大阪府橋下知事が今年4月22日に行われた小学6年生と中学3年生約232万人対象の全国学力テストの成績を過度な競争や序列化を招くといった多くの反対や懸念に反して部分開示した。
成績開示については「「YOMIURI ONLINE」記事が、元々文科省は学校間の競争を煽らないよう、学校別の成績を把握する都道府県教委や市町村教委に対してこれらのデータを公表しないよう求めているが、住民や保護者への説明のため、学校が各自の結果のみを公表することは認めていて、公表された結果を集めれば、順位づけも可能となるだけではなく、学校別の成績などを情報公開請求された場合、文科省は「不開示情報として取り扱う」と決めているが、都道府県教委などへの強制力はなく、対応を決めかねている自治体も少なくないと解説している。
今回の橋下府知事の開示も情報公開請求に応じて2008年度実施の学力テスト科目別正答率と児童・生徒の生活習慣に関するデータを情報公開請求者に開示を決定、行った形を取っている。
また橋下知事が開示に踏み切った動機は2008年度4月実施の全国学力テストの成績が大阪府は<すべての分野で平均正答率が41~45位と低迷>(「YOMIURI ONLINE」という昨2007年度の成績とほぼ変わらない衝撃的事実を突きつけられたからだろう。
「生徒の生活習慣に関するデータ」の開示まで含めた理由は学力テストと同時に実施した生活習慣アンケート調査で生活習慣とテストの成績に相関関係を見ることができるという結果が出ていて、大阪府の生徒が<毎日、朝食を食べる子の割合なども全国平均より低かった。>(同「YOMIURI ONLINE」)という評価を踏まえ、その関係をはっきりとさせる意味合いからに違いない。
再開最初となる2007年度実施の全国学力テストの成績から1年経過しても進歩がなかったことがアタマにきたといったことなのか、橋下知事は「教育委員会には最悪だと言いたい。これまで『大阪の教育は…』とさんざん言っておきながら、このザマは何なんだ」(「MSN産経」)と府教委を厳しく批判し、府教委との関係悪化に拍車をかけ、今日に至っている。
だが、9月10日(08年)の「MSN産経」)の≪【教育】全国学力テスト・生活習慣アンケート調査 テレビ「短時間」正答率高め≫の記事の中の生活習慣アンケート調査に関する解説箇所の見出しは<「手伝いする」「約束守る」関係なし>となっていて、<8月29日に文部科学省から結果が公表された全国学力テストでは、児童生徒の生活習慣などについてのアンケート調査も同時に行い、「家族と学校での出来事について話をしている」「平日にテレビなどを見る時間が短い」子供の方が、正答率が高い傾向が明らかになった。一方、「家の手伝いをする」「友達との約束を守っている」ことなどは、正答率とあまり関係がないことも示された。>と解説している。
同箇所によると、「家の人と学校での出来事について話をしている」小6生徒の国語Aの正答率は68.9%で、「全くしていない」と答えた児童より13.5ポイント高く、この傾向は中3を含め全科目で共通しているとのこと。
また、平日に「テレビやビデオを3時間以上見る」小6生徒は昨年度調査より11.8ポイント増の45.8%、中3は同6.4ポイント増の38.8%と共に増加。正答率との対比では、小6の国語Aで「1時間より少ない」は69.0%の正答率で、「4時間以上」の61.4%の正答率を上回り、テレビ・ビデオの時間を取られる生徒程成績が悪いという相関関係を見ることができるとしている。
「朝食を毎日食べている」とした小6・中3生徒共に新聞やテレビのニュースに「関心がある」と答えた児童・生徒同様により正答率が高かった。
但し、<子供への「家の手伝いをしているか」という問いで、中3数学Aの正答率が「あまりしていない」が66.7%、「よくしている」が60.1%>で、家の手伝いをしていない生徒の方が成績が高くなっている。記事は<世間で“いい子”とされる子供の方が成績が低くなる結果>となっていると説明している。
このことは何が要因となった結果だろうか。塾通いで学校以外での時間が殆ど費やされて、家の手伝いをしている時間などないということなのだろうか。あるいは親が家の手伝いなど望まず、すべての時間を勉強に振り向けてもらいたいと望んでいることの反映としてある「家の手伝いをしない」結果の好成績なのだろうか。
こういうふうに見ると、親の強制で勉強に振り向けている場合と自発的に勉強に取り組んでいる場合は「テレビやビデオを見る時間」を少なくしてテストの成績を上げることは可能であるが、勉強しろという親の強制が効かないケースでの「テレビやビデオを見る時間」が多くなっている場合は、当然テストの成績は低くなるという関係式を導き出すことができる。
もしも親の強制が働いている正答率の高さなら、その成績にしてもテレビやビデオを見る時間にしても何程か差引いて評価しなければならないのではないだろうか。
何度でもしつこく言っていることだが、日本の教育は「考える教育」、あるいは「考えさせる教育」ではなく、「暗記教育」を基本形式としている。暗記教育だから、時間をかければ、成績は上がる。
なぜ日本の教育が「考える教育」、あるいは「考えさせる教育」となっていないかと言うと、教師が(広く言えば日本の大人が)一般的に言って考える能力に長けていないからに他ならない。
このことは日本人の権威主義の行動様式から来ている。このことも何度も言っていることだが。文部省という上に下(学校)が否応もなしに従う構図である。
このことの格好の例として頻繁に引用するのが≪多様な学校の実現を 文部省の新学習指導要領案≫と題した1998年11月19日日付の『朝日』夕刊記事内の解説である。
10年ぶりに改定した小中学校の学習指導要領案によって「子どもたちが自分で課題を見つけ、自分で解決して生きる力を身につける」ことを趣旨とした「総合学習の時間」が導入されることになったが、その前身となる従来の授業内容が詰め込みに走って落ちこぼれ問題を発生させた反省に立って導入された「ゆとりの時間」が発表当初は学校の裁量に任されていて画期的だともてはやしたものの、学校の裁量任せだから教科書がない、「何をやったらいいのか、示してほしい」と校長会などから要望が相次いだ。文部省はその要望を考慮して「体力増進」、「地域の自然や文化に親しむ」などの例を示したところ、各学校の実践が例示内に収まって画一化したという指摘である。
記事は<例示と言いながら、強制力を持たせてきた文部行政の手法が、金太郎アメを作ってしまった。生活科も、教科書が作られ、似たり寄ったりだ。>と両者の権威主義的な上下関係を意図せずに指摘している。
<学習指導要領で自由にできるように見えても、内容を逐条的に説明した文部省の指導書(今回から解説書)が制限していた例も過去にはあった。
今回の案が掲げている国際理解、情報、環境、福祉・健康の四つのテーマは例示に過ぎない。だが、研究開発学校などの取り組みはこのテーマにほぼ集中しているため、文部省が作る予定の事例集が実質的な標準になりはしないか。
子どもに「課題を見つけ、自分で解決する力」を求めるなら、学校・教師こそまずその方向に変わってゆかなければならない。>と、文部省の上からの権威主義的強制力と学校・教師のその影響力から逃れられずに画一教育を演出する下の者の従属一辺倒の権威主義的な姿を問題点として掲げ、両者に変化を求めているが、もし学校・教師が「考える力」を備えていたなら、いわば権威主義性から自由であったなら、教科書のある授業でも教科書が例示している知識に教師独自の考えを加味した独自の知識を生徒に授与できたはずだから、教科書の内容をただ単に機械的に伝え、それを生徒に機械的になぞらせ、機械的に暗記させる形式の暗記教育とはならなかったろうし、そのような知識伝達の構図を習慣としていたなら、「何をやったらいいのか、示してほしい」と教科書の代用となる手引書の類を文部省に求めずに教師たちは協同して「ゆとり教育」はどう運営したらいいか、その授業内容を創造し得たであろう。教師それぞれが自らの考えを持ち寄って、それぞれが学校独自の「ゆとり教育」教科書を創り得た。あるいは計画表を創り得た。
自分の担任の「ゆとり」授業でも、自分たちが創った教科書、あるいは計画表に依拠しながらも、その教師独自の考えが,それが発展・拡大していく性質を持つゆえに否応もなしに逐次加味されるだろうから、他の教師とは違うその教師独自の「ゆとり」授業を展開し得たのではないだろうか。
だが、結果は自分たち独自の「ゆとり教育」を創造し得ず、自分たちの方から文部省の強制力を仰いで、その影響下に自らを置くことで他の授業同様の、あるいはこれまでの暗記式知識授受と同様の画一的であると同時に上の教師が下の生徒を従わせる権威主義的知識授受を成果とした、と言うことであろう。
いわば日本の教育が暗記教育を形式としていること自体が学校教師(=日本の大人たち)が既に「考える力」を持たないことの証明となっている。断るまでもなく、「考える力」は暗記教育成立の阻害要因でしかない。
当然、暗記教育は「考える力」を奪う教育方形式と言うことになる。
このような観点からすると、「基礎的な学力を問う問題A」よりも「読解力や表現力を問う問題B」の方が10ポイント~20ポイント成績が悪いということも頷くことのできる現象と言える。
「読解力や表現力」を08年8月29日のNHKインターネット記事≪全国学力テスト 正答率下がる≫は「情報を読み取る力や知識を実生活に生かす力」だと解説しているが、要するに「考える力」を基本に置いている。
「基礎的な学力」はなぞって頭に記憶するだけの暗記教育で解決するが、「読解力や表現力」は「考える力」を阻害要因とし、「考えるプロセス」を省く暗記教育ですべてを片付けることはできない。
すべてはと言うのは、「読解力や表現力を問う問題」であっても、出題傾向を探り当てて似たような問題を反復解き、その問題傾向と解き方を頭に暗記して既知の知識とすることで、それを教科書にしてある程度は解答困難を乗り越えることができるからだ。
いわば「読解力や表現力を問う問題B」すらマニュアル化する、あるいは教科書とすることで、部分的ではあってもそれをなぞって解決策とすることも可能となる。
但し、初めてお目にかかる内容の、マニュアル化も教科書に変えることもできなかった「読解力や表現力を問う問題」であったなら、記憶した知識を当てはめて解く暗記思考には慣れていても、その場で考えて解くことを主たる思考作用としていないのだから、手も足も出ないといったことが起こるだろう。
暗記学力を問うテストで問題が解けないのはただ単に暗記していなかっただけで片付けることができるが、考える力を問うテストが解けないのは情報処理能力や意思決定能力、判断能力、広い意味で「知識を実生活に生かす力」が問われることになり致命的となる。
勿論、テストの成績を将来的な可能性の主たる源泉とする生徒に限ってはという条件付ではあるが。
条件付とするのは考える力を基本とした「読解力や表現力」を問うテストであっても、その成績で以て生徒の可能性のすべてを診断できるわけではないからだ。暗記学力で片がつく「基礎的な学力」を問うテストは問題外ではあるが、テストの成績のみがすべての生徒にとっての唯一絶対の可能性でないからであり、自らの可能性をテストの成績を踏み台としない生徒も存在することも考慮に入れなければならない。
そうであるのにテストの成績のみで生徒を評価し、学校を評価し、各自治体の教育委員会を評価している。どこが高い平均点を残した、どこが悪いと成績のみの観点から教育を論じる。
このことはテストの成績のみの可能性を認め、それ以外の可能性の排除を意味していないだろうか。
橋下大阪府知事が大阪府の学力テストの成績が2年連続で最下位に近く振るわなかったからと「教育委員会には最悪だと言いたい。これまで『大阪の教育は…』とさんざん言っておきながら、このザマは何なんだ」と頭に血を上らせたり、各市町村に成績開示の圧力を加えて騒ぎ立てている騒動は学校生徒に対してテストの成績のみの可能性を認め、それ以外の可能性を排除することであろう。
「可能性の多様化」とか「多様な可能性の時代」と言われて久しいが、言葉だけで終わっていることを示している。少なくとも橋下大阪府知事の中では言葉のみの存在でしかない「可能性の多様化」であり、「多様な可能性の時代」であろう。
学校の勉強だけが、あるいはテストの成績のみが生徒の可能性を計る物差しというわけではない。もしそうであるなら、大阪が一大産地となっている漫才師、あるいはお笑いタレントなる才能がこの世に存在するのは難しい状況となる。
どのような可能性を持って社会に生きるか、どのような可能性を自分の姿として
社会に対するかは生徒それぞれの肩にかかっている自らの責任問題であろう。親・学校・教師がそのことを早くから問うことで、生徒は自らの可能性について否応もなしに考え、対峙しなければならなくなる。可能性を考えるとは社会にどういう姿で存在するかを考えることであり、それは教科書のないその存在の実現に向けた試行錯誤を意味する。
但し基本はテストの成績のみを唯一絶対の可能性としないことである。何になりたいのか、どのような職業人になりたいのかと問うのではなく、どのような才能を自分の可能性として社会に生きていくつもりなのか、存在していくつもりなのかを問う。そうすることで「才能」、「可能性」、「社会」、「自己存在」をキーワードとした「考え」(=意識)を持たせ、自己を客観的に眺める機会とすることができる。すべては「考える力」を出発点としなければならない。
可能性が実際に多様な姿を取るとするなら、学力テストの成績のみならず、同時に行った「生活習慣アンケート調査」の成績との相関性にしても、さしたる意味を成さなくなる。例え「テレビを見る時間が短」くてテストの成績が高くても、その成績とテレビ視聴時間の短さはある生徒にとって意義ある可能性であっても、すべての生徒にとって意義ある可能性とは言えないからだ。テレビばかり見ていてテストの成績が悪い生徒であったとしても、テレビタレントとかお笑いタレントとなって社会人として立派に生きていく可能性の芽生えとしてあった「テレビばかり見る」と言うこともあるからだ。
<「家の手伝いをする」「友達との約束を守っている」ことなどは正答率とあまり関係がない>という調査結果もテスト成績が可能性のすべてを物語らないことを示唆している。「友達との約束を守っている」ことによって評価されるかもしれない人間的信頼性が正答率と無関係にその生徒の将来的な可能性を約束するかも知れないからだ。
「家の手伝いをする」も同じだろう。親の信頼は子どもにとって何よりの力となり得る。
こう見てくると、橋下府知事の学力テスト成績開示はテストの成績を一大可能性と限定した騒動に過ぎなくなる。テストの成績を一大可能性だと信仰しているからこそ、関係者の反対にも関わらず第2京阪道路の用地として門真市の北巣本保育園の畑771.17平方メートルに行政代執行をかけ、保育園児が植えたサツマイモや落花生を引き抜いてまでして強制収用することができたのだろう。
そのことは府知事の言葉に表れている。
「府は4月から任意交渉を誠実に続け、慎重な対応をしてきた。(高裁の決定まで)今後2週間遅らせると、通行料で6億~7億円の損が出てくる。公の利益のためということで、園の所有者には申し訳ないがこのまま代執行をさせて頂く」(「asahi.com」記事)
子どもたちが土に触れる機会、幼い頃からの農作業の機会、作物が育っていく姿を日々目にする機会、自分たちでつくって自分たちで収獲する喜びの機会、それを食する機会はカネで換算できない莫大な価値、計り知れない可能性の出発点だと考えることができず、テストの成績と同様、数値で計って「通行料で6億~7億円の損」と価値計算することしかできない。
園児たちが土に親しみ、作物を育てる機会から得る可能性は一切顧慮せず、橋下の金銭感覚のみがテストの成績数値に見せたのと同様に鋭く働いたと言うわけである。
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