沖縄戦終結の日に合わせて6月23日(08年)の沖縄県糸満市の平和祈念公園行われた沖縄全戦没者追悼式に福田首相、河野洋平衆院議長、江田五月参院議長等が参列、その中で河野衆院議長が次のように挨拶したと6月24日(08年)『朝日』朝刊≪河野議長 軍の責任に言及≫に出ている。
(追悼式で黙祷する(右から)福田首相、河野衆院議長、江田参院議長=23日、沖縄県糸満市の平和祈念公園(「47NEWS」から引用)
河野洋平「私たちは、軍が沖縄の住民の方々の安全を第一に考えていたわけではない、という疑念からも目をそらせてはならない」
「国家の指導部が戦争の適切な早期終結を図ることができなかったことが、沖縄の大きな犠牲を生んだ」
「長期的に東アジアに平和な外交環境をつくりだし、安全保障情勢を変え、今のような大規模な米軍の駐留を不必要なものとしていくことを目指すべきだ」
記事は「旧日本軍の責任に踏み込んだのは初めてだと言う。」と解説している。
「国家の指導部」が「図ることができなかった」のはゴール地点を導き出す「戦争の適切な早期終結」のみではなく、アメリカと戦争した場合の勝敗の見通し、戦争に関わる「適切な」状況判断そのものであって、スタート地点での態勢そのものに問題があったのではないだろうか。そしてそれを生じせしめたのは日本民族優越意識に根ざした傲慢さであった。その傲慢さがアメリカの国力・軍事力を過小評価させしめ、自己を不遜なまでに過大評価させるに至った。
客観的な自己省察能力を欠いた民族性ゆえに日本民族優越意識に侵されて戦争を仕掛けたものの玉砕や捨石といった形でしか戦争を維持できなくなっていたにも関わらず日本民族優越意識を引きずったままでいたことの客観的な自己省察能力の欠如に阻害されて「戦争の適切な早期終結を図ることができなかった」――。
果して河野洋平が言うように「軍が沖縄の住民の方々の安全を第一に考えていたわけではない」状況は「事実」としてあった状況ではなく、単なる「疑念」に過ぎないのだろうか。
もしそれが「疑念」ではなく、正真正銘の「事実」としてあった「国家と国民」の関係、軍による国民観であったなら、「疑念」だとすることは沖縄集団自決の「軍強制」は事実ではなく、軍強制は単なる「疑念」に過ぎなかったとする無罪判決の構図に準ずる罪薄めの構図を取ることにならないだろうか。
「軍が沖縄の住民の方々の安全を第一に考えていたわけではない」国家と国民との関係・国民観は河野が言うが如く「疑念」に過ぎない事柄だったのだろうか。
大日本帝国軍隊は天皇の軍隊という存在性を背景に国民に対して絶対的権力者の地位にあった。そして軍の組織に於いては軍上層部はその命令を忠実に受命させることを通して兵士に天皇への絶対的忠誠を求める絶対的権威主義の上下関係を構成していた。
「戦陣訓」の「本訓 其の二 第八 名を惜しむ」は次のように規定している。
「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ愈々(いよいよ/ますます)奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。」
「郷党家門の面目を思ひ」にしても、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」にしても、軍が兵士を権威主義的行動で縛っていたことを示している。個人としての行動ではなく、地域や一族――いわば世間の評価に合わせた行動を絶対とし、上官の命令を無条件に絶対規範とさせ、兵士個人の行動、あるいは規範をその下に置いたのである。
大城晴則元硫黄島日本軍兵士「捕虜になったら、国賊って言われ、戸籍謄本に赤いバッテンが書かれるらしいんです。そういう教育を受けとったんです」(NHKスペシャル≪「硫黄島玉砕戦」・~生還者61年目の証言~≫07年8月5日再放送)
自らの存在性は他者との関係で決まる。大日本帝国軍隊は天皇の兵隊として自らを絶対的存在とし、国民に対して絶対的君臨者の位置に立たしめていた。と同時に軍は兵士に対して「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」と投降・捕虜を許さない絶対的権威主義者として君臨していた。
そのような軍と国民及び軍と兵士の二重の人間関係を受けて、兵士と国民との関係は兵士を絶対者として国民をその下に置く権威主義関係を築いていたのは当然の帰結としてある上下関係であったろう。
交通取締まりの単なる巡査でさえも国民に対して「おい、こら」と頭ごなしに命令し、その命令をいとも簡単に成立させることができる絶対権力者の地位にいた。そしてその頂点に立っていたのは反体制の思想・言論を情け容赦なく取締まり、弾圧した特別高等警察であった。拘引した者に「国民の生命」を考えない過酷な拷問を加え、その命を絶つ小林多喜二等の拷問死まで引き起こしている。
国家と国民のこのような上を絶対とし、下を絶対従属させる権威主義的上下関係が「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」の名のもと、兵士の投降を許さず、投降を試みた兵士を上官が拳銃で撃ったり日本刀で首を斬り落としたりして阻止した上の者の「生きて虜囚の辱を受けず」の絶対信念が可能とした硫黄島の戦い等で見ることができる玉砕もしくは捨石(兵士=国民の命の軽視)であり、その「生きて虜囚の辱を受けず」に付き合わせることとなったサイパン島守備隊の日本軍からサイパン島日本住民に出した「玉砕命令」が可能としたスーサイドクリフ及びバンザイクリフからの海への投身によるそれぞれに1万人にも及ぶと言われている集団自決の形を取った軍の「住民の方々の安全を第一に考えていたわけではない」出来事であり、それは決して「疑念」として存在したのではなく、正真正銘の「事実」として存在した「国民の命」の軽視だったのではないか。
勿論、この「住民の方々の安全を第一に考えていたわけではない」軍行為の中に沖縄の軍強制による集団自決を加えなければならない。
将校の敵前逃亡・戦線離脱も(「俘虜たちは彼らの現地指揮官、とくに部下の兵士たちと危険と苦難とをともにしなかった連中を口をきわめて罵った。彼らは特に、最後まで戦っている令下部隊を置去りにして、飛行機で引きあげていった指揮官たちを非難した」・『菊と刀』R・ベネディクト著))兵士の命を「第一に考えていたわけではない」「事実」としてあった敵前逃亡・戦線離脱であり、それを可能としたのは上官を絶対とする軍の権威主義性だったはずである。
そしてそのような命の軽視の反映としてあった軍の撤退に「足手まとい」といった理由で、あるいは赤ん坊の泣き声が米軍に知れて居場所をかぎつけられるからの理由で母親に赤ん坊を殺させた「住民の安全を第一に考えていたわけではない」「国民の命」の軽視であり、それを可能としたのはミャンマーの現在の軍政と同じように自分たちだけを絶対的存在者に位置づけていた権威主義的絶対性であり、それは「疑念」として存在していたのではなく、やはり「事実」そのものとして存在していたはずである。
以前にもブログで使ったが、1993年8月14日の『朝日』≪比で敗走中の旧日本軍 日本人の子21人殺害≫は次のような記事を載せている。
<【マニラ13日=共同】第二次大戦末期の1945年にフィリッピン中部セブ島で、旧日本軍部隊が敗走中、同行していた日本の民間人の子ども少なくとも21人を足手まといになるとして虐殺したことが明らかになった。フィリッピン国立公文書館に保存されていた太平洋米軍司令部戦争犯罪局による終戦直後の調査記録による。
記録によると、虐殺を行ったのは南方軍直属の野戦貨物廠(しょう)の部隊。虐殺は4月15日ごろにセブ市に近いティエンサンと5月26日ごろその北方の山間部で二度にわたって行われた。
一回目は10歳以下の子ども11人が対象となり兵士が野営近くの洞穴に子どもだけを集め、毒物を混ぜたミルクを飲ませて殺し、遺体を付近に埋めた。二回目は対象を13歳以下に引き上げ、さらに10人以上を毒物と銃剣によって殺した。部隊司令官らは「子どもたちに泣き声を上げられたりすると敵に所在地を知られるため」などと殺害理由について供述している。
犠牲者の親は、戦前に九州や沖縄などからセブ島や南パラオ諸島に移り住み、当時セブ市に集まっていた人たち。長女ら子ども3人を殺された福岡県出身の手島初子さん(当時35)は米軍の調べに対し「子どもを殺せとの命令に、とっさに子どもを隠そうとしたが間に合わなかった」などと証言。他の親たちも「(指揮官を)殺してほしい」などの思いを伝えている。>
ここに見ることのできる「住民の方々の安全を第一に考えていたわけではない」軍の対応は決して単なる「疑念」ではなく、「事実」として存在した出来事である。
すべてが天皇の威光を背景として軍が身に纏い、軍全体で上から下に伝えていた絶対的権威主義性が国民観とすることとなった軍の体質の「住民の方々の安全を第一に考えていたわけではない」間違いようのない「事実」なのである。
この「事実」は当然、沖縄の日本軍にも反映されて「住民の方々の安全を第一に考えていたわけではない」絶対的権威主義性を発動させていたはずである。
そしてそのような軍の絶対的権威主義性が沖縄住民をして集団自決を可能ならしめた。
河野洋平が言うように日本軍の「住民の方々の安全を第一に考えていたわけではない」軍の体質・国民観を単なる「疑念」だとすると、現実にあった「事実」との間に距離があり過ぎ、ゴマカシの類とならないだろうか。
自民党の政治家として「事実」を「疑念」として提示するのが限界だと言うなら、やはりそこにゴマカシを存在させていることになる。
尤も日本軍の存在性を「住民の方々の安全を第一に考えていたわけではない」と把える考え方は紛れもなく「疑念」に過ぎないとする歴史認識に立っているとしたら、何をか言わんやである。