2011年11月29日当ブログ記事――《橋下徹の「民意を無視する職員には去ってもらう」の独裁性 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で、大阪市長選で圧倒的大量票を確保した民意を背景に、「民意を無視する職員には去ってもらう」と自身を絶対と位置づけた橋下氏が持つ独裁性を批判したが、早くも具体的な形で現れたようだ。
この発言は、例えば国会議員が国歌斉唱を義務づける条例等に時折り「反対する者は日本から出ていって貰えばいい」と口にすることがあるが、これと共通する精神構造だと言える。
反対意思を許容せず、排除することで全体を賛成意思で統一することを衝動する独裁意志なくしては口にできない言葉である。
一人の人間の思考に他の殆どの全員が従ったなら、そこに独裁体制が姿を現わすことになる。
上記ブログでは選挙の民意は多くが期待の意識が占めていて、橋下氏の場合は大阪府知事を経験したとしても大阪市長は初めての経験だから、決して「政治は結果責任」に対する民意ですべて占められているわけではないから、その民意を絶対と価値づけることはできないといった趣旨のことを書いた。
橋下氏の独裁性がどのような形で具体的に表したのか、次の記事が伝えている。《批判職員突き止め「反省の弁」…橋下氏「一件落着!」》(MSN産経/2011.12.10 12:54)
投開票日翌日の12月11月28日(2011年)、出勤してくる職員にマスコミがインタビューした。橋下圧勝をどう受け止めているのか聞き出そうとしていたのだろう。
職員「僕の考えている民意とは違う」
それぞれの考えがあって当然である。だが、橋下次期市長はこの発言を、あるいはこの態度をか、問題視して、〈市総務局に事実確認を指示。当該の市職員を特定し、部局を通じ「反省の弁」を述べさせていた〉という。
しかも、このことを橋下次市長が自ら明らかにした・・・と記事は書いている。
この職員は驚いたに違いない。本人にしたら、正直な感想を述べた。それを誰なのか特定させて、橋下次期市長が直接議論対決して自身の主張を理解させるべく努めるのではなく、〈部局を通じ「反省の弁」を述べさせ〉た。
また、橋下次期市長はこの職員に対してだけではなく、〈別の番組で〉と書いてあるが、別の放送局のインタビューを受けて報道された番組ということなのだろう、〈橋下氏が代表を務める大阪維新の会について「向こうの考えている二重行政は分からない」と発言した職員についても、同様の措置を取ったという。〉と伝えている。
総務局長(橋下次期市長に報告)「職員は真摯(しんし)に受け止め反省している」
橋下次期市長(報告に対する感想)「この2人の職員との問題は一件落着した」
要するに橋下次期市長の「一件落着」とは自身とは異なる主張・自身と異なる言論を民主的ルールに則ってではなく、次期市長という上の立場から下の立場に対して上の立場に従属させる一種の強制によって自身と同じ主張・自身と同じ言論に変えさせたのである。
少なくとも表向きの反対を禁じる面従を強制した。
言ってみれば、件の二人の職員は次期市長に睨まれたのである。自身の地位や身分を守ろうとする自己保身意識が働いたに違いない。自己保身の代償として、自身の言論の自由・自己主張の自由をまだ就任したわけではない橋下次期市長に売り渡した。
これが一種の心理的威嚇による言論封殺でなくて、何と評したらいいだろうか。
このような仕事とは関係のない個人の思想・信条の領域に関する事柄が上下の力関係を利用して圧力・強制を働かす独裁性が橋下次期市長が就任して仕事上の上下関係が発生後ならまだしも(市長就任は12月19日)、選挙に当選して次期市長就任は確実ではあっても、まだ就任前であるゆえに仕事上の上下関係が実際には発生していないにも関わらず、いわば何らの権限を持つに至っていないにも関わらず、職員に対して発動したのは越権行為に入るはずだ。
この点に於いてなおさらの独裁意志を窺うことができる。
職員の側から言うと、職員の側には上の独裁意志に容易に従う素地があることになる。大阪市役所という組織内の上下関係に権威主義の力学が作動しているということである。
記事は最後に自らが暗々裏に炙り出していた橋下次期市長の独裁性に反する発言も伝えている。
橋下次期市長「行政上の主張や反対論はしっかり言ってほしい」
テレビ局のインタビューに応えて大阪市民が示した民意と違うと話したことがテレビで報道されて、それを見た橋下次期市長が誰なのか市総務局に命じて探させ、反省させる手間まで費やしたのである。
そこに「そこまでやるか」といったある種の執念、あるいはしつこさを感じ取って、次期市長と異なることは言うなのサインとしてより強烈に受け止めさせたと考えたとしても、一概に否定はできまい。
となると、誰が反対論をしっかりと言うだろうか。自分の身可愛さに触らぬ神に祟りなしの言いなりの人間――イエスマンをつくり出すだけに違いない。
橋下次期市長の二人の職員に対する対応を知った他の職員の多くが二人の態度に右へ倣えをすることは容易に考え得る。問題はそのようなイエスマンが面従腹背的な側面を多分に備えた場合、生産性はなおさらに期待できないことになる。
要するに橋下次期市長の「行政上の主張や反対論はしっかり言ってほしい」は自らの言論封殺の独裁性にもっともらしい民主主義の体裁を持たせた発言に過ぎないだろう。
12月5日にごみ収集業務などに当たる技能職員の不祥事が相次いでいることから、全技能職員の採用経緯を調査する方針を明らかにしたと「毎日jp」記事――《大阪市:全技能職員の採用経緯を調査へ 再試験も 橋下氏》(毎日jp/2011年12月6日 15時50分)が伝えているが、技能職員に関しては縁故採用の多さが前々から言われていたことである。
〈技能職員の不祥事は後を絶たず、09年4月以降に逮捕された大阪市職員50人のうち18人が技能職員で、懲戒免職された58人のうち31人を占めた。〉・・・・・
縁故採用は自ら獲ち取った地位ではないことから緊張感のなさが付き纏ったり、縁故の相手が地位ある人間である場合、その地位を笠に着て、仕事よりも威張ることに熱心であったりして、勤勉さの要素を欠くケースが多い。
二重行政や縁故採用、仕事のムダ等々の是正に情熱を燃やしていることは歓迎できるが、そこに独裁意志が介在した場合、表に現れなくても、組織の内部深くで人材面に対して様々な障害が生じ易くなる。
その一つがイエスマンづくりであり、上から指示された仕事を機械的に消化する惰性状況の形成である。 |
これが言論封殺ならもう国や企業は何もできないね。
本当に残念です。
自分の部下であるはずの公務員を「犠牲の羊」にまつありあげ、人々のルサンチマンのいけにえにすするえげつなさ、はしたなさ、下品さ。
そのくせ、自分は知事時代は公務時間に公用車でスポーツジム通い、公務そっちのけで政治活動に熱中し、友達を公立学校の校長に「縁故」採用したり、今度は自分の方針に賛成する区長を全国から公募しようという暴挙。
とくに、最後のものなどは、地方自治の原則をふみにじるものではないかと思われます。
橋下改革で得をするのは、橋下と維新の会ぐらいです。
独裁者の偽りの改革をもてはやす大阪の有権者の意識の低さをマスコミも叱れず、本当におかしな情報管制の状況になっていきつつあるのも、おそろしいです。