NHK総合テレビが8月10日(2011年)に続けて放送した「シリーズ証言記録 市民たちの戦争『封印された大震災』」と「シリーズ証言記録 市民たちの戦争『“人間爆弾”桜花』~第721海軍航空隊~」を視て、つくづく原爆は軍部による人災だと思った。
なぜなら、制空権・制海権共に失い、戦争続行の余力を既に失っているにも関わらず、自己能力を客観的且つ冷静に省みる自省心を欠いていたために日本にとっては物資・人命共に消耗戦と化していた戦争を一億総玉砕の本土決戦の掛け声だけ勇ましく惰性で続けていく過程で原爆を投下されたからだ。
自己能力を客観的且つ冷静に省みる自省心を欠いていたのは国力・軍事力・工業力ガリバーのアメリカを相手に戦争を仕掛けたこと自体が証明している認識性であった。
軍部は一億総玉砕の本土決戦でどのような勝算を客観的且つ具体的に描いていたのだろう。もし描いていなかったとしたら、いわば勝利する成算もなく、一億総玉砕の掛け声だけであったとしたら、合理的判断能力を全く備えていなかったことになる。
実際には合理的な判断能力も計画性も欠乏させていた。単に掛け声だけで、いわば精神力だけを頼りに戦争を遂行した。精神力の源は世界のどの国にも存在しない天皇が持つ“万世一系”の系統であり、それゆえに天皇の血を他よりも優れているとした優越的存在性とその優越的存在性に支配された日本国民の民族優越性という明治以降に作られた新しい神話であったろ。
こういった神話が作られ、それを信じること自体が合理的判断能力を欠いている証拠に過ぎないし、また合理的な判断能力に基づかない精神力は決して合理的な実体的行動を伴うことはない。
「シリーズ証言記録 市民たちの戦争『封印された大震災』」は戦争末期の昭和19(1944)年12月7日午後1時36分発生の東南海地震によって最も大きな被害を受けた軍需工場に動員されていた13、4歳の学徒の悲劇を扱っている。
マグニチュードは7.9。全半壊した家屋、約5万4千戸。死者・行方不明者1232人。
当時東海地方は軍需工場が集中していて、全国の中学校や女子学校から10代の学徒が動員されていたという。最大の被害を出した軍需工場とは愛知県知多半島にある半田市の日本最大の軍用機メーカー中島飛行機。
総面積270万平方メートル。従業員2万9千人。部品工場から滑走路まで完備した一貫生産工場であり、(1943年1月工場開設から地震発生の1945年7月までに)1400機(余)生産。工場の主力機は偵察機「彩雲」と攻撃機「天山」。共に世界最高水準を誇る機体だったと解説している。
要するにお国のために最大限尽くしていた。
解説者が次のように述べている。
「真珠湾攻撃以降、航空機は常に勝敗のカギを握っていた。日本軍は開戦当初、優れた航空戦略によって快進撃を続けたが、昭和19年になると、アメリカ軍の圧倒的な物量を前に大敗を続け、戦力を消耗していく日本軍にとって、航空機の増産は緊急の課題だった」
そうした事態を受けて、海軍は航空機生産数を一気に2.5倍に引き上げる増産計画を立案。熟練工が次々に戦地に送られて生じることとなった熟練工不足を昭和19年8月公布の「学徒勤労令」に従って全国から集められた10代の少年少女で埋めることとなった。
当時のニュース(一部聞き取れない)「造れ、造れ、主戦場フィリッピンへ 敵アメリカを叩き、日本の翼を数多く送るのは我々の義務だ」
幼い少年少女が日の丸を印刷した手拭いを頭に締めるシーン。半田市には750人の学徒が全国各地から集められたという。
経験のない学徒を大人の熟練工に取って変わらせようとしたのだから、既に合理性を欠き、土台無理な戦争継続の段階にあったはずだ。インターネット記事によると、朝鮮人も動員されていたらしい。
工場で学徒たちを待っていたのは劣悪な労働環境。航空機生産という全く未経験な作業である上に長時間労働を課せられる。
三宅仁氏(当時の学徒)「319.5時間。ひと月です」
1カ月300時間を越える勤務が認められて毎日12時間以上に亘って働くことを求められた。300時間を越えると表彰される。
表彰は「お国のために尽くした」という意味を持たせていたのだろう。だが、実体はどう表彰しようとも、人命軽視・国家優先の思想によって成り立たせている。
三宅仁氏「初めは国のため、国のため。もう、いわゆる『生産戦士』て言うてね。モノを造る、戦うサムライですね。生産戦士の勢いで行ったんですけども、一ヶ月も経ったら、もう厭になってね、早よう帰りたいばっかりです」
当時学徒だった鶴田寿美枝さんが付けていた日記に記された食事。
朝食 味噌汁
昼食 馬鈴薯 玉葱 豆
夕食 馬鈴薯
朝食 味噌汁
昼食 味噌汁
夕食 味噌汁
鶴田寿美枝さん「朝、味噌汁ですね。それだけです。それでご飯がこれくらい(両手を小さく水を掬うような形にする)のお茶碗に一杯ね。ウン、軽く入ってます。味なんて、そんなもう、おー、おいしいだ不味いだの言ったらね、生きていけませんからね。
あの当時はただ、お腹がすいてしょうがない。家に帰りたい、ええ、そういうことしかありませんでしたね、ええ」
工場側は食事にかかる経費まで削って、国のために尽くす。
学徒たちの過酷な重労働に耐え、空腹に耐え、不味い食事に耐えたこの勤労にしても自らの命を削っているという意味に於いて、「お国のために命を捧げる」の一形態であろう。
常にお国が中心だった。
そこへM7.9の地震が襲った。昭和9年12月7日午後1時36分、いつもどおりに昼食を終え、午後の仕事に就いた直後。
関東大震災に匹敵するマグニチュウードで、激しい揺れを観測した地域は東京から大阪まで13府県に及んだという。被害集中地域は東海地方。最大の犠牲者を出したのが中島飛行機の半田製作所。
鶴田寿美枝さん「レンガ造りの工場が砂を砕くようにダダダダーッと 全部潰れちゃう。そん中に人がいるんです、たくさん」
工場の倒壊で亡くなったのは学徒96人を含む153人。死亡者全体の1割を超える犠牲。
軍用機の工場に被害が集中した原因の一つは軍事機密を守るために出入口が特別な設計になっていたからだという。
片山美奈さん(当時半田女学校4年)「秘密工場だもんだから、戸が簡単に開かないの。ガックンと、こうね、1枚、1間の木戸でね、後どこか、引っかかるのか。そういうふうになっていて、で、手を離すと、ストンと落ちるね。そういう、ね、木戸だったんだけど」
長坂宗子(当時豊橋高等女学校)「何しろ、スパイに覗かれないようにとか、そういうふうに聞いておりましたけどね。ただでさえ狭い出入口を、あのー、まあ、外から見えにくくするためにね、互い違いに。そこへ新たにレンガの塀を造ったりして。
それがとても逃げ出すときの妨げになったと思います」
当時調査に当った地震学者の報告書。中央気象台『極秘 東南海大地震調査概報』
元紡績工場を飛行機製造工場に改造するに当って空間確保のために柱や壁を除去していたため、建物自体の強度が著しく弱体化していた事実。
長坂宗子(当時豊橋高等女学校)「人間の命がどれだけ大事かというようなことはちっとも考えなしで、こういうことになったんだと思いますね。まあ、天災だと言いながら、人災、っていう範囲の方が大きいですよねえ」
13、14際の子どもを満足な食事も与えず、1日12時間以上も労働させた、当然満足な睡眠を与えることはなかったに違いない。そういった環境を強いたこと自体が既に人間の命がどれだけ大事かということを考えない行為。国家しか考えなかった。国民は国家の道具と化していた。
地震発生から数日後の関係者だけを集めてひっそりと行われた亡くなった学徒の葬儀での愛知県知事の弔辞。
愛知県知事「今回の震災による殉職は戦死に他ならない。学徒の務めは増産に一途(いちず)に身を挺することにある。今こそ報国の必勝を信じ、聖戦完遂の礎となれ」
死んだ学徒よりも生き残った学徒に対する戦意高揚を優先させている。自身の言葉を具体的な結果を生み出す成算を思い描いていた上で発していたのだろうか。
国民の命を大切にしない国家とは改造に当って柱や壁を撤去して自ら強度を喪失させた工場同然に脆いはずだ。
サイパン陥落が1944年7月7日。制海権・制空権共に失い、本土空襲が始まった。東南海地震はそれからちょうど5ヵ月後の同じ7日。国の体力を失っていながら、子どもたちまで軍需工場に動員して、国力や軍事力が桁違いに大きなアメリカを相手に無理の上に無理を重ねて戦争をやっと維持していた。
そのことの認識がなく、日本民族優越性のみで自分たちを支えていた。
地震の事実は封印された。日本民族優越性を損なうどんな事実も認めることはできなかったに違いない。翌日12月8日は真珠湾攻撃から3年の記念日。新聞の一面を大きく飾ったのは昭和天皇の軍服姿の写真。
地震に関しては、「昨日の地震 震源地は遠州灘」の見出しで、発生の事実を伝えるのみで、具体的な被害については一切触れていなかったと番組。
天皇の写真とは日本民族優越性を物の見事に象徴させている。その陰に隠すように地震の事実を小さく置いた。
新聞も沈黙を守り、被災地の学徒たちにも厳しい箝口令が敷かれた。
土屋嘉男氏(当時学徒・現俳優)「絶対これはね、人に言っちゃあいけないと。地震のこと。秘密に。だから、うちへ葉書を出すんでも、地震がありましたなんで書いちゃいけない。検閲だから、全部手紙は。
だからね、当時はどういう地震なのか、震源地はどっちなのか、なーんにも分からない」
被害が秘密にされたことで、被災地は孤立無援に陥る。破壊された街の復興は一向に進まない。
国が秘密とした理由。戦時中国の情報操作を担っていた内務省検閲係の勤務日誌、極秘 『内務省○勤務日誌』
震災の報道に関わる禁止事項が事細かに列挙されている。中でも厳しく規制したのが戦争遂行に関わる軍需工場の被害。
国は戦力低下がアメリカに知られることを畏れたからだという。
だが、地震を隠し終えたとしても、国力がない上に、今まで築いてきた国力さえも相当に失っていたのだから、この戦力低下の事実は順次戦闘に影響していく。最早何を以ても埋め合わせることはできないはずだからだ。
尤も番組は国と軍の情報隠蔽、報道規制はムダな努力に終わったことを伝えている。震災から3日後の12月10日にアメリカ軍が撮影した偵察写真には地震の被害が克明に写し出されていたという。震災の実態を正確に把握していた。
土屋嘉男氏(当時学徒・現俳優)「B29が来て、キラキラキラーッと、思ったら、ビラ。拾ってみたら、これがまたショックだった。毛筆で、筆で(筆で書く真似をする)。
地震の次は何をお見舞いしましょうか、って書いてあったんです』
記者「アメリカは知っていた」
土屋嘉男氏(当時学徒・現俳優)「知っていた」
ビラ投下3日後の12月13日、アメリカは大規模な空襲に踏み切る。標的は地震で被害を受けた名古屋市の航空機工場。猛爆撃によって、工場は壊滅的な被害を受ける。
番組は言う。ここに軍の増産計画の破綻は決定的となった。
にも関わらず、日本は勝利する成算もない戦争を継続した。
☆1945.3.10 東京空襲死者10万人
☆1945.4. 1 沖縄戦始まる
(Wikipedia〈沖縄戦での全戦没者は20~24万人とされる。沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表 によると、日本側の死者・行方不明者は188136人で、沖縄出身者が122228人、そのうち 94000人が民間人である。〉
☆1945.7.26 ポツダム宣言
☆1945.7.28 日本は軍部圧力によってポツダム宣言「黙殺する」との声明を出す
☆1945.8. 6 広島に原子爆弾
☆1945.8. 8 ソ連参戦
☆1945.8. 9 長崎に原子爆弾
☆1945.8.14 ポツダム宣言受諾
地震の事実が正確に明らかにされたのは戦後十数年を経たのちだという。
国民の命を軽んじて、国体護持(天皇制維持)の名目のもと国家のみを成り立たせるべく戦争を遂行した偏りの継続性が招いたアメリカによる原爆投下としか見えない。
日本軍部の圧力が日本政府をしてポツダム宣言を黙殺させた。その続きとしてある原爆投下である。まさしく原爆投下は軍部の人災としか言いようがない。
国民軽視・国家優先の偏りは「シリーズ証言記録 市民たちの戦争『“人間爆弾”桜花』~第721海軍航空隊~」にも見て取ることができる。
1944年7月、特攻のみを目的とした新兵器として開発が進められる。爆撃機の腹の下に装着し、目的地まで運搬され、標的艦の近くで海上に投下、加速用のロケットエンジンを噴射して標的艦に操縦士共に突撃する。
但しである。開発された特攻機、人間爆弾桜花は標的を航空母艦や戦艦等の大型艦としていたために機体の先端に一発で撃沈可能となる重さ1.2トンの大型爆弾を装着。桜花の機体重量と併せて2トンを超えるそ重量物を爆撃機が腹の下に抱えて目的地まで飛行するため、逆に爆撃機の飛行速度を低下させることと、最早制空権を失っていたために目標に到着する前に撃墜されることが多ったという。
しかも最初の桜花作戦はアメリカ軍の艦船は日本軍の攻撃によって打撃を受けているという誤った情報に基づいて計画された上に掩護の戦闘機が既に戦闘機不足に陥っていて、必要掩護数の半数近くの43機しか集めることができなかった。
この戦闘機不足だけではなく、正確な情報を海軍全体で共有できてなくなっている状況自体が最早戦争継続が無理な段階にきていることの証明しかならないはずだが、戦争は継続される。
攻撃隊は目標地点110キロ手前で待ち構えていたアメリカ軍機と遭遇。戦闘開始から20分後に出撃した爆撃機、桜花、掩護の戦闘機すべてが撃墜される。
この1回の作戦で160人を超える搭乗員たちの人命が失われた。
桜花作戦は沖縄で日本軍の組織的戦闘が終了するまで続けられたという。アメリカ軍発表によると、10回に亘る桜花作戦で撃沈されたのはアメリカのフリゲート艦一隻のみ。
桜花作戦で失われた命は腹に抱えて運搬する役目の爆撃機、そして掩護の戦闘機、桜花それぞれの搭乗員合わせて確認できるだけで430人だという。
日本海軍が敗色濃い戦局打開の切り札と期待して開発したということは勝利に向けた戦争継続を目的として桜花に賭けたということだろうが、その戦果がたった一隻のみだったという徒労は勝利に向けた戦争継続が最早効果のない段階に到達していたことを明確に意味していたはずだ。
勝利に向けた戦争継続を可能としていたなら、そもそもからして特攻兵器など必要としなかったろうし、持つことができる兵器で戦争継続は可能と言うことになる。
彼我の戦力を客観的に判断して、日本にはもう勝利に向けた戦争継続は不可能だと認識する能力を欠いていた。この能力欠如は1.2トンの爆弾と機体合わせて2トン以上もある桜花を腹に抱えた爆撃機を飛行速度を落として出撃させるという作戦考案に見て取ることができる合理的判断能力欠如に対応した認識性と言える。
戦前の日本国家はかくまでも国民の命、一般兵士の命を軽んじていた。
一般兵士の場合はその命を軽んじて、その多くを無駄死にに等しい、あるいは犬死に等しい戦死を見舞っておきながら、靖国神社に参拝して、「お国のために戦って尊い命を捧げた」と英霊と祀って顕彰する。
あるいは「(国を)命を投げ打ってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません。その人の歩みを顕彰することを国家が放棄したら、誰が国のために汗や血を流すかということです」 (安倍晋三)と国家奉仕の価値づけで国民を関係づける。
国家ありきのこの倒錯意識にしても、人権を合理的に認識づける判断能力を欠いているからこそできる国家優先の性懲りもない思想であろう。
改めて言う。原爆投下は日本軍部による国家優先・国民の人命軽視の延長線上に現れた人災だと。
|
日本人の精神力が足りなかったために、戦場においても工場においてもアメリカ人の精神力に負けたのだと考えていたとしたら、それは日本人の誤りである。
日本人には、意思がない。だが、恣意がある。
だから、日本人には能動はないが、願望はある。
米空軍が日本の都市を爆撃し始めたころ、航空機製造業者協会の副会長は「ついに敵機は我々の頭上に飛来してまいりました。しかしながら、我々航空機生産のことに当たっておりますものは、かかる事態の到来することは常に予期してきたところでありまして、これに対処する万全の準備をすでに完了いたしております。したがいまして、何ら憂慮すべき点はないのであります」と述べた。
すべてが予知され、計画され、十分に計画された事柄であるという仮定に立つことによってのみ、日本人は、一切はこちらから積極的に欲したのであって、決して受動的に他から押し付けられたものではないという、彼らにとって欠くことのできない主張を持続することができた。
日本人がどこで希望的観測の罠に落ちるのか、現実と願望 (非現実) を取り違え精神主義に走るのか、きちんと振り返り反省することはほとんど不可能である。
それは、日本語に時制がないからである。
日本語脳においては、現実と非現実を異なる時制を使って表現することができない。
現実を現在時制の内容として表し、願望を未来時制の内容として表すことができれば、それぞれの内容は別世界の内容となり、混乱することはない。混乱しなけれぱ゛キリスト教のような宗教になり、混乱すれば原理主義となる。
だがしかし、我が国では、一つの事態の肯定と否定は、同じ世界のこととして言い表される。
人々は、無為無策でいながら現実が願望へと突然変化 (反転) することをひたすら願うものである。
言霊の効果の出現を望んでやまない。
必勝を心の底から祈願すれば、悲惨な玉砕もあっぱれな勝ち戦に見えてくる。
実現不可能な欲望の思い込みが強すぎて、現実直視は困難になる。
これが、日本人の精神主義の本質である。
日本人は、祈願を他力本願・神頼みとしておおっぴらに認め合っている。
問題解決の能力はないが、事態を台無しにする力は持っている。
この閉塞状態が日本人の知的進歩の限界となっている。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812