小沢幹事長の「死ねばみんな仏様になる」は今生の後ろ暗さから死んで仏になりたい願望なのか(1)

2009-11-18 18:08:06 | Weblog

 11月20日、和歌山県高野山金剛峯寺を訪問、全日本仏教会(全仏)会長を務める松長有慶高野山真言宗管長と会談。11月10日付「msn産経」記事――《出家? 小沢氏が高野山入り 仏教会トップと会談 「心洗われた」》は訪問の魂胆を、〈来夏の参院選に向けた地方行脚の第一弾。全仏は伝統仏教の宗派がつくる財団法人で、かつては自民党色が濃かった。自民、公明連立政権の発足で自民党と距離を置く宗派が増えたが、民主党との関係も薄かった。〉と解説している。

 マスコミの解説を待つまでもなく、選挙目当てなのは誰の目にも明らかなことで、同「msn産経」記事は、〈小沢氏は会談後、記者団に対し、「選挙運動に来たわけではない。お参りして心が洗われた」と語った。ただ、「結果として(民主党への協力を)お考えいただくことがあればいいことだ」と、支援への期待感も示した。〉と書いている。

 さも個人的訪問であるかのように装いつつ、「お考えいただく」にはそれなりの話を通さなけれならなかったはずだから、民主党を背負っての訪問だと自分からバラしている。

 上記「msn産経」記事は触れていなかったが、同じ日付の「YOMIURI ONLINE」記事――《「キリスト教は排他的」民主・小沢氏、仏教会会長に》は小沢幹事長が自ら記者団に語った宗教観を伝えている。

 「キリスト教もイスラム教も排他的だ。排他的なキリスト教を背景とした文明は、欧米社会の行き詰まっている姿そのものだ。その点、仏教はあらゆるものを受け入れ、みんな仏になれるという度量の大きい宗教だ」

 「キリスト教文明は非常に排他的で、独善的な宗教だと私は思っている」
――

 いわば日本の仏教はキリスト教やイスラム教とは大違いの排他的とは縁遠い、あらゆるものを包容する寛容で度量の大きいな宗教だと言っている。

 11月11日付の「asahi.com」記事――《小沢氏「高野山は日本人の原点」》での小沢氏の言葉は次のようになっている。

 「高野山は日本人の原点。キリスト教を背景とした西洋文明は行き詰まっている。仏教は人間の生き様を原点から教えてくれる」

 「自民党は本来は非常に日本人的な政党だったが、日本人の持つ心とか美点を失い、人心が離れた」


 まさか自分が離党してから自民党は、「日本人の持つ心とか美点を失い、人心が離れた」と言っているわけではあるまい。

 同「asahi.com」記事の小沢一郎発言解説は次のようになっている。

 〈小沢氏の発言は、仏教を称賛することで、政治的には「中立」ながら自民党と古くからつながりのある全日本仏教会に民主党との関係強化を求める狙いがあったものと見られる。しかし、キリスト教やイスラム教に対する強い批判は、今後、波紋を広げる可能性もある。〉――

 「人間の生き様を原点から教えてくれる」格好の教材は社会に現れる人間の諸相そのもので、そこから学ぶべきだし、小沢氏の場合は余り感心できない生き様を学ぶ参考資料にはなると思うが、例え仏教の教えを教材とするにしても、学ぶ学ばないは人それぞれの生きる姿勢にかかっているはずだから、何ら学ばなければ、学ばない人間にとっては仏教は猫に小判、豚に真珠で、何ら輝きを帯びない戯言(たわごと)で終わる。

 また「あらゆるものを受け入れ、みんな仏になれるという度量の大きい宗教」という仏教の位置づけに対して、「自民党は本来は非常に日本人的な政党だったが、日本人の持つ心とか美点を失い、人心が離れた」と言うことなら、自民党にこそ仏教が必要であり、現世利益(げんせりやく)として票を与えることが自民党に対する救いとなると思うが、そうではないだろうか。

 因みに「猫に小判」と同じ意味を示す「豚に真珠」は新約聖書のマタイ福音書に書いてある言葉だそうだ。

 小沢氏の仏教に対する余りある褒め言葉が選挙の票欲しさの買いかぶり・ヨイショの類でなければいいと思うが、しかし社会的影響力を持った政治家の言葉である、裏側の魂胆を離れて言葉自体が口にした本人の宗教的思想と把えられて独り歩きする。
 
 その現れが「一面的理解に基づく『排他的』で『独善的』な発言で、見識を疑わざるを得ない」(毎日jp)とする日本キリスト教連合会の抗議文送付であろう。

 対して小沢氏は16日月曜日の記者会見の中で記者に問われて、選挙を離れた自身の宗教観を再度述べている。

 その部分を11月16日付「asahi.com」記事――《亀井新党構想「プラスになる」16日の小沢幹事長会見》から参考引用してみる。
 

 
 【仏教とキリスト教】
 ――高野山を訪れた際に、西洋文明の行き詰まりの文脈でキリスト教について言及があった。日本キリスト教連合会が抗議文。

 「え?」

 ――「幹事長の発言こそが独善的だ」という抗議文を出している。

 「どこに出されているの。産経新聞に?」

 ――いや、産経新聞は。

 「私は文明論と宗教論を言ったんです。君は何教だ?」

 ――家は仏教です。

 「仏教っていうのはどういうの?」

 ――浄土真宗。

 「いやいや、仏教というのは、どういう哲学だっつうの」

 ――すぐに答えられません。

 「ね。仏教っつうのは、死ねばみんな仏様になるんだよ。そうでしょ。除夜の鐘はいくつだったか、君、知ってるか?」

 ――108です。

 「うん。108っていうのは、どういう意味だ」

 ――煩悩。

 「そうだ。煩悩をすべて超越して、生きながらに超越できる人が生き仏だ。おしゃかさんが最初の人だ。その以降にもいろいろあったと思うけれども。いろんな、それに、お釈迦様に近い人もいっぱい出てきただろうと思う。これだけ普及したんだからね。

 だから、そういう意味で、生きながらにして仏になることもできるし、死にゃあ、みな煩悩がなくなるから仏様。

 君んとこも仏様あるだろ?だから、他の宗教で神様になれるところがあるか?そうでしょう?基本的考え方が違うということを僕は言ってるんですよ。

 仏教哲学というか、が背景だけれども、東洋の思想ちゅうのは、悠久なる自然の中の、人類は、そのひとつの営みというとらえ方だ。わかる?『それ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり』という李白の詩があるけれども。

 西洋文明は、人間が、うーん、霊長類として最高の、自然をも、人間のいろいろな、まあ、これは少し、宗教ちゅうより政治論になるけれども、ために存在するという考え方だ。だから、有名なエベレスト征服したときに、なぜエベレストを征服したのか、そこに山があるからだと答えをしたイギリス人がいたけども、地元では、霊峰としてあがめられて、そのエベレストを征服しようなどという考え方は、アジア人にはほとんどない。そういう根本的な宗教哲学と人生観の違いを僕は述べたんです。わかった?僕も君も死ねば仏になれるんだ、だから」。

 小沢一郎と言う政治家は政策に関するカンの鋭さや選挙術に見るべきものがあるとは思っていたが、それ以上にカネを如何に巧妙・有効に掻き集め、そのカネを如何に巧妙・有効にバラ撒いて大勢の人間を言いなりにするかに関しては右に出る者はいないと舌を巻く思いをしていたが、宗教に関して、特に仏教に関してこれほどまでに造詣深く、洞察力に優れているとは毛程も気づいてなかった。小沢自身が語った言葉自体が深い思想へと昇華した味わい深い金言――金のように価値ある言葉となっている。

 だが、言っていることが論理一貫していないように思える。

 先ず「これだけ普及したんだからね」は江戸時代にキリシタン禁制の徹底化を図る“宗門改”によって全国民を特定の檀那寺に所属することを義務づけたことによって誰もが仏教徒となったことと関係している「普及」で、心からの信者がどれ程いるか疑わしい。このことは御利益信仰と言われていることが証明している。

 「それ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり」の李白の詩を紹介していたが、「逆旅」という単語を読むことすらできなかった。「大辞林」で調べてみると、「逆旅(げきりょ)――(1)〔旅人を逆(むか)える所の意〕旅館。やどや。 (2)旅。また、旅をすること。 」と出ている。

 多分、天地は万物が宿す棲家(すみか)であるが、月日(光陰)は永遠の旅人の如く来ては去ってゆく」といった意味だと思うが、これが仏教からきている無常観を示しているとしても、「東洋の思想ちゅうのは、悠久なる自然の中の、人類は、そのひとつの営みというとらえ方」とする思想そのものを表した言葉には見えない。

 小沢幹事長の「死ねばみんな仏様になる」は今生の後ろ暗さから死んで仏になりたい願望なのか(2)に続く


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 小沢幹事長の「死ねばみんな... | トップ | 返済猶予法案強行採決に見る... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Weblog」カテゴリの最新記事