菅の官邸雑談を日体協・JOC創立100周年記念式典の挨拶に代えた合理的判断能力の程度

2011-08-02 12:24:16 | Weblog



 昨日(2011年8月1日)の参議院東日本大震災復興特別委員会でスケート競技と自転車競技でオリンピックに出場したことのある自民党の橋本聖子議員がスポーツというものの存在に絡めて菅仮免を追及していた。敬語略。

 橋本聖子「被災後いち早く支援に立ち上がったのは文化人やアスリートだったと思う。それは文化力やスポーツ力がどれだけ偉大なものか知っているから、すぐ行動に移した現われだと思う。

 そのスポーツも先般、100周年を迎えた7月16日、日本体育協会・オリンピック委員会の100周年の記念式典が行われ、天皇、皇后両陛下のご臨席を賜り、IOCオリンピック委員会のジャック・ロゲ会長、各国のIOCメンバーにもお越しいただき、盛大な式典を開催できたことはスポーツにとって大変ありがたいことだと思った。

この大事な式典に総理は欠席した。これは総理ご自身の判断なのか」

 菅仮免 「天皇陛下、あるいは両陛下が出席される会議で、総理が出るべきものである会議はこれまでできるだけ出席してきたところであります。今回のことについて、当日の午後に福島に視察に行くことにいたしていて、その準備も含めて対応をしていた。

 国際オリンピックのロゲ会長には多くの委員と共に官邸に来られて、色々と意見交換をした。

 そういったことで福山官房副長官に出席をして貰い、高木文科大臣にも出席をされたものと承知している。最終的には私の行動については私自身が判断をさせていただいた」

 相変わらず合理的且つ明快な答弁となっている。誰の判断であろうと、その判断の正否が問題であるはずだが、誰の判断であるかの問題としている。

 ロゲ会長と他のIOC委員と官邸で話しあったし、福島視察の準備もあったからから記念式典には欠席した。その判断の正否である。

 それとも「私の判断」は全て正しいと妄信しているのだろうか。その可能性の方が高いかもしれない。

 記念式典に出席すれば、当然一国の首相として何らかの挨拶が設定されていたはずだ。その挨拶はスポーツに関する日本国民に向けると同時に全世界に向けることになるかもしれない一国のリーダーとしてのメッセージとなる。

 例え海外のメディアがその挨拶を伝えなくても、ロゲ会長、その他のメンバーを通して口コミで海外の重要人物に伝わる可能性は否定できない。下らないことしか言えない日本の首相だったとか。

 当然、そのメッセージはありきたりの機械的な言葉の羅列で終わったなら、スポーツに関わる思想・教養が疑われることになる。ほんの僅かでも思想・教養を感じさせて感銘的な印象を残すメッセージが必要となる。

 首相のスポーツに関わる思想・教養を含んだメッセージが一国の文化力としての評価を受ける場合もあり、国に対するそういった好感度が外交に有利に働く要因ともなるという意味も込めているはずだ。

 そのような資質の発揮を担った役目をロゲ会長その他の官邸表敬訪問時の彼らとの会話の遣り取りで済ませた。その判断の正否である。

 彼らとの会話でその役目を十分に果たし得たと言うなら、さして問題は生じない。但し公の場でのメッセージと違って国民にも世界にも満足に通じない、菅仮免のスポーツに関する思想、あるいは教養の片鱗も窺うことが難しいメッセージとなりかねない。

 橋本聖子「総理の判断、震災も勿論大事だが、大変国民との距離感を感じる判断ではなかったかと思う。官邸にIOCロゲ会長を始め、メンバーがお邪魔をした。その後私はメンバーのみなさんと会った。総理はスポーツに関心のない方なんですかと聞かれた。
 
 そのメンバーというのは2020年の東京オリンピック招致に対して1票を投じていただく方たちばかりでありますから、大切な方たちであるので、総理が関心がないんではないかと言われたときに、私は一生懸命に総理に対してフォローをしたんだけでも、その後IOCのメンバーからは総理から情熱は何も感じなかったというふうにおっしゃった。

 私は非常に残念でならない。私はスポーツの持つ文化力、あるいは外交力というものを総理は是非利用していただきたかった。海外は文化を通じたが外交、そしてスポーツを通じた外交というのは大変重要視しているので、総理はそういう認識を新たにしていただきたいと思う」――

 「総理から情熱は何も感じなかった」――

 自身の無能に反して総理の椅子に座ることに全情熱を傾けているのだから、居座りに関係しない事柄に向けた情熱は枯れた状態にあると見なければならない。IOCメンバーの観察は鋭いものがあったと逆に感心すべきである。

 橋本聖子議員がオリンピックの価値について質問すると、菅仮免は最初にスポーツに関心がない、情熱を感じなかったという評価に対する言い訳から入って、次のように答弁している

 菅仮免 「橋本委員からオリンピック委員会のみなさんとそういった話をしたとお聞きしたのは、本当に残念に思っています。私自身、同席しておられませんでしたけど、多くの方が同席した中でロゲ会長とは、何か翌日かに迫っていたこの、ナイス(聞き取れない)ジャパンの話もいたしましたし、また日本のオリンピック委員会の委員長、かつて、あの、乗馬と言いますかそういう選手であったことなど、色々な方の種目についてもお話がありまして、また、これまでオリンピックを主催した国の中で、東京を含めて、確か日本は3回行われていると、もっと行われるといいですねということを私からも申し上げた。

 そういった会話はあったことを私も覚えておりますので、決して何か話が弾まなかったと言うことではありません。

 オリンピックの意義についてお話があった。私もオリンピックを始めとするスポーツの持つ意味というのは非常に色々な意味で大きいと思っています。

 一つは勿論、そのことによって精神的にも肉体的にも健康な人たちが育っていくことであり、またそのことを通してそれぞれの国のある種の一体感が維持され、そして意欲が生まれてくる。そういう意味では極めて大きな意味を持っていると思っている、とこのように考えている」

 「ナイスジャパンの話」とか聞き取れない声で言っていることはサッカー女子ワールドカップのために中断されていた、7月24日に再開されることになった「プレナスなでしこリーグ」とか「プレナスなでしこジャパン」とか言っているリーグ戦のことなのだろう。

 JOCの委員長が元乗馬の選手だとか、こういった官邸で話した雑談程度の内容を以ってして話が弾んだとすることができたとしても、一国の首相の100周年記念式典の来賓挨拶のメッセージと代えることができる、世界と交わってきた100周年でもあるその意義と共にスポーツに関わる何らかの思想・教養を含んだ会話でもあったとは決して言えないはずだ。橋本議員から、「本当に情熱が伝わってこない」と言われても仕方のない答弁でしかない。

 だが、いともあっさりと代えて何とも思わない単純さはその合理的判断能力の程度をまさに証明している。

 橋本聖子「総理、申し訳ないのですが、本当に情熱が伝わってこない。今なでしこジャパンが活躍しているお話がありました。これは本当に有り難いと思うが、このなでしこジャパンが最後まで諦めないということに対して、『私も諦めない』と総理は発言されたときに、その意味合いというのは180度違うのではないかと思う。

 夢と希望と努力が結実した結果が諦めない姿なんです。人々はその姿を見て、勇気と希望を享受する。それが日本国民の本来思っている諦めないという言葉ではないかと思う。総理の『諦めない』とはちょっと違うと思うが、これは決して厭味で言っているのではない。一国の総理が違った形で把えて『諦めない』ということを言うということはこれからの教育に影響があるのではないと懸念するところであります。

 なでしこジャパンが一人ひとりの力をそれ以上に発揮するためにはチームワークという力を使って、その名誉あるワールドカップ優勝ということになった。本当に素晴らしいと思った。

 そういう快挙を成し遂げたなでしこジャパンのようなチームワークを是非次ぎの内閣につくり上げていただきたいと思う。夢と希望のある、勇気ある、それを国民が支えられる内閣をしっかりとつくり上げていただきたい。そのことをお願いして、質問を終わりたいと思います」

 「夢と希望と努力が結実した結果が諦めない姿なんです」とは、結果を出すこと以って諦めないという姿勢だとの定義づけであろう。

 そして結果を出すには団体競技同様に内閣はチームワークが何より必要だと。

 いわば橋本は菅内閣はチームワークもなければ、チームワークのなさに応じて当然のように結果もないと批判している。

 勿論、全ての人間が常に最善の結果を出すことができるとは限らない。だが、諦めずに最善の結果を目指して、最善の結果を出すまで諦めない。最善の結果を出すことができなければ、次の機会に最善の結果を目指す。それが諦めない姿勢ということなのだろう

 但し、スポーツに次の機会はあっても、政治に次の機会はない。次の機会があるとすると、現在限りなく最善の結果を目指さなければならない復旧・復興問題で被災者を犠牲にすることになる。

 政治の責任に於いて、次の機会の最善の結果は許されない。

 そういった覚悟を持っているかどうかが問われているが、答弁から見ると、とても持っているようには思えない。

 首相として出席を要求されている国際会議ではないのだから、あるいは政治的に重要な国内の会議と同等視できるケースではないのだから、天皇・皇后の両陛下が出席しているから首相が出席しなければならないという権威主義には与しない。既に触れたように一国の首相として出席・欠席何れかに決める合理的判断能力が正当と評価されるか否かにかかっている。

 いくら福島視察の準備があったとしても、記念式典での挨拶を官邸でのロゲ会長以下のIOCメンバーとの会話と代えているところにやはり菅仮免の一国のリーダーとしての判断能力の程度の低さを見てしまい、欠席の正当性を窺うことはとてもできない。

 この程度の低さは結果を出すことへの覚悟の程度に相互対応しているはずだ。



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