理由で在留期間更新不許可の処分がなされた。彼女は在留資格を失い、同日、スリランカへの帰国を理由として難民認定申請を取り下げた。

 ところが、彼女は〈以後不法残留となったが, その後,入管当局への出頭をせず,入国警備官が違反調査(入管法第27条)のためにA氏の携帯電話へ電話をかけても現在使用されていない旨のアナウンスが流れ,A氏の住居に呼出状を郵送しても返送されるなど,その所在が不明となった。〉

 要するにスリランカへの帰国を理由とした難民認定申請の取り下げて帰国すると言ったのは全くのウソだったと、「1 収容に至る経緯等」の調査報告にかこつけてここでも彼女を事実を偽る女性だとイメージさせている。

 但し難民認定申請の取り下げを受けて帰国を承諾しながら、行方をくらます不法残留外国人は数え上げたらキリがないはずであるし、彼女が特別でもなく、当然、看守勤務者たちや名古屋出入国在留管理局そのものの彼女に対する入管としての処遇が適切であったかどうかとは関係しないことであるし、全ての焦点は処遇の適切・不適切性の検証に当てなければならない。

 ウィシュマ・サンダマリさんは交際・同居していた同じスリランカ人の男性と仲違いし、部屋を追い出されて、所持金も1,350円だけとなり、静岡県内警察署管内の交番に出頭、,不法残留により警察官に現行犯逮捕、警察から名古屋局入国警備官に引き渡されて,収容令書に基づき,名古屋局の収容施設へと令和2年(2020年)8月20日に収容された。その後、名古屋出入国在留管理局は彼女の本国強制送還を試みるが、飛行機代の本人工面ができないことや、在日スリランカ大使館を介した彼女の家族との連絡が取れないこと、さらに約4カ月後の令和2年(2020年)12月中旬頃になって、彼女が帰国希望意思を撤回して本邦在留希望に転じたことやその他の経緯があり、送還作業が滞ることになった。

 では、「2 収容時の状況等 (健康状態等を除く。)」(24ページ)に描いてある彼女のウソ。〈当時,臨時便搭乗の条件である航空機代金及びスリランカ帰国後の隔離施設(ホテル)の利用代金等の合計約20万円を直ちに工面することは困難な状況であった。〉とする名古屋局の送還に向けた対応の説明に「注」(本文24ページ)を付けていて、愛人であった同じスリランカ出身の男性である〈B氏は,調査チームの聴取に対し,「私は,令和2年11月27日に名古屋入管で仮放免を許可された後,スリランカのA氏の母親に3回電話をかけ,A氏を助けてほしいと伝え,自分の連絡先をA氏の妹達に伝えるように頼んだ。しかし,A氏の母親には断わられ,A氏の妹達からも連絡はなかった。」旨供述している。〉

 この一文は彼女を直接的にウソをつく女性と思わせるのではなく、母親と妹からも見放された“いい加減な”姉という人物像をイメージさせている。“いい加減な”の中には勿論、彼女の事実を偽るとしている性格傾向も入れていることになるから、このことの間接的な補強材料となっている。だが、彼女の母親は在スリランカ日本大使館を通じ彼女の収容施設内での死亡を伝えられたあと、オンライン会見を通して死の真相を求めているし、2人の妹は来日して、姉の死の真相を追及すべく、東京出入国在留管理庁や名古屋出入国在留管理局と戦っている。

 問題はスリランカへの帰国を理由として難民認定申請を取り下げたものの、帰国せずに名古屋局とも連絡を断って行方をくらましたことを名古屋局の上層部が外国人不法残留者を取り締まる自分たち(=出入国在留管理局)の権威に逆らう生意気な態度と看做して、そのような態度の情報と共に事実を偽る女性だとする人物評価に関わる情報を名古屋局の上層部内にとどめずに管理局の収容施設に収容した不法残留外国人を直接管理する看守勤務者にも伝えていなかったかということである。

 伝えていなければ、看守勤務者たちは彼女に対して白紙で接することになって、特段の問題も起きないはずだが、伝えていたとしたら、その情報によって看守勤務者が彼女に対してある種の偏見で色付けした色眼鏡を通して接していなかったと断言できなくなる。このことは「調査報告書」を読み解いていくうちにおいおいと分かってくるはずである。

 次に仮釈放の「イ 名古屋局における不許可処分の経緯,状況等」(57ページ)からも看守勤務者や名古屋出入国在留管理局がウィシュマ・サンダマリさんを事実を偽る女性だとイメージさせている個所を拾い出してみる。このことを知るためには事実経緯として前以って「3 仮放免許可申請に関する事実経過」(56ページ)を覗かなければならない。

 〈ウィシュマ・サンダマリさんは令和2年(2020年)12月9日,名古屋局を訪れた日本人の支援者(以下「S1氏」 という。)らと初めて面会し〉、〈令和2年(2020年)12月16日,A氏とS1氏らとの2回目の面会の際,S1氏らは,A氏に対し,「日本で生活をしたいなら支援をするので仮放免申請等を行ってはどうか。」 旨を述べ〉、〈その後,A氏は,令和2年12月中旬頃,看守勤務者らに対し,「日本で助けてくれる人が見つかったので,日本に住み続けたくなった。」 旨を述べ,当初の帰国希望を撤回し,引き続き日本に留まることを希望するようになった。〉

 そして令和2年(2020年)〈12月中には仮放免許可申請の準備を開始し,支援者らの協力を受けながら,令和3年(2021年)1月4日,仮放免許可申請 (1回目)を行った。〉、だが、身元引受の保証人となった日本人の支援者の保証人としての資格に疑義が出たこととその他の理由で、2021年〈2月15日,A氏の仮放免許可申請について不許可処分とする旨の判断がされ,同月(2月)16日,同不許可処分がA氏に告知された。〉

 不許可処分の主な理由を以下から拾ってみる。

 「イ 名古屋局における不許可処分の経緯,状況等」(57ページ)

○支援者が主張している体調の悪化についても,2月5日付けの外部医療機関での診療結果によれば,重篤な疾病にかかっていると認められないなど,人道的配慮を要する理由がない旨の理由で,申請を不許可とする仮放免関係決裁書を起案した。

○支援者に煽られて仮放免を求めて執ように体調不良を訴えてきている者であるが,外部医療機関での診療の結果特段異常はなし(89―当初帰国希望であったA氏が,S1氏(支援者のこと)らとの面会を重ねる中で,支援の申出を受けて在留希望に転じたとの認識や,前記第5の2のとおり,A氏による体調不良の訴えについて,仮放免許可に向けたアピールとして実際よりも誇張して主張されているのではないかとの認識があったことが影響したものと考えられる。)

 「名古屋局」とは「名古屋出入国在留管理局」のことで、この仮放免許可申請不許可処分は「名古屋出入国在留管理局」自身が判断し、その理由としてウィシュマ・サンダマリさんを「支援者に煽られて仮放免を求めて執ように体調不良を訴えてきている者」だと断定している。

 「注」では「A氏による体調不良の訴えについて,仮放免許可に向けたアピールとして実際よりも誇張して主張されているのではないか」と、「誇張」という言葉を使っている。「体調不良を誇張して主張する」としている言葉の意図は何がしかの「体調不良」が事実存在していることを前提とすることになるが、「執ように体調不良を訴える」の言葉が意図していることは「体調不良」を存在しないことを前提としている。つまり前者はちょっとした痛いところを「仮放免許可に向けたアピール」のために2倍にも3倍にも「誇張して主張」しているということになるが、後者は痛いところなどないのに「執ように」痛みを訴えているとしているという意味を取る。

 彼女の「体調不良」は「詐病・仮病」の類いだと断定していたことになる。ここでも彼女を事実を偽る女性、言ってみれば、ウソをついていると見ていた。

 名古屋局の彼女に対するこのような人物像を収容施設で収容の不法残留外国人を直接管理する看守勤務者が共有することになっていたとしたら、彼女に対する色眼鏡は益々偏見の色を濃くしていく懸念が生じることになるが、このことにも注意を払って読み解いていかなければならない。

 彼女は2021年2月22日に名古屋局主任審査官に対して仮放免許可申請書を提出し、2回目の仮放免許可申請を行った。

 以下は2回目の仮放免許可申請書の提出に対する措置。

 「イ 名古屋局における検討状況等」(59ページ)

名古屋局においては,A氏の体調が悪化し,官給食をほとんど摂食せず,かつ,トイレ,入浴,面会のための移動の際,看守勤務者が数人がかりでA氏を抱えて移動させるなどの介助を頻繁に行う必要があったこと,このような介助に伴う職員の負担が増大したこと,A氏が在留希望の態度を維持したことなどを踏まえ,主に処遇部門首席入国警備官や警備監理官において,2月下旬から同月末頃には,A氏の仮放免許可申請を許可することを検討するようになり,その頃,警備監理官において,次長に対して仮放免許可を検討するべきである旨伝えていた。
   ・・・・・・・・・・・
また,3月4日の精神科の戊医師の診療の結果, A氏について「身体化障害の疑い」との判断が示され,新たに抗精神病薬等が処方されたことも受け,同3月5日,名古屋局では,A氏の体調をある程度回復させた上で仮放免するとの方針の下,対応を行うこととされた。

その一環として,まず,同日(3月5日)の看守責任者が,A氏に対し,仮放免の可能性を示唆しつつ,体調回復への意欲の増進を図るとの目的で面接を実施した。

処遇部門においては,このような面接を繰り返しながら,仮放免に向けA氏の体調の回復を図っていく方針としていたが,同月6日のA氏の死亡までに2回目の仮放免許可申請に対する判断を示すことはなかった。

同月6日のA氏の死亡までに2回目の仮放免許可申請に対する判断を示すことはなかった。

 ここでひとつ疑義が生じる。〈名古屋局においては,A氏の体調が悪化し,官給食をほとんど摂食せず,かつ,トイレ,入浴,面会のための移動の際,看守勤務者が数人がかりでA氏を抱えて移動させるなどの介助を頻繁に行う必要があった〉程に体調が悪化していて、2021年3月6日に死亡した前日の3月5日に、〈看守責任者が,A氏に対し,仮放免の可能性を示唆しつつ,体調回復への意欲の増進を図るとの目的で面接を実施〉することが果たしてできたのだろうか。

 できたかどうか、次の一文から途中を省略して必要な箇所だけを拾ってみる。

 「1 医療的対応等の経過」(36ページ)

○3月5日(金)

A氏は,ぐったりとしてベッドに横たわった状態で,自力で体を動かすことはほとんどなく,看守勤務者らの問い掛けに対しても「あー。」 とか「うー。」などとの声を発するだけの場合も多くなっていた。

このようなA氏の状態について,看守勤務者らは,3月4日に外部病院(精神科)で処方された薬の影響と認識していた。

同日(3月5日)のA氏に対する主な対応状況は,以下のとおりである。

〔午前7時52分頃~〕

看守勤務者2名がA氏の居室に入室し,バイタルチェックを行ったが,血圧及び脈拍は測定できず,看守勤務者は,血圧等測定表の血圧欄には,「脱力して測定できず。」 と記載した。 A氏の手足を曲げ伸ばして反応を確認すると,A氏は,「ああ。」などと声を上げて反応したが,朝食や飲料の摂取を促しても,A氏は,「ああ。」などと反応するのみで,摂取の意思を示さず,看守勤務者が目の前で手を何度も振るなどしたのに対しても,反応しなかった。

  ・・・・・・・・

〔午後7時37分頃〕

A氏は,看守勤務者の介助(薬と飲み物を口に入れてもらう。)により,処方薬(メコバラミン錠(末梢性神経障害治療剤),ランソプラゾールOD錠 (消化性潰瘍治療薬),ナウゼリンOD錠(消化管運動改善剤)及び救急常備薬の新ビオフェルミンS錠(整腸剤))を服用した。A氏は,看守勤務者からの問いかけに言葉を発して反応することはなかったが,口を開けるなどの動きはあった。

 3月5日の「午前7時52分頃~」の、〈A氏の手足を曲げ伸ばして反応を確認すると,A氏は,「ああ。」などと声を上げて反応したが,朝食や飲料の摂取を促しても,A氏は,「ああ。」などと反応するのみで,摂取の意思を示さず,看守勤務者が目の前で手を何度も振るなどしたのに対しても,反応しなかった。〉から始まって、〈看守勤務者らの問い掛けに対しても「あー。」 とか「うー。」などとの声を発するだけの場合も多くなっていた。〉ことへ。さらに、「午後7時37分頃」の〈A氏は,看守勤務者からの問いかけに言葉を発して反応することはなかったが,口を開けるなどの動きはあった。〉といった心身の状況が1日中続いていたはずなのにこの日に、〈看守責任者が,A氏に対し,仮放免の可能性を示唆しつつ,体調回復への意欲の増進を図るとの目的で面接を実施〉できた。

 明らかに「死人に口なしの」作文そのものであろう。すべきことは仮放免に向けた面接ではなく、救命措置を取ることだったろう。だが、取らなかった。取らなかったことは名古屋出入国在留管理局、ひいては看守勤務者のウィシュマ・サンダマリさんに対する扱いに関係していることになる。その扱いを決定づけたと見ることができる、同じ「1 医療的対応等の経過」(36ページ)の中の「3月4日(木)」(46ページ)の前段部分を見てみる。

 この日は、〈午後3時10分頃から午後4時20分頃までの間, 名古屋市内の丁病院の精神科を受診した。〉日である。担当医師は仮名で、戊医師。

 〈戊医師は,問診等の状況を踏まえ「この1ヶ月位で食事摂取が低下し,身の周りのことを自分でしなくなった。幻聴,嘔吐,不眠などもある。入管に収容されていて,日本にいたくて,ヒステリーや詐病の可能性もあるが,念のため頭部CTをしておく。」と診療録に記載した。

 なお,調査チームの聴取に対し,戊医師は,「問診の際,名古屋局職員から,『A氏は支援者から病気になれば仮釈放してもらえる旨言われたことがあり,その頃から心身の不調を訴えている。』旨の説明を受け,一つの可能性として,詐病の可能性を考えた。」「名古屋局職員が『詐病』や『詐病の可能性』という言葉を用いたり,詐病の疑いがある旨の発言をしたことはなかった。」旨を述べている。

 また,戊医師の診療に立ち会った職員の聴取によっても,職員が戊医師に対して,詐病の疑いがある旨の発言をした事実は確認されなかった(84-詳細については,別添【1月15日から3月6日までの経過等の詳細】24(4)参照。)。

 A氏の頭部CT撮影の結果に異常は認められなかったことから,戊医師は,A氏については確定的な診断はできず,可能性としては,病気になることで仮釈放してもらいたいという動機から詐病又は身体化障害 (いわゆるヒステリー)を生じたと考え得るが,この時点でいずれとも確定できない状況であると考え,傷病名を「身体化障害あるいは詐病の疑い」 とし,幻聴,不眠,嘔気に効果のあるクエチアピン錠100ミリグラム (抗精神病薬)及びニトラゼパム錠5ミリグラム(睡眠誘導剤,抗けいれん剤)を処方し,A氏に2週間後の再診を指示した。〉――

 ちょっと纏めてみる。

 ①〈戊医師は,「問診の際,名古屋局職員から,『A氏は支援者から病気になれば仮釈放してもらえる旨言われたことがあり,その頃から心身の不調を訴えている。』旨の説明を受け,一つの可能性として,詐病の可能性を考えた。」〉
 ②〈「名古屋局職員が『詐病』や『詐病の可能性』という言葉を用いたり,詐病の疑いがある旨の発言をしたことはなかった。」旨を述べている。〉
 ③〈戊医師の診療に立ち会った職員の聴取によっても,職員が戊医師に対して,詐病の疑いがある旨の発言をした事実は確認されなかった〉

 名古屋局職員が例え「詐病」、「詐病の可能性」、「詐病の疑い」という言葉を直接的に用いなくても、「A氏は支援者から病気になれば仮釈放してもらえる旨言われたことがあり,その頃から心身の不調を訴えている」と説明すれば、その説明を受けた側は医師でなくても、仮釈放目的の病気のフリ――「詐病・仮病」の類いだと解釈することになり、「詐病・仮病」の類いと言ったも同然の説明をしたことになる。

 「奴はウソつきだと」と「ウソつき」という言葉を直接的に使わなくても、「奴を信用したら、とんでもない目に遭う」、「奴の言うことを信用したら、あとで取り返しのつかないことになる」などと言えば、「奴はウソつきだ」と言ったも同然となるのと同じである。

 2020年2月16日にウィシュマ・サンダマリさんに告知することになった仮放免許可申請不許可処分の際も、「支援者に煽られて仮放免を求めて執ように体調不良を訴えてきている者」だと、彼女の「体調不良」を「詐病・仮病」の類いだと扱っていたのである。「詐病」という言葉を使った、使わなかったの問題ではない。そう見ていたかどうかの問題である。

 詐病と仮病の違いを知りたくなって、「詐病と仮病の違い」(LITALICO発達ナビ)で調べてみると、〈詐病とは、虚偽またはおおげさに強調された身体的・心理的不調を意図的に装うことです。いわゆる「仮病」と、広義では同じです。兵役を逃れる、仕事を避ける、金銭的な補償を獲得する、犯罪の訴追を免れる、薬物を得るといった動機が背景に存在しています。このような明らかな意図があれば詐病の診断が示唆されます。詐病と仮病との違いは、詐病の方がより大きな利益を求めて虚偽な言動を行う点である。〉と出ていた。

 腹が痛くなったと装って学校や会社をサボる、ずる休みするのは仮病であって、同じ理由で会社を休み、より待遇の良いより大きな会社の面接に出かけたりしたら、採用されなくても採用されても、詐病ということになるのだろ。精神科等が取り扱うのが「詐病」だが、仮病と思う場合もあるだろうから、今後、〈「詐病・仮病」の類い〉という言葉を使うことにする。

 要するに名古屋局職員は戊医師に対して「詐病」と受け取れる説明を行い、〈A氏の頭部CT撮影の結果に異常は認められなかったことから,戊医師は,A氏については確定的な診断はできず,可能性としては,病気になることで仮釈放してもらいたいという動機から詐病又は身体化障害 (いわゆるヒステリー)を生じたと考え得るが, この時点でいずれとも確定できない状況であると考え,傷病名を「身体化障害あるいは詐病の疑い」 とし,幻聴,不眠,嘔気に効果のあるクエチアピン錠100ミリグラム (抗精神病薬)及びニトラゼパム錠5ミリグラム (睡眠誘導剤,抗けいれん剤)を処方し,A氏に2週間後の再診を指示した。〉ということになる。

 もし名古屋局職員から上記説明を受けていなければ、〈確定的な診断はできず〉じまいで終えることになった可能性は十分に考えられる。この可能性が当たらずとも、名古屋局職員はウィシュマ・サンダマリさんが「支援者から病気になれば仮釈放してもらえる旨言われ」てから、「心身の不調を訴え」るようになったと見ていた。つまり「心身の不調」はニセ物だと見ていた。「詐病・仮病」の類いと見ていたことにほかならない。

 既に触れているが、彼女が支援者から「日本で生活をしたいなら支援をするので仮放免申請等を行ってはどうか」と言われたのは令和2年(2020年)12月16日の2回目の面会の際である。「その頃から心身の不調を訴えている」のを知り得るのは彼女を直接処遇する看守勤務者たちであるが、難民認定申請を取り下げて、帰国すると偽って行方をくらました彼女の人物像を事実を偽る女性だとイメージできたのは名古屋局職員であって、職員が彼女の人物像を情報として看守勤務者たちに伝えていたとしたら、その色眼鏡によって、支援者から「日本で生活をしたいなら支援をするので仮放免申請等を行ってはどうか」と言われたこととその頃から始まった心身の不調を「詐病・仮病」の類いにいとも簡単に結びつけてしまったということもあり得るから、名古屋局職員と看守勤務者たちの相互の意思が絡んで、名古屋出入国在留管理局に支配的となった「詐病・仮病」の類いへの疑いと見ることもできる。

 確かにウィシュマ・サンダマリさんの「心身の不調」は仮釈放して貰いたい目的の「詐病・仮病」の類いから始まったかもしれない。だが、その色眼鏡が病気のフリではなく、本当の病気になったときに、あるいは看守勤務者たちの「詐病・仮病」の類いを疑った処遇によって本当の病気にさせられてしまったという可能性もあるが、そのような変化を見逃すことになるようなことはなかっただろうか。色眼鏡の恐さは人をひとたび疑いの目で見ると、事実さえも疑わしい色に染めてしまうことがあるということである。

 心身の不調の訴えが事実「詐病・仮病」の類いであっとしても、看守勤務者たちの彼女に対する処遇に特に変わりはなければ問題はないが、人は誰かの心身の不調を「詐病・仮病」の類いと疑った場合、軽蔑する気持ちが働き、当たり前の応対を心がけることができなくなる場合がある。立場上、当たり前の応対を心がけなければならなかったとしても、表面的な応対にとどまり、何かの拍子に軽蔑する気持ちが懲らしめの感情を芽生えさせてしまい、その感情が態度となって現れない保証はない。

《名古屋入管ウィシュマ・サンダマリさん死亡はおとなしくさせるために薬の過剰投与で眠らせていたことからの手遅れか(2)》に続く

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財務省2018年6月4日『森友学園案件に係る決裁文書の改ざん等に関する調査報告書』はなぜ改ざんを必要としたのかの本質的な原因解明は放置(2)

2021-10-27 10:06:42 | 政治
 では、森友学園小学校建設用地を不動産鑑定した鑑定士の、その評価書を調査した報告書、「森友学園案件に係る不動産鑑定等に関する調査報告書」(森友学園案件に係る不動産鑑定等に関する調査委員会/2020年5月14日)から、財務省側の矛盾点を指摘してみる。

 この「報告書」は土地価格の見積もり業者を選定した経緯について、近畿財務局が2016年(平成28年)4月15日に更地の正常価格の売払い価格の鑑定評価業務についての見積り合わせ実施の通知を出し、2016年(平成28年)4月22日に見積り合わせの結果、見積書を提出したX、Y、Zの3社中最低額を提示したY鑑定業者に対し不動産鑑定を依頼したと記している。

 見積り合わせ実施の通知を出した2016年(平成28年)4月15日前日の2016年(平成28年)4月14日に大阪航空局が、〈地下埋設物撤去・処分概算額(8億1974万余円)等を近畿財務局に報告、併せて近畿財務局に対し、本件土地に係る処分等依頼書を提出〉と出ているから、不動産鑑定実施の前に既に地下埋設物量とその撤去・処分概算額が算定されていたことを頭に入れておかなければならない。

 この記事を参考にすると、森友学園が杭工事を行う過程で新たな地下埋設物を発見したことを近畿財務局に連絡したのは2016年(平成28年)3月11日であり、近畿財務局が地下埋設物の撤去・処分費用について見積もることを大阪航空局に依頼したのが2016年(平成28年)3月30日となっている。この約半月後の4月14日に面積8,770.43平方メートルの土地の地下埋設物を1万9520トン、ダンプカー4000台分に相当、その撤去・処分費用を概算額8億1974万余円と見積もったという経緯を取る。

 では、不動産鑑定の依頼を受けたY鑑定評価書についての記載を見てみる。

 【Y鑑定評価書 (B不動産鑑定士作成)の見出し及び内容】<発行日> 平成28年5月31日

<依頼者> 支出負担行為担当官 近畿財務局総務部次長<構成及び内容>

一 鑑定評価額及び価格の種類
価格の種類 総額 単価
正常価格 金956,000,000円 109,000円/㎡
※ 上記鑑定評価額は後記三 鑑定評価の条件を前提とするものである。
二 対象不動産の表示 (略)
三 鑑定評価の条件
1.対象確定条件 (略)

2.地域要因又は個別的要因についての想定上の条件

地下埋設物として廃材、ビニール片等の生活ゴミが確認されているが、本件評価において価格形成要因から除外する。

当該条件については下記事項を総合的に考慮して鑑定評価書の利用者の利益を害するものでなく、実現性や合法性の観点からも条件付加の妥当性を確認した。

(1)地下埋設物撤去及び処理費用は別途依頼者において算出されていることから、現実の価格形成要因との相違が対象不動産の価格に与える影響の程度について鑑定評価書の利用者が依頼目的や鑑定評価書の利用目的に対応して自ら判断できること。なお、「自ら判断することができる」とは価格に与える影響の程度等についての概略の認識ができる場合をいい、条件設定に伴い相違する具体的な金額の把握までを求めるものではない。

(2)依頼の背景を考慮すると、公益性の観点から保守的に地下埋設物を全て撤去することに合理性が認められるものの、最有効使用である住宅分譲に係る事業採算性の観点からは地下埋設物を全て撤去することに合理性を見出し難く、正常価格の概念から逸脱すると考えられること。

 先ず「地域要因又は個別的要因」について。「地域要因」とはご存知のように駅に近いとか、バスが通っているとか、交通の便や人口が多いとか、大都市に所属しているとかの地域性からの土地の条件を言い、「個別的要因」とは日当たりがいいとか、軟弱地盤ではないとか、岩盤が近い深度にあるとかのその土地自体を成り立たせている条件をいうとネットに出ている。

 また、「地下埋設物撤去及び処理費用は別途依頼者において算出されている」としていることは既に触れているように大阪航空局が近畿財務局の依頼を受けて森友学園小学校建設用地の地下埋設物は1万9520トン、ダンプカー4000台分で、撤去・処分費用は8億1974万余円と算出したことを指しているのは断るまでもない。

 〈地下埋設物として廃材、ビニール片等の生活ゴミが確認されているが、本件評価において価格形成要因から除外する。〉理由は、〈地下埋設物撤去及び処理費用は別途依頼者において算出されている〉からであり、「地下埋設物撤去及び処理費用」が「現実の価格形成要因」にどう影響を与えるかは「自ら判断できること」だからとしている。要するに不動産鑑定士による不動産鑑定によって不動産鑑定評価額が算出されさえすれば、地下埋設物撤去及び処理費用をどう扱うかは国と土地買い主との間で判断することであって、不動産鑑定士が口出すことではないということからなのだろう。

 もう一つの理由として、要するにこの土地に関してはという条件付きで「地下埋設物を全て撤去することに合理性を見出し難い」ことを挙げている。当然、撤去の状況に応じて土地価格は変動することになるから、地下埋設物の量といった「個別的要因」までを含めた鑑定では「正常価格」を打ち出すことはできないということになる。だが、財務省側は全量を撤去する費用を差し引いた土地価格で算定した。

 なぜなのだろうかという疑問が生じるが、この疑問についてはのち程検討してみることにする。

 上記「Y鑑定評価書」は「地下埋設物を全て撤去することに合理性を見出し難い」としていながら、地下埋設物を全て撤去した場合の土地の参考価格――「意見価額」を提示する矛盾を犯していることを「報告書」は伝えている。

 第4 Y鑑定評価書に関する調査の結果

1 問題点 (鑑定評価額のほかに意見価額の記載があること)

Y鑑定評価書においては、 個別的要因につき想定上の条件(地下埋設物の存在を価格形成要因から除外)を設定して、鑑定評価額を正常価格9億5600万円とする一方で、付記意見として、上記想定上の条件を設定しないで意見価額を1億3400万円としている。

依頼者である近畿財務局は、結果的には上記意見価額1億3400万円と同額で本件土地を森友学園に売却した。

そもそも森友学園への売却代金1億3400万円の相当性が問題となるが、不動産鑑定との関係では、鑑定評価書において鑑定評価額以外に意見価額を記載したことが
相当であったかが問われる。

 Y鑑定評価書は「地下埋設物として廃材、ビニール片等の生活ゴミが確認されているが」、その「撤去及び処理費用は別途依頼者において算出されていることから」、「本件評価において価格形成要因から除外する」と鑑定方法に条件を付け、地下埋設物とは関係させない土地の評価そのものを行なっていながら、その一方で「地下埋設物の存在を価格形成要因」に含めた鑑定を行なって、「意見価額」として1億3400万円の土地価格を付ける矛盾を演じている。この1億3400万円が森友学園に対する土地価格と同額になった。

 この「意見価額」の1億3400万円の算出方法が【Y鑑定評価書(B不動産鑑定士作成)の見出し及び内容】の中に記されている。

 3.意見価額の決定

上記1の更地価額から上記2の地下埋設物撤去及び処理費用を控除し、更に当該撤去期間に起因する宅地開発事業期間の長期化に伴って発生する逸失利益相応の減
価を講じて意見価額を査定した。

    *1      *2               *3
(956,000,000 円-819,741,947 円)×(1+△2%)≒134,000,000 円
                          (15,300 円/㎡)

*1 更地価額(本編鑑定評価)
*2 地下埋設物撤去及び処理費用
*3 事業期間長期化に伴う減価率

 当該撤去期間に起因する宅地開発事業期間の長期化に伴って発生する逸失利益を2%と計算した。その算定方法が記述してあるが、省略する。

 大阪航空局も近畿財務局も地下埋設物は1万9520トン、ダンプカー4000台分で、撤去・処分費用は8億1974万余円と見積もるまでが仕事で、それを既に行なっていたのだから、あとは不動産鑑定士が見積もった更地対応の土地鑑定評価額から撤去・処分費用の8億1974万余円を差し引くという手順を踏んで土地代金を設定すれば片付くはずだが、Y鑑定評価書が地下埋設物要因を含まない鑑定方法を条件とした不動産鑑定評価額を出す一方で、その条件を破ってまでして自らが行なった不動産鑑定評価額から地下埋設物の撤去・処分費用と逸失利益の2%を差し引いた土地の「意見価額」を1億3400万円とし、近畿財務局の土地価格と一致していることは単なる偶然の一致と見ることができるだろうか。

 近畿財務局が土地価格を1億3400万円とした根拠をこの「報告書」は会計検査院の「報告書」を参考にして次のように伝えている。

 4 意見価額が予定価格決定にあたり与えた影響

(1) 予定価格の決定

本件土地は、意見価額1億3400万円と同額で森友学園に売却された。会計検査院報告書83頁によると、近畿財務局は「意見価額を参考として、国有財産評価基準において『当該評価額等を基として評定価格を決定する』と規定されていることを根拠に、鑑定評価額9億5600万円から大阪航空局が合理的に見積もった地下埋設物撤去・処分費用を控除するとともに逸失利益相当額を減価して予定価格を1億3400万円にしたものであるとし、国有財産評価基準に沿った取扱いである」と説明しているとのことである。上記近畿財務局の説明によれば、鑑定評価額を基に予定価格を決定したものであり、意見価額を予定価格として決定したとは説明していないようである。

しかし、予定価格は、鑑定評価額から単純に地下埋設物撤去及び処理費用を控除しただけではなく、事業期間の長期化に伴う逸失利益として2%を減価したY鑑定評価書の意見価額と同額であることからしても、近畿財務局において、予定価格の決定にあたり意見価額が大きな拠り所となっていたと推測される。〉

 逸失利益率2%も「Y鑑定評価書」に倣った。

 大体が「Y鑑定評価書」は大阪航空局が見積もった地下埋設物撤去及び処理費用の8億1974万余円の妥当性を検証しているわけでもないからこそ、「森友学園案件に係る不動産鑑定等に関する調査委員会」が「意見価額」の相当性を批判しているのであって、また「Y鑑定評価書」自らが〈地下埋設物として廃材、ビニール片等の生活ゴミが確認されているが、本件評価において価格形成要因から除外する〉としていながら、大阪航空局が見積もった地下埋設物撤去及び処理費用の8億1974万余円をそのまま用いた「意見価額」を出した。「Y鑑定評価書」作成のB不動産鑑定士は近畿財務局と通じていたのではないのかと疑うこともできる。

 また地下埋設物の「撤去期間に起因する宅地開発事業期間の長期化に伴って発生する逸失利益」は森友側が申し出るべき金額であるはずだが、それを2%相当と計算できたということは、B不動産鑑定士は近畿財務局を介して森友学園側と話を通じさせていたとも疑うこともできる。

 上記「森友学園案件に係る不動産鑑定等に関する調査報告書」が「地下埋設物を全て撤去することに合理性を見出し難い」としていることに対して財務省側が全量撤去の費用を差し引いた土地価格を算定したことに対する疑問を前のところでのち程検討してみるとしたが、ここで取り上げてみる。「地下埋設物を全て撤去することに合理性を見出し難い」としている理由は何なのか。一旦は書き換えたが、その後に削除したために書き換えに気づくのが1週間遅れたと断り書きを入れてある文書「森友学園事案に係る今後の対応方針について(H28.4.4)」に、〈3月11日、相手方より、校舎建築の基礎工事である柱状改良工事を実施したところ、敷地内に大量の廃棄物が発生した旨の報告を受け、対応を検討しているもの。〉の文言があることは既に伝えている。

 また、会計検査院の「調査報告書」「学校法人森友学園に対する国有地の売却等に関する会計検査の結果について」も、校舎建築の基礎工事は柱状改良工事であることを大阪航空局の説明としてより具体的に紹介している。

 〈建物の杭部分の面積に係る処分量は、杭の有効径断面積の計303㎡に深度9.9m及び混入率の47.1%を乗じた後に体積を重量に換算するなどして、2,720tとしていた。深度の9.9mまでの数量を地下埋設物撤去・処分費用として見積もる必要性について、大阪航空局は、上記の深度3.8mの場合と同様の理由に加えて、本件杭工事は柱状にセメント系固化材を土壌と混合して杭を築造するものであることから、混合する土壌に廃材等が混入していると、将来、経年劣化により杭の強度に影響するおそれがあると考え、その地盤状況による支障も見込んだためとしている。〉

 「混合する土壌に廃材等が混入」するという「大阪航空局の説明」は国民をたぶらかすペテンそのものである。その証拠に次の画像を載せておく。
 画像のようにアースオーガードリルという名の刃が連続する螺旋状の溝がついた掘削ドリルを重機のアームの先端に取り付けて回転させて地面を掘っていくと、電動ドリルに木工キリを取付けて木材に穴を開けると、木工キリにしても連続する螺旋状の溝がついていて、溝に絡みながら木の切り屑が押し出されてくるようにアースオーガーの螺旋状の溝に絡みついて掘削した土が地表に押し出されてくる。地表以外に掘られた土は逃げ場がないからだ。

 どのような方法であろうと、地面に穴を掘るという作業は地中の土を取り除くことを意味していて、取り除いた土は地表に出す以外に置き場所はない。一旦地表に押し出されその土(排土)をミルクと呼ばれる水に溶いたセメントやその他の土壌固化材と混ぜて穴に戻して固めて、建築物を支える柱状の補強体(=杭)とする。森友学園が2016年(平成28年)3月11日に「杭工事を行う過程で新たな地下埋設物を発見」できたことはこの原理に基づく。穴を掘っていくにつれて螺旋状の掘削ドリルの溝に絡みついて土と共に地下埋設物が地上に押し出されてくるから、「発見」という人の目につく現象が起きる。

 当然、掘削した柱状の穴の中に存在した地下埋設物は全て地上に押し出されて、穴の中自体には存在しないことになり、地表に押し出された土の中に地下埋設物が混入していたなら、それを取り除いた土をセメントを水に溶かしたミルクやその他の土壌固化材と共に穴に戻して固めることになるから、経年劣化を引き起こす原因を穴の中に残さないことになる。また、アースオーガードリルの直径よりも大きなコンクリート塊や岩が掘削個所に障害物として横たわっていた場合、それを穿孔できるドリルも存在する。そのようなドリルの超大型の物(=シールドマシン)が国道のトンネルや列車のトンネルの掘削に使われる。直径が10メートル以上もあるそうだが、1日に10メートルか15メートル程度しか掘削できないそうだ。

 もし柱状杭の外側に残っている地下埋設物がミルクと土で固めた杭を経年劣化させると言うなら、鋼管杭に代えて、中にセメントを流し込めば、地下埋設物全量撤去よりも安価に済む。鋼管杭も地下水や微生物で腐食することを見込んで、「腐食代」(ふしょくしろ)と言って、周囲1ミリ分の厚みをつけるそうだ。アースオーガードリルで穴を掘る金額は変わらない。鋼管杭代金とミルクをコンクリー地に変える金額差だけ余分にかかる程度で片付く。

 大阪航空局の説明、〈混合する土壌に廃材等が混入していると、将来、経年劣化により杭の強度に影響するおそれがある〉としていることが如何に国民をたぶらかすペテンそのものであるかが理解できたと思う。

 だから、「森友学園案件に係る不動産鑑定等に関する調査報告書」が地下埋設物の量と撤去・処分費用が見積もられていることを承知の上で、「依頼の背景を考慮すると、公益性の観点から保守的に地下埋設物を全て撤去することに合理性が認められるものの」としながら、つまり全てキレイにしたい気持ちは理解できるが、「最有効使用である住宅分譲に係る事業採算性の観点からは地下埋設物を全て撤去することに合理性を見出し難く、正常価格の概念から逸脱すると考えられる」としたのだろう。

 つまり地下埋設物を一定程度残しておいても杭工事支障はないし、小学校校舎建設にも邪魔になるわけではないと言っていることになる。具体的には柱状にセメント系固化材と土壌とを混合して固めた杭と杭の間に少しぐらいの地下埋設物が埋まっていたとしても、地盤強度に影響しないということである。会計検査院の「調査報告書」の39P「図表2-8 対策工事における地下埋設物撤去の概念図」の説明書きに地下埋設物は、〈(対策工事ではほとんど撤去されていないと考えられる)〉と書き入れてあるのは杭と杭の間に地下埋設物がそのまま残置されていることを前提とした推測となり、杭と杭の間に少しぐらいの地下埋設物が埋まっていたとしても、地盤強度に影響しないことの根拠となる。

 だが、財務省側は全量撤去の費用を差し引いた土地価格を算定した。森友側との取引きに何らかのカラクリがなければ地下埋設物の全量撤去とか、全量撤去の費用を差し引くといった土木の常識に反することを前面に出すことはないだろう。事実全量撤去したなら、決裁文書を改ざんすることで改ざん部分の事実経緯を隠蔽したり、削除という方法で取引の実態を抹消したことと辻褄が合わなくなる。カラクリがあったからこそ、改ざんや削除による事実の隠蔽が必要になった。

 次に画像を載せておくが、森友学園小学校建設予定地(8,770.43㎡)と元々は一つの国有地であったが、豊中市が公園用内として買い入れた東側に位置する土地(9,492.42㎡)との地下埋設物量の違いから、森友側の土地に1万9520トン、ダンプカー4000台分の地下埋設物が果たして存在していたのかどうかの妥当性を会計検査院の「報告書」から探ってみる。両土地の間に幅員約16mの市道が設けてあるが、同じ国有地であったことから、元々は隣接していた。また豊中市の公園用地の方が721.99㎡広い。常識的に考えると、公園用地の方が地下埋設物量が多く思えるが、そうではない。

 〈豊中市は、財政状況が厳しいことなどの理由により換地後の土地を全て買い取ることが困難であるとして、換地後の土地のうちその半分程度の面積となる東側の9,492.42㎡(以下「公園用地」という。図表2-4参照)のみを取得して公園として整備する方針とし、西側部分の本件土地の取得を断念した上で、20年3月28日に公園用地について買受けを要望する旨の回答を大阪航空局へ送付していた。〉(23P)

 (大阪航空局により)〈処分依頼を受けた近畿財務局は、21年12月に不動産鑑定業者へ公園用地の鑑定評価業務を委託していた。近畿財務局は、委託に当たり、大阪航空局より提供を受けた土地履歴等調査及び地下構造物調査の結果を同鑑定業者に資料として提示していた。このため、委託を受けた同鑑定業者の不動産鑑定士は、不動産鑑定評価に当たり、公園用地について、前記のとおり、土地履歴等調査により汚染の存在は確認できなかったことから土壌汚染の影響は無いものと判断していた。また、地下構造物調査により地下埋設物が確認されていることなどから、その報告書に記載されている地下埋設物の数量等を基に、公園用地に係る処分工事費を8748万余円と算定するなどして、地下埋設物の存在に係る個別的要因を0.94と算定していた。そして、これらを踏まえ、同鑑定業者は、22年2月15日に近畿財務局へ鑑定評価書を提出していた。鑑定評価書の提出を受けた近畿財務局は、評価調書を作成し、同月24日に豊中市と見積合わせを実施しており、その結果、近畿財務局は、同年3月10日に、地下構造物調査の報告書に記載されている地下埋設物が存在することを買受人である豊中市が了承したとする特約条項を付して瑕疵を明示した国有財産売買契約により、公園用地9,492.42㎡を豊中市に14億2386万余円で売却していた。〉(25P)

 個別的要因に対する「0.94」という算定をネットで調べたが、要領を得ないので、この「報告書」19pの〈対策工事後の個別的要因のうち地盤改良について、大阪航空局は、整地により改善されたとして1.00としていた。〉との記述を参考にすると、土地に関するマイナスとなる個別的要因の存在しない土地、あるいは存在していたマイナスの個別的要因を取り除いた土地の評価は正常な土地としての意味を持つ「1.00」の算定を受け、「1.00」以下の算定はその値が下がる程に土地に問題点が存在し、マイナスの個別的要因の存在する土地は「1.00」から専門的知識によってマイナス分を引いて、「0.94」とか、「0.95」といった評価を行い、この数字を不動産評価額に掛けて売買価格を決定するということらしい。土地の評価がマイナスの個別的要因を理由に0.94と算定された場合、売主側が自費でマイナスのその個別的要因を取り除いた場合、個別的要因は「1.00」に戻ることになる。

 豊中市公園予定地の個別的要因算定値は0.94だから、売却価格14億2386万余円に地下埋設物撤去費8748万余円をプラスした元の価格15億1134万円に個別的要因算定値0.94を掛けると、14億2066万余円になって、売却価格に近づく。

 この個別的要因算定値0.94は、14億2386万余円(売却価格)÷15億1134万円(元の価格)≒0.94で出てくる。

 因みに売却価格に地下埋設物撤去費をプラスした元々の売値に個別的要因算定値のマイナス分を掛けてみる。

 14億2386万余円(売却価格)+8748万余円(地下埋設物撤去費)≒15億1134万余円×(1.00-0.94=)0.06≒9068万となって、地下埋設物撤去費8748万余円と差額は320万円、当然の計算結果だが、地下埋設物撤去費に近づくことになる。

 豊中市公園予定地と森友学園小学校建設予定地は元は地続きの隣接地である。森友学園小学校建設予定地の不動産鑑定評価額9億3200万円で、地下埋設物があり、森友側が撤去するとして、その費用を大阪航空局が8億1900万円と見積もり、その差額約1億3400万が売却価格となった。では、個別的要因算定値を計算してみる。

 約1億3400万(売却価格)÷9億3200万円(不動産鑑定評価額=元の価格)≒0.14

 森友学園小学校建設予定地よりも約722㎡狭い面積8,770.44㎡の豊中市公園予定地の個別的要因算定値0.94に対して地続きであった森友学園小学校建設予定地が豊中市公園予定地よりも722㎡も広いが、個別的要因算定値は0.14。0.94÷0.14≒6.7。地続きであった土地でありながら、より狭い豊中市公園予定地よりもより広い森友学園小学校建設予定地の方が7倍近くもの地下埋設物が存在していた。単純計算で行くと、森友のダンプカー4000台分、1万9500トン、ゴミ混入率47.1%に対して豊中市公園予定地はほぼ近似値のダンプカー台数とトン数、ゴミ混入率となっていいはずだが、約7分の1で収まっていた。地続きの隣接地同然の土地でありながら、この差が出るについては何か特殊な事情がなければならない。

 この辺の事情を会計検査院の「報告書」の〈(ア) 地下埋設物の取扱い(107P)~(ウ) 予定価格の決定等(113P)〉から窺ってみることにするが、「(ア) 地下埋設物の取扱い」は全文、「(イ) 地下埋設物撤去・処分費用の算定」以下は主なところを拾って、分かりやすいように箇条書きにして取り出した上、少々のコメントを青文字で付けてみるが、その前に32P~33Pの次の記述を参考のために載せておく。

〈一時貸付けを受けた森友学園は、同月(平成26年10月)21日から30日にかけて、本件土地の地層構成を明らかにし小学校校舎等の設計・施工の基礎資料とすることを目的として、地盤調査を調査会社へ発注して実施していた。当該地盤調査に係る報告書によれば、ボーリング調査は2か所で実施され、それぞれ地下46.5m、21.5mの深さまで実施されている。ボーリング調査の結果、地下3.1mまでは盛土層であり、盛土層について、その上部では植物根が多く混入し、中部から下部では塩化ビニル片、木片及びビニル片等が多く混入しているとされており、地下3.1m以深については、地下約10mまでが沖積層、それ以深が洪積層であるとされている。〉

 要するに地下埋設物は地下3.1mまでの盛土層のみに存在し、地下3.1m以深の沖積層(約2万年前の最終氷期最盛期以降に堆積した地層のこと。「Wikipedia」)には存在するはずはないことを伝えていることになる。文飾は当方。

  (ア) 地下埋設物の取扱い

〈森友学園から連絡を受けた近畿財務局は、大阪航空局とともに、28年3月14日に現地の確認をして、今回確認した廃棄物混合土は貸付合意書で対象としていた地下埋設物に該当しない新たな地下埋設物であると判断したとしている。そして、近畿財務局は、大阪航空局に地下埋設物の撤去・処分費用の見積りを口頭により依頼し、その額を本件土地の評価において反映させることとした。また、本件土地に関する隠れた瑕疵も含む一切の瑕疵について国の瑕疵担保責任を免除し、森友学園は売買契約締結後、損害賠償請求等を行わないとする特約条項を契約に加えることとした。一方、大阪航空局は、同月30日に近畿財務局から地下埋設物の撤去・処分費用の見積りを行うよう口頭による依頼を受けて、地下埋設物撤去処分概算額を8億1974万余円と算定し、近畿財務局へ提出した。〉

(イ) 地下埋設物撤去・処分費用の算定

○地下埋設物撤去・処分費用の算定における対象面積についてみると、杭工事においていずれの杭から廃棄物混合土が確認されたかを特定することができないこと、過去に池等であった土地の地歴等を勘案しているとする範囲と北側区画の5,190㎡とが一致しているかを確認することができないことから、対象面積の範囲を妥当とする確証は得られなかった。

 小学校建設予定地8,770.43㎡のうち「北側区画の5,190㎡」はほぼ校舎の敷地に重なる。要するに既に校舎が建っているから、改めて土を掘り起こして確かめることができない。しかもアースオーガードリルで穴を掘削しているとき、どの地点の地表下どの深さからどのくらいの量の地下埋設物が押し出さてきたのか、押し出されてこなかった地点もあるのかの記録を付けていなかった。当然、地下埋設物のより正確な量を検証しようがない不備を突きつけたことになる。
 
 さらに杭工事で地下埋設物の存在と量を推定する場合はオーガードリルによって地下埋設物は螺旋状の刃に絡め取られて地表に押し出されることになるから、セメントミルク等土壌固化材と地下埋設物を取り除いた掘削した土を混ぜながら穴に戻して杭を成形すれば、杭としての機能を果たすことになり、杭を打つ場所のみの地下埋設物回収で地下埋設問題は片付くはずだが、会計検査院はそのことを認識していなかったようだ。


○杭部分を除く部分に設定された深度3.8mについてみると、大阪航空局が確認したとしている工事写真には3.8mを正確に指し示していることを確認することができる状況は写っていない。また、近畿財務局及び大阪航空局の職員が現地で確認した際等に、別途、廃棄物混合土の深度を計測した記録はないことも踏まえると、廃棄物混合土を3.8mの深度において確認したとしていることの裏付けは確認することができなかった。

 〈杭部分を除く部分に設定された深度3.8mについてみると、大阪航空局が確認したとしている工事写真には3.8mを正確に指し示していることを確認することができる状況は写っていない。〉ことと廃棄物混合土を3.8mの深度において確認したとしていることの裏付けは確認することができなかった。こともいい加減な話だが、杭部分以外は地下埋設物が残っていても問題はないことが分かっているから、適当に処理したのだろう。地表に近い場所以外に地下埋設物が余りにも多い場合は杭の直径を大きくするか、杭の本数を多くすれば、建物を支える地盤を強固にすることができる。

○近畿財務局及び大阪航空局の職員が現地で確認した際等に、別途、廃棄物混合土の深度を計測した記録はないことも踏まえると、廃棄物混合土を3.8mの深度において確認したとしていることの裏付けは確認することができなかった。

 コメントを加えるまでもない。不備に続く不備で、財務省は大阪航空局の見積もり通りの地下埋設物が存在していたと信じさせることはできないはずだ。

ボーリング調査等を実施した箇所付近において、深度3.8mに廃棄物混合土が確認されていないのに、大阪航空局が森友学園小学校新築工事において工事関係者が北側区画で試掘した5か所のうち1か所の試掘において深度3.8mに廃棄物混合土が確認された結果をもって敷地面積4,887㎡に対して深度3.8mを一律に適用して処分量を算定しているのは、過去の調査等において廃棄物混合土が確認されていなかったとの調査結果と整合しておらず、この算定方法は十分な根拠が確認できないものとなっている。

 要するに「深度3.8m」の試掘1箇所のみの地下埋設物量を校舎が建っている北側の5,190㎡のうちの建物の杭部分の面積(303㎡)を除く面積4,887㎡に掛けて、この面積の地下埋設物量を算出した。

 「報告書」の38Pに次のような記述がある。(対策工事業者から森友学園に提出された
〈報告書に添付されていた産業廃棄物管理票等によれば、廃材等及び
廃棄物混合土の処分量は、地下構造物等の撤去の際に掘削機のバケット等に付着するなどして掘り出した9.29tにとどまっていた。一方、地下構造物調査においては68か所の試掘箇所のうち29か所で計347tの廃棄物混合土が確認されていることなどを考慮すれば、対策工事では廃棄物混合土のほとんどを撤去していなかったと思料される。〉

 撤去せずに校舎建設はできたということである。試掘で掘り出した地下埋設物と柱状改良工法を用いた杭工事で地表に出てきた地下埋設物を処理するのみで片付いたことの証明に過ぎない。

○杭部分に関し、深度9.9mまで廃棄物混合土の存在を見込んでいることについては、近畿財務局及び大阪航空局は、杭工事において新たな廃棄物混合土が確認されたことを現地や施工写真等で確認したとしている。

しかし、森友学園が行った対策工事において廃棄物混合土は撤去されていないため、近畿財務局及び大阪航空局が確認した廃棄物混合土が既知の地下3m程度までの深度のものなのか、杭先端部の地下9.9mの深度のものなのかなどについては確認することができなかった。

 地下3.1m~地下約10mまでが約2万年前に形成された沖積層なのだから、人間が捨てた廃棄物の類いは存在しない。当然、森友側は限られた量以外の撤去の必要性は生じなかった。

○杭工事において新たに確認されたとする廃棄物混合土は、(仮称)M学園小学校新築工事地盤調査報告書等においておおむね地下3m以深は沖積層等が分布しているとされていることなどから、既知の地下3m程度までに存在するものであることも考えられ、新たに確認されたとする廃棄物混合土がどの程度の深度に埋まっていたかについては、十分な確認を行う必要があったと認められる。

以上のように、深度3.8mについて、廃棄物混合土を確認していることの妥当性を確認することができず、敷地面積4,887㎡に対して一律の深度として用いたことについて十分な根拠が確認できないこと及び深度9.9mを用いる根拠について確認することができないこと、また、大阪航空局は、廃棄物混合土が確認されていない箇所についても地下埋設物が存在すると見込んでいることとなることなどから、地下埋設物撤去・処分概算額の算定に用いた廃棄物混合土の深度については、十分な根拠が確認できないものとなっている。

 会計検査院以ってしても確認できないことばかりとなっている。1万9520トン、ダンプカー4000台分の地下埋設物など存在しなかったメガネで眺めた方がスッキリする。

○また、混入率の47.1%は、地下構造物調査において北側区画内で試掘した42か所のうち廃棄物混合土の層が存在すると判断された28か所の混入率を平均して算定されているが、28か所以外の14か所についても北側区画での試掘であり、うち13か所では廃棄物混合土が確認されていない。このため、14か所を混入率の平均の算定から除外していることに合理性はなく、混入率の平均値が試掘した42か所の平均より高めに算定されていることも考えられる。このように、対象面積全体に乗じる平均混入率として、廃棄物混合土が確認された箇所に限定した混入率の平均値を用いていることについては、十分な根拠が確認できないものとなっている。

 元々は地続きであった東隣の豊田市の公園用地の地下埋設物の存在に係る個別的要因が0.94であるのに対してより面積が狭い森友小学校建設用地の個別的要因が0.14と7倍近くも多い地下埋設物の存在は不動産鑑定評価額9億5600万円の土地を売値1億3400万円とするために水増しに水増しさせた地下埋設物の撤去・処分費用8億1974万余円と見た方が理に適っている。

本件処分費の単価22,500円/tがどのような条件下で提示された単価であるのかなどを示す資料はなく、単価がどのような項目から構成されているかなど、単価の詳細な内容について確認することができなかった。

土地売値1億3400万円ありきだったから、この売値に合わせて全ての単価を決めていったのだろうから、資料など作成しようがなかったのだろう。

◯仮定の仕方によって処分量の推計値が変動すると考えられるが、例えば、限られた期間で見積りを行わなければならないという当時の制約された状況を勘案し、大阪航空局が適用した地下埋設物撤去・処分費用の価格構成や工事積算基準等を用いた上で、算定要素ごとに一定の条件を設けて試算を行ったところ、処分量19,520tは、

①廃棄物混合土の深度を過去の調査等において試掘した最大深度の平均値に修正した場合は9,344t、
②混入率を北側区画の全試掘箇所42か所の混入率の平均値に修正した場合は13,120t、
③処分量に含まれていた対策工事で掘削除去している土壌の量を控除した場合は19,108t、

これらの①~③の算定要素が全て組み合わされた場合は6,196tと算出された。

一方、上記の混入率法を用いずに、廃棄物混合土が確認された最大深度の平均値2.0mと最小深度の平均値0.6mの差となる1.4mの範囲全てに、廃棄物混合土が存在する層があるとみなして算定する層厚法も考えられる。

層厚法により、地下構造物調査等を行った位置が対象面積に対して偏っていないと仮定した上で、更に廃棄物混合土が存在する層の全てが廃棄物混合土のみであるとみなして面積5,347㎡を適用し、対策工事で掘削除去している土壌の量を控除して機械的に試算を行ったところ、処分量は13,927tと算出された。

このように、処分量を求めるための仮定の仕方によって、処分量の推計値は大きく変動する状況となっており、また、いずれも大阪航空局が算定した処分量19,520tとは大きく異なるものとなっていた。

以上のように、大阪航空局が算定した本件土地における処分量19,520t及び地下埋設物撤去・処分概算額8億1974万余円は、算定に用いている深度、混入率について十分な根拠が確認できないものとなっていたり、本件処分費の単価の詳細な内容等を確認することができなかったりなどしており、既存資料だけでは地下埋設物の範囲について十分に精緻に見積もることができず、また、仮定の仕方によっては処分量の推計値は大きく変動する状況にあることなどを踏まえると、大阪航空局において、地下埋設物撤去・処分概算額を算定する際に必要とされる慎重な調査検討を欠いていたと認められる。

要するに大阪航空局の地下埋設物量及び地下埋設物撤去・処分費用の算定方法が記録不備などで把握できないから、検査院の方でも様々な計算方法で地下埋設物処分量を計算しなければならなかった。裏返すと、大阪航空局の見積もり自体がいい加減だったことになる。その答は土地売値1億3400万円ありきと見るほかはない。

(ウ) 予定価格の決定等

◯近畿財務局は、大阪航空局から売払処分依頼を受けて、不動産鑑定評価基準に基づく正常価格を求めることとし、大阪航空局からの依頼文書で示された地下埋設物撤去・処分概算額及び軟弱地盤対策費を考慮して不動産鑑定評価を行うことを条件とした仕様書により鑑定評価業務を発注した。委託を受けた不動産鑑定業者の不動産鑑定士は、近畿財務局が考慮することを依頼した地下埋設物撤去・処分概算額について、不動産鑑定評価基準における「他の専門家が行った調査結果等」としては活用できなかったとし、近畿財務局の同意を得て、地下埋設物の存在を価格形成要因から除外する想定上の条件を設定して鑑定評価を行い、本件土地の鑑定評価額を9億5600万円とした。さらに、近畿財務局が提示した地下埋設物撤去・処分費用を控除し、更に地下埋設物の撤去に要する期間に起因する宅地開発事業期間の長期化に伴って発生する逸失利益相応の減価を講じて意見価額を1億3400万円であると付記していた。

当該意見価額について、上記の不動産鑑定士は、不動産鑑定評価基準において、想定上の条件が設定された場合に、「必要があると認められるときは、当該条件が設定されない場合の価格等の参考事項を記載すべきである」とされていることによるものであるなどとしている。そして、参考事項として記載された意見価額は、鑑定評価額を定める場合のように中立性や信頼性の水準を確保することが求められるものではない。また、地下埋設物撤去・処分概算額を活用できなかった理由は鑑定評価書に記載されていないが、上記の不動産鑑定士に確認したところ、依頼者側の推測に基づくものが含まれていて、調査方法が不動産鑑定評価においては不適当であることなどから、他の専門家が行った調査結果等としては活用できなかったとするとともに、不動産鑑定評価上、地下埋設物を全て撤去することが合理的であることを保証したものではないとしている。

 大阪航空局の地下埋設物に関わる見積もりは〈不動産鑑定評価基準における「他の専門家が行った調査結果等」としては活用できなかった〉、〈依頼者側の推測に基づくものが含まれていて、調査方法が不動産鑑定評価においては不適当であることなどから、他の専門家が行った調査結果等としては活用できなかった〉と無関係としたのは近畿財務省側と鑑定士が示し合わせたものではないと見せかける方便なのだろうか。なぜなら、〈不動産鑑定評価上、地下埋設物を全て撤去することが合理的であることを保証したものではない〉云々は財務省側にとっても、森友側にとっても好条件となるからである。土地の瑕疵として地下埋設物の存在は大阪航空局の見積もり通りとして値引きは当然が、だからと言って、見積もった地下埋設物の全量は撤去する必要はないとお墨付きを与えたも同然となるからだ。結果、会計検査院が調査を尽くしても、既に触れているように〈対策工事では廃棄物混合土のほとんどを撤去していなかったと思料される。〉と正確な検証のサジを投げた状況になっている。

 要するに鑑定士は地下埋設物を撤去しなくても杭工事に支障はないし、校舎建設工事にも支障はないことを知っていて、森友も近畿財務局もそのことを知っていたからこそ、露見した場合の虚偽公文書作成等の罪を免れるための危機管理から地下埋設物の撤去・処分にかかる正確な帳簿・記録の類を残さなかったのだろう。

 ところが、自分たち役人だけの問題ではなくなって、安倍晋三や安倍昭恵まで絡んできたために決算文書の改ざんを余儀なくされた。
 

◯また、軟弱地盤対策費5億8492万余円の算定根拠について大阪航空局に確認したところ、大阪航空局は、近畿財務局からの依頼に基づき、森友学園側の工事関係者から提供された見積書を内容の検証を行わないまま近畿財務局に提出したとしている。そして、近畿財務局は、当該見積書が契約相手方である森友学園側の工事関係者から提供されたものであることを知りながら、その事実を説明せず、また、内容を十分に確認しないまま、不動産鑑定士に判断を委ねることとして、これを考慮することを条件とした鑑定評価業務を委託していた。このようなことから、両局において、予定価格の決定に関連した事務の適正な実施に対する配慮が十分とはいえない状況となっていた。

 この経緯を見ると、森友側の思惑が大阪航空局から近畿財務局へと、近畿財務局から不動産鑑定士へと無条件でバトンタッチされ、最終的に不動産鑑定士から森友側の思惑の範囲内の結果を手に入れる構図を見て取ることができる。大阪航空局も近畿財務局も「見積書を内容の検証を行わない」のだから、森友側の思惑に加担したことになる。この加担がこのケースだけではなく、地下埋設物量の見積もりから始まって、その撤去・処分費用の見積もり、最終的に安すぎる土地代金の決定にまで関わった疑いが出てくる。

近畿財務局は、9億5600万円が鑑定評価額であること、地下埋設物撤去・処分概算額を反映した場合の意見価額が1億3400万円であることの審査を了したが、評価調書の作成を失念したとし、評定価格を定めないまま、1億3400万円を予定価格として決定していた。

 要するに9億5600万円の鑑定評価額と1億3400万円の意見価額についての妥当性や是非を検討する作成すべき「評価調書」を作成しなかった。「作成を失念した」は下手に作って露見した場合の罪を負うことを回避する危機管理からの体裁のいい言い逃れと言ったところなんだろう。結果的に決裁文書改ざんにまで行き着くことになった。当たり前のことだが、決裁文書改ざんだけの問題ではなく、地下埋設物量の見積もりから始まった一続きのイカサマでなければならない。決裁文書とは取引の経緯や実態を書き込んだ文書だから、その改ざんを迫られたということは実際の取引の経緯や実態がイカサマだったから、そのイカサマに対応した決裁文書の改ざんというイカサマでなければならない。そして森友疑惑に関係した安倍晋三等の閣僚の国会答弁も財務省理財局長佐川宣寿の虚偽答弁も国有地売却のイカサマに相呼応し合ったイカサマであるはずだ。

◯予定価格と意見価額が同額である点に関して、近畿財務局は、本件鑑定評価において、地下埋設物の存在が価格形成要因から除外されたことから、地下埋設物の影響を踏まえた判断が必要になるとし、近畿財務局が明らかとなっている瑕疵に対応しない場合には森友学園が小学校建設を断念して損害賠償を請求する考えが示されていたことなどの個別事情を踏まえ、意見価額を参考として、鑑定評価額9億5600万円から大阪航空局が合理的に見積もった地下埋設物撤去・処分費用を控除するなどしたものであるとし、国有財産評価基準に沿った取扱いであるとしている。

しかし、予定価格の決定に当たり、森友学園から損害賠償を請求する考えが示されていたことなどの個別事情を踏まえたとされているところ、当該個別事情を勘案したことは予定価格の決定における重要な要素であるのに、決裁文書にこの点に関する特段の記述がないなど、具体的な検討内容は明らかではなかった。そして、鑑定評価額と大きく異なる額を予定価格として決定していたのに、国有財産評価基準で求められている評価調書の作成を失念し、評定価格を定めておらず、評価内容が明らかになっていないため、評価事務の適正を欠いていると認められた。

 〈予定価格と意見価額が同額である点に関して、近畿財務局は、本件鑑定評価において、地下埋設物の存在が価格形成要因から除外されたことから、地下埋設物の影響を踏まえた判断が必要になると〉したこと自体が間違った態度となっている。不動産鑑定士が出した土地鑑定評価額から「地下埋設物撤去・処分費用を控除」すれば片付くことであって、不動産鑑定士の手を煩わせて同じ程度の土地価格を出させたこと自体、自分たちのイカサマをイカサマでないと見せかけるお墨付きを不動産鑑定士を介して手に入れたといったところであるはずだ。 

 では、森友疑惑の核心はあくまでも大阪航空局が見積もった1万9520トン、ダンプカー4000台分の地下埋設物が果たして実際に存在していたのかどうかであり、疑惑の出発点となっていて、地下埋設物が小学校校舎建設にどれ程の障害となり、障害となった分、搬出・産廃処理されていたはずで、搬出・産廃処理量・金額と地下埋設物撤去・処分費用との差額の妥当性等々、これらの点に関して会計検査院の対森友学園国有地売却の会計検査報告書から窺うことのできる疑問・疑惑に財務省の「森友学園案件に係る決裁文書の改ざん等に関する調査報告書」(2018年6月4日)がどう答えているか、見てみることにする。

 会計検査院の「報告書」は2017年11月22日に公表。財務省の「報告書」は約半年後の2018年6月4日公表。例え半年の期間であったとしても、会計検査院「報告書」の疑問・疑惑に答えていなければ、調査報告とは言えない。結論を先に言うと、財務省「報告書」は何も答えていない。この「報告書」自身が「4P」の「注」として答えている。

 〈本報告書は、平成29年2月以降の森友学園案件に係る決裁文書の改ざん等に関する調査の結果をとりまとめたものであり、上記の価格算定手続の妥当性等を含め、平成28年6月20日 (月)の事案終了前の状況について調査を行ったものではない。〉

 2016年(平成28年)6月20日に森友学園と国有地売買契約を締結した。その日を以って全て終了したものとして扱い、決裁文書の改ざんのみの問題点を洗い出している。

 改ざんに至った発端の記述が財務省「報告書」の最初部分に記載されているから、参考のために簡単に取り上げてみる。

 2017年2月に森友学園案件が国会で取り上げられて以降、同年2月下旬から4月にかけて5件の決裁文書を改ざん。一度ウソをつくと、そのウソを事実と見せかけるために次のウソが必要となる喩えどおりに「主としてこれらの決裁文書の改ざん内容を反映する形で」、つまり5件の改ざんに辻褄を合わせる形で9件の決裁文書、計14件の決裁文書改ざんを行なった。

 この「計14件」は単なる数字ではなく、ウソの量を表している。1件や2件ではない、14件という相当量のウソを要した。それ程までに対森友学園国有地売却に関してウソを必要とした。ウソを必要とした原因を森友学園国有地売却との関連で捉えてはいない。国会で問題になったことから始まった文書改ざんという事実経緯のみが取り上げられている。

 例えば2017年2月21日に近畿財務局及び本省理財局の国有財産審理室長が国会議員団に面会を受けたことから、政治家関係者に関する記載の取扱いが問題となり得ることが認識され、報告を受けた財務省理財局長が〈当該文書の位置づけ等を十分に把握しないまま、そうした記載のある文書を外に出すべきではなく、最低限の記載とすべきであると反応した。理財局長からはそれ以上具体的な指示はなかったものの、総務課長及び国有財産審理室長としては、理財局長の上記反応を受けて、将来的に当該決裁文書の公表を求められる場合に備えて、記載を直す必要があると認識した。こうした認識は、国有財産企画課長にも共有された。〉ことから始まり、〈政治家関係者からの照会状況等が記載された経緯部分を削除するなどの具体的な作業を〉開始、〈理財局長からは、2017年2月から3月にかけて積み重ねてきた国会答弁を踏まえた内容とするよう念押しがあった。〉と改ざんが深みにハマっていく事実経緯の調査のみで、なぜ政治家関係者に関する記載の取扱いが問題となるのか、なぜ理財局長の佐川宣寿は局長という地位にありながら、決裁文書に記してある事実と異なる答弁をする必要があったのかの「なぜ」に対する調査がない。

 例えば2017年2月17日(金)の衆議院予算委員会、その他で安倍晋三から、〈本人や妻が、事務所も含めて、この国有地払下げに一切関わっていないことは明確にしたい旨の答弁があった。〉(10P)ものの、この〈答弁以降、本省理財局の総務課長から国有財産審理室長及び近畿財務局の管財部長に対し、総理夫人の名前が入った書類の存否について確認がなされた。これに対して、総理夫人本人からの照会は無いことや、総理夫人付から 本省理財局に照会があった際の記録は作成し、共有しているが、内容は特段問題となるものではないことを確認したほか、近畿財務局の管財部長からは、その他の政治家関係者からの照会状況に関する記録の取扱いについて相談がなされた。さらに、上記の同年2月21日(火)の国会議員団との面会の状況も踏まえ、本省理財局の総務課長から近畿財務局の管財部長に対して政治家関係者をはじめとする各種照会状況のリストの作成を依頼し、本省理財局の国有財産審理室長に当該リストが送付された。〉(15p)

 だが、決裁文書から総理夫人安倍昭恵の名前が削除された。財務省「報告書」はこのことに一切触れていない。かくかように会計検査院「報告書」が提示した多くの「なぜ」に答えていない。この答がない以上、森友疑惑の本質的な解明に迫ることはできない。

 極めつけは「平成29年以降の状況」(9p)の⑧の記述である。

 〈⑧ 当時、国会審議のほか、一部政党において本省理財局等からヒアリングを行うための会議が繰り返し開催されており、さらに同政党の国会議員団は、森友学園に売り払われた国有地を平成29年2月21日 (火)に視察することとなった。本省理財局では、当日の森友学園の理事長らの発言次第では国会審議が更に混乱しかねないことを懸念し、局長以下で議論を行った結果として、国有財産企画課の職員に対して、対外的な説明を森友学園の顧問弁護士に一元化するなど、当該顧問弁護士との間で対応を相談するよう指示がなされた。

 この指示を踏まえ、当該職員が同年2月20 日 (月)にかけて当該顧問弁護士と相談を行う中で、同理事長は出張で不在であるとの説明ぶりを提案したり、さらには「撤去費用は相当かかった気がする、トラック何千台も走った気もする」といった言い方も提案した(注12-「トラック何千台」との表現は、当該職員が発案し、提案したものと認められる。)。結果的には、翌日21 日 (火)の国会議員団による現地視察には同理事長も顧問弁護士も同席せず、その後も、国有財産企画課の当該職員が伝えたような内容を森友学園側がコメントすることは無かった。〉 (11p)

 対する罰則。

「 (3) 本省理財局における責任の所在の明確化 」(31p)

 〈また、別の当時の国有財産企画課職員(課長補佐級)についても、一連の問題行為には関与していなかったが、地下埋設物の撤去費用について、森友学園の顧問弁護士に対して事実と異なる説明ぶりを提案したことは、不適切な対応であった。これを踏まえ、「口頭厳重注意」の矯正措置を実施する。〉(41p)

 森友学園顧問弁護士に対して「撤去費用は相当かかった気がする、トラック何千台も走った気もする」といった言い方を提案した。

 森友学園理事長も顧問弁護士もこのコメントを使うことはなかった。トラックが何千台も走って気づかない近所の住人がいるとしたら、俳句の夏井先生ではないが、「ここへ連れてこい」である。近所の住人に聞いたら、バレバレとなるから、コメントとして使わなかったのだろう。問題は使う使わないではなく、なぜこのようなコメントをアドバイスとして用いたかである。撤去費用は相当かかっていないから、かかったように見せかる必要があった。トラックが何千台も走っていないから、走ったことにしなければならなかった。裏を返せば、撤去費用はたいしてかかっていなかった。当然、トラックもたいして走っていなかった。このことは1万9520トン、ダンプカー4000台分の地下埋設物など存在していなかったを答としなければならない。

 天下の財務省が何か大きな力が働かなければ、一介の教育者に不動産鑑定評価額9億5600万円の土地を地下埋設物の撤去・処分費用を8億1900万円と見積もり 差引き土地価格を約1億3400万円とすることはないだろう。天下の安倍晋三夫人安倍昭恵が森友小学校名誉校長に就任したのは2015年9月5日。森友学園のHPからその名前が消えたのは2017年2月23日。

 近畿財務局が大阪航空局に森友小学校建設予定地の国有財産地に地下埋設物の撤去・処分費用について見積もることを依頼したのが2016年(平成28年)3月30日。大阪航空局が地下埋設物量を1万9520トン、その撤去・処分費用を8億1900万円と見積もり、近畿財務局に報告したのが2016年(平成28年)4月14日。この3月30日から4月14日までの期日は天下の安倍晋三夫人安倍昭恵が森友小学校名誉校長に就任していた期間にすっぽりと入る。

 2014年(平成26年)4月28日、森友学園理事長は近畿財務局を訪れ、職員に「昭恵夫人が来られていい土地だから話を進めてくださいとおっしゃった。写真もありますよ」と伝えたら、職員が「写真を見せてください」と言うので見せたら、「これコピーしていいですか?上司、局長にも見せなければいけないので」と答えたとネットでは紹介されている。

 森友学園理事長が2017年3月23日に日本外国特派員協会で会見で、国有地の契約に関する財務省への問い合わせを安倍昭恵内閣総理大臣夫人付の内閣事務官谷査恵子を通して行い、その返事のFAXが来てから、「後の事柄については、瞬間風速の強い神風が吹きました」と発言している。当時の籠池理事長にしたら、「安倍晋三様々。安倍昭恵様々」だったに違いない。

 岸田文雄は2021年10月11日の辻元清美の代表質問に対する答弁で森友問題は全て終わったかのように発言しているが、かくこのように見てくると、全然終わっていないことが分かる。

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