昨11日の参院本会議で民主・社民・国民新3党提出の福田首相問責決議が共産党を含めた野党の賛成多数で可決された。総理大臣が問責決議を受けたのは憲法史上初めてのことだということだが、福田首相は名誉な勲章を受けたことになる。
対抗して自公与党は昨日衆院本会議に福田内閣信任決議案を提出、今日の12日に与党絶対多数の頭数で可決させることで参院問責決議を差引勘定ゼロとし、福田内閣は信任されたとするらしい。
社会の一員としての役目も果たさず、職場でも信頼されていない、存在すること自体が却って迷惑がられている大の男の子供が「うちのお父さんは偉いんだぞ」と子供にだけ信任されていて、それを唯一の証文として自己存在の維持を図るようなものだろう。
相手が子供だから健気と言えるが、自公の与党は衆議院では3分の2の絶対多数を確保していると言えども、単なる頭数に成り果てているのだから、それを後ろ盾の証文とすること自体がおこがましい限りである。
確かに2005年9月11日の郵政衆議院選挙では与党は3分の2以上の議席を獲得する信任、国民の「民意」を受けた。それ以降も小泉内閣は終盤経済上・生活上の、あるいは地理的な様々な格差が噴出して現在の社会的混乱の先駆けを演出したものの、引き続いて国民の支持を得てきた。だがバトンタッチした安倍内閣によって先代が築き上げた財産であったそれまでの国民の信任・「民意」を郵政造反組復党問題や年金記録問題、相次ぐ閣僚の不祥事、安倍晋三自身の国民の生活をないがしろにした国家主義的政策運営等でいたずらに食い潰し、2007年7月の参議院選挙で決定的に賞味期限切れ・有効期限切れの証文に変えてしまったのである。
いわば小泉純一郎が「改革」をキャッチフコピーとした言葉巧みな悪徳商法で勧誘した国民の信任=「民意」は参議院選挙の与野党逆転で衆議院の国民の信任・「民意」は単に頭数だけを残した形だけの古証文そのものと化したのである。
尤も国民の信任・「民意」を回復して政治運営の新たな証文を手に入れたというなら話は分かるが、安倍内閣を引き継いだ福田内閣の支持率がNHKの6月9日のニュースによると、最近は少し回復し先月より5ポイント上がったというものの、支持は26%で内閣維持の「危険水域」と言われる30%を割り込んだままであることが何よりも証明している参議院だけではなく、衆議院も含めた古証文となったままの自民党政治に対する「民意」、国民の信任であろう。
それを賞味期限切れ・有効期限切れとなった衆議院の古証文を持ち出して、国民の支持を失った福田内閣の信任決議を行う。
滑稽であるばかりか、倒錯的変態行為としか言いようがない。にも関わらずそれを敢えて冒すのは「問責決議」が法的根拠がないというものの、野党の行為が「民意」を背景としていることに変わりはなく、頭から無視した態度を取れないからだろう。無視できない代わりに例え古証文となっていようと、「民意」に対する「民意」で対抗と言うわけである。
民主党・小沢一郎代表(記者会見で)「直近の選挙で過半数を与えられた野党が信任しないということだ。首相は重く受け止めなければならない」(≪首相問責決議を初可決 野党、新医療制度廃止求め≫47NEWS/ 2008/06/11 20:30【共同通信】)
ごくごく当然のことを言っている。
福田首相「(問責提案の理由を)一つ一つ重く受け止める」衆院解散については
「そういうことを今考えていない」(≪問責理由一つ一つ重く受け止める、衆院解散「今考えていない」=福田首相≫(ロイター/2008年 06月 11日 19:22 JST)
町村官房長官は「参院がそういうことをするのは,政治的パフォーマンス以上の如何なる意味があるのか」(≪問責 視線は秋の攻防≫08.6.12/『朝日』朝刊)と言っているが、既に指摘しているように参議院選挙の野党勝利とそれ以降の福田内閣の低支持率=国民の不評が比較対照的に証明している野党に対する国民の信任・「民意」を背景とした参議院「問責決議」なのだから、決して意味のないことではない。意味がないとしたら、福田内閣支持率まで意味のないこととすることとなって、国民の政治に対する判断能力を疑ってかかることにもなり、国民を小バカにした態度と言うことになる。
尤も国民を小バカにする態度は自民党政治家にとっては武士の習いで、慣れに慣れていることではあるだろうが。
衆議院「福田内閣信任決議」こそが、賞味期限切れ・有効期限切れとなってメッキが剥がれてしまった古証文を後生大事に取り出し、それを唯一の金看板としている点で「政治的パフォーマンス以上の如何なる意味」もないとしなければならない。
そのことに気づかない町村は官房長官として福田内閣の政治運営の要役にふさわしくない単細胞な政治家としか言いようがない。衆議院を解散して総選挙に打って出た場合の与野党逆転の敗北とその敗北によって政権を手放すことを恐れるあまりに正々堂々とした態度が取れないでいる。冬が去って春の季節となったのに穴に閉じこもったまま外の世界に打って出た場合の変化恐れて、そこから出ることができない図体ばかり大きな熊といったところだ。