《旭川市教育委員会第三者委員会(旭川市いじめ防止等対策委員会)の「中間報告」》
(2)旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
《「NHKクローズアップ現代+」記事の母親の証言から見る学校の対応と教育評論家尾木直樹の役立たずな解説》
(3)旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
《「文春オンライン」記事に見る校長の教育者としての姿とイジメの定義変更のススメ》
先ず当該女子生徒の母親の証言を取り上げている2021年11月9日火曜日付けの「旭川女子中学生凍死事件 ~それでも「いじめはない」というのか~」((NHKクローズアップ現代+)から事態を眺めてみる。
この記事発信の2021年11月9日は2021年3月に凍死体で発見から約7ヶ月近辺後の報道となる。この記事は文春オンラインの報道が事件を表沙汰にしたことに触れている。そして前置きとして次のように触れている。
〈ことし(2021年)3月、北海道旭川市の公園で女子中学生の凍死体が見つかった。遺族によると、自慰行為の強要やわいせつ画像の拡散などのいじめを受けていた。彼女のSNSには、いじめの告白や、自殺をほのめかすメッセージも残されていた。生徒の生前、映像の存在を知った母親はいじめとしての対応を学校側に繰り返し求めていたが、動きは鈍く、加害者側をかばうような発言さえ聞かされたという。いじめの認定に極めて後ろ向きな教育現場の闇を追う。〉
では、母親は娘のイジメをいつ、どのように知ったのだろう。記事を読み進めてみると、当該女子生徒の川への入水未遂以前に母親はイジメの兆候を感じ取っていたことが分かる。
〈入学して1か月後。動揺した様子の爽彩さんが、深夜突然、家を飛び出しました。 爽彩さんの母親 「泣きながら『先輩に呼ばれてるから行かなきゃ』っていうので、震えながら泣いてたので、そのときは『お母さんがだめって言ってるからって断りなさい』って言って。そしたら部屋にこもって誰かと電話してる感じだったんですけど、おびえ方が尋常じゃなかったので」 翌日、母親はいじめを疑い、学校へ電話で相談しました。しかし担任には、ふざけて呼び出しただけだと真剣には受け止めてもらえなかったといいます。 その後も、ふさぎ込むことが多くなった爽彩さん。大好きだった絵にも変化が。 爽彩さんの母親 「これ間違いなくいじめなんだろうなって思ってはいたんですけど、でも本人に『いじめられてないのかい』って聞いたんですけど、『どこからがいじめっていうか分からない』って言ってました」〉 |
母親の証言は「中間報告書」の〈【1】2019年4月~6月の事実経過(いじめ事実関連の概要)〉箇所に当たる。改めて取り上げてみる。
⑤ 4月から5月にかけての連休中のある日、上記のメンバー4人で深夜3時ごろまでゲームLをしたことがあり、その中で、深夜を過ぎて補導されない時間になったから集まろうかというような話が出て、公園に集まる話になった。A、B、Cの3人は結局外出しなかったが、誰もそのことを廣瀬さんに伝えなかった。廣瀬さんは、先輩であるAらとの約束を守るため、早朝自宅を出て行き、それに気付いた廣瀬さんの母親らが追いかけて引き止め、家に連れ戻した。 |
そして第三者委員会はこの箇所について次のようにイジメ認定した。
2.事実経過<1>⑤記載の事実に関して 上級生A、B、Cが、深夜(ないし未明)の時間帯に廣瀬さんを含めて公園に集ろうという趣旨の会話をグループ通話で行ったこと、それを実行していないにもかかわらず、それを廣瀬さんに伝えなかったことは「いじめ」にあたる。 |
この出来事はLINEを通してAに下着を着けた胸の画像と自慰行為を見せた後であり、Eに同じLINEを通して自慰行為の様子を伝えたり、下半身の画像を送信する前のことである。要するにAが秘密の共有を守っていなかったことをまだ知らずにいた。母親が呼び止めると、「先輩に呼ばれてるから行かなきゃ」と震えながら泣いて答えた。母親は「おびえ方が尋常じゃなかった」印象を受けた。
母親にイジメの可能性を問われて、「どこからがいじめっていうか分からない」と答えていることを額面通りに受け止めて考えると、このある種のパニック状態に陥っている様子は想像するに自分の秘密を見せたことでAに恋愛感情を抱き、約束を破って嫌われたくないという思いがあったからだとした場合、それだけとは考えにくい。男子先輩の意思を絶対と見る従属性が属性化していて、その破綻を来すことの恐れが多分に混じっていたのでなければ、尋常ではない「おびえ方」は考えにくい。要するに先輩に呼ばれている以上、深夜だろうが何だろうが応じなければならないとの思いがあったとしたら、先輩という上の存在に対して後輩という自分の存在をかなり下に置いていることになり、その上下の距離が大きい程、先輩を絶対化していることになる。いわば強度の支配性と強度の従属性の力学下に閉じ込められていた可能性である。
母親の制止後、「部屋にこもって誰かと電話してる感じだった」。電話は繋がったのだろうか。深夜3時ごろまでゲームをして、そのあとに公園に集まろうと決めて、当該女子生徒だけを行かせて、自分たち3人が行かないことにしたのは、当たり前のことだが、無駄足を踏ませてやろうと3人で示し合わせたからできたことで、無駄足を踏ませる目的は勿論のこと、からかうためだった。3人が公園に着く時間に来なければ、「遅いですよ」とスマホを掛けてくるのは想定していたことだろうから、電源を切っておいて、繋がるはずのスマホが繋がらなければ、相手はどうしたんだろうと戸惑う。3人共繋がらなければ、からかう効果は大きくなる。
そこまで徹底したように思えるが、もし電話が繋がったとしたら、当該女子生徒は行こうとしたけど、母親に止められて行けなかったことをうろたえながら謝ったはずである。対して相手は「えっ、マジで行こうとしたのか?冗談のつもりだったんだ。真に受けてしまったんだ?行かなくてよかったな」と無駄足を踏ませることができず、からかいが中途半端に終わったことを残念に思いながら、笑って誤魔化した状景が浮かんでくる。
3人共に電話が繋がった場合、多分、最初に電話した相手は自分の秘密を見せたことで恋愛感情を抱いたという見方をすると、Aだったことになる。繋がるはずの電話が繋がらなければ繋がらなかったで疑心暗鬼に駆られるだろうし、繋がれば繋がったで計画的に騙したと知って不信感を募らせただろうから、「先輩に裏切られた」ということになったとしても、あるいは恋愛感情を抱いた「A先輩に裏切られた」ということになったとしても、「ふさぎ込むことが多くなった」という精神状態はある意味当然ということになる。
母親が呼び止めたから、無駄足を踏むことにはならなかったが、無駄足を踏む、踏まないの結果には関係なく、約束したことをからかいを目的として反故にすることは約束というものが一般的には信頼を動機づけとして成り立たせることから、それが何らかの強要によって成り立たせた約束であったとしても、前者は信頼への重大な裏切り行為であり、後者は約束を強要しておきながら破ることによって疑心暗鬼や恐れをいだかせることになり、両方共に心理的な攻撃としてのイジメに相当することになる。それを先輩の立場にある者が3人して後輩の立場にある1人に対して行ったのだから、あきらかに力関係からの集団のイジメと言えるだろう。
この翌日、母親はイジメを疑い、学校へ電話して相談する。ふざけて呼び出しただけだと真剣には受け止めなかった担任はA、B、Cから直接聞き取りをする時間はなかったはずだから、担任自らが「ふざけて呼び出しただけ」と解釈して、その解釈のままを母親に伝えたのだろう。こういった場合の普通の応対なら、「聞き取りをして、後で電話します」と答えるものだが、聞き取りもせずに自身の独断のみを伝えるのは無責任と紙一重、あるいは無責任な態度そのものとなる。
尤も実際には聞き取りを行って、加害者が"ふざけてしたこと"と答えたとしても、学校のイジメ事案で担任がイジメ加害者に聞き取る際、加害者が「ふざけてしただけだ」、「からかっただけだ」と答えるパターンが通例化している。つまり加害者自身がそう思っているか、罪薄めを謀っているだけで、実際には陰湿なイジメとなっている例が数多く存在する。担任はそういったことにまで想像力を巡らすことなく、イジメを誤魔化す口実、あるいはイジメと気づかないままにイジメを行っているときの口実として否定したか、そういった口実に過ぎないことが往々にしてあることを考えもせずにイジメ加害者のイジメを否定するときの口実をあっさりと受け入れたか、いずれかになる。
2019年6月22日の川への入水未遂後、パニック状態だったため、そのまま入院した。母親は預かった娘の携帯の中から娘のわいせつ写真や動画を見つけ、それが送信されているのを知った。記事は、〈娘のわいせつ写真や動画。さらに、それが拡散されているという事実〉を知ったとなっている。
翌朝、母親は学校に駆け込むと教頭が対応する。教頭はLINEでのメッセージの遣り取りを写真で撮って、「これをもとに調べさせていただきます」と言い その結果、学校はAとEに対する自慰行為の動画や性的な画像の送信の事実を把握、加害生徒とその保護者が当該女子生徒の母親に謝罪する場が(「Wikipedia」によると2019年8月29日の夕方に)用意された。当該女子生徒な9月に退院・転校となっているから、まだ入院中だったことになる。
教頭「これは単なる悪ふざけ、いたずらの延長だったんだから、もうこれ以上何を望んでいるんですか」 母親「じゃあ娘の記憶を消してください」 教頭「頭おかしくなっちゃったんですか、病院に行ったほうがいいですよ。加害者にも未来があるんです。10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。10人ですよ。1人のために10人の未来をつぶしていいんですか。どっちが将来の日本のためになりますか。もう一度、冷静に考えてみてください」 母親「誰が画像を持ってるか分からない、みんなが持っているかもしれないという状況で、学校に通うというのはとても怖くてできないと思う」 教頭「怖くないです。僕なら怖くないですよ。僕は男性なので、その気持ちは分かりません」 |
教頭はナンバー2に出世するだけあって、教育風の高邁な言葉を口にする。イジメではなく、「単なる悪ふざけ、いたずらの延長」とした。5月の連休中に公園で集まる約束をしてすっぽかされた翌日に母親がイジメではないかと電話した際、担任が「ふざけて呼び出しただけ」とイジメを否定してから入水未遂を図った2019年6月22日の翌日まで1カ月半も経過、学校側は調査に乗り出し、自慰行為の動画や性的な画像の送信の事実を把握し、2019年8月29日の夕方に謝罪の場を設けるまでに2カ月余が経過、十分に聞き取る時間があったはずで、上級生男の「単なる悪ふざけ、いたずらの延長」といったこの手の主張が、既に触れたように学校の聞き取りにイジメ加害者がイジメを否定する口実として通例化していることを十分に承知の上での結論ということになったはずだ。
だが、上級生側が「単なる悪ふざけ、いたずらの延長」だと主張したとしても、その主張どおりに当該女子生徒が悪ふざけやいたずらだと認めるかどうかである。入院中で聞き取ることができなかったとしても、認めるかどうか、当該女子生徒の立場に立って想定する義務が学校側にある。最初に画像と動画の送信を受けた同じ中学校の先輩男子Aは二人で共有すべき秘密を同じ中学校の上級生男子Cに話し、CはY中学校のEに話して、Eは自分もと考えてのことだろう、当該女子生徒に画像、その他の送信を求めて成功し、それをLINE仲間に拡散している。当該女子生徒がこのような事実をどこまで知り得ているかどうか分からないが、Eが当該女子生徒に画像等の送信を求めたとき、Aが画像と動画の送信を受けていること、そのことをCから聞いたこと等を話しているはずだから、、Aが当該女子生徒を騙したかどうかは別にして、こういった漏洩行為は事が秘密を要すれば要する程、"暴露"に相当することになり、一連の暴露は当該女子生徒の存在を軽んじた行為、人格を無視した行為そのものとなり、心理的な攻撃の意味合いを取って、イジメの範疇にいれなければならないことは既に述べている。
だが、教頭は「単なる悪ふざけ、いたずらの延長」だとした。そして「もうこれ以上何を望んでいるんですか」の物言いで謝罪すればもう終わりだといった姿勢を取っているが、当該女子生徒がこの結論で納得するのかどうか、問題の経緯と共に学校・校長が慎重に考え尽くしたのかどうかは脇に追いているようにしか見えない。
母親が娘のトラウマとなることを恐れてのことだろう、「じゃあ娘の記憶を消してください」と要求すると、「頭おかしくなっちゃったんですか、病院に行ったほうがいいですよ」と答えているのは秘密としておくべき自分事を先輩男子に見せてしまったこと、それを先輩男子が共有すべき秘密とせずに他人に暴露してしまったことが当該女子生徒の心の傷になるような出来事ではないと見ているからで、要するに「単なる悪ふざけ、いたずらの延長」として当該女子生徒も受け入れている、納得していると見ているからで、このことを裏返すと、彼女を被害者と見ずに双方して合意のもと、性的興味と性的欲求を満足させ合った猥褻事案と見ているからにほかならない。要するに見る・見させることでお互いに性的な快感を愉しみ合った、ただそれだけのことだと。
但し母親が「じゃあ娘の記憶を消してください」と要望したのは学校が出した結論に当該女子生徒が納得していることを想定した判断を伝えていないからであって、想定などしていないのだから、伝えようがないのだが、もし伝えることができていたなら、母親の要望に対して教頭は「頭おかしくなっちゃったんですか、病院に行ったほうがいいですよ」と言うはずはなく、「是非、納得してくださいよ」と言ったはずだ。
要するにイジメではない、「単なる悪ふざけ、いたずらの延長」に過ぎない猥褻事案だとするには当該女子生徒自身も納得していなければならない結論でなければならないが、この要件を省いてあくまでもイジメではない、猥褻事案に過ぎないとしていることになる。
教育者としての頭を整えるところにまでいかずにおかしな頭になっているのは自分の方だとは気づかずに母親の頭は病院に行って診てもらわなければならない程に異常で、自分の頭は至極正常だと判断した。学校教育者として真っ当な頭の持ち主だから、「加害者にも未来があるんです。10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。10人ですよ。1人のために10人の未来をつぶしていいんですか。どっちが将来の日本のためになりますか。もう一度、冷静に考えてみてください」とこれ以上ない真っ当な考えで10人と1人の未来を比較して、1人の未来よりも10人の未来の方が大切だ、10人の未来を潰すわけにはいかないが、10人の未来のためには1人の未来は潰してもいいということになるようなことを平気で言い、1人の未来よりも10人の未来の方が将来の日本のためになると暗に10人の未来のためには1人の未来は犠牲にしてもいいということが口にできる。
生徒一人ひとりが異なるそれぞれの命を持った個別の異なる存在と見ることができずに数で見て、数の多い方に優先順位を置く。本人たちにとって、それぞれに大切な「未来」である。10人の「加害者にも未来がある」としたら、当該女子生徒にも「未来がある」。当然、「10人の未来」のために1人の未来を潰していいという論理は成り立たない。教頭は教育者としてのどういった権利があって一人ひとりの“未来”を比較の俎板に乗せることができたのだろうか。
イジメは自分が生きて在る存在であるのと同様に相手も生きて在る存在であることを無視して、その命を痛めつけることによって成り立つ。教頭は当該女子生徒にしても生きて在る存在であることを考えることもできずに10人のみを生きて在る存在として扱っている。これは明らかに当該女子生徒の命に対する痛めつけであって、イジメそのものとなる。
母親が「誰が画像を持ってるか分からない、みんなが持っているかもしれないという状況で、学校に通うというのはとても怖くてできないと思う」と抗議すると、教頭は「怖くないです。僕なら怖くないですよ。僕は男性なので、その気持ちは分かりません」と言ってのけているが、二つの問題を抱えている。一つはこの言葉は当該女子生徒の立場に立って、その心のうちを想像する物言いではなく、自分の立場に立って、当該女子生徒とは関係しない自身の心のうちを見せているに過ぎないことである。学校教育者が自らの学校の生徒の立場に立った想像力を働かせることができない、あるいは働かせようとしないのは無視という心理作用をある意味仕向けていることになり、学校教育者としての立場上励まなければならない生徒との信頼関係の構築に関わる部分の職務放棄を見事に成し遂げていることになる。
二つ目はこの手の職務放棄が生徒一般に向けた日常的な姿勢であるなら、教育者失格そのもとなるが、一般の生徒を除いた特定の生徒にだけ向けた姿勢であるなら、依怙贔屓の罪を犯していることになり、この依怙贔屓によって生徒一般に向けた信頼関係構築もニセモノとすることになるという点である。
記事は地元の月刊誌が当該女子生徒の2019年6月22日の自殺未遂(入水未遂)の背景にいじめがあったことを報じたと伝え、この報道に対する学校側の対応を描写している。ネットで調べたところ、地元紙は「2019年9月発売号」となっているから、2019年8月中の発行と思われる。
学校の保護者宛配布プリント「ありもしないことを書かれた上、いわれのない誹謗中傷をされ、驚きと悔しさを禁じ得ません」
当該女子生徒は転校後不登校となり、ネットで知り合った友人に自分が受けたイジメを告白する。
「会う度にものをおごらされる」
「外で自慰行為をさせられる」
「性的な写真を要求される」
「死にたいって言ったら『死にたくもないのに死ぬって言うんじゃねぇよ』って言われて自殺未遂しました」
次にネットでライブ配信する運営者に相談していた本人の肉声を紹介している。
「いじめを受けてたんですけど、いじめの内容が結構きつくて。先輩からいじめられてたんですよ。先輩にいろんなものおごったりとか、変態チックなこともやらされたりとかもした。自分の方でなかなか納得がいかないっていうか、処理できないっていう気持ちになってしまってて、外に出ることがつらくて体力もなくて、学校に行くだけの体力もなくて、行っても吐きそうになってしまったりだとかあるから、どうなんでしょう、みたいな。人が怖いし、人と話すのも苦手だし、人に迷惑かけるのも怖いし、人に迷惑かけることとかがいけないことだって思っているふしが私の中にあって、そういうのにトラウマがあって、もう学校自体に行けなくなってしまって、学校に行くためにはどうしたらいいんだろうって考えたときに、何も自分じゃ思いつかなくて。学校側もいじめを隠蔽しようとしていて」
転校は2019年9月。学校が保護者宛にプリントを配布した以後と思われる。本人の肉声部分の最後に「学校側もいじめを隠蔽しようとしていて」とあるから、本人が川への入水未遂を起こした翌日に母親が学校にイジメではないのかと掛け合ったときの学校側の対応を知らされていたり、プリントの内容を知ることになっていたと窺うことができる。
但し2019年4月から5月にかけての連休中のある日に出かけるつもりもない先輩3人と公園で合う約束をさせられて、出かけようとして母親に止められ、母親から「いじめられてないのかい」と聞かれた際、「どこからがいじめっていうか分からない」と答えている。当時はイジメとまでは認識できていなかったことが上級生男女との上下関係、その従属的位置から解放されて冷静に自分を見つめることができるようになり、イジメと認識できるようになったという解釈もできる。
「NHKクローズアップ現代+」は教頭に直接取材を申し込んだ。第三者委員会の調査中を理由に応じて貰えなかったが、2021年10月末に教頭が文書で回答してきた。
「私が回答することにより調査に影響を与えることが懸念されることから、回答を差し控えさせていただきます」
調査は本人の証言のみを鵜呑みにはしない。関係者全員の証言を突き合わせて、その中からどの証言に正当性を見い出せるか検討を加えつつ真相を拾い出していく。イジメではないとしているなら、そのことに添う証言を誰に何を話しても、真相解明の任に当たる構成員が余程の予断を持ってさえいなければ、正当に評価するはずである。正当に評価といっても、事実とするに値するか、値しないかの取捨選択は受けるという意味での正当な評価なのは断るまでもない。要するに教頭はイジメでないとしている自身の証言が否定された場合、「クローズアップ現代+」が取り上げた母親への対応から、その可能性が高いのだが、教育者失格の烙印を押されることになる恐れから、下手に口を利くことができない閉塞状況に追い込まれていて、回答を差し控えるという体裁の対応しかできなかった可能性を窺うことができる。
記事は、〈自殺未遂後、転校したものの不登校が続いていた爽彩さん。いじめの記憶に苦しみ、心的外傷後ストレス障害=PTSDと診断されていました。〉と書いている。要するに病院でPTSDのカウンセリングを受けることになった。だが、その甲斐がなかった。
〈ことし(2021年)2月13日。ネット上で知り合った友人に、こう告げました。
「ねぇ。きめた。きょう死のうと思う。今まで怖くてさ。何も出来なかった。ごめんね」
その日の夕方5時ごろ、母親が1時間ほど家を空けた間に爽彩さんは部屋に上着を残したまま行方不明となりました。
爽彩さんが発見されたのは、1か月以上たってから。自宅からおよそ2キロ離れた公園で、雪の下から凍死体となって見つかりました。〉――
最近、生命保険のコマーシャルでも大活躍している教育評論家の尾木直樹がゲストとして招かれ、イジメについてウンチクを傾けている。「ウンコを傾けている」ではない。誤解がないように。ネットで調べたら、10年以上も前の2011年8月からイオン『24色カラーランドセル』、日産自動車、小学館雑誌、インフルエンザ薬、進学塾、チューインガム等々のコマーシャルで活躍している。教育評論家としての発言が説得力があり、全国の父母の信頼を得ていて、日本の教育の発展に役立っているから、その影響力が商品購買にも貢献することが買われて、コマーシャルでも大活躍ということになっているに違いない。
井上裕貴アナ:ここからは、教育評論家の尾木直樹さんに加わっていただきます。尾木さんはどう受け止めましたか。 尾木直樹:どきどきするほどつらくて、爽彩さんは6月に自殺未遂をしてSOSを発信しているわけですよね。本人がつらい、いじめだ、助けてと叫んだら、今はいじめとして認めるというのが「いじめ防止対策推進法」、法的にもちゃんと定義されているんです。だから学校の先生が判断するのではなくて、本人が言ってきたらいじめと捉えて動きましょうと。それをやっていないということが僕は許せないです、とんでもないと思います。 それからもう一つは、やはりSNSの怖さですよね。4月に希望に燃えて入ってきたのに、6月にはもうすでに自殺未遂を起こしてしまうわけです。そういうふうに引っ張っていったのはSNS、LINEがすごく影響していて、今は24時間、ほかの中学生とつながれるわけです、広域に。その圧力たるやすごいものなんです。それは昔と全然違います。それから撮られた写真が拡散されたり、行為をやらされただけでも屈辱でプライドはずたずたになっているはずなんです。それなのに、その拡散の恐怖、誰が持っているかも分からない恐怖。これはひどい時代になったなと。SNSの怖さというのを思い知らされました。 井上裕貴アナ:尾木さん、なぜいじめと認定することがこんなにも難しいのでしょうか。 尾木直樹:はっきり言えば構造的な問題です。教育委員会に訴えても握り潰されたと、ほかの事案でいっぱいありますよね。でも、僕ら内部にいた人間から言えば、教育委員会と学校はコインの裏表で一体なんです。もうちょっと具体的に言いますと、教育委員会に勤めている指導主事という方たちがいるわけです、指導する立場の方。その方たちはそのまま定年退職を迎える例は極めて少なくて、ほとんどが中学校や小学校の教頭先生や校長先生、つまり管理職になって現場に行くんです。その現場に自分が行くかも分からない学校で、ちょっと問題が起きているというところにきつい指導はできないんですよ。自分がお世話になるかも分からない。自分がそこに赴任したときにみんなから反発を食らっちゃいけないというので、どうしてもやはり甘くなるし、教育委員会も何々中学校で校長をやったら次は教育長になるとか、そういうルートが全国的にずいぶんできちゃってるんですね。だから表裏一体だということですね。 井上裕貴アナ:繰り返される中で、どうしていったらいいんでしょうか。 尾木直樹:やはり大事なのは、事なかれ主義に陥っているのをどうしていくのかということなんですけれども。今、相談活動は文科省もすごく頑張っていて、24時間のLINEでの体制とか整っているんです。相談を受け付けるということも相談に乗ってもらえるということもありがたいですが、いじめられている子どもたち、あるいはいじめをまだ受けていない子どもたちにとってもやってほしいのは、ストップしてほしいんですよ。つまりいじめは、いじめっこが100%悪いんです。いじめをしなければいじめの被害者は出ないし、つらい思いをする人もいなくなるんですよね。だから、いじめの被害者を生まないように「加害者指導」をするということ。この力量を教育的に学校現場や教育委員会はつけなければいけない。これは絶対的な条件ですよね。それからもう一つ言えば、相談活動だけではなくて「介入活動」、介入にすぐ入れるように。例えば大阪の寝屋川市というところがやっているんですけど、市長部局に監察課というのを置いて、解決するまで面倒を見ると。もちろん学校も支援しながらですけれど、おやりになっている。解決まで面倒を見るという体制を作ってほしいなと思います。 井上裕貴アナ:介入と、加害者指導と。 尾木直樹:そうですね。 保里小百合アナ:新たな被害を生まないためにですよね。 尾木直樹:そういうことが含まれた「いじめ防止対策推進法」の改正にも着手できると、理想かなと思いますね。 保里小百合アナ:尾木さん、今後、第三者委員会による徹底した調査が求められるわけですけど、これ以上遺族の方を苦しめないために何が重要でしょうか。 尾木直樹:一番大事なのは、いじめ防止対策委員会の調査委員会のメンバーが多様性に富んでいるということ。例えば、旭川市内ばかりのメンバーで弁護士を占めてしまうのではなくて、もっとほかのところからも多様に入ってくるというので、爽彩さんたちの無念さを晴らすためにも絶対真相究明できるような多様な第三者の調査委員会活動をしてほしいなと思います。期待しています。 井上裕貴アナ:語りきれませんけれど、ぜひお母さんのインタビュー記事のことばにも皆さん触れてみてください。今夜はどうもありがとうございました。 尾木直樹:ありがとうございました。 |
尾木直樹は「いじめ防止対策推進法」の正しい運用方法やSNSの怖さ、教育委員会と学校の馴れ合い関係、その他を発言しているが、仕組みや手続きや現状の解説にとどまっている。イジメ対応の殆どが事前防止ではなく、事後対応となっている現状では、このことは「いじめ防止対策推進法」がさして役に立っていないことを証明することになるが、少なくとも自殺に至らしめてしまうイジメ事案は学校・教師が全てと言っていい程に事後対応でさえも満足に機能させ得ない生徒管理にあることに起因していることを考えると、先ずは事後対応を十分に機能させる方法の模索から始めなければならない。このことは学校教育の現場を外から見ることのできる立場にある教育評論家が問題の本質がどこにあるのかを的確に捉えて、模索の任を特に担っているはずである。
事後対応を機能させるためには現在起きているイジメをキャッチする初動対応を素早く感知・発動させて、イジメという命の痛めつけを最悪な状態に持っていかないための命の危機管理を事案に即して実践することが必要となるが、この必要性を満たすためには全て学校・教師の生徒という存在を一個一個の命として捉えることができるかどうかの感性に委ねられているはずである。成績や運動能力や容姿の良し悪し、あるいは動作の反応の程度等で命というものに差別を置かずに一個一個の命であるということを受け入れることができたとき、それぞれの命を粗末にはできない方向に教師それぞれの感性は自ずと敏感に反応していくことになる。どこかの教頭のように「加害者にも未来があるんです。10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか」と命に差別をつけることはないだろうし、差別をつけなければ、もしイジメに遭っていたらという思いを強くすることができて、その命を守るために手を最大限に尽くすことになるだろう。だが、命に差別をつけたためにその命を守る方策を頭に浮かべることさえしなかった。イジメや体罰に関わる生徒の死は多くの場合、そういった教師の犠牲という形を取る。
〈本人がつらい、いじめだ、助けてと叫んだら、今はいじめとして認めるというのが「いじめ防止対策推進法」、法的にもちゃんと定義されているんです。だから学校の先生が判断するのではなくて、本人が言ってきたらいじめと捉えて動きましょうと。それをやっていないということが僕は許せないです、とんでもないと思います。〉――
そうしている学校も数多く存在しているのだろう。だが、イジメを受けて自殺したり、不登校になったり、転校していく生徒が通う学校ではそうしていないか、初期的にはそうしていても、事後対応を間違えるかして招くことになる態様であることは明らかなのだから、「僕は許せないです、とんでもないと思います」と憤るだけで済ますことができるわけではなく、長年学校教師を続け、教育評論家となってテレビ等の放送媒体や雑誌などの活字媒体を通して教育問題について幅広く発信、イジメについても見たり聞いたりの幅広い経験を通して構築した知識を広く紹介し、それらの発信力が評価を得てコマーシャルでも大活躍しているのだから、自らの言葉でイジメかどうかは「いじめ防止対策推進法」に則って初期的には生徒本人の判断を最優先に尊重するというルールを学校・教師がごく当たり前の知識・情報として確立できるよう言葉の発信に努力しなければならないはずだが、単に憤っているだけでは教育評論家としての情報発信の姿勢が疑われることになる。
つまり尾木自身の「本人がつらい、いじめだ、助けてと叫んだら・・・・・」云々は自らの認識としていたことだろうから、当然、何度も情報発信していたはずだが、自殺等の死が絡んでくる重大なイジメ事案の発生後の同じ発言は役に立っていなかったことを再び情報発信しただけの証明で終わることになり、このことが繰り返される可能性は尾木直樹にしたって否定できないだろうから、その情報発信力は教育評論家としての自身の知名度程ではないことになり、このことに思い至らないようなら、尾木直樹は単なる役立たずな解説を垂れ流しているだけの存在になる。
教育委員会の指導主事は小中学校の教頭や校長として転出したり、中学校の校長が教育長へと起用されるケースがあり、そういった相互の人事交流を無事維持するために教育委員会として「きつい指導はできない」事なかれ主義に陥っていると「僕ら内部にいた人間」としての経験を解説しているが、教育評論家というものはそういうものなのか、やはり解説だけで終えている。その上、イジメがなくならない現状とイジメ対応の殆どが事前防止ではなく、イジメが起きてから対策に取り組む事後対応となっている現状にあることを無視し、「いじめは、いじめっこが100%悪いんです。いじめをしなければいじめの被害者は出ない」とこれ以上ない当たり前の道理を言ってのけるだけで済ましている。学校・教師が当たり前の道理を当たり前とすることができていないから、イジメがなくならず、イジメの被害者が延々と出てくるのであって、当たり前の道理を学校・教師が当たり前の道理とできるように事前防止の有効な手立てを模索・提示するよう努めることこそが肝心要のことであるはずだが、そういった模索・提示を行った形跡とその効果は見えてこない。最近では生命保険の印象の方が強い。
「いじめの被害者を生まないように『加害者指導』をするということ。この力量を教育的に学校現場や教育委員会はつけなければいけない。これは絶対的な条件ですよね」
これは事後対応の公式論であろう。多くの教育評論家が何度も繰り返し言っていて、既に手垢がついているはずだ。だが、イジメを受けて自殺したり、不登校になったり、転校していく生徒が跡を絶たないという現実は尾木直樹が上記言っていることを「絶対的な条件」とし得ない学校、事後対応の公式論としていない学校が数多く存在することの証明でしかない。母親は娘がイジメられているのではないのかと学校に掛け合ったが、対応した教頭は取り合わなかっただけではなく、「10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか」と1人の未来の価値を否定した。このように事後対応の公式を全然実践できていない学校の態度を議論するためにゲストとして招かれた。当然、このような学校が今後とも出てくる可能性とこういった学校からこそ、イジメを受けて自殺したり、不登校になったり、転校していく生徒が出てくる可能性の両方を頭に置いた議論の進め方が求められているはずだが、頭に置かずに事後対応の公式論だけで役立たずにも済ませている。
「それからもう一つ言えば、相談活動だけではなくて『介入活動』、介入にすぐ入れるように」と言っていることも事後対応の公式論であって、実践できている学校の例を挙げているが、実践を思いつかない学校にどう思いつかせるか、思いつかせるためには教育委員会と学校との馴れ合い関係を断ち切ることも必要で、どうしたら断ち切ることができるのか、これらを可能としていく議論にまで進む必要があるが、そこまで進まない議論で終わっている。
勿論、こういった議論を進めたとしても、実践できない学校を皆無とすることはできないだろうが、イジメを少しでも減らしていくためにも実践できない学校に絞った実践させるための議論、公式論ではない議論が必要で、その必要性に気づかないままに公式論だけをコメントする教育評論家は自らの役目を相当程度放棄していることになる。
また、今後事後対応の公式を実践できない学校が出てきたとき、実践させるための議論が行われていたにも関わらず事後対応の危機管理を満足に機能させることができずにイジメ自殺やその他の被害を出した場合と行われないままに出した場合とでは意味合いが異なってくる。前者の場合は出したことの責任は後者の場合よりも遥かに重くなるだろう。重くなることのメッセージを発し続けることで事後対応の危機管理について常に注意を払わせることの効果が期待できて、その効果が
イジメ被害の抑止に繋がる可能性は否定できない。
女子アナが尾木直樹の単なる事後対応の公式論を新たな被害を生まないための方法論と取ると、あるいは買い被ると、尾木直樹は「そういうことが含まれた『いじめ防止対策推進法』の改正にも着手できると、理想かなと思いますね」と答えているが、本人は最初に「いじめ防止対策推進法」が現行に於いて機能していないことを口にしていて、このことはすでに触れたようにイジメ対策が主として事前防止ではなく、事後対応となっている事実が証明していることからも、どのような改正が行われても、それを"理想"とするのは甘いと言わざるを得ない。
大体が親の虐待によって幼い子どもを死なせてしまう児童虐待の防止は児童相談所が最前線での防波堤を担っているのであって、児童虐待防止法ではないのと同じようにイジメ防止の鍵を握るのは、あくまでも学校・教師の姿勢にかかっている。このことも既に触れているが、イジメという命の痛めつけに敏感になれるかどうかは学校・教師それぞれの感性に掛かっている。いくら法律が立派であっても、学校・教師がイジメというものに鈍感であったなら、法律は機能しないだろうし、事後対応も、危機管理としてある決め事への取り掛かりが後手後手にまわって、満足な行く末を見ることはないだろう。
学校・教師がイジメに敏感であることができている心の状況は生徒という存在を一個一個の命として捉えることができているかどうかにかかっている。このような心の状況にあれば、イジメが身体的・心理的な攻撃を継続的に加えて相手に深刻な苦痛を与えることを定義の一つとしている以上、その攻撃は身体的・心理的に相手の命を痛めつける行為そのものということになって、生徒それぞれがあるべきとしている命に対するどのような痛めつけも、見過ごすことはできないようになる。見過ごしてしまったなら、生徒という存在を一個一個の命として見ることができていないことになるからなのは断るまでもない。生徒という存在を一個一個の命として常に捉えていき、イジメ・体罰=人為的な命の痛めつけと看做していく習慣が身についたなら、イジメも体罰も、その解決に敏感になって、命の痛めつけからの解放を図らざるを得なく。
イジメの疑いがある事案が発生した場合、あるいはイジメられているといった訴えがあった場合、学校がイジメかどうかの確認を怠たったりして事後対応を機能させることができずに生徒を転校、あるいは不登校、最悪の事態として自殺に追いやったとしたら、今回の場合は先輩男女が当該女子生徒の命を痛めつけ、死に追いやった自殺演出者だとすれば、教育委員会や学校にしても、特に校長・教頭は命の痛めつけを見過ごしたことによって自殺演出者たちの共犯者に加えなければならない。
当然、一般社会は学校社会の管理者の地位にある校長・教頭・教師たちに対して学校社会の構成員である生徒たちは一個一個の命を持った存在であり、それぞれが自分の命を持って生きて成長し続けている人生の途上にある、そうである以上、そのような成長を阻害するどのような命の痛めつけも許してはならないというメッセージを発信し続けなければならない。生徒を一個一個の命として捉えることができなければ、教育者の資格はないと。
また、メッセージは「どのような命の痛めつけも許されない」とするのではなく、「どのような命の痛めつけも許してはならない」としなければならない。前者は学校・教師の主体的意志の関わりを後者程には強く要求していなことになるからである。
勿論、このメッセージは学校・教師が自分たちの道理とするだけではなく、全ての生徒一人ひとりが当たり前の思い・当たり前の認識、道理そのものとするように学校・教師は教育していかなければならない。「生徒誰もが一個一個の命を持ち、生きて成長し続ける存在であって、それを邪魔する権利は誰にもない。誰かをイジメることはその誰かの命を痛めつけていることになる」と。「命を痛めつけられたら、その命は悲鳴を上げる。それを想像できないような想像力の貧しい人間ではあってならない。自分がイジメられて、自分の命が悲鳴を上げて、初めてイジメは命の痛めつけだと実体験に基づかなければ気づかない程に人間関係に冷淡であったはならない」と。
教師が生徒にこのように教えることによって教師自身がこのことを日々学び、日々認識していくことになる。イジメというもの、命の痛めつけがどこかで始まっていないか、常に注意を払うことになるだろう。万が一、気づかないうちに始まっていて、あとで気づくことになったなら、イジメ=命の痛めつけのこれ以上の放置に学校教育者として鈍感ではいられなくなるだろう。あらゆる知恵を絞って、生徒がその生徒なりに持ち、その存在を支えている生徒独自の命を守ることに全力を上げざるを得なくなるだろう。
(1)旭旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
《旭川市教育委員会第三者委員会(旭川市いじめ防止等対策委員会)の「中間報告」》
(3)旭川女子中学生イジメ自死に見る学校教育者ではない人間の学校社会でののさばりと教育評論家尾木直樹のイジメ防止に役立たずな解説
《「文春オンライン」記事に見る校長の教育者としての姿とイジメの定義変更のススメ》