2月末、千葉県一宮町の九十久里浜に大量のゴンドウイルカが打ち上げられというニュースが新聞やテレビで報じられた。浜辺にいたサーファーたちが救助にかかったが、如何せん、相手の体重が体重で、簡単には動かすことができない。動かすことができても、荒い波に押し戻さてしまう悪戦苦闘の繰返しで、海に戻すことができたのは数頭のみで、90頭近くを死なせてしまったという。
そのときは報じられなかったことだが、3月18日の朝日朝刊が、イルカ救助に当ったサーファー組合長が集まってきたサーファーだけでは人手が足りないと見て、「住民らに救助の手助けを求めるため、町の防災無線の使用を求めた」が、「『災害や人命に関わること以外は放送できない』と断られていた」事実を伝えていた。
近藤直町長は「(イルカを助けることは)人道的だから、使ってもよかったかもしれない」と反省しつつも、「担当者の判断に誤りはなかったとし」、「海が荒れていたことから、『町の要請で住民が出ると、二次災害も心配だった。(防災無線を)どこまで使っていいのか線引きは難しい』と話」していいたという。
「担当者」の「災害や人命に関わること以外は放送できない」という対応は、〝救助〟という活動内容を「災害や人命」に関する活動のみに限定して、イルカは〝救助〟活動の対象から排除したからできた対応であろう。いわば「担当者」の頭にある〝救助〟という意識の中にイルカは入れてもらえなっかたのである。あるいはイルカを入れる余地がなかった。そのことの正しい、正しくないは別問題として、「担当者」の意識がそのまま規則の忠実な解釈と遵守に常に添い寝した状態をにあることを如実に物語っていると言えないだろうか。
規則の忠実な解釈と遵守は、一歩間違えると、危機管理の対応不適合につながる。児童相談所が児童に対する親の虐待を把握していながら、有効な手段を取ることができずに、親の新たな虐待に先を越されて児童を死なせてしまう事例が跡を絶たないのは、規則に則った対応まで怠っているということはないだろうから、規則を離れた場所で即応的な一歩を踏み出せないでいる隙を突かれた危機管理の不適応としてある出来事としか考えられない。
いわば規則の履行とその時々で必要とされる有効な手立てとの間に少なからず距離があるということだろう。逆説するなら、距離を埋めるまでに至っていないからこそ起っている悲劇でもあろう。
先ごろ区立中学2年の男子生徒が東京世田谷区のマンションの自宅に放火し、生後2カ月の女児を死なせてしまった事件があった。少年は父親が以前離婚した母親と一緒に暮らしていたが、不登校となり、施設に預けれらた後、希望していた父親と一緒に暮らすことになった。現実の父親は躾に厳しく、一緒に暮らしたいと希望して夢見たに違いない父親との数々の場面は、故郷は遠きにありて思うものと同じく、離れて暮らしていたからこそ手に入れることができた美しい光景でしかなく、裏切られた想いの反動で、父親を困らせてやろうとして放火した結果が、父親と新しい母親との間に生まれた生後2カ月の腹違いの妹まで殺してしまった。
事件が報じられたとき、施設の職員は退所後の少年の様子を追跡していたのだろうか、追跡していたなら、少年にとっても、新しい両親や生後2ヶ月の妹にとっても、このような悲惨な事件は起らなかったのではないか、退所したら、もう関係者ではないとしてしまったのではないかと思ったりしたが、その後の報道で追跡していたことを知った。
但し、援助を必要とする当事者の少年に対してではなく、父親に少年のその後の様子を訊ねる形式の追跡調査であった。職員の問いかけに、父親は「落着いている」と答えたそうだ。それで、何事もなく、うまくいっていると思ったのだろう。
その追跡調査が父親に直接会って行った面談だったのか、電話を通しての状況調査だったのか、報道では知ることはできなかった。電話を通してだったら、致命的である。直接的な面談が困難な程に父親と施設との物理的距離が離れているわけではないにも関わらず、相手の感情を理解するには声の調子以外素振りも顔の表情も把握することができない電話を選択することは、長電話を想定するはずはないから、簡略に済ませる意識が働いてのことだろうからで、少年の将来に関わるかもしれない重大な案件だと見なしていたなら、決してしてはならない手段であろう。
もし電話だとしたら、ただ単に事務所の椅子に腰掛け、手を伸ばして受話器を取り、規則を消化するために一応の様子窺いをした事務処理と疑われても、反論はできないだろう。
何よりも少年本人に直接会って確かめることが求められたはずである。それが電話であろうと、父親への直接的面談であろうと、少年との接触を省いたことは、その時点での父親と少年の心理的距離を測る意識をも全く省略していたことを示す。
少年が離婚した母親よりも父親との生活を望んだ以上、父親には父親という立場上の手前があったはずで、父親が父親としての面目や世間体に拘らない保証は限りなく少ないと考慮に入れることができたなら、施設は少年との面談をより重視したに違いない。
面目や世間体からは、実際の思いや態度は見えにくい。少年や新しい母親とも面接して、それぞれの生活上の葛藤のあるなし、あるとしたら、どのような葛藤か、どの程度に昂進しているか、危険な状態なのか、そういったことを確認することが施設が抱えるべき少年に関わる危機管理というものであろう。
少なくとも施設はその面倒を省いた。規則になかったから、省いたのか。規則にはあったが、そこまで思いが至らずに省いてしまったとしたら、規則さえも満足に遵守できない危機管理不適応症状に陥っていたということになる。
「命の尊さ」を誰もが言うが、実際の行動が伴わない例が多い。
近藤直町長の「二次災害も心配だった」は、防災無線の使用要請を断ったことに対する跡付けの弁解に過ぎないのではないか。例え町の要請で開始した行動であっても、個人に関わる危機管理は最終的には自分自身の判断にかかるからである。荒れた波が押し寄せる様子を目で見ただけで、自分の身体をしっかりと立たせていることが可能かどうか、判断しなければならないし、そのような悪状況下でイルカという巨体を動かすのである。子どもが手を出そうとするはずはなく、力があり、俊敏な身動きが可能な若者か壮年者――見ただけの状況で、大体の判断はできるし、判断しなければならい。勿論、実際に行ってみて、イルカを動かせなかったということもあるが、そのことは「二次災害」とは無関係のことである。
尤も町は断ってよかったのではないかとも考えることができる。日本人は決められていることを指示された場合は、決められたことだからと従うが、決められていないことには、面白半分にできて世間の注目を浴びることができるとか、後で自慢の種になるとか、何らかの利益が計算できなければ、自分から積極的に動くことはしない人種だから、誰も要請に応じなかったら、町全体が恥をかくことになっただろうからである。
「市民ひとりひとり」