昨1月13日(2011年)午後、民主党大会菅代表の挨拶。自己都合に満ちた自分勝手な論理が延々と展開され、指導力のない政治家の哀れな姿を曝した。
挨拶の内容は「MSN産経」記事――《【菅首相党大会あいさつ詳報】》(2011.1.13)の《(1)「党の危機より日本の危機だ」》、《(2)「画期的な政策に胸を張りたい」》、《(3)「遠慮してたが、これから大きな声出す」》、《(4)「野党が議論参加しないなら歴史への反逆行為だ」》の各記事を参考にした。
《(1)「党の危機より日本の危機だ」》のリンクのみ貼っておく。
先ず国民新党の亀井代表、社民党福島党首、経団連米倉会長等の来賓の激励を交えたものなのだろう、挨拶、さらに一昨日1月12日の全国幹事長会議、両院議員総会、さらに今日は地方代議員会議で出された意見、と言うよりも批判、突き上げの方が多かったはずだが、そういった直接、あるいは間接に出された声を「これからの民主党の運営、さらには政権運営に必ずや生かして参りたい。このように申し上げたいと思います」と述べている。
誰の声であろうと、それを生かす創造力と実現可能能力を元々身につけていたなら、既にそれらの能力を自然発生的な自動性で発揮することとなって生かしていたはずで、当然国民の信頼を得ることができ、それは支持率となって撥ね返ったはずだが、国民の声を含めて如何なる声も生かすことができなかった何よりの証明となっている現在の低支持率が今後とも生かすことはできない何よりの担保となるに違いない。
橋を造ってくれという地元の声に、「よし、予算を取ってきてやる」といった利益誘導能力ではなく、全体的な国民の生活向上に役立つ政策づくりには声を生かす能力は決して欠かしてはいけない政治家の資質であろう。
菅直人はかつて「沖縄には米海兵隊はいらない、米本土に帰ってもらう」と沖縄県民の声を汲み取ることができた。だが、できたのは汲み取るまでのことで、その声を生かす政策上の創造力は遂には発揮できなかった。政策を創造する能力がなければ、当然その政策を実現させる実現可能能力も持ち合わせないことになる。
そんな政治家が、「現在置かれている状況、私がこの民主党の危機をどう乗り越えるかでなく、日本の危機をどう乗り越えるのか、それに向かって私たち民主党がどう立ち向かえるのか」と言ったとしても、奇麗事にしか聞こえない。
大体が民主党の危機と日本の危機を同列上に置く状況判断能力自体からして、どこか狂っている。日本の危機は民主党がつくり出した危機ではないと言うかもしれないが、危機が進行するのを手をこまねいて傍観するしかなかった政権獲得ができずに野党の状況に甘んじさせた無能力は責められてもいいはずだ。
また、民主党の危機は菅首相自らがつくり出した。その危機を修復する力さえ持っていない無能な政治家が日本の危機にどう対処しようと言うのだろうか。
民主党の危機は決して小さな問題ではない。日本の危機に真正面からぶつかって対処するためには民主党の強力なバックアップ、国民の強力なバックアップを土台として成り立ち可能となるスケジュールとなるからだ。両者を欠いた場合、国会運営に四苦八苦するだけのことで、日本の危機にまで手が届かないことになる。
とすると、菅首相に必要なことは「日本の危機をどう乗り越えるのか」ではなく、先ずすべきは「民主党の危機をどう乗り越えるか」であろう。だが、民主党の危機を自らつくり出しただけあって、修復する力はないときている。所詮、現在の状況が示すように立ち往生するしか残された道はないように思える。
このことは次の発言が証明してくれる。「最近『デフレの正体』という本を買い求め、読んでみました。私は団塊の世代の入り口でありますが、その人口の波がどんどん労働力人口として参入することが経済を大きく引っ張っていく、しかしその波がどんどん少なくなると経済が低迷していく。ある意味では予測可能であった事象であることです」・・・
こんなことは10年も20年も前から言われていたことであって、政権党議員であろうと野党議員であろうと経済低迷の「予測可能」は明白過ぎる既定事実として、そこから一歩踏み出して日々対策を練っていなければならない問題であったはずだ。それを今さらのように『デフレの正体』を買ってきて読んだと言い、「予測可能」が新発見であるかのように言い触らす。
大体がデフレ問題とかインフレ問題とかは国政を担う政治家の常識としていなければならない情報であり、日々それらの情報を新たにし、蓄積していく義務と責任を負っているはずだ。当然、特別な出来事ではあってはならないにも関わらず、本を買ってきて読んだとさも特別な出来事としている。
合計特殊出生率が人口横ばいのを2に遥か届かない1.5以下で長年推移し、2025年には15~64 歳の「生産年齢人口」が1350万人減とまで言われている。この1350万人を埋めるとしたら、経済構造を画期的に変革するか、現在の経済構造のままなら、外国人労働者の移入しかない。
最近の新卒大学生就職難で問題となっているのはリクルートワークス研究所の「大卒求人倍率調査」によると、11年3月卒の大卒求人倍率が統計上は全員就職可能の1.28倍であるにも関わらず、従業員規模が5千人以上だと0.47倍と就職可能が半分以下となり、従業員規模300人未満だと4.41倍(AERA:2010年12月27日号)の逆転現象の求人難となるミスマッチだと言われている。
大学生が大企業志向を変えないなら、従業員規模300人未満の中小企業に外国人労働者入れ、今から2025年の15~64 歳の「生産年齢人口」1350万人減に備えたなら、中小企業発の日本の国力回復が可能とならないだろうか。
今さらながらに『デフレの正体』の本を買ってきて読んだということよりも、有効な政策を立てる立場にあるはずだ。その対策に「従来の政権が何もしなかったのに対し、新たに子ども手当という制度を導入したのは私は歴史的に画期的な政策と胸を張っても構わないと考えているところであります」と言っているが、あと15年かそこらで1350万人を埋めるまでに近づく政策となるのだろか。しかもスタート早々約束半分の政策実現、中途半端な政策となっている。
打ち上げた政策は「歴史的に画期的な政策」かもしれないが、実現可能性から言うと約束半分である以上、「歴史的に画期的な政策」と胸を張るよりも反省を示すべきであろう。
子ども手当の次に農業戸別所得補償政策を自慢しているが、予定しているTPPに参加した場合の貿易自由化と農業自立の両立政策を示さないうちの農業戸別所得補償政策の自慢は早トチリ、時期尚早としか言えない。
戸別補償のみで貿易自由化を乗り切れると言うなら話は別であり、事実そうであるなら、そうであることを宣言すべきである。どこかが抜けているというよりも、まるきり抜けているように思えて仕方がない。
このまる切り抜けているところは次の発言に早々に現れている。
「一つひとつの課題を申し上げるときりがないが、あえて具体的に申し上げますと、例えば地方で選挙をされる方にとって、(沖縄県石垣市の)尖閣の問題でリーダーシップがないと抽象的に批判を受けていると。私自身も多く国会で批判を受けていますので、十分に予想できますし、皆さんのご苦労はいかばかりかと思う。しかし、例えばこの千葉で、神奈川で東京で特に大都市で、待機児童をゼロにしていくと、熊谷市長のお子さんが生まれると、この千葉でも待機児童がゼロになるようにどうしていくか」
外交姿勢と待機児童問題を対等に扱って、前者のリーダーシップ欠落を後者の内政で補おうとする間抜け振りを見せている。一国のリーダーは外国に対しても国内の国民に対しても国益を守る使命を負う。どちらのリーダーシップが欠けていいということにはならない。
この発言は待機児童問題を持ち出して尖閣問題でのリーダーシップ欠如を自分から免罪しようとする意図を持たせたものであろう。このように自己に甘い、厳しさのないリーダーに一国を任せることができるだろうか。
この一事を以てしても、一国のリーダとしての資質も資格もないことが分かる。
大体が待機児童問題にしても、「来年、再来年、そして最終的には欧米、北欧の水準にして、ほぼ待機児童がなくなるようにする。その第一歩が進んだんだと、このことをぜひ有権者に訴えていただいてほしい」と自身が言っているようにまだ最終的な成果を見ないうちの発展途上にある政策である。発展途上の政策を外交の失敗の埋め合わせにしようとした。
菅首相は地方へ移す自由裁量の一括交付金の支出を一つの自慢して、「一生懸命やって出てきたものがわずか28億円にしかなりませんでした。そこで一体誰がこの程度の数字しか出してこないのか、それぞれの役所の官房長なのか局長なのか名前を私に伝えてくれと申し上げて、片山(善博総務)大臣を中心にがんばっていただいた結果、5100億円を超える一括交付金が来年度の予算に計上できるところまで、実際に物事が進みました」と言っているが、「プレスクラブ - ビデオニュース・ドットコム」のインターネット動画に出演したときは、「最初、ホーント、少ししか出てこなかったんですが、大分、ウー…、威して、とか言うですかね(笑いながら)、役人を威して出てきました」と、金額の増額よりも役人を威したことに重点を置いて、さも自分が人を言うことを聞かす力があるかのように自慢していたが、党大会とインターネット動画では言っていることが違う。
場所によって言うことに違いがあるのは消費税年収別税還付方式を打ち出したはいいが、遊説の行く先々で言う年収に違いがあったことが既に証明している、人間が信用できない一つの有力な証拠となるばかりである。
大体が威して出させる指導力とは一体何を証明するのだろうか。菅首相が望む議論に野党が応じないと盛んに言っているが、だったら野党を威して言うことを聞かせればいいじゃないか。
リーダーシップとは人を威して言うことを聞かす能力のことではない。合理的な判断能力に基づいた合理的な説得によって成し得る能力のはずだ。役人にしても威されれば、ヘソを曲げて、なおさら出さないことだってある。元々合理的判断能力を欠いているから、「役人を威して」などと自慢ができる。
菅首相は前進させたとする政策を次々と挙げてから、再び尖閣問題に戻って、自己正当化することを忘れない。
「あの尖閣の問題でもいろいろありましたけど、少なくとも尖閣列島は日本の固有の領土であって、この領土問題は存在しないという立場は一切変わっていませんし、実効支配も一切変わっていないわけであります」
ここに菅首相の合理的判断能力の質・程度が如実に現れている。
日本の立場が変わっていないこと、実効支配が変わっていないことが問題ではなく、それが脅かされたとき、毅然とした態度を示して対処することができずに様々に妥協し、関係修復を求めて首脳会談を一方的にこちらから願い出た卑屈な態度を取ったことが問題となったのである。何が問題となったか把握できずに、中国に「釣魚島(尖閣諸島)は中国固有の領土」だと言わせている中国側の事実がさも存在しないが如くに無視して、あるいは様々な妨害・圧力を好きにさせたことを棚に上げて、日本側の事実だけを言っている考えも何もないご都合主義は素晴らしい。
次の発言は物の見事な無責任極まりない自己免罪、あるいは自己弁解のこじつけ、誤魔化しとなっている。
「野党の批判を切り返す機会あれば、多く切り返したいと思ったのですけど、(昨年の臨時国会は)最初の国会でありましたので、できるだけ熟慮の国会ということで、遠慮をずっとしてきたのです。なんだか菅さん元気がないねと言われましたが、(昨年)12月3日に国会が終わってからは、これからは大きな声でと方針を変えて今日のこの場に臨んでいるところであります」
国会対応はテレビ中継がされて、世論に影響する。野党のどのような追及も的確に切り返してこそ、菅首相の判断能力、状況対応能力の優秀さが現れて、支持率に撥ね返るはずだ。それが逆だったから、指導力がない、人柄に期待が持てないといった国民の失望を買った。
また、政治家である以上、特に一国のリーダーとなった以上、敵対勢力の攻撃に対してはその攻撃を上回る反射的な反撃能力を本能にまで高めていなければならないはずだ。でなければ、敵対勢力を撃退できない。与党としての優越性を維持も誇示もできない。いわば温存すべきではない反撃能力を温存したと言っている。バカじゃないのか。
この発言は臨時国会終了後に言った「これまでは仮免許だった、これからは本免許だ」と同じ趣旨の自己免罪、自己弁解であろう。政権を担当する前から、政権担当に備えて政策を勉強し、練り上げてきた政策勉強期間である野党時代を長いこと過ごしているのである。それを首相就任後僅か7カ月だからと言って許されるはずもないにも関わらず、「仮免許だった」と言い逃れする。この卑怯な弁解は何を意味するのだろうか。
大体が日本の現在の停滞が人口減少、少子高齢化、地方の衰退等を含めて回復方向ではなく、悪化方向に進行しつつある状況にあって「これまでは仮免許だ」と言う感覚は首相としての資格・資質を欠く発言以外の何ものでもない。
さらに言うと、あとの発言と矛盾する発言となっている。民主党政権が取り組んでいる政策の議論に「もし、野党の皆さんが積極的に参加しないならば、私はそのこと自体が歴史に対する反逆行為であります」と批判している。
2007年の参院選挙で民主党が第一党を獲得以後、数の力を恃んで、自民党が国民の生活に直結することだから予算の審議に応じよと言っても、政局で動いて既に「歴史に対する反逆行為」を犯していたことを棚に上げた議論参加の要請となっているが、議論に参加しないことが「歴史に対する反逆行為」であるなら、なぜ臨時国会で野党の批判を切り返し、押さえ込んで政策議論に持っていかなったのだろう。
要するに野党が批判に任せるばかりで、政策議論にまで持っていくだけの指導力をそもそもから所持していないから発揮できなかったといったところが実態の国会状況だったのだろう。
それを「野党の批判を切り返す機会あれば、多く切り返したいと思ったのですけど」とか、「できるだけ熟慮の国会ということで、遠慮をずっとしてきたのです」と薄汚く誤魔化す。この潔さを欠いた資質は責任回避意識へとそのまま直結する。責任意識は何よりも潔さを必要条件とする。
民主党は参議院で数の力を獲得すると、その優越性を背景に問責決議を提出、審議拒否も行い、予算案国会通過に抵抗を示した。問責決議の場合は衆院内閣不信任案可決と同等と主張して、決議を受けた閣僚の辞任を激しく求めた。既に歴史に対する反逆を犯していたのである。
それが参議院の数の力を野党に奪われて問責決議を受け、受けた閣僚が辞任しなければ審議拒否に出ると要求され、予算案国会通過を果たせたとしても、関連法案の行方は不透明な状況となる歴史に対する反逆を受けることとなった。
いわば天に唾し、その唾が自分の顔に落ちてくる天に唾する者を演じることとなった。
勿論、政権を獲得するために政局がらみでの政治行為を悪いとは言わない。政局行為も政治能力の一つとまで考えている。ただ、自分たちが政局で動いて、今度は相手から政局で動かれたからと言って、それを批判するのは片手落ちだということである。
政局行為を阻止するためには選挙を疎かにしないことである。例え参議院選挙の敗北であっても、直近の民意であることに変わりはないのだから、潔く衆院を解散して政権担当の民意を問うべきだろう。
一般的には総選挙で敗北するだろうが、衆参両院がそのことによって勢力の整合性を得ることができる。ねじれ解消である。
だが、菅首相は責任に潔くないリーダーに出来上がっているから、参院選敗北の責任を満足に果たしさえしなかった。
最後に菅首相は次のように発言している。
「最後に申し上げます。今、誰の目にも日本という国は本当にこれから元気な国になっていくのか、それとも若い人が海外留学に出ていかなくなった内向きに内向きになってしまって、東洋における小さな存在になるのか。まさに明治の開国、そして昭和20年、敗戦後の開国に続く平成の開国を自らの手でやるのか、それとも最終的な国際的な機関に強制的な開国を押しつけられるのか。ぶざまな日本になってしまうのか。まさに日本としての試練がやってきています。私は必ずや、日本人の手でこの日本の現状を自らの手で開国する決意をこの2011年度のこの大会の最後に皆さんとその意思を決意を確かめ合って、このあいさつの締めくくりとしたい。ともにがんばりましょう」
事実そうなりかねない日本の状況にある。だが、このような日本の行く末を託すには合理的判断能力を十二分に備えた、あるいは合理的な状況対応能力を持った、さらに結果責任に対して潔い態度が取れる責任意識に満ちたリーダーが必要であろう。
菅首相はこれらすべての能力を欠いている。 |
議員は、自分自身の政治哲学は持ち合わせていないのか。
内閣の首班指名を何回繰り返しても結果は同じ (低級) になるのではないか。
標本を抽出する母集団の質の問題を考えることなく総理の首を何回挿げ替えても、結果は賽の河原の石積みのようなものになるのではないか。
たとえ主義主張が違っていても、大切な政治問題を解決するときには、お互いに力を合わせなくてはならない。
アメリカとソ連は力を合わせて日本を敗戦に追い込み一件落着とした。
大きな政治問題を解決するためには、政治家は小異を捨てて力を合わせなくてはならない。
個人の力ではどうにもならない現実の内容を、大局的見地から政治的に判断して変えるのが、偉大な政治家の役割である。
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