日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

あの事件が残したもの

2009-06-09 11:28:53 | 徒然
秋葉原で起きた無差別殺人事件から、昨日で1年が経った。
事件を起こした被告に対して、同情の余地などはないし、許されるべき行為ではないコトだけは確かだ。

ただ、事件をきっかけに露となった、歪な日本の実体があったことも確かだろう。
その背景を探れば探るほど、経済だけではなく社会全体が抱えていながら、見てみぬ振りをしていた部分があったのではないだろうか?

それは、その後の「派遣切り」という言葉が広く知れ渡るようになるきっかけでもあったし、日本の基幹産業の脆弱さのようなモノを知らされる一面でもあったように思うのだ。
というのも、彼が働いていた職場は「世界のエクセレントカンパニー」であるはずのトヨタ自動車の関連企業。
しかも、その企業はトヨタの中でも最高車種と言われるクルマを作っていたのだ。
何も知らない多くの人たちからすると、最高車種=高い技術者集団が丁寧に作りあげたクルマという印象を持っていたのに、現実は数多くの派遣社員が携わり、企業の都合で「お役ごめん」と、熟練した派遣社員・期間雇用社員を使い捨てていたという実態が明らかになったのだ。
それは、言い換えると「日本のものづくり」の現実とイメージの差が大きくあるコトや、「世界のエクセレントカンパニー」といえども、収益を上げるためには「人材ではなくモノ」としてコストカットの対象とし、何とか確保しているという実態だった。

もう一つは、彼らの「自己過大評価」と「疎外感」だ。
今年の初めに起きた中央大学理学部教授殺害事件の犯人とも共通するトコロがあるように感じるのだが、些細なことで疎外感を感じてしまうデリケートさと、相手のことを考えるコトが出来ない想像力のない無神経さが同居している若者像だ。
彼らに共通することは、ある時までは優秀な生徒だった。
ところが一旦挫折をしてしまうと、挫折理由を他に求め「自分の力不足」や「不適格さ」に目を向けようとしない。
過去、何度も就職試験や仕事の失敗をしてきた私などは、「縁が無かったのだ」と気持ちを切り替えたり、「自分の実力不足」を悔やんだりすることで、様々なコトを学んできたような気がする。
そしてそれは、私だけではなく多くの人たちが経験し、学んできたコトのはずだ。
ところが彼らは、何故か挫折理由を考えるのではなく、「(自分を)認めない企業や社会が悪い」という発想になってしまう。
そこにある「自分は出来る」という過大な自己評価が、あるからなのではないだろうか?
そして「傷つきたくない」から人とは一定距離をおきながら、「注目され話題の中心になっていたい」という相反する感情が混在しているようにも思えるのだ。

しかし考えてみれば、今の幼稚園のお遊戯会で「桃太郎」をすると、園児全員が桃太郎になり、鬼役は先生がするという。
そこにはキジもサルも犬もいない。
何故なら、親御さんから「何故、家の子供が鬼(やキジ、サル、犬)なのか?」とクレームがあるからだそうだ。
主役ばかりで脇役のいない劇は無いと思うのだが、そのような中で育ってくれば「自分が中心ではない」コトに、疎外感を感じても当然なのかも知れない。
それもまた、社会の歪みだと思うのだ。