Kindle出版電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円) |
2024年7月7日投開票都知事選敗北後の2024年7月13日蓮舫インスタライブの続き。叩き甲斐のある自己正当化バイアスの宝庫と言える。
蓮舫「私ねえ、実は私事(わたしごと)として見たら、(自身に対する攻撃・批判の類いは)『言ってれば』という勢いなんだけど、次の子たちとか、今政治家やっている子たちがここまで強くなれないと思ったときに『ああ、ダメだな』と思って。本当にやらなきゃ」 長男村田琳「次の子が政治家になるのは関係がないと思ってるけど」 蓮舫「私もそうだったけど、今回だけは反応が違うじゃない?女政治家負けた。何やってもいい的構図で、凄いよね」 長男村田琳「今、20歳とか、30歳とか40歳でこれから政治に関わりたいという――」 蓮舫(急に笑いだし、大きなマグカップを傾けてカメラに映す)「飲んでいるの。空っぽではありません」 長男村田琳「これからなりたいって思う子たちが叩かれると思うのは凄い嫌だなって思う」 蓮舫「それを作っちゃった要因が私ってなるのも嫌だし、・・・・ だから、私は民間人でも声を上げる。挙げた声は残るって、・・・じゃないけど。その声は必ず誰かの力になる。あー、そうだなあ、誰かの力になれるんだったら。いいなあ。これだから恐ろしい。私だって恐ろしいと思いますよ。 難しいねえ。私ねえ、今回、松尾あきひろさんていう知り合いで、戦っている弁護士の総支部長がいて、立憲民主党なんだけど、彼が私が演説する前に喋ってくれたんだけど、あ、こんなにクールな子が泣きながら言うんだ、という一言があって、お嬢さん小学生で、自分の娘が大人になったときにおっさんたちにね、頭を下げなくて済むよう、昭和の人たち?、そんな社会を作りたいといったときに、『あっ、こんな30代の子たちが野党から政治家になろうとしてくれている健全な民主主義ってあるんだって凄く思ったんだよね。 あれは素敵だった。凄い素敵だった。ちゃんとこうやって自分のための声を出すってとっても大事で、こういう国を作りたい、こうしたいって言われれば、そこには自分事のこうあるから、そうされたいんだっていう演説の文化になってくれたら、多分、有権者とか国民も自分事として考えてくださるんじゃないかなあというのが今回見えた景色だった。 (ライブ参加者に)何か私に聞きたいこととかありますか?取り敢えず強くなれないからね。人を(?)発見してくれたのは嬉しかったというのはそのとおりで、そうなの、政治って、多分、マスに対して、票を持っている人に対して、カネを持っている人に対して、力を持っている人に対して働きかけるのが自分の当選だったのが、そうじゃなくって、一人じゃないんだよっていう人に語りかけることで、こんなに熱を帯びた街頭演説の双方向ができたってのは私にとって誇りなんです。達成感なんです。 一人にちゃんと見てるんだよっていう政治があっても、いいんだって気づいて、それに呼応してくれた人方たちが、一人スタンディングしてくれたり、一人街宣してくれたり、名前があるのに蓮舫を応援するとカミングアウトしてくれたり、これが新しい民主主義の形だったなあ、生まれたかなっていうのは、すごく私の力になった」 長男村田琳「次の選挙は?」 蓮舫「今はねえ、国政選挙を考えていない。だって、国政から卒業して、都知事に手を挙げて、凄い景色を見たんですよねえ。まあ、千人単位で聴衆が増えてくる演説会場って初めてで、2009年のときもなかったから、そうするとやっぱり毎晩帰ってきて、自分の演説をここが悪かった、ここが足りなかった、実は今でも言うんだけども、あそこの言葉がこれが足りなかったとか、演説を含めてあそこまで聞いてくださった人たちがいて、残念ながら結果を出せなかったんだったけれども、それでも120万を超える人が蓮舫と書いてくれたことに対してこれでまた国政に戻るっていうのはちょっと私の中では違う」 長男村田琳「うん?そうなの?」 蓮舫「だって、私からはなんか渡り鳥みたいじゃない?」 長男村田琳「言い方は悪いけど、そういうものだと思って・・・。あの結果を見て、蓮舫にまだまだ期待をしてくれていると言うか――」 蓮舫「あれは都知事として頑張った応援なんだから、次のステップでまた国政ですかっていう声は聞いていないんですよ、今回。自分の中で整理をつけなければいけないと思ってて、一旦ピリオドだなって思うんだよなあ。 結果が出せなかったし、もう一度経験しての声があるから、何ができるのかなって実は今、考え始めていて、考えてみたら、大学2年のときから芸能界デビューして、大学出て芸能界に入って、18年ぐらい芸能界に行ったり、中国に留学行ったり、それから政治家を始めて、10年は経って、突っ走り続けてきたから、自分は他の何かになれるんだってことを考えたことがなかったの。 ほかの何かになれるのかなっていうのも、今ちょっと不安の半分ありながら、無職なんだね(息子と同時にアハハハと大笑い)。 長男村田琳「・・・・、やりたいことできるじゃん」 蓮舫「そうなの。やりたいことって何だろうって思って、今回、双子の育児の話?靴紐の話なんか今覚えていないけど、5歳のときかな、靴紐やっぱり結ぶの、ちゃんと巻けなかったゆえにもっとあの話をすべきだって。次から靴をマジックテープで止めたの。最悪、最悪、靴紐巻けなかったからって、マジックテープに戻した母親って、最悪だと思ってて。 でもね、あのことを自分の子として思ってくれる人は実は何人かいて、若い記者とかも、背中を押されましたとか色々言って、みんなの声聞くよ。みんなの育児、孤独じゃないよって、そういう聞く場所っていうのもやりたいなあと思っていて、だから、蓮舫に聞いて貰いたいことがある場所っていうのはこういうふうにインスタライブでやってみるのもアリかなと思って、私もこういうふうに誰かの力になれるんだったら、普通に実は凄くやりたいことかなあってのは思っている」 長男村田琳「本来日本国民と国政、あるいは都政というのは本来こうあるべきだとすべきではないと思う。やっぱりこうあるべきとなっちゃうっていうのは仕方ないことだと思っちゃう。蓮舫が国政、都政じゃなくて、もっともっと近くに寄るよってやりたいことがあったら、蓮舫に試させてみようてことが今より多くなるかも知れないね」 蓮舫「うん、多分、今まで以上に繋がっている感が凄くあって、何か凄いなあ、何かこうやっても繋がってる感があって、有難ないなあって凄く思う。女性の見方ではいつでもなく、男性の見方にもよる。子育てでプレッシャーを感じるっていうのはやっぱ凄くきつくて、本当は子育てって楽しいんことじゃない?だけど、楽しめないの。なぜなのか、プレッシャーしか感じないから、そういう仲間とか、友達とか、先輩見ていると、あ、きついんだって思っちゃうのは実は凄く嫌な瞬間で、ほかの世界に向けて、今双子の話をしているんだけどね、こんなに楽しかった経験てないんだよね。 それをもっともっとみんなに言いたくって、なぜなんだろう、そんなキツイの、辛いの、仕事やばいの、カネ足りないのと思うと、キツイなあと思って。やっぱ、そうだよねえ。 多分、相手は私に対してパワーハラスメントとは思っていない方がヤバイんだよね」 長男村田琳「今回は息子とかじゃなくて(?)、パワハラの、パワハラを表現したのが今回の蓮舫に対するバッシングだと思っている。東国原さんだとかディープさんが生理的に嫌われているとか、嫌われる人間だとかいうのを、一つに括っちゃいけないんだと思うだよね。 でも、蓮舫だから、言っても、何も返ってこないっていう、別にこれで自分の評判に関係ないから言っちゃおうよって言えるのであって」 蓮舫「だから、結局、何ていうのかなあ、視聴率とか、反応とか、自分への評価とか、厭らしい資本主義が透けて見えるんだよね」 長男村田琳「むしろこれって、メディアとかじゃなくて、・・・・・虐げられている女性、男性、パワハラを受けている人たちってたくさんいると思うんだよ。これが今回メディアとして出たのが蓮舫っていう大きな看板だったから、これをじゃあ、私はパワハラを受けてるけど戦います。じゃあ、 私はここで戦うけど、あなたたちも受けてる。フィールドってのがあるから、それも一緒に解決していこうよっていうのをそう言えたら、そう、もっと。 あのね、今回面白かったんだけども・・・」 |
以上の発言を取り上げる。話が理路整然としていない。何度も読み返さないと、意味が取れない個所が相当ある。インスタライブを直接聞いている視聴者は聞き流してしまうこともあるに違いない。だが、支持者、あるいはファンだろうから、問題にしないのかもしれない。
東国原とデーブスペクターに批判されたことが、あるいはそのほかからも色々と批判を受けていたのか、余程癇に障っていたらしく、それらに対する反論に区切りをつけることができず、同じ発言を繰り返している。周囲の批判を当初は「言ってれば」と無視する態度でいたんだけれども、「次の子たちとか、今政治家やっている子たちがここまで強くなれないと思ったときに『ああ、ダメだな』と思って。本当にやらなきゃ」と、前のところで挙げたほぼ同じ理由で戦うことにした。いわば反論に出ることにした。
理由は尤もらしいが、「次の子たち」や「今政治家やっている子たち」が「ここまで強くなれない」の意味するところ、自身は打たれ強いが、同性の後進や同輩は打たれ弱いと結論づける、あるいは決めつける根拠が何も説明されていない。いわば彼らは誰もが打たれ弱いと画一扱いし、頼まれた訳でもないのに私が守ってやらなければと気負っている。それぞれに意志を持った一個の自律した存在と看做さず、多様性や潜在的能力を考慮することもなく、庇護すべき弱い存在と意味づけている。
このことの裏を返すと、蓮舫はそれ程にも自身を何様に装わせている。あるいは大層な庇護者に見立てている。
最初から批判や誹謗中傷に覚悟を持って政治家を志し、そういった攻撃に強い女性も存在するだろうし、当初は傷ついても、自身が信じる言葉を発信し続けることによって打たれ強い政治家に変身していく女性も存在するに違いない。あるいは、「私をちゃん付けで呼んだ」、「10何年、話したことがない人だ」、「携帯も知らなければ、ご飯も食べたことない」といったどうでもいいことで大騒ぎするのではなく、反論するだけの価値がある批判かどうかの観点にのみに立って冷静に対処する賢明な女性も様々に存在するはずである。
だが、自分以外は一様に打たれ弱く、自分は打たれ強いとする。実際には些末なことに自分から振り回されにいき、大騒ぎし、それを強がりで誤魔化す姿を曝しているだけのことで、打たれ強さなど微塵も見えない。その思い上がった固定観念は相対化能力の欠如、論理的思考力の欠如を否応もなしに示すことになり、ここにも「自分の考えは常に正しい」とするだけの自己正当化バイアスを見ることになる。
しかも既に触れたように後に続く政治家を「子たち」と半人前に見立てた下の者前扱いは自身を上の存在に置いて政治家としての経歴の多少で人間の価値を決める、人間の実質を見ない形式主義そのもので、テレビの世界で報道・情報番組のレポーターやキャスター等を約5年間務め、参議院議員約20年も務めていながら、その形式主義は過去に人間の姿について満足に学んでいなかったことになり、滑稽な逆説を示すことになる。
長男の村田琳が政治家に「これからなりたいって思う子たちが叩かれると思うのは凄い嫌だなって思う」と発言したのに対して蓮舫が「女政治家負けた。何やってもいい的構図」は許せないと応じている意味は二通りに解釈できる。
一つは蓮舫個人に対する批判、あるいはバッシング、攻撃等を「女政治家」全般の問題へと転化し、蓮舫という個人の問題ではないとすることで、蓮舫の個人性や個人的資質を問題外に置くことを可能とする点である。結果、「女政治家」であるという一点でバッシングの対象にしていることになり、男尊女卑時代の前近代的男女差別観に毒された男たちをバッシング主体に位置づけていることになる。
この方程式の中に東国原英夫も、デーブ・スペクターも入れていることになる。東国原英夫の「蓮ちゃんは生理的に嫌われているから」云々は言葉通りに解釈すると、蓮舫の個人性に対する好悪の一般論化に見えるが、そうではなく、実際は女政治家だから、自らの男女差別観に基づいてバッシングを行い、男女差別観が動機であることを誤魔化すために蓮舫の個人性に見せかけたということになる。
デーブ・スペクターの「蓮舫がテレビ司会者に転身→ヒステリーチャンネル」も、男女差別観から蓮舫を理由もなくヒステリーに貶めているということになる。だが、バッシングを受ける理由を「女政治家だから」と解釈することは個人的資質としてはバッシングを受けるようなこれといった欠点も短所もないと自己評価することになり、蓮舫にとっては好都合な解釈となるが、自身を目立った欠点も短所もない人物に仕立て上げることは自己正当化バアスが過ぎることになるだけではなく、やはり自身を何様に位置づけていることになる。
日本社会が戦前の男尊女卑の思想を戦後の民主化時代もどうしようもなく引き継いでいて、男性上位・女性下位の傾向を残していることになっているとしても、女政治家だからと性別のみで攻撃するのはごく限られた男の女性差別であって、東国原にしてもデーブ・スペクターにしても、蓮舫が女政治家だからと言って、例の発言をしたわけではあるまいから、両者をその範疇に入れるのは無理がある。あくまでも蓮舫という政治家を対象にして発言した。蓮舫の性別が女ということであったに過ぎなかったはずだ。
要するに蓮舫は女とか男とかは関係なしに自分という政治家に対するバッシングとして受け止め、その合理性を問い、合理的でないと見たなら無視。何らかの合理性が認められたなら、反論するなり、反論せずに何を言われても我が道を行くことを宣言する、いずれかを選択すればよかった。
だが、蓮舫がしたことは「私をちゃん付けで呼んだ」等々、合理性を問わないままに感情的な反発を前面に押し出し、結果としてどうでもいいことで世間の注目を集めただけではなく、「女政治家」だったから攻撃対象となったと女性という性全般に対するバッシングであるかのように普遍化し、問題を大きくする誤魔化しまで働いた。
そうまでして自分を正しい位置に置こうとする自己正当化バイアスは際限がない。自身に対するバッシングと同性他者に対するバッシングを切り離して、後者のそれは本人が他者の力を借りるにしても、借りないにしても、自身の成長のためにもそれぞれが受け止め、それぞれが主体的に解決すべき問題だと距離を置くべきを、「次の子たちとか、今政治家やっている子たちがここまで強くなれないと思ったときに『ああ、ダメだな』と思って。本当にやらなきゃ」と批判やバッシングの類いなど止めることもなくすこともできないにも関わらず、自らの力で不可能を可能に変えることができるかのように見せかける。思い上がりというものだろう。
こうまでも拘るのは都知事選の有意義性が本人が口にしている程に実態を備えていないからで、実態を備えていたなら、その有意義性の前に東国原英夫やデーブ・スペクターの蓮舫の落選に見せた反応など冷静に眺めることができるはずだが、それができなかったのは強がりでしかない有意義性であることを改めて暴露することになる。
蓮舫の長男村田琳も、これから政治家を目指す男女を"子"扱いして、「叩かれると思うのは凄い嫌だなって思う」と叩かれることを前提とする画一性にはまっているが、対して蓮舫は叩かれる「要因が私ってなるのも嫌だし」と応じている。
例えば蓮舫と同じ党の女性議員だからと蓮舫憎しが高じて袈裟まで憎しで叩いたとしたら、蓮舫個人は手の施しようも防ぎようもない合理的理由を欠いたバッシングそのものであり、バッシング主体の性格に帰すべき個別的問題であるにも関わらず、その個別性を無視して、蓮舫という存在があったからこそのバッシングの連鎖だと動機付けるとしたら、自分で自分の存在感を理由もなく過大評価する振舞いであって、自分を何様に位置づけていなければできないこととなる。
根拠も理由もない合理性を欠いた批判やバッシングを世の中からなくすことは不可能なことは既に触れたが、その不可能性に対して自身へのバッシングに試みた反論の「挙げた声は残る」、「その声は必ず誰かの力になる」と保証しているその"声"は相手の非を認めさせ、自らの過ちを納得させることのできる論理的にして合理性ある力を備えていなければならない。
だが、東国原英夫が蓮舫敗因の一つに「蓮ちゃん、生理的に嫌いな人が多いと思う」と挙げたこと自体に反論するのではなく、「蓮ちゃん」と親しい間柄であるかのように名指ししたことに対して、「友達でない人」だ、東国原は「そのまんま東さんで止まっている」だ、「携帯も知らなければ、ご飯も食べたことなければ、連絡先も知らない人」だからは論理性も合理性も窺うことができないばかりか、単なる感情的な反発しか見えてこない。
果たしてこのような"声"が相手の非を認めさせ、自らの過ちを納得させることのできる力を備えていると確信できるだろうか。
デーブ・スペクターのX投稿、「蓮舫がテレビ司会者に転身→ヒステリーチャンネル」に対して「それはどういう意味かしら、デーブさん、私の闘いや私の姿勢を個人で笑うのはどうぞご自由に。もう数十年お会いしてませんが。私を支え、私に投票してくださった方を否定しないでいただけると嬉しいわ」との表現で蓮舫投票有権者の存在否定に当たると批判しているが、蓮舫を支え、投票した有権者数が当選にまで届かなかったことは小池百合子に投票した有権者からは都知事になる資格はないとする否定を受けたことになって、その有権者数の方が遥かに多かった。
石丸伸二にしても小池百合子に投票した有権者からは都知事になる資格はないと否定を受けたことになるし、蓮舫は石丸伸二に投票した有権者の数以上に都知事になる資格はないと否定された計算となる。
安倍晋三政治の否定は安倍晋三を国会に送り込んだことも、総理大臣に選んだことも、そのこと自体が間違いであるという否定を根底に抱えていなければ不可能となる。だが、肯定する有権者や国会議員の方が遙かに優っていた。
当然、デーブ・スペクターの対蓮舫投票有権者の存在否定は蓮舫の落選に対応させた反応に過ぎないことになる。当選していれば、否定を受けることはなかったろう。蓮舫が「否定しないでいただけると嬉しいわ」などとお願いすること自体が論理性も合理性もなく、せめてもの対応はデーブ・スペクターの蓮舫叩きを無視し、再度都知事選に挑戦、東京都民から都知事として肯定される票数を獲得するか、より確かな安全策として今夏予定の参議院選挙に立候補、有権者からその存在を否定されない当選に必要な票数を獲得して返り咲くか、いずれかを可能とすることで、東国原英夫やデーブ・スペクターを黙らせる道を選択すべきだった。
蓮舫は「次の子たちが流しきれない」からと両者に反論を試みたことに対して、「東国原さんもデーブさんも連絡ないですね」と言っているが、反論に対するそれなりの言葉の送りつけができなかったわけではなく、ただ単に相手にしない態度を取ったのだろう。勿論、自分たちの蓮舫批判に賛否があることは承知しているだろうし、あったとしても、蓮舫が反応したことで最初に送りつけた言葉は却って拡散し、送りつけたことの目的は十分に果たしただろうからである。
大体が反論の価値もない言葉に蓮舫がその見極めをつけることもできずに飛びついただけの話だった。反論の力量がその程度でしかないのだから、「挙げた声は残る」、「その声は必ず誰かの力になる」は自己能力の過大評価、思い上がりに過ぎない。
己の頭の蠅を追うこともできずに「次の子たちが流しきれない」からと人の頭の蠅を追おうとすること自体が思い上がった振る舞いでしかない。
弁護士で総支部長の松尾あきひろ(実際の年齢は49歳)が蓮舫の演説の前に喋ってくれた。小学生の娘が大人になったときに昭和の人たちに頭を下げなくて済むよう社会を作りたいと「こんなにクールな子」が泣きながら演説した。
そしてこのような「30代の子たちが野党から政治家になろうとしてくれている」ことを以って蓮舫は「健全な民主主義」だと称賛している。
要するに昭和生れの人間は年下の者に対して何につけて古い価値観を押し付けてくる、頭を下げてくることを求める、目下の目上に対する言葉遣いの丁寧さで人物を評価したりする、悪くするとへりくだった態度を年下の年上に対するより良いマナーと見る、そういった上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的な上下の人間関係を思考・行動のパターンとする者が多くて、若者の自由な社会活動の障害となっているということを指しているのだろう。
但し蓮舫は自分がこのように発言していることの二つの問題点に気づいていない。一つはそういった時代遅れの人間関係に囚われたままの昭和生れの大人たちに対して意識改革の戦いに直ちに挑む行動力の発揮を目の当たりにして、「健全な民主主義」と言っているのではなく、「小学生の娘が大人になったとき」、つまり昭和生れの大人たちが社会の表舞台から去る時間の経過を待つだけの戦わない姿勢を指して「健全な民主主義」だと称賛している点である。
例え表舞台から去ったとしても、何らかの上下の価値観を用いて人間の有用性を推し量る権威主義の思考・行動様式は民族性を背景として封建時代の昔から伝統的、あるいは文化的精神としてきたもので、小学生の娘が大人になる時代にまで進んだとしても、変わらぬ姿をとどめる人間の存在を全否定できるわけではない。
戦後の民主主義の時代に年数を経てもなお戦前型の思考を残した人間が数多く存在することがこのことを証明し、松尾あきひろの指摘はこういった人間を指しているはずだ。
二つ目は蓮舫自身の後輩・後進に対する「あの子、この子」の下の者扱いは一種の権威主義的上下関係で価値づけていることになり、松尾あきひろに対しても「あ、こんなにクールな子が泣きながら言うんだ」と、例え年齢が下でも、一個の人格として対等に扱うのではなく、大の大人を「子」扱いする上下関係を昭和生れの一人として自らも体現していながら、自分以外の昭和生れの大人たちの権威主義を批判の俎上に載せる滑稽な矛盾を犯して気づかずにいる点である。
要するに蓮舫の後輩・後進に対する対人視点からは「健全な民主主義」は窺いようがない。
日本の社会で権威主義的な上下の人間関係は目上の者と目下の者の間にのみ働いているわけではない。職業的地位の上下、戦前の男尊女卑が戦後に男性上位・女性下位の形で残っている男女関係、あるいは学歴の上下、収入の上下、その他をも縛り付けている人間関係力学として残存している。
男性を上に置き、女性を下に置いた男性上位・女性下位の権威主義的上下関係を社会レベルで改めることができたなら、家事労働時間や育児時間の女性偏重は改善に向かい、改善の進行によって第2の出産、第3の出産を望む女性増加の可能性は否定できない。
そしてこのような平等社会の実現を目指す力が無視できない大きなうねりを示し得ることになったとき、初めて「健全な民主主義」が機能していると言うことができる。蓮舫は昭和のおっさんたちに頭を下げなくて済む社会の実現が男女平等社会にまで繋がっていく可能性についてまで考えを広げる思考力までは備えていない。
次の発言、松尾あきひろの小学生の娘が大人になったときに昭和のおっさんたちに頭を下げなくて済むような社会を作りたいと訴えた演説は、「あれは素敵だった。凄い素敵だった。ちゃんとこうやって自分のための声を出すってとっても大事で、こういう国を作りたい、こうしたいって言われれば、そこには自分事のこうあるからそうされたいんだっていう演説の文化になってくれたら、多分、有権者とか国民も自分事として考えてくださるんじゃないかなあというのが今回見えた景色だった」と言っていることが、頭が悪いせいか、意味がすんなりと入ってこない。
頭が悪いなりに解釈してみるが、松尾あきひろの演説は「自分事」としてあるから説得力を持つのであって、そういった「演説の文化」になれば、「有権者とか国民も自分事として考えてくださるんじゃないかなあというのが今回見えた景色だった」と高評価をつけたということなのだろう。
但しその相互の「自分事」が化学反応し合う「演説の文化」の素材はあくまでも言葉や思い、あるいは熱意のみで、自分事の実現を約束する力とは必ずしもなり得ない。言葉や思い、熱意の先に何らかの意識改革の方法なり、政策の形なりに纏めて、成果へと向けた動きを導き出さなければ、「演説の文化」は文化のままとどまり続けて、政治の恩恵としての社会生活上の利益は形を取って届けることはなかなかできないからだ。
蓮舫の目に映る「景色」には「政治は結果責任」という透かし文字を入れ忘れている。断るまでもなく、「結果責任」とは結果を生み出して届ける責任のことを言う。蓮舫は結果責任を置き忘れたまま、ただ単に安っぽく感動しているに過ぎない。
蓮舫にしても、昭和のおっさんたちに頭を下げなければならない慣習がどのような社会の構造によって強いていることなのかの本質的な点に気づいていないのだから、どうすべきかの段階にまで進まずに、ただ単に松尾あきひろの演説に感動したという表面的な「景色」で終わることになる。
蓮舫は選挙活動の演説で、「一人じゃないんだよ」、あるいは「一人にちゃんと見てるんだよ」と寄り添ってくれる聴衆に語りかけることで「熱を帯びた街頭演説の双方向」ができたのは自身にとって「誇り」であり、「達成感だ」、「新しい民主主義の形」だと再び都知事選で手にした有意義性を誇っている。
選挙活動の演説に集まった聴衆というものの正体を改めて見てみる。中には敵情偵察の者もいたかもしれないが、ごく少人数のはずで、大多数は支持者であるが、既に触れたように各地区の後援会から動員された支持者が無視できな人数で混じっていたはずで、蓮舫は参議院議員の間は東京都が選挙区だから、地元の有権者である自身の後援会員や、街頭演説場所の立憲系の都会議員、区会議員の後援会会員、あるいは近隣の地区の後援会会員を動員しているだろうし、当然、応援に熱を帯びる。
さらに序盤情勢、中盤情勢、終盤情勢と小池百合子に対して劣勢に立たされていた上に石丸への支持が増えていく状況に際しては動員指示は加速していったはずで、当然、演説を行う側と演説を受ける聴衆側との間が熱を帯びるのは自然なことだが、その熱が当選に結びつく程に大きな広がりを見せなかったということは動員以外に自然発生的に演説に参加していく聴衆が大きな塊となっていく状況にまでは進まなかったことをも示していて、いわば動員した支援者でほぼ固めた聴衆を相手に「街頭演説の双方向ができた」とするのは基本的な認識性を欠いていることになって、「達成感だ」、「新しい民主主義の形」だといった有意義性はニセモノと化す。
このニセモノそのものの有意義性は都知事選敗北の屈辱によって元々の自己正当化バイアスを刺激して誘い込むことになった強がりが生みの親となっていることは間違いない。
蓮舫は奇麗事を口にしているに過ぎないことになる。やはり選挙の有意義性が見せかけで、見せかけと思わせない仕掛けとして強がりを必要とし、強がりだから、言っていることが奇麗事となる。その悪循環に絡め取られてしまった。
蓮舫の今後の進路についての長男村田琳との遣り取りを見てみる。長男村田琳に「次の選挙は?」と問われると、「千人単位で聴衆が増えてくる演説会場」の「凄い景色」や、「120万を超える人が蓮舫と書いてくれた」事実を前にして「国政に戻るのはなんか渡り鳥みたい」で、「私の中では違う」と答えている。
この発言にある矛盾を無視するなら、再度の都知事選を目指しているようにも見える。矛盾とは演説会場に集まった際の聴衆の多くが動員された頭数であることを抜きにして、事実、「凄い景色」であったとしても、投開票前の景色であって、それがどれ程に凄くても、票に繋がって当選という次の景色を結果としたわけではないのだから、その"凄さ"は相対化の審判を受け、光を失う。掛け値なしに「凄い景色」だったなら、あれは何だったのだろうか、ただの蜃気楼だったのだろうかと疑惑にも駆られるだろう。だが、蓮舫は結果を無視して、投開票前の景色だけを取り上げて、"凄い"と価値づける矛盾は自己正当化バイアスの心理的な偏りを外したなら、満足のいく解釈は不可能となる。
その一方で、「次のステップでまた国政ですかっていう声は聞いていないんですよ」の発言は、それを望む声次第では国政復帰の可能性をも示唆していることになり、「一旦ピリオドだなって思う」は国政復帰を望む声待ちを意味することになる。
蓮舫が都知事選に挑戦したのは、一般的に考えると、政党支持率が10%以下の少数野党乱立状況下の自民党一強の政局では野党第一党所属であっても、自分たちの政治で国を動かすことは現在のところ不可能であるのに対して、都知事に当選すれば、アメリカの大統領制に近い首長制であることから強い権限を与えられていて、野党の一議員の立場ではほぼ不可能な、自身の政治を国際的な巨大都市東京という大舞台で政策の形に持っていくことが可能となるからだろう。
つまり自身の政治力を見せたかった。だが、落選し、その野心的な目論見は潰えた。しかし4年後の都知事選で、より慎重になるだろうが、取り巻く状況次第では自身の政治を政策の形に持っていくという実験は再度挑戦が不可能というわけではない。
但し都知事選に再び立候補したとしても4年間のブランクは票獲得に不利に働かない保証はないから、2015年7月の参院選に当選を前提として立候補して、4年間後の都知事選を窺う両睨みでいたのではないのだろうか。
そのために「国政に戻るのはなんか渡り鳥みたい」と一方で言いながら、もう一方で、「次のステップでまた国政ですかっていう声は聞いていないんです」とどっちとも取れる言い回しとなった。参議院復帰も都知事選再挑戦も、理由は支持者の後押しがあったからと何とでもつけることができる。
だが、2024年7月7日の都知事選後から6日後の2024年7月13日のインスタライブ当時から
国の政治状況は大きく変わった。3ヶ月後の2024年10月27日の衆院選で自公が過半数割れとなる政局の大変動は、期待はあったかもしれないが、実際のこととして予想した向きは少なかったに違いない。
2024年10月27日の衆院選投開票を3日前にした10月24日に自民党石破執行部は政治とカネの問題で非公認とした候補代表の政党支部へ2000万円を提供した事実が判明。非公認扱いしたことと矛盾した秘密行為が過半数割れを誘う分岐点となったに違いない。
だが、世論の大勢が決定的に政権交代を望まなかったから、対自民懲罰票が野党第一党の立憲民主党に全面的に向かう流れを取らずに国民民主党にも向かう結果となり、与党過半数割れで終わることになった。
自民党が政治とカネの問題に国民の納得がいく形で決着をつけることができないままに2025年7月の参院選を迎えることになったなら、参議院でも自公を過半数割れに誘い込む可能性は否定できず、ゆくゆくは政権交代も予想範囲に捉えることができる。蓮舫は閣僚の地位を狙える一人として、参議院復帰に狙いをつけ、「それでも120万を超える人が蓮舫と書いてくれたことに対してこれでまた国政に戻るっていうのはちょっと私の中では違う」と発言したことや国政復帰を「渡り鳥みたい」と形容したことなどケロッと忘れて、支持者の後押しを受けたとか何とか理由をつけて、立候補することになる可能性は十分に予測できる。
大体が「自分の考えは常に正しい」とする自己正当化バイアスに強度に取り憑かれた蓮舫が都知事選3位という汚名を政治人生の終着駅とすることは考えられない。都知事選再度挑戦当選なり、参院議員高得票獲得復帰なりの形で東国原やデーブ・スペクターに一矢報いたいと思っているはずだ。
内心は蓮舫に対する東国原英夫の批判やデープ・スペクターの揶揄を思い出すたびに悔しくて悔しくて、ハラワタが煮えくり返っているに違いないことは、今後やりたいことの一つに若いお母さんから育児について聞く場所をインスタライブを使って「やってみるのもアリかなと思って」と話していながら、急に思い出して怒りが込み上げてきたのか、何の前触れも脈絡もなく、いきなり、「多分、相手は私に対してパワーハラスメントとは思っていない方がヤバイんだよね」と言い出して、周囲の蓮舫に対する批判、バッシングの類いを悪質化の方向に一段昇格させて、自身に対する「パワハラスメント」だと断じ、バッシングとは異なる暴力的不当行為であることに相手が気づいていないことを咎めてやまない姿勢に現れている。
但しパワーハラスメントだとすることに様々な問題が含まれることになる。
パワーハラスメントとは何らかの必要性に基づいて築いている、逃げられない人間関係の中で一定の関係を優越的な立場と非優越的な立場で捉え、前者の立場を取る者が自らの優越性を表現するために後者の立場を取る者が持つ人間的対等性を踏みにじり、人格を否定する威迫行為(乱暴な言葉や動作で相手を脅して無理に従わせようとすることなど)を行うことを言うはずである。
ところが、東国原にしても、デーブにしても、蓮舫と何らかの人間関係を進行させている状況にあったわけでもないし、反論できたのだから、当然、逃げられない関係にあった訳でもなく、そのような関係の中で蓮舫に対して優越的な立場を築いていたわけでもなく、蓮舫にとっては受け入れ難い発言だったろうが、その発言は蓮舫に自分たちの意思に無理やり従わせるようとする威迫性を持たせた言葉でもなかった。
勿論、蓮舫自身が自らの自由意思を東国原やデーブに無理やり抑えつけられて、望まない何かをさせられたという訳でもない。
そのような関係にあった蓮舫に対する行為をどうパワーハラスメントと名づけ得ると言うのか、甚だ疑問である。常識的に考えても名づけ得ないと断定できるはずで、パワーハラスメントだと定義づけること自体が過剰解釈であり、東国原やデーブの発言に対する過剰反応としか言いようがない。
しかも、パワーハラスメントにしただけではなく、そうであることに気づいていないことを「ヤバイ」と、いわば最悪状況の無知扱いにしている。
多分、東国原やデーブの自身に対する発言を「そういうの我慢できちゃうし、流したんだけど」とか、「次の子たち」や「今政治家やっている子たち」が「ここまで強くなれない」という言葉遣いで間接的に自身は打たれ強いとしていたことがやはり強がりでしかなく、実際は都知事戦に落選したことも手伝って、内心に収まりのつかない激しい怒りが渦巻いていて、断罪したい復讐心が単なるバッシングとするだけでは満足できず、一層の批判や非難を浴びることになり、自らの社会的役割まで否定されることになりかねないパワーハラスメントというより悪質な行為に持っていきたくなったのかもしれない。
だが、この悪質化は、改めて、蓮舫が打たれ強くも何ともなく、打たれ弱いことの裏返しでしかないことを証明することになる。自己正当化バイアスが強度に働いた結果の自身を正しい場所に置いて、相手を最悪な場所に追い込もうとする意図が見えてくる。
蓮舫は自身に対するバッシングを、「視聴率とか、反応とか、自分への評価とか、厭らしい資本主義が透けて見えるんだよね」と批判している。東国原やデープスペクター、その他が「厭らしい資本主義」の立場から自分への評価を高め、その先に自らの人気の確保や芸能界での居場所確保を考えてバッシングを行なっていると受け止めているとしたら、蓮舫自身を大物に見立てていることになり、そこには自らを何様と見る思い上がりを潜ませていることになる。
なぜなら、小物が相手なら、厭らしい資本主義が性格としている利益追求一辺倒の餌食にしたとしても旨味は出てこないからである。もしテレビ局が蓮舫を叩けば、視聴率を稼げると出演者に暗に指示し、出演者がそれに応えて蓮舫を集中的に叩いたとしたら、出演者個人の思想・信条の自由を認めずに全体の利益への奉仕を求める戦前の全体主義への回帰を示すことになって、もし露見したらテレビ局は立ち行かなくなる。
そのような危険を犯してまでこの手の思想統制を行うことは考えられないから、やはり「厭らしい資本主義」からの蓮舫バッシングだとの思い込みは自身を大物に見立てた被害妄想とまでは言わないが、安っぽい拡大解釈に過ぎないだろう。
長男の村田琳も、蓮舫の自身に対するバッシングをパワハラスメントだとする説に影響を受けたのだろう、世の中にはパワハラを受けている男女はたくさんいる、今回、メディアを使った蓮舫に対するパワハラが出てきた、蓮舫は、いわば大きな看板となるから、それを利用して、私はパワハラと戦います、みなさんも一緒に戦い、解決していこうでありませんかと言えたら、面白かったけどといった趣旨の感想を述べているが、東国原英夫の「蓮ちゃん、生理的に嫌われているから」程度の批判や、デーブ・スペクターの「ヒステリーチャンネル」程度の悪ふざけを参議院議員歴20年にも関わらず、バッシングだとまともに相手にし、それでも飽き足らずに東国原とデーブの発言や行いをパワハラスメントだとなお一層の悪者仕立てに持って行く。
こういった論理的思考に基づいた合理的判断力を欠いた人物にパワハラ被害の相談を受けて、それなりの対処療法に取り掛かり、個別的には解決することができるだろうが、政治家の立場から取り組むべき意識改革は、先に挙げた松尾あきひろの小学生の娘が大人になったときに昭和のおっさんたちに頭を下げなくて済むような社会を作りたいと訴えた演説が、大人たちの意識改革に持っていく極めて困難な戦いではなく、単に彼らおっさんたちが社会の表舞台から去る時間の経過を待つだけの戦わない姿勢を指した演説であることが気づかずに、「健全な民主主義」何だと感心する程度の非論理的な判断力しか発揮できないのだから、望むのは土台無理な話だろう。
今回はここまで。次は最終回。