李白のこの詩の全文を知っているわけではないから、インターネットで調べてみた。HP『中国故事物語』の中の「天地は万物の逆旅 光陰は百代の過客」を見つけることができた。いつも無断なのだが、一部分を無断参考引用してみる。
これは李白の「春夜に従弟の桃花園に宴する序」という短文の冒頭の句である。この短文は桃花園に兄弟親族が集まって酒宴をはった時の作、全文の意味は、桃花に対して坐し、酒杯をとばして月に酔う良夜、われわれははかない存在ではあるが、天地より詩文を作る才をさずかって生れた、されば、大いに佳作をものして楽しもう、もしできなければ罰杯としようではないか――というので、この文だけについて言えば、別に取り立てて述べるほどのこともない。しかしさすがに天地といい、逆旅といい、過客という比喩の確かさや大きさは李白である。
本文は、
「それ天地は万物の逆旅にして、
光陰は百代の過客なり、
しこうして浮生は夢のごとし、
歓をなすこといくばくぞ。
古人、
燭をとりて夜遊ぶ、
まことにゆえあるなり。……」
というのである。 |
拙いお粗末な私自身の解釈を施すとするなら、人間存在の無常に対して酒を酌み交わし、詩を創る宴の“歓”を対比させ、“歓”によって無常を払拭しようとする“歓”にウエイトを置いた姿しか看取できない。どう逆立ちをしても、「東洋の思想ちゅうのは、悠久なる自然の中の、人類は、そのひとつの営みというとらえ方」がそこにあると解釈できないが、そう解釈するところが小沢一郎と言う政治家の凄さなのだろう。
「仏教っつうのは、死ねばみんな仏様になるんだよ」
「生きながらにして仏になることもできるし、死にゃあ、みな煩悩がなくなるから仏様」
「他の宗教で神様になれるところがあるか?」
この成仏論を小泉純一郎が首相当時、靖国参拝正当化の口実に使っている。2001年4月18日の自民党総裁選討論会で「私が首相になったら毎年8月15日に靖国神社をいかなる批判があろうと必ず参拝します」と公約。
2001年4月26日に総理大臣に就任。同01年7月11日の参院選に向けた与野党7党首公開討論会(日本記者クラブ主催)で、「日本人の国民感情として、亡くなるとすべて仏様になる。A級戦犯の方々も死刑という刑罰を受けている。そして心ならずも戦争に行かねばならなかった人が圧倒的多数だ。そういう人への慰霊を、一握りのA級戦犯が合祀されているということでおろそかにしていいのか。死者に対して、それほど選別しなきゃならないのだろうか」と正当化の肉付けを行っている。
そして「日本人の国民感情として、亡くなるとすべて仏様になる」と言う殺し文句が効いたのか、同01年年7月の参議院議員選挙で自民党は大勝した。8月に入って「私が首相になったら毎年8月15日に靖国神社をいかなる批判があろうと必ず参拝します」と公約したことを堅く守って中国・韓国に配慮、2日前倒しの8月13日に参拝。
だが、中国・韓国への配慮も空しく、両国首脳が訪日を中止するなどの強硬な反撥を受けることとなった。
小沢一郎の「仏教っつうのは、死ねばみんな仏様になるんだよ」にしても、小泉元首相の「日本人の国民感情として、亡くなるとすべて仏様になる」にしても、仏教の教えとしてある悪事を働いた人間は死後、地獄に生まれ直すとされる宗教観(地獄思想) に反するが、このことを無視するとしても、仏教の教えにはある、キリスト教、イスラム教の教えにはないということなら、教えの存在を単に言っているに過ぎない。
もし教えに関係なく、仏教国日本の日本人であるなら、「死ねばみんな仏様になる」ということなら、無信心者、無宗教者にも当てはめなければならなくなるから、仏教を信じる信じない、百歩譲って、仏教に馴染む馴染まないに関係のない生存条件となって、仏教は必要のない教え――否定そのものとなる。
もし仏教の教えを理解し、日常的にその教えを守って暮らしている真面目一方、正直一方の日本人のみが「死ねばみんな仏様になる」ということなら、葬式仏教として馴染んでいる日本人は多くいても、仏教の教えそのものを深く理解し、その教えどおりの生活を守っている日本人は少ないはずで、だからこそ犯罪多発社会となっているというだけではなく、上に立って国を経営する責任ある立場の政治家・官僚・役人の責任を省みない不正が蔓延する世の中となっているのであって、「みんな仏様になる」は誇大宣伝文句に過ぎなくなる。
小泉元首相は2005年4月22日にインドネシアで開催されたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)50周年記念首脳会議に出席、中国では小泉首相の靖国参拝反対に発した反日デモが起きていたが、日本の歴史認識に関して村山談話を引用、「50年前、バンドンに集まったアジア・アフリカ諸国の前で、わが国は平和国家として国家発展に努める決意をした。現在も、50年前の志にいささかの揺るぎもない。
わが国はかつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた。こうした歴史の事実を謙虚に受止め、痛切なる反省と心からのお詫びの気持を常に心に刻みつつ――」云々と“謝罪と反省”を述べているが、バンドンから帰国後の05年5月16日の衆院予算委員会で、「多大の損害と苦痛を与えた」「歴史の事実」もなんのその、「痛切なる反省と心からのお詫びの気持を常に心に刻みつつ」次のようにアジア外交に関して答弁している。
「どの国でも戦没者への追悼を行う気持を持っている。どのような追悼の仕方がいいかは他の国が干渉すべきではない。東条英機氏のA級戦犯の話がたびたび国会でも論じられるが、『罪を憎んで人を憎まず』は中国の孔子の言葉だ。私は一個人のために靖国を参拝しているのではない。戦没者全般に敬意と感謝の誠を捧げるのけしからんと言うのは、いまだに理由が分からない」(05.5.17 『朝日』朝刊)
今度は「中国の孔子の言葉」を参拝正当化の口実に持ち出したというわけである。
この小泉「孔子」発言に対して中国文学者の一海知義(いっかい ともよし)氏が05年5月31日の『朝日』朝刊記事――《私の視点◆靖国問題 「罪を憎んで」発言は不可解》で次のように批判している。(一部抜粋)
「これを聞いて驚いた。私は五十数年来、専門の対象として中国古典を読んできたが、孔子がこんなことを言っているとは知らなかったからである。少なくとも、信頼できる文献には見当たらない」
次のようにも批判している。
「戦後日本の歴代首相は演説の中などで、しばしば中国古典を引用してきた。それはけっこうなことだが、平仄(ひょうそく)の合わぬ漢詩を公表したり、古典を誤用したり、変な漢文を作ったりする場合が少なくなかった。こうした悪しき伝統が現首相まで及んでいるのだ」
「戦後首相の中でも、小泉首相は特に中国古典がお好きらしい。施政演説など、さわりの所で『孟子』を引き、『墨子』と引くといった具合である。
しかし、おおむね 『断章取義』的な引用法が多い。断章取義とは、原点の趣旨とは無関係に、時には趣旨に反して、自分に都合の良い部分だけを抜き出して引用することである。これは中国では古来、軽蔑されてきた手法である」――
最後の止どめとも言うべき批判を展開している。
「そもそも『罪を憎んで人を憎まず』は、加害者だった側が使うべき言葉なのか。首相発言は中国民衆の立場を無視している。目の前で日本兵を殺された体験を持つ人々に、『罪を憎んで・・・・』と説教しているのである」
小泉の「孔子」発言は「中国民衆の立場を無視している」だけではなく、1カ月前のバンドン会議での「わが国はかつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」とする発言をも無視している。「多大の損害と苦痛を与えた」側が与えた人間を「罪を憎んで人を憎まず」と無罪放免しているのだから。
こう見てくると、小沢幹事長の「仏教っつうのは、死ねばみんな仏様になるんだよ」も同じ穴のムジナ、大分怪しく見えてくる。
HP《「死ねばみな仏」の間違い/衆生が成仏するには覚りの因縁が必要》(平成17年6月26日 掲載)がその間違いを解説している。
〈日本の歴史的宗教観でよく誤解されがちなのが「死んだ人はみな仏に成る」という安易な成仏論である。これをあたかも日本仏教界全体の宗教観であるかのように喧伝し、外交問題が起こった時もこの論を持ち出して説明する似非文化人や議員がいる。外交や政治問題はここでは略すが、情けないのは、普段宗教を大切に思っていない人間が、説明等のため急ごしらえで入門書などを聞きかじり、それであたかも自分は日本の宗教観を体得しているかの如く振る舞い、結局日本の文化全体の程度を貶めてしまっている現状である。
「死んだ人はみな仏に成る」などということは、どの経典にも書いていない。もしそう書いてあれば、信心も六波羅蜜も如来の願いも経典さえ不必要ということになる。これが要らなければ、仏教そのものが要らなくなるではないか。本当は、真実の求道(菩提心)なくして仏に成れるはずはないのだ。
仏とは最終的に「智慧と徳」が成就した人である。「自覚覚他 覚行円満」という結果が出てこそ仏に成ったといえる。つまり世の真実が解かり、領解した真心の智慧が行動となり、功徳(実績と信頼)が世に響き渡る人が仏なのである。これは、生きている時に「正定聚の菩薩」({正定聚・不退転の菩薩について} 参照)であった人、もしくは臨終において特別の引導があった人に限られる。
このことは以前、{地獄・極楽の分かれ目と麻原が救われる可能性} に詳説したが、慚愧と無上菩提心を起こさぬ限り、成仏はもちろん、浄土の功徳を受けることさえ望めない。この基本だけは知っておいてほしい。 〉――
このHPも、「死ねばみんな仏様になる」なら、「仏教そのものが要らなくなる」と言っている。小沢一郎は仏教否定論者だと言うわけである。このことが全日本仏教会に知れたなら、折角の頼みの票を手に入れることができなくなるに違いない。
小沢幹事長は「煩悩をすべて超越して、生きながらに超越できる人が生き仏だ」とも言っているが、人間は利害の生きものであることを宿命づけられていて、利害に齷齪(あくせ)し、利害に翻弄され、なかなか利害から免れることができない狭い世界に生きている。「煩悩」とは言ってみれば利害損得がつくり出す欲望で、煩悩にしても免れがたい欲望ということになって、「生きながらに超越できる人」など簡単には存在しないだろう。人間知らずの上っ面な宗教論にしか見えない。
矛盾なき社会は存在しない。いくら日本の仏教が優れた教えを持っていたとしても、問題は社会の姿・国の姿である。その国の宗教の教えと社会の姿・国の姿が乖離していたなら、教えは無意味と化す。役立たずだと言うこともできる。子どもの自殺が08年は過去最多に達した社会、1人親世帯の貧困率が先進国の中で最悪水準の54.3%だという日本社会の偏った実態、相対的貧困率で言うと、07年調査で先進国の中でも高い15.7%に達している貧しい社会、08年度の自殺者が3万2249人で11年連続で3万人を超えた自殺大国社会、収入格差社会、学歴格差社会、地方過疎社会、子孫にツケをまわす過去最高を更新だという国の借金864兆円5226億円の借金大国等々は政治の無力そのものの反映だが、小沢一郎が「キリスト教もイスラム教も排他的だ。排他的なキリスト教を背景とした文明は、欧米社会の行き詰まっている姿そのものだ。その点、仏教はあらゆるものを受け入れ、みんな仏になれるという度量の大きい宗教だ」と日本の仏教がいくら優れていると言い立てたとしても、政治の無力同様、日本の仏教の無力をも伝えている日本の社会の現実であり、国の現実であろう。
「行き詰まっている」のは欧米だけではなく、日本も同じで、そうと気づいていないとしたら、合理的判断能力が疑われて政治家の資格を失う。 |