菅総首相が一昨日の12日夜(2010年12月)、東京都内開催の支援者の会合で多くの国民の心を打つに違いない名言(迷言?)を吐いたという。《首相 “本免許へ”と政権意欲》(NHK/10年12月13日 4時45分)
この「支援者の会合」には約500人集まったと書いてあるが、別の報道によると後援会の忘年会だとかで、なかなかの盛況とは言え、言ってみれば身内の集まりだから、世論調査に於ける支持率の大不況を反映しない盛況を呈することになったといったところなのだろう。
菅首相は単細胞に出来上がっているから、約500人の盛況を前にして、その背後の支持率の大不況をきっとのこと忘却の大彼方に打ち捨てて上機嫌この上なく舞い上がってしまったのかもしれない。
菅首相「政権が発足してからの半年間は、仮免許の期間で、いろいろなことに配慮しなければならず、自分のカラーを出せなかった。これからは本免許を取得し、自分らしさをもっと出し、やりたいことをやっていきたい」
記事は次のように締め括っている。〈菅総理大臣は、久々に気心の知れた支援者を前にして、上機嫌だったということですが、12日夜は統一地方選挙の前哨戦として注目された茨城県議会議員選挙で、有権者から厳しい結果を突きつけられるなど政権安定に向けた見通しは立っていません。〉――
一方の民主党の最高責任者であり、日本の政治運営の最高責任者たる菅首相は上機嫌。例の締まりのない笑みを顔を崩さんばかりにして満面に浮かべていたに違いない。もう一方の茨城県議選の民主党候補者24人はすべてではないにしても、菅内閣の低支持率と菅首相自身の外交を含めた政治姿勢、軽い発言等が招き猫となった選挙中の逆風と開票による票の伸びの悪さに最悪の予感でイライラしなければならない両極端の感情表現が演じられていたことは容易に想像し得る。
そして最終結果が民主党候補24人中当選6人。4分の3が落選という大惨敗。当選6人を除いた18人は落選の要因の多くが自分自身の力ではどうしようもない外因から生じていることの悔しさ・怒りから、その夜は酒を強かに喰らったとしても満足に寝付くことはできなかっただろうし、悪夢は次の朝まで続いたに違いない。
一方の大惨敗の原因を作った菅首相は上機嫌で支持者の会合を打ち上げ、上機嫌で首相公邸に引き上げて、アルコールの酔いも手伝って内閣支持率の大不況も何のその、茨城県議選の結果など上の空で心地よい深い眠りについたのだろう。
もしそうでなければ、「政権が発足してからの半年間は、仮免許の期間で」、「これからは本免許」などといったことは言えなかったろう。「仮免許」であろうと、「本免許」であろうと、政権運営のスタートラインに立って政権運営に直接当たることとなった以上、その運営の成果次第によって政治情勢や社会の状況、さらに国民生活にまで日々刻々と待ったなしでプラスマイナス、善悪、利益・不利益等々の影響を与えることになるからだ。
いわば政権を担い、総理大臣としての責任を国民に対して、あるいは国益に対して負った以上、「仮免許」だ、「本免許」だといったふうに準備段階と正式段階に分けることは決して許されないということである。
それを2010年6月8日の菅内閣発足から6ヶ月の今日までを「仮免許」の準備段階とし、これからを「本免許」の正式段階だと自分で分けている。
では、尖閣沖中国漁船衝突事件での中国人船長逮捕と釈放の経緯に於ける対中外交も、ロシアのメドベージェフ大統領の国後島訪問以降の対ロ外交も「仮免許で」行った外交だと言うのだろうか。
決して許されない「仮免許」の外交であり、内政であるはずである。
大体が一般的には総理大臣に選出された以上、満を持して内閣運営に取り組むはずだ。厭々総理大臣になったわけではあるまい。自ら手を挙げて立候補し、民主党員によって民主党代表に選出され、そのまま総理大臣に横滑りしたのである。満を持して政治改革に、日本の社会の改善に、国民生活の向上、国益拡大に取り組むべく心引き締めたはずである。総理大臣に選出された時点で内閣運営の「本免許」を取得したのである。
菅首相は菅内閣発足3日後の総理大臣所信表明演説(2010年6月11日)で、「前総理の勇断を受け、政権を引き継ぐ私に課された最大の責務、それは、歴史的な政権交代の原点に立ち返って、この(鳩山前政権の)挫折を乗り越え、国民の皆さまの信頼を回復することです」と言い、「90年代初頭のバブル崩壊から約20年、日本経済が低迷を続けた結果、国民はかつての自信を失い、将来への漠然とした不安に萎縮しています。国民の皆さまの閉塞状況を打ち破って欲しいという期待に応えるのが、新内閣の任務です」と宣言もしている。
いわば内閣総理大臣として果たすべき責任は待ったなしの状況にあった。
にも関わらず、これまでの内閣運営、これまでの政治を「仮免許」の準備段階だとしている。この発言にはこれまでは「本免許」の正式段階ではなく、それ以前の「仮免許」の段階、準備段階だから、至らなさや未熟の点、失敗があったとしても許される、少なくとも大目に見ることができるとする責任の回避が否応もなしに存在する。
いわば「仮免許」の準備段階と「本免許」の本格段階に分けることで責任をも分けた。「仮免許」の準備段階での責任は許される。だが、今後の「本免許」の本格段階での責任は許されないとした。
だが、内閣運営、政治の遂行を「仮免許」の準備段階と「本免許」の本格段階とに分けて、前者の責任は許されるとする無責任な政治家が後者の責任を果たして厳格に負うと期待できるだろうか。
内閣の運営、政治遂行に取り組むと同時に「政治は結果責任」の結果を出す責任を国民に対して負っているのだから、「仮免許」時の責任は許されるとすること自体が甘えの意識なくして成り立たない「仮免許」と「本免許」の区別、準備段階と本格段階の責任の区別であろう。
責任回避は自己免罪と同義語だから、共通した意識によって成り立つ。
問題は何よりも如何ともし難く自分から責任評価を決めている点にある。これまでは「仮免許」の準備段階だから、結果に対する責任は許されますよ、あるいは大目に見ることができますよと自分から自分を免罪した。この責任回避意識は如何ともし難い。
対中外交も対ロ外交も、マニフェストに反する政策も、自身の発言の軽さも、内閣人事の不手際も、自己免罪の責任回避に付していることになる。
これは「政治は結果責任である」とする国民の責任要求と常に対峙させられている菅首相が置かれている状況の厳しさからしたら、甘えそのものの自己免罪発言、自己免罪意識であり、責任回避意識の発現以外の何ものでもない。
常に責任が厳しく問われる立場にありながら、自己免罪を働かす責任回避は言い訳そのものである。
この甘えと言い訳の自己免罪意識、責任回避意識は菅首相の指導力欠如と対応し合った資質なのは説明を待つまでまでもない。強力な指導力は自己免罪や責任回避を必要としない。例え失敗や挫折を経ても、指導力ある政治家は再挑戦や挽回に賭けるだろう。
最後に「NHK」が12月10日~12日にかけて行った世論調査。(発足から今日までの半年間の菅内閣実績評価のみ抜粋。)
《NHK調査 内閣支持率25%》(2010年12月13日 19時15分)
不支持率は支持率25%の欲張って2倍取り以上の58%。
◇発足から半年たった菅内閣の実績評価
▽「大いに評価する」 ――1%
▽「ある程度評価する」 ――20%
▽「あまり評価しない」 ――49%
▽「まったく評価しない」――26%
(4人に3人が「評価しない」と回答)
◇菅総理大臣が政権運営で指導力を発揮してきたと思うか
▽「大いに発揮してきた」 ――1%
▽「ある程度発揮してきた」 ――15%
▽「あまり発揮してこなかった」 ――51%
▽「まったく発揮してこなかった」――29%
因みに菅内閣を支持しない理由。
▽「実行力がないから」 ――46%
▽「政策に期待が持てないから」――33% |
菅首相は低支持率の理由を「国民の皆さんに伝える発信力が足りなかった」と言っているが、これも甘えと言い訳に立った自己免罪と責任回避の発言に過ぎない。総理大臣の一挙手一投足、発言の一つ一つがテレビや新聞を通じて常に直接的・間接的に発信され、国民はそれを受け止めて判断と評価を加えている。そのような判断と評価の最たるものが世論調査に現われる。
例えそれが間違った判断と評価であっても、直近の様々な状況に連鎖反応の形を取って様々な影響を与えていく。となれば、国民の評価と判断を間違えさせないのも総理大臣たる菅首相の責任となる。
菅首相の就任後6ヶ月間に亘る発信とその発信に対する国民の判断と評価の総体が有形無形の形で茨城県議選に影響を与えた。 |
私の心に残る歌としては、サトウ・ハチローの「長崎の鐘」がある。
「こよなく晴れた 青空を 悲しと思う せつなさよ、、、、」と歌ってゆく。
悲しいと思う人の主語がない。だから、文章もない。それでも理解できる。これは、私語のようなものか。
万事は、読み手の勝手な解釈による。
次は、テネシー州の州歌になった「昔の友達と偶然出会ったとき、テネシーワルツにのせて、私は愛する人と踊っていた、、」と歌う Redd Stewart の「テネシー・ワルツ」である。これは、文章になっている。公言できる。
一般的に、英米人の発言は公言できる。それは、文章になっているからである。
日本人の発言は、文章にならない。句止まりである。俳句のようなものである。
文にならなければ正確な意味がわからない。
そこで、日本人の発言に関しては、その真意は何か、ということになる。
ちょうど、母親が泣きやまない赤子の状態を調べるようなものである。
腹を割って話さなくてはならない。それで、談合となる。ひそひそ話である。
お前らに、この俺の腹の底が読めてたまるかとも言う者もいる。
内容が明らかにならないものは、議論にもならない。
議論してみなければ、矛盾の有無も明らかにはならい。
矛盾が明らかにならない状態で、人選が行われる。
'Trust me.' (私を信じろ) と言いながら、首相は現実世界の中を迷走する。
これは、理性なき民の不幸である。
日本語は、ひそひそ話の道具である。公言に適した言語ではないようだ。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を下記のごとく強調している。
国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。(引用終り)
全ての考えは文章になる。
文章にならないものは、考えではない。
文章のあるなしは、意思と恣意の分かれ目でもある。
意思は未来時制の内容であるが、恣意には文章もなければ内容もない。
意思のあるところには、方法がある。(Where there's a will, there's a way.)
恣意のあるところに、、、、。は成り立たない。
だから、日本人の思いは世界に出ても成り立たないことが多い。
日本語では、文章を作ることが難しい。
だから、日本人は、無哲学・能天気になりやすい。
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I was dancin' with my darlin'
To the Tennessee waltz,
When an old friend I happened to see.
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812