《江森一郎『体罰の社会史』》(三日坊主日記/2009年02月03日)
9月20日に当ブログ記事《安倍晋三「体罰は日本の伝統ではない」は合理的判断能力ゼロの真っ赤なウソ - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》(2013年2月23日記事)に対して「Unknown」氏から以下のお叱りを受けた。
〈江戸時代の日本の教育を調べてみろと言いたくなる記事内容ですね。無知にもほどがあります。〉
私は主として既に事実としてある情報を自分なりに読み解いてブログ記事を成り立たせている。その事実としてある情報はインターネット等から掻き集めて、それらを組み合わせて読み解く方法を取っている。
当然、読み解き方が間違っている場合もあるし、その方が多いかもしれないが、掻き集めなければ事実を知ることができないのだから、事実に関して“有知”から程遠い人間で、無知を曝け出す場合もある。
その上で体罰は日本の伝統かどうか、改めて考えてみることにする。
江戸時代までの長く続いた封建時代にしても、それ以降の戦前まで、特に戦前の軍部時代は強度の権威主義を人間関係のメカニズムとしていた。いわば上を絶対とし、下が上に無条件に従属する思考様式・行動様式となっていた。
この強度の権威主義は戦後も暫くの間生き続け、現在もなお、その基本的なメカニズム自体は生き続けて、日本人の思考様式・行動様式を支配し、構成していると思っている。
勿論、この権威主義は日本人にのみ特有な思考様式・行動様式ではない。かつてアメリカは白人を上に位置する絶対的存在とし、黒人やその他の有色人種を下の存在と見做して絶対的な従属を強いていた。
現在も白人を絶対とするこの権威主義を色濃い血としている白人が少なからず存在する。その最たる存在が白人至上主義者の秘密組織であるクー・クラックス・クラウンであろう。
権威主義の思考様式・行動様式が強度の装いを取れば取る程、上の存在を絶対とする。
上の絶対に対して下が上の意に叶わなかった場合、上の絶対性は崩れることになる。上は自らの絶対性を守るために下に対して上の意に従わせようとする。それがただ単にどこそこへ行って何々を伝えてこいといった、上が言ったことを単に反復するだけのことなら、たいして問題はないだろうが、上が言ったことを果たすためには下の何らかの能力を必要とする場合、下が自らの能力を以って応えることができなかったなら、その責任を取らせる意味で何らかの懲罰を与えることになる。
それが体罰の形を取らなかった保証はない。
イジメにしても、イジメる側が自らを上の絶対的存在としているがゆえに起こる。
親が何度注意しても、注意した行為を改めることができない幼い子に手を上げる児童虐待は親が自らを失敗も過ちもない絶対的存在に位置づけているからだろう。
日本人が強度な権威主義を思考様式・行動様式としていた江戸時代に於いて日本の教育の現場に果して体罰は存在しなかったのだろうか。
斬り捨て御免は武士に失礼な振舞いに及んだ町人や商人に対する武士を絶対的存在とした最大の体罰と看做すことができる。
上の武士が下の武士に対して詰め腹を切らすのは自分自身は手を下さないで死を以って償わせる究極の体罰と言えるはずだ。
現在でも、イジメている相手に「死ね」とか、「生きている価値はない」とか直接罵ったりメールを送りつけたりして、自らは手を下さずに自殺に追い込むイジメのケースが存在する。
江戸時代の村八分は村の掟に従わなかった村人に対して一切の交際を断つことで無視の形を取るイジメであろう。無視し、村を出て行かざるを得ないように仕向ける。このイジメは精神的な体罰と言うことができる。
この斬り捨て御免や村八分の懲罰精神が教育の現場で子供同士の間に再生産されなかったろうか。
在日の呉林俊(オ・リムジュン)著者『朝鮮人のなかの日本』(三省堂・昭和46年3月15日初版)の中に書いてあったことだが、Kなる女性が4、5歳の子供の頃、同じ年頃の朝鮮人の子どもに「チョウセン」と叫んで石を投げつけ、頭に当てたことを成長して後悔した告白を呉林俊氏に語ったそうだ。
4、5歳の子供の頃に「チョウセン」なる存在が石を投げつけ、追い払ってもいい部外者であると知り得たのは誰かからの情報でなければならない。「チョウセン」という罵り言葉=差別意識を集約させた言葉自体にしても、彼女が4、5歳に成長して突然知り得たのではなく、誰かかの情報によって植えつけられた蔑む感情が彼女自身によって行為の形で再生産されたという経緯を取ったはずだ。
大人たちが日常普段の生活の場で精神としていることが言葉や行動の形で現れて、それが子どもに伝わり、子どもたち自身の精神として受け継ぎ、それが子どもたちの言葉や行動となって再生産されていく。
親から暴力を受けて育った子どもが他の子どもに対して暴力を振るうことが往々にして多いのはこのためであろう。あるいは親から暴力を日常的に受けていた子どもが親となって子どもを育てるとき、暴力を振るいやすい傾向にあるのも、このためであろう。
ちょっと古くなるが、2007年2月8日当ブログ記事――《政治とカネ/客観的認識性と問題解決の距離-『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に次のように書いた。
〈児童虐待は、1980年代まで日本の専門家は欧米の問題であって、日本には存在しないとしていたという。平安・鎌倉・室町の時代から、継子いじめの物語が存在し、貧困からの乳幼児の間引き問題、捨て子問題が歴史的事実として存在していたにも関わらずである。
継子いじめが行き過ぎて、虐待死に至らしめた事実がなかったと言えるだろうか。間引きに慣れて、単に邪魔だからと、あるいは子どもが一人増えてもどうにか食べていける状態にあっても、自分の食べ分が減るのがいやで、ついでに間引きしてしまえと殺してしまうということがなかったと言えるだろうか。
江戸時代は間引きだけではなく捨て子が横行したというが、そのような習慣に便乗して、育児が面倒だからと、あるいは新しい男とやり直すために邪魔だからと、捨て子にしてしまうといったことはなかっただろうか。
認識が事実をつくる。例え学校側が責任逃れからだろうが何だろうと、いじめをいじめと認識しなければ、いじめはいじめの形を取ることはないのと同じである。専門家に児童虐待という認識がなかったことが原因して、日本には存在しないとしたのではないだろうか。しかし人間の存在性を問題としたとき、その本質は民族の違い(それぞれの文化や慣習の違い)を超えて通底している。
児童虐待という認識が社会に存在しなければ、そのような事実が起こったとしても、マスコミも世間も児童虐待とは受け取らない。虐待した相手が義父や義母であった場合は、単なる継子いじめと受け止めることになるだろう。〉――
以上のような認識のもと、「Unknown」氏が〈江戸時代の日本の教育を調べてみろと言いたくなる記事内容ですね。無知にもほどがあります。〉と指摘したように江戸時代の教育の現場で体罰は存在しなかった、それゆえに安倍晋三言うように「体罰は日本の伝統ではない」とすることができるか、インターネット上から情報を掻き集めることにした。
幸い掻き集めるまでもなく、格好の教材を見つけることができた。全文を参考引用してみる。青文字は『体罰の社会史』の著者である江森一郎氏自身の解説文を引用した個所である。改行を適宜施し、色付けも行った。
江森一郎『体罰の社会史』は1989年発行の本。
江森一郎氏が体罰史という観点を思いついたのは、戸塚宏『私はこの子たちを救いたい』に「日本の歴史が二千年あるとしても、体罰を否定しているのは、最近の三十年間だけで、あとの1970年間は、肯定されているのである」と言っていることだという。
江森一郎氏の考えは正反対に近い。
江戸時代以前にあって体罰否定論者はおそらく最澄と道元だろうということである。
江戸時代の初めごろから体罰が忌まれるようになった。
なんと水戸黄門様も体罰反対をはっきり表明しているそうだ。
闇斎、素行、藤樹、蕃山といった儒学者や心学者も体罰を否定している。
熊沢蕃山はこう書いている。
「聞いたことも見たこともない事を、読もうとする気もない子にまずい教え方で読ませれば、先にやったことは忘れてしまうのは当然だ。それを覚えが悪いの、忘れてしまったのと打ちたたきするのは、『不仁』である。(教育方法を)知らないのである」
体罰を否定しているからといっても、厳しく育てるべきだとする点ではほとんど一致している。
しかし、折檻することは、親子の感情を損ね、子どもの性格を表裏あるものにするとして否定的だった。
18世紀後半になると、青陵、大塩平八郎などの体罰肯定論が出てくる。
明治初年に出た『日本教育史資料』によれば、体罰規定のある藩校と郷校は維新期に存在した270藩のうち6校である。
しかも、このうち数藩については明治になってからの規定の可能性があるという。
体罰が否定されるということは現実には体罰が行われていたからであり、藩校に体罰規定がないから体罰がなされなかったわけではない。
薩摩藩、熊本藩、会津藩では、青少年自治組織では「粗暴・残酷な罰(大体集団的リンチがある)」が行われていたが、「一般的傾向とは言えない」と江森一郎氏は言う。
また、寺子屋でも体罰はあまりなされていないそうだ。
「江戸の寺子屋では一般的には体罰に対してきわめて慎重であり、羞恥心に訴えたり、恐怖心を適度に利用したりすること自体が主だったと考えるべきである」
日本に来た外国人の多くは、日本では子どもに対する体罰がほとんど行われていないことを書き記している。
1620年ごろ、イエズス会士フロイスは「日本では、むち打ちは滅多に行わない」と述べている。
1775年に来日したツンベルクは「彼等(日本人)は、決して児童を鞭つことなし」と書いており、幕末のシーボルトは「少なくとも知識階級には全然体刑は行われて居ない、是がため、私は我国で非常に好まれる鞭刑を見たことがなかった」と書き、オールコックは「(日本人)は決して子どもを撲つことはない」と述べている。
このように、日本では子どもが甘やかされ、大事にされていることに驚いている。
ただし、それには美化という側面もあることを江森一郎氏は注意している。
「特に江戸期の日本人は子どもを溺愛し、甘やかすことが一般的で、体罰もあまりひどいものではなかった」
明治12年に制定された「教育令」には体罰禁止規定が明文化されている。
「学校体罰法禁の西欧最先進国であるフランスでさえ、教育令の規定より八年遅れている。それは、わが国の伝統思想の中に国民のエートスとして、体罰を残酷とみる見方が定着している」
体罰が肯定されるようになるのは日露戦争前後が一つの節目だと、江森一郎氏は言う。
「産業革命によって生じる矛盾の深刻さ、それが温床となって体罰的雰囲気が瀰漫してくる」
「体罰の乱用に決定的影響を与えたのは、帝国陸・海軍の教育(調教?)方法であったろう」
軍隊が教育の場のモデルとなった。
「上下(先輩、後輩)関係を根幹としたうっぷんのはけ口として、私的制裁・体罰の場を用意することになったのであろう。この典型が森(有礼、文部大臣)がもっとも重視して軍隊モデルに改造した新教育の寄宿舎生活の場であったことはよく知られている」
「しだいに蔓延する当時の教師による体罰の根源はここにあったのである」
明治以降、体罰が肯定されるようになったのは、体罰が当然視されている欧米の影響もあるのではないかと思う。
「わが国の近世(江戸時代)教育史に比べると、「西欧の教育史は体罰史である」と言ってもよいほど体罰で色どられている。(ちなみに、中国近世においてもそうだった。)」
ルソーやペスタロッチも体罰完全否定論者ではなかったそうだ。
フランスでは今日でも「家庭での体罰は必要悪と考えられ、そのために毎年10万本以上のむちが売られているという」
学校での体罰、軍隊での私的制裁は禁じられていたが、タテマエと実態は乖離している構造は戦後も変わらないと、江森一郎氏は言う。
体罰によって子どもがケガをしたり、殺されるという事件が今でも時々あるが、その際に子どものほうが悪いという論調が見受けられる。
子どもには厳しくするほうがいいという考えは日本の伝統とは違うんだということを知るべきだと思う。
先ず「三日坊主」氏自身が解説しているように、「体罰が否定されるということは現実には体罰が行われていたからであり、藩校に体罰規定がないから体罰がなされなかったわけではない」は当然の認識である。
〈江戸時代以前にあって体罰否定論者はおそらく最澄と道元だろうということである。
江戸時代の初めごろから体罰が忌まれるようになった。
なんと水戸黄門様も体罰反対をはっきり表明しているそうだ。
闇斎、素行、藤樹、蕃山といった儒学者や心学者も体罰を否定している。〉――
体罰が存在するから、あるいは横行しているから、否定しなければならなかった。
〈折檻することは、親子の感情を損ね、子どもの性格を表裏あるものにするとして否定的だった。〉同じ文脈を取ることになる。折檻が横行していたから、教育上良くないからと否定しなければならなかった。
否定して簡単になくなるなら、今の時代、イジメも体罰も存在しないことになる。
「いじめ防止対策推進法」でイジメを禁止規定にしているからといって、イジメが存在しなくなったわけではないのと同じである。体罰にしても厳しく禁止しているが、なくなってはいない。法律や社会的ルール上の禁止行為と現実世界の行為は裏返しの関係にある。
そうである以上、〈明治初年に出た『日本教育史資料』によれば、体罰規定のある藩校と郷校は維新期に存在した270藩のうち6校である。〉と書いているが、残る264藩の藩校と郷校の全てが体罰に関して何も書いてないからといって、あるいは体罰禁止規定が書き記されていたとしても、このことだけで264藩の藩校と郷校の全てで体罰は存在しないと断定することはできない。
江戸時代の教育現場に於いても体罰は存在した。
熊沢蕃山「聞いたことも見たこともない事を、読もうとする気もない子にまずい教え方で読ませれば、先にやったことは忘れてしまうのは当然だ。それを覚えが悪いの、忘れてしまったのと打ちたたきするのは、『不仁』である。(教育方法を)知らないのである」
「打ちたたき」の体罰が横行していた。
明治12年に制定の「教育令」が体罰禁止規定を明文化しなければならなかったのは、体罰を教育上の伝統とし、文化としていたからだろう。もし〈江戸時代の初めごろから体罰が忌まれるようになった。〉が事実としたら、体罰はタブーとして明治の時代にも引き継がれていたはずで、体罰禁止規定を明文化する必要はなかったはずである。
まさか江戸時代には存在しなかった体罰が明治の時代に入って突然日本人の教育の方法として出現したわけではあるまい。
以上のような体罰の情景に対してキリスト教の布教で来日していた宣教師等は、「日本では、むち打ちは滅多に行わない」、「彼等(日本人)は、決して児童を鞭つことなし」、「少なくとも知識階級には全然体刑は行われて居ない、是がため、私は我国で非常に好まれる鞭刑を見たことがなかった」、「(日本人)は決して子どもを撲つことはない」と見ていた。
このような外国人の認識に対して江森一郎氏が〈それには美化という側面もある〉と注意していると書き記しているが、美化とは限らない。彼らの前では体罰を行わないか、日本人が劣る民族であると思わせないために体罰は存在しないと説明したか、あるいは殴ったり、打ち叩いたりするのは教育上の躾であって、体罰だと認識していなかったか、いずれかを考えることができる。
美化も含めて、いずれも人間営為には付き物の心理の働きであるからだ。
現在でも体罰を教育と看做し、躾や鍛錬だと位置づける親や教師が存在する。
日本人だけが特別な存在ではない。様々な法律や通達で雁字搦めにしても、体罰やイジメは無くならない。特に上位に位置する者が強度の権威主義に囚われていた場合、上位者である自己を絶対とする余り、下位者のちょっとした過ちや失敗を許すことができなくなって、感情的に許すことができなくなる分、その懲罰意志は身体的力を用いなくても、長時間正座させたり、立たせたりして肉体的と精神的苦痛を与える体罰を発動させやすくなる。
あるいは仕事を取り上げて閑職に追い遣るというパワハラは現在でも存在する。
いつの時代に於いても基本的には変わらないはずだ。
多くの先人が否定発言をしたは儒朱思想の汚れを消し本来の日本を復興させるためのものである可能性あり。
否定発言あるゆえに体罰あり、ゆえに体罰古来より有りとするは早計ではないでしょうか。