バンクバー冬季オリンピック開会式に見る“存在の不在”

2010-02-16 08:10:07 | Weblog

        ――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――

 “不在の存在”という言葉は、確か現実にはそこに不在だが、自身は常に存在を感じていることを言ったと思う。例えば、好きな女性がここには存在せず、離れた場所にいるが、常に自分の身近に存在しているように感じているといったケースに使ったはずだ。

 哲学なる学問をクスリにしたくても無縁の人間だから、間違っているかもしれないが、上記趣旨で把握している。

 2月12日(日本時間13日)、カナダはバンクーバー市でバンクーバー冬季オリンピック開会式が行われた。夏冬通じて五輪史上初の屋内開会式だそうで、カナダとしては1976年モントリオール夏季大会、1988年カルガリー冬季大会に続いて3度目だそうだ。参加構成は史上最多の82カ国・地域から約2600選手の参加だという。

 NHK総合テレビで開会式の模様を眺めたが、カナダは四つの先住民の参加を重要課題として「先住民族との共存」をテーマに据えたということだが、アトラクションで彼ら独自の文化を荒々しい雪と氷の大地、その厳しい自然と一つの世界の創造にふさわしい厳かで静かな音楽と映像を通して壮大な物語に演出、そこから現在のカナダのへの成り立ちを紹介していた。

 そして原住民が偉大な力を持った神の化身と考えていた光を放つ強大な仁王立ちとなった白い熊、大量のシャチや川に見立てた空に伸びた幾本もの柱を上っていく、決まった季節になると川をさかのぼっていくことから神秘的な魚とされていたという無数の赤い鮭がCGと音楽で表現され、自然の恵みと神秘性の表現が繰り広げられる。

 さらに女性歌手のピアノの弾き語りで「Ordinary Miracle(普通の奇跡)」を歌う厳かで静かな歌声に合わせて、様々な服装のモダンバレーダンサーたちの乱舞。

 カナダ国旗の絵柄となっている赤いメープルリーフ(楓の葉)が空から雪のように振り注ぎ、大地を赤い色で染めていく様子、そしてバグパイプで演奏するスコットランド音楽風の音楽を踊りながらバイオリン演奏する大量の男女とその音楽に合わせた大量のタップダンサーたちの大地を蹴るような力強いステップを伴った乱舞が会場全体を覆ったメープルリーフの赤い照明の中で騒々しくも陽気に力強く激しいエネルギーを持って延々と続く。

 さらに16歳女性歌手の初々しい力強い国歌独唱。オリンピック開会式には挿入することを義務づけられているという平和への祈りをテーマとした男性歌手によるの「平和の歌」。

 全体を通して原住民の音楽と現代音楽、そしてその混交を伴った厳かな音と光の演出に満ちていた。

 バンクーバーオリンピック担当委員会のジョン・ファーロングCEOの「ようこそバンクーバーへ」の歓迎の挨拶で次のように言っていた。

 「今夜テレビという名の魔法ので、世界中のリビングルームに私たちがつくる物語をお届けします。そして例え一瞬でも、すべての人々がこの経験を共有することを世界の人たちに呼びかけたいと思います。・・・・」――

 「世界中のリビングルーム」、「世界の人たち」――、

 だが、この「世界中」や「世界の人たち」からこぼれた人間が存在する。アフリカやアジアや南米大陸等のその日の食事もままならない、飢餓や餓死を経験する世界に生きる貧しい住民たち。
 
 その多くがテレビという情報機器が世界に存在することさえ知らない人間の存在で成り立っているのではないだろうか。いやラジオさえ、この世に存在しない機器かもしれない。

 彼らにとってオリンピック開会式や各オリンピック競技の華やかな世界とその華やかな世界を直接かテレビを通して眺める世界の人々は“存在の不在”として存在する光景となっているに違いない。そういった世界が存在するということすら知らない、不在のものとしている人々。

 オリンピックの開催期間を通して「つくる物語」が一切届かないゆえに不在としている世界の存在。

 いわばオリンピックも存在しないし、テレビもラジオも存在しない。これは二重の“存在の不在”を意味しないだろうか。

 「バンクーバー大会の開会を宣言します」 と宣言したミカエル・ジャンなるカナダ総督は(52)ハイチから移民した黒人女性だと今回初めて知ったが、カナダがそういった移民を多数受入れ、国家元首に当たる総督の地位にいることを許す、日本では考えられない寛容ある国家であることは素晴らしいことだが、今回巨大地震に見舞われたハイチでも中南米一貧しい国であることからすると、地震の被害によって家や生活を失わなくて、オリンピックを“存在の不在”とする人々が多く存在したに違いない。

 ましてや地震の被害を受けて、そういった人々が増えたことは容易に想像できる。

 ロゲIOC会長が挨拶で、「今日では五輪は単なる競技ではなく、82もの国や地域から人種、性別、言語、宗教、政治を超えて、友情や尊敬の念を追い求める素晴らしさを共有できる人々が集うもの。世界はいま、平和と寛容、友愛を必要としている」(時事ドットコム)と述べたが、「平和と寛容、友愛」を“存在の不在”としている人々が存在する。

 勿論、先進各国は世界から飢餓や餓死を撲滅するために多くの予算を割いて援助しているが、それが満足な形で“届かない”状況に終わっている。多くの国の国民が日常的な存在としている事物や事柄に対して不在を強いられている。

 開会式をテレビで見ながら、人間生命の素晴らしさ、力強いエネルギーを謳った一大絵巻に感動を誘われながら、一方でこのことが確実な現実として存在しながら不在としている世界に住む人間が存在することを恐ろしいことだと思った。


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