尾木直樹こども基本法講演:程度の低いエセ教育者を「尾木ママ」と有難がっている多くの存在、「はてな?」

2024-09-08 08:03:55 | 教育
  「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

1.イジメを含めた全活動が"可能性追求"だと自覚させる「可能性教育」

2.「厭なことやめて欲しい」で始まるロールプレイ

3. 居場所づくりと主体性教育目的の一教科専門コース導入の中学校改革

4.主体性教育目的の図書館の蔵書を参考書とする1日1時限の「自習時間」の導入

学校は一定のルールを決めて学校内でのプロレスごっこを認める)

 尾木直樹が「こども基本法制定記念シンポジウム」のパネリトとして掲げた2つ目のテーマをここに改めて書き記し、続きとしてその⑤番目から最後までを取り上げる。

 「こども家庭庁」に期待すること―子どものことは子どもに聴こう!

①「こども基本法」を実体化させる→“こどもまんなか”社会の実現に向け、十分な予算と人材の確保を!

② 当事者の視点に立った細やかで丁寧な取組→自治体や民間団体、企業等との協働•パートブーシップが重要

③ 「子どもの榷利条約」謳われている子どもの権利を包括的に強力に普及•推進する→大人側への啓発活動が重要

④ 子どもに対する体罰、虐待等の禁止→「法律が変わっただけでは体罰や虐待はなくせない」ので、メディア等とともに地道で粘り強い啓発活動を通じ、親や社会、人々の意識を変えていくことが必要(例:スウェーデン)

⑤ 「コミッショナー制度」の確立と導入に向けた検討の継続→最後の砦としての「駆け込み寺」の機能を

⑥特にいじめ問題における実効性の伴った「勧告権」の発動を→問題が“解決”するまで見届けることが必要

⑦すべての政策を「子ども参加」で→子どもに関わることは当事者の子どもに意見を聞き、受け止め、考慮する必要

 尾木直樹「5番目、『コミッショナー制度』の確立とこれをどう導入するか、検討の継続ということが言われているわけで、ここんところ、ぜひ実現させていきたいなあ。最後の砦としての『駆け込み寺』としての機能を持たせることも重要だということになります」――  この発言のみでは何を言っているのか皆目見当がつかないのでネットを調べてみた。子どもの権利や利益が守られているかどうかを監視し、子どもの代弁者として活動する機関としての子どもコミッショナー制度のことだそうで、《子どもコミッショナーの設置を急げ》(日本総研池本美香/2024年4月1日)に、〈2002年、国連子どもの権利委員会は、子どもの権利条約を批准したすべての国に子どもの権利擁護状況の監視を行う独立機関(以下、子どもコミッショナー)が必要だという考えを明示している。〉と出ている。但し日本政府は消極的で、今以って設置に至っていないということである。

 要するに「コミッショナー制度」は尾木直樹発の発想ではなく、国連子どもの権利委員会が求めている監視機関ということになる。既に前のところで挙げているが、「子どもの権利条約」の「第28条の2」は、〈締約国は、学校の規律が児童の人間の尊厳に適合する方法で及びこの条約に従って運用されることを確保するためのすべての適当な措置をとる。〉と規定している。

 教師の児童・生徒に対する体罰も、児童・生徒相互間のイジメも、ブラック校則も、学校の実際面での多くの規律が児童の人間の尊厳に適合していない状況を示すことになる。ブラック校則は教師が自分たち大人の価値観を絶対としている間は児童の人間の尊厳に適合している状況にあると見ることはできない。

 繰り返しになるが、体罰は教師が児童・生徒に対して、保護者が自分の子どもに対して自身の価値観を絶対とし、相手の価値観を認めないことによって起きる。イジメは力関係が上の児童・生徒が自身の価値観を絶対とし、力関係が下の児童・生徒の価値観を認めないことによって起きる。どちらも権威主義の力学を介在させた相手に対する人間の尊厳を欠いた行為としなければならない。

 但し体罰やイジメが発生する前に権威主義の力学が介在しているという段階のみを把えて、その未然防止のために権威主義の力学を排除するのは難しい。一人ひとりの教師や児童・生徒の行動・態度を監視している教師を配置しているわけでもなく、一人ひとりの教師や児童・生徒の行動・態度をチェックする監視カメラを配置しているわけでもないからで、結果、体罰やイジメの全体的発生状況が手に負えない段階になってから、「コミッショナー制度」に通報するという手続きを取ることになる。

 尾木直樹が言っている「駆け込み寺」としての機能も、体罰やイジメの発生を受けてからの利用となる。いわば事後対応が専門で、イジメが発生した場合の「学校いじめ防止対策委員会」の役割と変わらない。"いじめ防止"と名前が付いているが、"防止"ではなく、現に起きているイジメをやめさせる"対策"ということになる。発生を受けて、その件に限った解決という従来通りの循環を取る可能性も否定できない。

 循環という経路を取るのではなく、既に取り上げたが、「子どもの権利条約」の「第28条の2」が、〈締約国は、学校の規律が児童の人間の尊厳に適合する方法で及びこの条約に従って運用されることを確保するためのすべての適当な措置をとる。〉と謳っていることに合わせて、児童・生徒の諸権利がそもそもからして侵害を受けないようにする基本的対策はやはり教師一人ひとりが児童・生徒に向き合う際、一人ひとりを"個人として尊重する"態度・姿勢を取ることができるかどうかに掛かっていて、このことをスタート台に児童の諸権利の擁護・保障を図っていくことが「児童の人間の尊厳に適合する方法」となっていくはずである。

 そうするためには教師であるという身分上の上位性を外し、あるいは大人であるという年齢上の上位性を無視して、権威主義的な人間関係力学を排除、教師が児童・生徒と同じ目線に立つことが求められるはずである。そしてこのような関係を築くことができれば、教師は児童・生徒を信頼の対象としていることになり、その信頼は児童・生徒の教師という存在に対する信頼となって跳ね返ってきて、既に触れていることだが、相互の信頼が児童・生徒の責任感の育みや自主性、主体性、その他の育みの手助けとなり、それらの能力は教師の体罰、児童・生徒間のイジメを予防する力学としての働きをすることになる。

 だが、尾木直樹は体罰やイジメを生み出している直接的な現場となっている学校での人間関係の問題点、権威主義的な人間関係を捉えるのではなく、法律や条約が持つスローガン性、義務化不足を考慮に入れず、「いじめ防止対策推進法」がイジメ認知件数の減少に何ら役に立っていない実効性欠如に目を向けることもできず、「こども基本法」や「子どもの権利条約」といった法律や条約の実効性に解決策の期待を掛ける見当違いから抜け出れないでいる。

 尾木直樹「特にイジメ問題に於ける実効性の伴った『勧告権』の発動をですね、これは問題の解決まで見届けていくことまで、重要と思っています。それをやっている自治体が既に、例えば大阪の寝屋川市などで出てきていて、本当にモデルになるような実現されているんですね」――

   尾木直樹がここで言っている「勧告権」とは条約が規定している義務の履行の達成に関して締約国の進捗状況を審査する役目を担った「児童の権利に関する委員会」が締約国に於いて権利の実現のために取った措置及びこれらの権利の享受に不足がある場合、その不足を正すよう締約国に勧告することのできる権利のことで、「児童の権利に関する委員会」がイジメ問題で勧告権を発動したとしても、直接的な解決を担うのはイジメ問題を発生させた学校であり、その学校を監督するのは文部科学省という国の機関であって、問題の解決まで見届けるのは当然の措置であり、改めて言うことではなく、やはりイジメ問題を起こさないよう注意を向けることが子どもの権利擁護となるはずである。

 当然、尾木直樹は"信頼に満ちた学校"を作りさえすれば、イジメは起きないといった趣旨の仮説を披露している以上、そのような学校を実現する方法論を先に持ってくるべきで、持ってくることができれば、子どもの権利擁護は大部分が片付くはずだが、言うだけ言って、方法論には口を閉ざしたままでいる。

 「子どもの権利条約」に関する勧告権と大阪府寝屋川市とどう関連があるのか理解できなかったから、ネットで調べてみた。2020年1月1日施行の「寝屋川市子どもたちをいじめから守るための条例」に市長の権限で行うことのできる「是正の勧告」が定めてあって、イジメ加害者の「出席停止」、イジメ被害者対象なのだろう、「児童等の学級替え」や「児童等の転校の相談及び転校の支援」等の勧告が行えると規定している。  尾木直樹は「子どもの権利条約」の締約国としての日本政府が行うべき義務について解説しながら、一自治体の条例が定めている勧告権を持ち出して、それが締約国に課した勧告権であるかのように話す混同を犯しているだけではなく、"信頼に満ちた学校"を作りさえすれば、イジメは起きないと宣言しながら、イジメが起きた場合の法律や条例に頼った対処の仕方ばかりを話している。頭のどこかが狂っているとしか思えない。

 それとも「子どもの権利条約」から離れて、学校のイジメ問題一般へと話題を変えたなら、そうと受け取ることができる文言を明示すべきだろう。明示もせずに繋げた話にするから、合理性が欠如した印象のみを与えることになる。

 尾木直樹「それから7番目の全ての生活を『子ども参加』で、子どもに関わることは教育者が子どもの意見を聞いて、受け止め、顧慮することが不可欠だというふうに思います。子どもが一番分かっています」――

 一見、"個人としての尊重"を訴えているように見えるが、似て非なるものである。「全ての生活を『子ども参加』」で行ったとしても、学校が決めたルールとしてそのルール内で行うことと"個人としての尊重"が育むことになる相互信頼や児童・生徒側の責任感、自主性や主体性を背景に置いた参加とは全然別物だあらである。尾木直樹はこの講演の中で"個人としての尊重"を頭に置いた発言を一度も行っていない。

 また、「子どもが一番分かっています」からと子どもの意見を聞いて物事の決まりやルールを決めていったとしても、学校の価値観が勉強の成績かスポーツの成績にほぼ限定されている思考環境では自ずと限界を抱えることになる。

 その理由は多様性が幅広く認められている学校社会であったなら、これ程までにイジメ認知件数は増加の一途を辿らないだろうし、不登校児童・生徒数も増加傾向を取ることもないだろうし、既に触れている全国学力テストで暗記で片付く基礎的知識よりも思考力や表現力の点数が左程劣ることなく、よりマシな成績を示すことになるだろうから、そうなっていない、いわば多様性の狭さに応じて子どもの意見自体の自由度は高くはないだろうからである。

 勿論、思考力や表現力が優れた子どもいるだろうが、主として学校の勉強知識に関しての優秀さであって、テストの結果が証明しているように全体的傾向とはなっていないだけではなく、学校の勉強から離れた知識に関しては未知数なのだから、「子どもが一番分かっています」と断言するのは安請け合いそのものでしかない。

 大体が法律や国の組織を無条件に信頼することで可能となる法律頼み、国の組織頼みで子どもの権利擁護を散々に語ってきながら、最後になって「全ての生活を『子ども参加』」だ、「子どもが一番分かっています」と子どもを中心に据えるのはご都合主義そのもので、所詮、綺麗事としか映らない。

 尾木直樹「で、次に纏めですが、日本の子どもたちの命を守り、成長する権利を保障するために法整備や省庁横断的な、包括的に課題に取り組むという『こども家庭庁』のような組織の創設は長年の夢でした。僕はずっと願ってきたことで、これでようやく、まだ不自由なとこがあったとしても、成立させたということは、画期的なことで、子ども政策元年に今年はなっていってるんじゃないかと思っています。

 子どもや保護者の視点から見れば、切れ目のない支援こそが必要で、こども家庭庁が創設されること自体が国が子どもの育ちや子育てを応援するという心強いメッセージになるはずだ。子どものみならず、大人にとっても多様性の尊重とか、あらゆる格差への克服に向けて、歴史を転換させる大きな一歩になると思います」――

 ここでは再び国の組織頼みに先祖返りしている。ご都合主義は尾木直樹の性格の一部だから、不自然なことは何もない。

 「子ども家庭庁」は2022年2月25日に家庭庁設置法の国会提出を受けて審議、6月15日成立、6月22日交付、2023年4月1日発足という経緯を踏んでいる。要するに尾木直樹は2022年7月23日開催の「こども基本法制定記念シンポジウム」講演で発足8ヶ月前に早くも「子ども家庭庁」の創設は「子ども政策元年に今年はなっていってるんじゃないかと思っています」と先見の明を発揮、我先にと先物買いに走って、いわば売値を高めた上で子どもや保護者にとって、「こども家庭庁が創設されること自体が国が子どもの育ちや子育てを応援するという心強いメッセージになる」と国の組織に信頼を置いた国頼みを心置きなく披露している。

 この先見性、国組織への信頼、国頼みが2022年7月時点での尾木直樹一人の印象ではなく、国民が全般的に抱える印象となっていたなら、国の「子どもの育ちや子育て」への応援に期待を抱き、今まで諦めていた2人目、3人目の出産を考えてみようかと、少なくとも気持ちが前向きとなって、それが現実面でも実際の形を取る可能性は否定できないのだが、2023年の出生数は前年比4万3482人減少の72万7277人。

 2022年の出生数は前年比4万0863人減少の770759人。2021年の出生数は前年比29213人減少の811622人。もしこども家庭庁設置によって国への出産に対する期待が持てると感じていたなら、2022年以降の減少幅は少しは歯止めの兆候が見えていいはずだが、前年比の減少幅は拡大基調を維持したままとなっていて、そこからは国民の期待は微塵も感じ取ることはできない。

 国の組織が新しくできただけ、あるいは新しい法律が成立しただけで、その成果、あるいは効果を確かめもずに保証する。尾木直樹ぐらいのものだろう。大体が「日本の子どもたちの命を守り、成長する権利を保障するために法整備や省庁横断的な、包括的に課題に取り組む」はスローガンでしかなく、実現へと持っていくための具体的な規則・規定の類いとは別物であるし、具体的な規則・規定の類いが効果を必ずしも約束するわけではないことは尾木直樹が「子どもの命を救う法律」だと見ていた「いじめ防止対策推進法」がイジメの抑止に役立っているわけではないことが最適な例とすることができる。

 子どもたちの命を守る直接的な方法は喜怒哀楽の自然な発露を歪めることによって一種の精神的殺人の形を取ることになるイジメや、実質的な殺人とさして変わらない自殺に向かわせてしまう執拗で過度なイジメ、教師や保護者の体罰、保護者の暴力や虐待等をなくすことで、なくすためには学校という教育の現場で教師が児童・生徒とどう向き合うか、家庭という養育の現場で保護者が子どもたちとどう向き合うか、その具体的な向き合い方を考えることであって、「法整備や省庁横断的な、包括的に課題に取り組む」といった官僚が使う言葉で政策を述べることではない。

 「こども基本法制定記念シンポジウム」のテーマは「こどもの視点にたった政策とは」となっているが、子供の視点に立っていない第一人者は国の組織頼み、法律頼みの尾木直樹を措いてほかにはいないだろう。

 ネットで調べたところ、こども家庭庁は「日本国憲法」と「こどもの権利条約」の精神を取り入れて制定した「こども基本法」を基に2023年12月22日閣議決定した「こども大綱」を土台に自らのリーダーシップのもと、政府全体のこども施策を推進する組織として設立されたという。

 政策のほんの一部を見てみる。

 「こども大綱」

 3 こども大綱が目指す「こどもまんなか社会」

~全てのこども・若者が身体的・精神的・社会的に幸福な生活を送ることができる社会~

「こどもまんなか社会」とは、全てのこども・若者が、日本国憲法、こども基本法及びこどもの権利条約 の精神にのっとり、生涯にわたる人格形成の基礎を築き、自立した個人としてひとしく健やかに成長することができ、心身の状況、置かれている環境等にかかわらず、ひとしく その権利の擁護が図られ、身体的・精神的・社会的に将来にわたって幸せな状態ウェルビーイングで生活を送ることができる社会である。

具体的には、全てのこどもや若者が、保護者や社会に支えられ、生活に必要な知恵を身に付けながら

・心身ともに健やかに成長できる

・個性や多様性が尊重され、尊厳が重んぜられ、ありのままの自分を受け容れて大切に感じる(自己肯定感を持つ)ことができ、自分らしく、一人一人が思う幸福な生活ができる

・様々な遊びや学び、体験等を通じ、生き抜く力を得ることができる

・夢や希望を叶えるために、希望と意欲に応じて、のびのびとチャレンジでき、将来を切り開くことができる

・固定観念や価値観を押し付けられず、自由で多様な選択ができ、自分の可能性を広げることができる

・自らの意見を持つための様々な支援を受けることができ、その意見を表明し、社会に参画できる

・不安や悩みを抱えたり、困ったりしても、周囲のおとなや社会にサポートされ、問題を解消したり、乗り越えたりすることができる

・虐待、いじめ、体罰・不適切な指導、暴力、経済的搾取、性犯罪・性暴力、災害・事故などから守られ、 困難な状況に陥った場合には助けられ、差別されたり、孤立したり、貧困に陥ったりすることなく、安全に安心して暮らすことができる

・働くこと、また、誰かと家族になること、親になることに、夢や希望を持つことができる社会である。

 以上のことの実現を「全てのこどもや若者」に約束しているが、抽象的なスローガンの単なる羅列に過ぎない。勿論、方法論次第で実現する約束もあり、実現しない約束もあることになるが、尾木直樹のように「心強いメッセージ」と見た場合、実現の意味合いがより強い約束となる。実現の見込みがない「心強いメッセージ」は逆説としてのみ成り立つ関係性を取る。

 では、こども・若者に対してこれらの約束事の実現を誰が担うのかと言うと、こども家庭庁がリーダーシップを取ることになるだろうが、「こども基本法」と同様に国や地方公共団体、地域、学校・園、家庭、若者、民間団体、民間企業等の連携・協働となっていて、そのことを謳うのみで、それぞれにどのような部署、あるいは組織の設置を要請して、どういった活動の必要性を謳っているわけでもない。「連携・協働」を言うのみである。

 当然、この「連携・協働」の効果が問題となる。子どもの貧困を例に取ってみてみる。「こども大綱」は子どもの貧困に多くのページを割いている。貧困が人格の形成に与える影響が大きいと見ているからだろう。次のような対策を見受ける。その一部を取り上げる。

 〈(4)良好な成育環境を確保し、貧困と格差の解消を図り、全てのこども・若者が幸せな状態で成長できるようにする〉――

 では、現状はどうなっているのか、次のように伝えている。〈相対的に貧困の状態にあるこどもの割合は 11.5%となっており、特にひとり親家庭は44.5%と高くなっている。〉――

 この現状をこども家庭庁を中心とした政府関係機関と他機関の「連携・協働」によって解消していく。だが、議員立法で成立、10年前の2014年1月17日に施行された「子どもの貧困対策の推進に関する法律」は、〈子どもの貧困対策は、国及び地方公共団体の関係機関相互の密接な連携の下に、関連分野における総合的な取組として行われなければならない。〉と謳っているが、この2014年から「こども大綱」を閣議決定した2023年12月末まで約10年経過してもなお、〈相対的に貧困の状態にあるこどもの割合は 11.5 %となっており、特にひとり親家庭は 44.5 %と高くなっている。〉状況にあって、貧困問題が生易しく解決できる問題ではないことを示しているが、尾木直樹はこども家庭庁が何でも簡単に解決してくれると捉えているようだ。

   尤も最近は人手不足による賃金の上昇(決して経済の好循環による賃金の上昇ではない)で貧困率は少し下がる傾向にあるようだが、賃金の上昇以上に格差が拡大していることから、相対的貧困の感覚は変わらないことになり、一般的には子どもはその影響をより強く感じることになる。

 要するに人手不足が低所得層の賃金の上昇をささやかながら招いているのであって、「国及び地方公共団体の関係機関相互の密接な連携」が貢献している賃金上昇というわけでも、貧困率のささやかな低下でもない。果たして「こども大綱」が期待している「連携・協働」が機能するのか、2014年1月の「子どもの貧困対策の推進に関する法律」が謳った「連携・協働」が、あるいはその他の法律が謳っているとおりには機能していなかった前例に鑑みると、極めて疑わしいことになる。

 上に引用した「こども大綱」が目指す「こどもまんなか社会」の各実現目標を簡単に纏めて改めて列挙してみる。

「心身ともに健やかな成長」

「個性や多様性の尊重」

「尊厳の重視」

「自己肯定感を持ち、自分らしく、一人一人が思う幸福な生活ができる」

「様々な遊びや学び、体験等を通じて生き抜く力を育む」

「夢や希望に基づいたチャレンジ可能な将来への切り開き」

「固定観念や価値観を排した自由で多様な選択に基づいた自分の可能性を広げることができる将来性の用意」

「自らの意見表明に対する支援と社会参画支援」

「周囲のおとなや社会のサポートを受けた不安や悩みに対する問題解消と克服」

「虐待、いじめ、体罰・不適切な指導、暴力、経済的搾取、性犯罪・性暴力、災害・事故などを受けて差別・孤立・貧困を招くことなく、安全・安心な生活の保障」

「勤労の権利と結婚の権利と出産の権利の保障によって夢や希望を与える」――

 等々の実現を目標に掲げていて、目標の達成が子どもをまんなかに据えた「社会」の実現になると宣言している。

 どれも久しい過去からその実現が言われていて、満足に解決はできていない目標ばかりである。解決していたなら、「こども大綱」には載せはしない。にも関わらず、我が尾木直樹は、「『こども家庭庁』のような組織の創設」によって「子ども政策元年に今年はなっていってるんじゃないかと思っています」と褒め立て、「子どものみならず、大人にとっても多様性の尊重とか、あらゆる格差への克服に向けて、歴史を転換させる大きな一歩になると思います」と、過去から言われ続けている子どもの権利保障を、言われ続けてきたことに終止符を打ち、何もかも可能とすることができる、歴史の転換となる瞬間を迎えるかのように歓迎することができる。

 「子どもの権利条約」でさえ、尾木直樹によると国連子どもの権利委員会から4回に亘って勧告を受けている。にも関わらず、「子ども基本法」が掲げる子どもの権利保障が「こども家庭庁」のリーダーシップによって確実に実現できるかのように看做す。

 法律の持つスローガン性や国民の義務化不足を一切顧慮に入れず、しかも具体的根拠もなしにである。大体が学校社会での「多様性の尊重」はどれ程に久しい以前から言われているのだろうか。言われる理由は学校社会自体が勉強の成績かスポーツの成績第一主義で、他の可能性は排除する"多様性の否定社会"となっているからなのは断るまでもない。当然、文科省も学習指導要領で「多様性の尊重」を散々に言ってきているはずで、44年とか教師生活をしてきて、長年に亘って足元で問題とされてきたことが「こども大綱」に引き継がれて、こども家庭庁が政策遂行の新たな司令塔となる、この無限ループ状態は解決の困難さを露わにするのみで、「歴史を転換させる大きな一歩」どころか、同じ繰り返し状態に大変だなという思いしか浮かばない。

 ところがこども家庭庁が目指すこども・若者のあるべき状態(あるべき状態となっていないから、あるべき状態を求めなければならない)の殆どは学校自身が自らの現場で児童・生徒と協働して求めなければならない目標であって、「こども家庭庁」にしても最終的には学校に求める目標であろう。だが、いつまで経っても学校が一部の優秀な児童・生徒に対してのみ目標を実現できていないから、その結果問題行動がなくならないことになって、文科省やこども家庭庁が方針を決めて、義務という形で同じことの繰り返しでしかない解決を求めていくことになる。

 だが、文科省やこども家庭庁が求めるこども・若者のあるべき状態は教師が児童・生徒を"個人として尊重する"ことができるかどうかに決定権が掛かっていると見なければならない。改めて断るまでもなく児童・生徒を"個人として尊重"できたなら、そのような態度・姿勢は児童・生徒一人ひとりに対する信頼感に基づいて発動されることになるから、一人ひとりの性格や能力・資質を尊重できて、そのことはそのまま「個性や多様性の尊重」へと向かい、「尊厳の重視」という姿勢となって現れ、教師がこのような姿勢を持つことができたなら、教師に対して信頼感という形で跳ね返り、相互の信頼が児童・生徒の自主性や主体性や責任感を育むことになり、イジメや暴力の抑止力として働くばかりか、こういった全てのことが児童・生徒に自己肯定感を植え付けるキッカケとなるだろうし、自己肯定感が貧困に負けない精神的逞しさを育て、同じ自己肯定感が様々な遊びや学び、体験へのチャレンジを可能とし、様々なチャレンジが固定観念や価値観を排した自由で多様な将来的選択を可能とし、自身の進路選択の幅を広げることになって、これらのことが意見表明と社会参画に道を開き、逞しく社会を生きる力となり、夢や希望を持って勤労に励むことができ、結婚や出産にも希望を持って向き合うことができることになる。

 こうして見てくると、こども家庭庁が目指すこども・若者のあるべき状態の殆どは児童・生徒が多くの時間を過ごす学校という現場で教師一人ひとりが児童・生徒一人ひとりに対して"個人として尊重する"態度・姿勢を示すことができるかどうかが問題解決の糸口となることを明示していることになる。

 "個人として尊重"できるかどうかが諸権利保障の基本的出発点、あるいは基本的スタート台であって、このことを原則としなければならないと説いた所以である。だが、尾木直樹は解決できないままに長年に亘って繰り返されるままの各問題の解決を法律や国の組織に頼った模索を性懲りもなく続けている。

 尾木直樹「子どもに貴賎はありません。子どもの利益のために今こそ大人の側が最善を尽くし、様々な課題を克服し、子どものために協働して欲しいと強く願っております。子どもの専門家は子ども自身でコロナ禍で不透明な今だからこそ、子どもたちと共に考え、声を上げ、協働していかなければなりません。子どもたちとのパートナーシップで、未来に向け、様々な課題や困難を乗り越えていきたいと思います。

   特に先程からも言っているとおり、国がこども大綱を決めて、そのあと子ども政策を各自治体で進めていくということになっていますけども、先行している例としては東京都が極めてシンプルで、子ども条例、基本法というのが去年から決まったのですが、決まっています。

 子どもコミッショナーというものをやろうということになっていますけども、ついこないだ予算措置が取られて、1億何千万か、予算を取ったというのが、ネットニュースで見て、ああ、いよいよ動いてきたなあというので、国の方でちょっと遅れがあったような、東京の方は分かりやいんですよ、子ども条例。たった17条でくらいですけど、分かりやすい。子どもが読んでも、子ども基本条例のページ数で言うと、たったね、3ページ半しかない。

 だから、あっと言う間に読めますし、各自治体で決めたいというところはどんどん決めて、頂いたらいいなあと思っています。

 以上、ありがとうございます」――

 条例、法律の類は文字数、ページ数の多い少ない、あっと言う間に読めるかどうかでその価値・効果が出てくるわけではない。一通り読んで、終わりにしたのでは意味を成さない。義務化できるかどうかがカギを握るのであって、条文通りに義務化を心掛けたなら、立派な文章で成り立たせている関係上、だからこそ、スローガンとしての色彩を色濃く見せることになるのだが、ややこしくなるだけだから、基本の精神だけを押さえて、義務化に努めるべきだろう。

 勿論、基本の精神とは、繰返し言っているように大人たちの子どもに対する"個人としての尊重"を当たり前の態度とすることである。このことが子どもたちの大人たちに対する"個人としての尊重"を約束することになる。

   この"個人としての尊重"がイジメをしない、体罰をしない、貧富を問題としない、学校の成績や人種や身体等に優劣をつける存在上の差別をしない等々の規律に向かわせる。このことの実践から入って、各決め事の義務化に向かわせるべきだろう。なかなかの難事業だが、義務化への道を進むことができれば、「こども大綱」が掲げた「こどもまんなか社会」がおぼろげながらも姿形を取ることになる。

 ときとして親が自分の子どもに好き嫌いがあり、ましてや赤の他人である児童・生徒に教師は好き嫌いが生じるだろうが、好き嫌いはお互い様として、その好悪を抑えて、一個一個の存在として対等に扱う義務を親が自分の子どもに、教師は児童・生徒に負っている。このことを弁えて、"個人としての尊重"を自身の態度・姿勢の土台とすることができれば、子どもたちの様々な権利保障に繋がり、自律した存在として、あるいは自立した存在として社会に立つことが可能となっていくはずである。

 ところが尾木直樹は子どもの権利を口するものの、その内容は子どもの権利擁護を担う国の組織が掲げる方針と条例を含めた法律の効果に最後の最後まで便乗している。何のことはない、それらの代弁者の役割を自らに担わせているに過ぎない。国の方針や条例を含めた各法律が同じ繰り返しとなる文言を延々と続ける役目しか、あるいは効果しか見せていないにも関わらずである。

 こういった見事なまでの見当違いを発揮できる才能が"信頼に満ちた学校"を作りさえすれば、イジメは起きないと一度はぶち上げながら、ではそのような学校づくりはどうしたらできるのかは最後の最後まで口を閉ざしたままで講演を終えることのできる面の皮の厚さに繋がっているのだろう。

 ここからは教育評論家という姿は見えてこない。役人かケチ臭い地方政治家の姿しか見えてこない。結局のところいい顔を振り撒いただけの講演、八方美人を演じただけで終えている。

 だが、「尾木ママ、尾木ママ」と持て囃されている。NHKの朝ドラのセリフを借りると、「はてな?」である。

 以上で尾木直樹の「こども基本法制定記念シンポジウム」講演を取り上げた当方の批判を終える。この正当性の判断は読者が負う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする