3月26日のフジテレビの「報道2001」で、精神科医と小学校教諭、それに自民党の小坂憲次文科相を交えて教育に関する議論を展開していた。
小坂氏は、「廊下を走ったら、みんなが走るなと叱る。悪いことをしたら、親も教師も殴って、いけないことだと知らせる。みんなが殴るなら、殴る。殴ったり、殴らなかったりするから、筋が通らないことになる」といった趣旨のことを、正確にその通りに口にしたわけではないが、話していた。
何を言ってるのだろう、この男は。バカじゃないのかと思ったが、番組が終わるというときになって、「殴る話をしたが、体罰と取られると困る。先生はまず言葉で言って、諭すべきだ。親が殴る場合はあるかもしれないが、先生が殴ってはまずい」と訂正した。
では、先に口にした言葉はどうなるのだろう。親も教師も一致協力して、殴ることを間違いをした場合のしつけの基準的な常套手段とせよと、教育行政を担当する大臣がテレビを通じて日本全国に向けて言ったのである。誰もが殴ることで、筋を通せと。そう簡単に撤回されたんじゃ、筋が通らないではないか。
日本の政治家に筋を通すことを求めること自体が、土台無理な話かもしれない。
小坂文科相は体罰容認という批判を恐れて前言訂正をしたまでで、真の姿は隠れ体罰論者といったところだろう。
「廊下を走るな」と教師は注意し、「廊下を走らないこと」と貼り紙もしてあるのは、そもそもからして「廊下を走る」という行為を違反行為と単純に統一化しているからだろう。小坂文科相も統一化しているからこそ、〝走ったら、叱る〟という反応に向かう。
中には便を催したが、もう少しで授業が終わると我慢していて、授業終了のチャイムが鳴ると同時に教室を飛び出し、廊下を走ってトイレに向かおうとしていたといったケースもあるだろう。下手に呼び止めて、叱っていたら、廊下で漏らしてしまうことだって起きかねない。
走っている生徒を見かけると、「こらっ」と声を上げて叱る。「何で走ってるんだ?」、あるいは「バカッ、廊下を走るヤツがいるか?」と怒鳴る。
こういった光景は廊下を走る場合に限らず、相手の間違いに対する日本のしつけの一般的な風景となっている。怒鳴るだけではすまなくて、つい手を出して殴ることもする。
まず命令(=言葉の強制)があって、命令によって従わせようとする意志の作動である。殴るのは、言葉の命令を補強する物理的強制力としてあるものであろう。
このような命令体系(=言葉の強制の体系)を可能としている根拠は、言うまでもなく教師が生徒に対して、あるいは親が子どもに対して、支配と従属の関係にあると見なしていて、その関係を具体化させる手段として、自分を命令する立場に置いているからであろう。
「廊下を走る」という行為を違反行為と単純に統一化できるのは、ルールと生徒の関係をも支配と従属の力学下に置いているからだろう。いわばルールの無意識的な権威化であって、権威化による生徒のルールへの閉じ込めは、教師対生徒の支配と従属の関係への側面からの援助、もしくは学習に役立たせる利点を持つ。その結果として、統一化への一層の進行という悪循環が生じる。
体罰は支配と従属の関係の最も急進的・過激な表現形式であろう。小坂文科相が隠れ体罰論者である以上、支配と従属の関係への回帰を望んでいて当然であり、その気持が、「悪いことをしたら、親も教師も殴って、いけないことだと知らせる」といった発言となって現れたのだろう。
命令が功を奏して、生徒を従属させることができたとしても、どれ程の価値があるのか、疑問である。主体性獲得の補助に役立たなければ、従属に慣れさせるだけのことで、価値なしと言わなければならない。
廊下を走っていたら、呼び止めて、「なぜ走ってるんだ」と理由を問い質す。相手が理由を言ったとしても、許容できる理由でなければ、許容できない自分の考えを話して、「そんなことで走る理由になるのか?」とか、「そんなことで、走ってもいい理由になるのか」と、その正当性の是非を改めて問い直す。
この方法は、小坂氏が言ってたように、「言葉で言って、諭す」のとは違う。教師の考えと比較対照的に相手に考えさせることである。勿論、考えさせて、走るのをやめさせることができるとは限らないが、しつけを含めた教育の基本は、他の考えとの比較で考えさせることにあるのではないだろうか。そうさせることで、支配と従属の関係(=命令の体系=言葉の強制の体系)をも薄めることができる。「言葉で言って、諭す」には、命令の気配――その一方性を否応もなしに残すことになる。
教師はしつけであっても、授業であっても、すべての場面で生徒の考えを導き出す手助けをする。当然教師はどんな場合でも手助けが十分にできるだけの言葉を持っていなければならない。生徒が自分の考えと十分に比較対照できる言葉のことである。そういう姿を取ることが、教育再生の道ではないだろうか。
「市民ひとりひとり」