靖国参拝は「心の問題」、中韓の反対も「心の問題」

2006-03-29 06:20:06 | Weblog

 偉大な将軍キム・ジョンイルが憎き敵国日本を侵略し、属国とすべく宣戦布告なき戦争を仕掛けた。北朝鮮軍兵士が命令一下、偉大なキム・ジョンイル首領様と祖国北朝鮮のために勝利を信じて尊い命を捧げる奇襲戦を挑み、名誉の戦死を遂げる。

 そのことは北朝鮮と偉大な首領様キム・ジョンイルにとって、「国に殉じた」名誉ある戦死に値するだろうが、戦前の日本の戦術を思わせる戦闘機もろとも体当たりだ、自爆だといったヤケ糞な戦闘を仕掛けられたりしたら、人命を含めた被害を手ひどく蒙らないわけはない日本及び日本国民にとって、北朝鮮兵士の戦死を名誉ある殉国行為と讃えることができるだろうか。

 ひいきではない相手チームの野手の見事なファインプレーには拍手喝采できるだろうが、それとは訳が違う。

 それと同じく、大日本帝国軍隊兵士が勇ましくも名誉ある戦死を遂げ、国に殉じたと英霊として如何に祭り上げられようと、そのような称賛は侵略され、膨大な人的被害と国そのものの徹底的な破壊を受けた中国や、植民地支配を強いられ、生命や国土の損壊だけではなく、制度や習慣まで捻じ曲げられて精神的屈辱と苦痛を蒙った朝鮮にとっては意味も価値もないことであるばかりか、逆に腹立たしい待遇と映るに違いない。

 「国に殉じた」と「尊崇の念」(安倍の賛辞)を捧げられるたびに、戦争被害者たる立場にある中国人・韓国人が、消しがたく澱み残っている戦争の記憶を、あるいは当時直接心に刻み込まれた戦争の傷跡そのものを逆撫でされる感情を持ったとしても、あるいは戦争を直接知らなくても、歴史として学んだ侵略や植民地化への批判の感情を否定される思いがしたとしても、それは彼らにとって自然な「心の問題」としてある反応ではないだろうか。

 いわば一人の人間にとっての「心の問題」が、その人間だけの事柄で済むとは限らず、立場の違いによって、内容や心に受ける感情に異なった姿を与える場合がある。日本では「英霊」であっても、中国人・韓国人にとっては残酷な戦争加害者であって、その事実は歴史に刻みこまれ、変らない姿を取ることだろう。

 多くの日本人が、靖国神社参拝を批判するのは中国・韓国のみで、他のアジアの国で批判する国はないと言うが、実際にはシンガポールやインドネシアで批判する声が上がっている。それらの声が小さかったり、遠かったりするのは、日本との地理的距離の遠さが心理的距離の遠さとなって、批判の強弱・大小に影響を与えている面もあるに違いない。

 「靖国参拝は心の問題だ」と常々公言している小泉首相が06年度予算成立の後の記者会見で、「中国や韓国が参拝を理由に首脳会談を行わないのは、理解できない。そんな国は中国や韓国だけだ」と中韓の対応を批判したが、一つの戦争を戦った対戦国同士であっても、両者にとって決して同じ戦争ではなく、そのことに対応して、当然戦争に対する反応が異なるということに思い至らない無理解・鈍感さが可能とした発言なのだろう。

 そういった無理解・鈍感さが「心の問題」に現れているばかりか、日本の政治家の必須要件となっている。その代表者が小泉・安倍の両者だろう。

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