日経新聞のWebサイトを見ていたら、なかなか興味深い記事があった。
日経新聞:物価高、モノからサービスに 4月基調41年ぶり4.1%上昇
「物価高」という言葉から連想されるモノは、何だろう?
身近なところで考えるのであれば、ガソリンや日用品、あるいは食品などの値上げによる「物価高」なのではないだろうか?
そしてこれらの価格の高騰は、ニュースなどでも取り上げれらる事が多い。
その為「物価高」といった場合、これらの具体的なモノを思い浮かべるのだ。
ところが、サービスと呼ばれる分野で「物価高」という状況になっている、というのが日経新聞の記事だ。
この一見モノとサービスとの「物価高」の関連が無さそうに見える見出しだが、実は深い関連がある。
例えば、ガソリンの値上げによって、物流の要となっているトラック輸送の為に使われるガソリン代に直接的に影響してくる。
企業や個人の家庭で消費されるガソリンよりも、物流の為のトラック輸送で使われるガソリンの方が多いとすれば、わずかなガソリンの値上げであっても消費量が多い分、その影響は大きくなるのは、当然だろう。
他にも電気料金などのインフラ関連も高騰している。
それも、企業を動かす為に必要な経費の一部のはずだ。
様々なモノが値上がることで、それらのモノを使って提供されるサービスもまた、値上がるのは当然なのだ。
しかし。直接的で目に見えるモノに対しては、敏感に反応するのに対して、目に見えないモノ=サービスに対しての「コスト意識」が、低くなりやすい。
それが上述したように、自分が直接的に使うガソリン代には敏感であっても、「物流コスト」としてのガソリン代には意識が向かない。
その為、日経の記事のように「物価高が、モノからサービスへ移っている」と書かれると、「あれ?!」と感じてしまうのだ。
もう一つ考える必要があるのでは?と感じることは「サービス」という言葉だ。
商取引の場面で「これはサービスで・・・」という話をされることがある(はずだ)。
この時の「サービス」という言葉の意味は「無料、あるいは、オマケ」というニュアンスが少なからず含まれている。
提供する側にとっては、費用が掛かっていることであっても、提供される側にとっては、「費用」という意識はほとんどない。
その為に「サービス=安価で良い」という、感覚を持ってしまうのだ。
そのような感覚の元に行われる商習慣が、今でも当たり前のようになっている、ように感じる事が少なからずある。
それらの「サービス」は、「時間と労力、何等かの経費」が加わって提供されている。
ガソリン価格や電気やガス、通信などにかかる費用はもちろん、人の手も加わり「サービス」が、提供されている。
とすると、この「物価高騰」の一部は、有形無形関係なく様々なモノ・コトを提供する人達の労力と時間を含まなくてはならない、ということにもなる。
人はどうしても目に見えるモノを自分の感覚で判断しがちだ。
そこで「価格の安い・高い」を判断するのは、当然だと思う。
思うのだが、もう少し「それらのモノ・コトが自分の手に来るまでの過程と携わる人たち」を想像することで、経済全体の動きが見えてくるのではないだろうか?