■干支は猪年と京都五山の探訪
京都の散策で趣き深いのは古都という安易な言葉ではなく日本の歴史全てとの連綿とした繋がりではないでしょうか。
摩利支天尊天建仁寺禅居庵、京都は東山の雲龍天井絵画で高名な建仁寺の塔頭寺院でしてイノシシで有名な寺院です。塔頭寺院の名の通り建仁寺とは通路で結ばれていまして、今年の干支は猪年、その際の建仁寺拝観に際し壮大美麗の雲龍絵図は先日紹介しました通り。
狛猪、参拝に詣でますと境内は万全という程に猪殿がお迎えしてくれまして、猪年の風情を想う社殿は秘仏として元朝中国にて彫像されました摩利支天像に因み摩利支天が猪と共に顕現した故事に由来するとのことです。摩利支天尊天禅居庵とは巡れば巡る程趣き深い。
禅居庵、元弘年間の1331年に建立された塔頭で南禅寺住持大鑑禅師清拙正澄へ信濃国守護の小笠原貞宗が寄進した寺院です。時代は後醍醐天皇の親政を求める元弘の乱により鎌倉幕府討幕運動が進み、鎌倉末期から室町時代へ武家と公家との動乱の時代ではありました。
小笠原貞宗は元弘年間1333年、鎌倉の戦いで幕府へ反旗を翻し新田義貞に加わり北条高時ら北条一門は自害し鎌倉幕府は滅亡します。この後の建武の新政により更に動乱時代は続くのですが論功行賞により信濃国守護となった事で小笠原貞宗は寺社寄進の機運が高まる。
建仁寺の塔頭寺院、京都五山の一角であり東山の清水寺や八坂神社といった観光過多の寺院からも指呼の距離にあります。ただ、禅居庵を参拝しますと無論、平日の調整時間に心の旅という趣きにて歩みを進めました次第ですが、思いのほか静寂がつつんでいました。
大鑑禅師清拙正澄は中国元朝下の福州から鎌倉時代に来日し北条氏に迎えられました。信濃開善寺始め多くの寺院建立に尽力し、信濃は飯田に生まれた小笠原貞宗は大鑑禅師へ帰依する深い縁がありまして、北条氏興亡の最中にも、南禅寺住持の大鑑禅師へ寄進を行う。
聖観音菩薩を御本尊に奉じる禅居庵、大鑑禅師は南禅寺にて延元年間の1338年に自らの旅立ちが近い事を悟り、京都五山別格南禅寺からここ禅居庵を終の棲家と定めこの地で悟りと瞑想の日々を送ったと伝えられ、翌年に元朝から日本へ動乱を渡り歩いた高僧は旅立つ。
小笠原貞宗も信濃守護職の家督は子に譲るとのちにそのまま晩年を京都で過ごします。小笠原流礼法として弓馬術に礼式を加えた礼法は後醍醐天皇の天覧も受けたという。当時の洛中に関する記録に詳しくは残りませんが、隠居後は禅居庵を重く拝観したのでしょうか。
元朝中国では北方騎馬民族の統治下に信仰と身分の土台となる価値観が二転三転する中に訪日、そして迎えた鎌倉幕府の衰亡に直面すると共に期せずして寺院建立の結ぶ縁から変動の最中に安寧を見い出したという構図、歴史は困難とそれを乗越える仁愛を感じますね。
御堂の中では撮影謝絶です、成程理解できるのですが人を拒むかと云えばそうではなく椅子が置かれていまして御本尊との対面としまして、永らくの御本尊拝観に心休まる場所でもあります。冷涼な風は空調か構造かは定かではありませんが、京都の夏は非情に厳しい。
聖観音菩薩、その廃刊に際しては撮影謝絶の掲示と共に監視カメラや警備会社の警備に関する説明が、一瞬物々しさを感じましたが思い起こせばここは建仁寺の塔頭寺院、そして建仁寺では十年ほど前に仏像盗難の不心得者が居り仏罰の前に逮捕された事を思い出す。
塔頭寺院ではありますが寺院というものもしかし神社の情緒を湛えています。拝観の際には参拝の流儀にて思わず柏手を叩き二礼二拍手の作法で臨みそうではあるのですが。しかし明治維新と維新政府への忖度から始まった神仏別離、当時は混乱凄かっただろうと思う。
臨済宗建仁寺派の寺院ではありますが、摩利支天、日天菩薩の一部を奉じる。大鑑禅師清拙正澄が元朝中国にて彫像した仏像で、聖観音菩薩を御本尊として奉じつつもう一つ御本尊として摩利支天堂に奉じられていまして京都府指定有形文化財として指定されています。
小松地蔵尊と荒熊大権現と三光威徳天、禅居庵には建仁寺の塔頭寺院で在りつつ神仏分離の余韻を思わせる風情と共に一種広大ではない伽藍には独特の気風を想う事ができます、撮影は謝絶ながら御本尊の聖観音菩薩を間近に拝観でき、御堂は暑い日々にも冷涼な風が。
建仁寺の塔頭としての連綿たる歴史ですが一度徹底的に破壊されています、法華一揆による山科本願寺焼き打ち、天文法華の乱での延暦寺衆徒による洛中洛外数十の寺院焼き討ち、安土桃山時代の天文年間には京都に騒擾の不安が満ちた時代に兵火にて灰燼に帰しました。
美しい京都の継承を、とは敢えて名は伏せますが普段は皇位威光や伝統遵守に否定的な革新政党の掲示が。しかし考えてみれば京都が現状固定となったのは明治時代の帝国ニッポンが世界へ観光地として示した以降であり、元々京都は荒廃と再興を繰り返す日本の先端都市だったのですよね。
秘仏摩利支天を奉じる寺院は令和時代の今日にはその伽藍は広く開かれています。一時荒廃した伽藍は後に、織田信秀、尾張の大名により再建となった禅居庵はその子織田信長によっても庇護され、得御時代から明治時代にかけて継続的に再建と再興が続けられ今日に至ります。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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京都の散策で趣き深いのは古都という安易な言葉ではなく日本の歴史全てとの連綿とした繋がりではないでしょうか。
摩利支天尊天建仁寺禅居庵、京都は東山の雲龍天井絵画で高名な建仁寺の塔頭寺院でしてイノシシで有名な寺院です。塔頭寺院の名の通り建仁寺とは通路で結ばれていまして、今年の干支は猪年、その際の建仁寺拝観に際し壮大美麗の雲龍絵図は先日紹介しました通り。
狛猪、参拝に詣でますと境内は万全という程に猪殿がお迎えしてくれまして、猪年の風情を想う社殿は秘仏として元朝中国にて彫像されました摩利支天像に因み摩利支天が猪と共に顕現した故事に由来するとのことです。摩利支天尊天禅居庵とは巡れば巡る程趣き深い。
禅居庵、元弘年間の1331年に建立された塔頭で南禅寺住持大鑑禅師清拙正澄へ信濃国守護の小笠原貞宗が寄進した寺院です。時代は後醍醐天皇の親政を求める元弘の乱により鎌倉幕府討幕運動が進み、鎌倉末期から室町時代へ武家と公家との動乱の時代ではありました。
小笠原貞宗は元弘年間1333年、鎌倉の戦いで幕府へ反旗を翻し新田義貞に加わり北条高時ら北条一門は自害し鎌倉幕府は滅亡します。この後の建武の新政により更に動乱時代は続くのですが論功行賞により信濃国守護となった事で小笠原貞宗は寺社寄進の機運が高まる。
建仁寺の塔頭寺院、京都五山の一角であり東山の清水寺や八坂神社といった観光過多の寺院からも指呼の距離にあります。ただ、禅居庵を参拝しますと無論、平日の調整時間に心の旅という趣きにて歩みを進めました次第ですが、思いのほか静寂がつつんでいました。
大鑑禅師清拙正澄は中国元朝下の福州から鎌倉時代に来日し北条氏に迎えられました。信濃開善寺始め多くの寺院建立に尽力し、信濃は飯田に生まれた小笠原貞宗は大鑑禅師へ帰依する深い縁がありまして、北条氏興亡の最中にも、南禅寺住持の大鑑禅師へ寄進を行う。
聖観音菩薩を御本尊に奉じる禅居庵、大鑑禅師は南禅寺にて延元年間の1338年に自らの旅立ちが近い事を悟り、京都五山別格南禅寺からここ禅居庵を終の棲家と定めこの地で悟りと瞑想の日々を送ったと伝えられ、翌年に元朝から日本へ動乱を渡り歩いた高僧は旅立つ。
小笠原貞宗も信濃守護職の家督は子に譲るとのちにそのまま晩年を京都で過ごします。小笠原流礼法として弓馬術に礼式を加えた礼法は後醍醐天皇の天覧も受けたという。当時の洛中に関する記録に詳しくは残りませんが、隠居後は禅居庵を重く拝観したのでしょうか。
元朝中国では北方騎馬民族の統治下に信仰と身分の土台となる価値観が二転三転する中に訪日、そして迎えた鎌倉幕府の衰亡に直面すると共に期せずして寺院建立の結ぶ縁から変動の最中に安寧を見い出したという構図、歴史は困難とそれを乗越える仁愛を感じますね。
御堂の中では撮影謝絶です、成程理解できるのですが人を拒むかと云えばそうではなく椅子が置かれていまして御本尊との対面としまして、永らくの御本尊拝観に心休まる場所でもあります。冷涼な風は空調か構造かは定かではありませんが、京都の夏は非情に厳しい。
聖観音菩薩、その廃刊に際しては撮影謝絶の掲示と共に監視カメラや警備会社の警備に関する説明が、一瞬物々しさを感じましたが思い起こせばここは建仁寺の塔頭寺院、そして建仁寺では十年ほど前に仏像盗難の不心得者が居り仏罰の前に逮捕された事を思い出す。
塔頭寺院ではありますが寺院というものもしかし神社の情緒を湛えています。拝観の際には参拝の流儀にて思わず柏手を叩き二礼二拍手の作法で臨みそうではあるのですが。しかし明治維新と維新政府への忖度から始まった神仏別離、当時は混乱凄かっただろうと思う。
臨済宗建仁寺派の寺院ではありますが、摩利支天、日天菩薩の一部を奉じる。大鑑禅師清拙正澄が元朝中国にて彫像した仏像で、聖観音菩薩を御本尊として奉じつつもう一つ御本尊として摩利支天堂に奉じられていまして京都府指定有形文化財として指定されています。
小松地蔵尊と荒熊大権現と三光威徳天、禅居庵には建仁寺の塔頭寺院で在りつつ神仏分離の余韻を思わせる風情と共に一種広大ではない伽藍には独特の気風を想う事ができます、撮影は謝絶ながら御本尊の聖観音菩薩を間近に拝観でき、御堂は暑い日々にも冷涼な風が。
建仁寺の塔頭としての連綿たる歴史ですが一度徹底的に破壊されています、法華一揆による山科本願寺焼き打ち、天文法華の乱での延暦寺衆徒による洛中洛外数十の寺院焼き討ち、安土桃山時代の天文年間には京都に騒擾の不安が満ちた時代に兵火にて灰燼に帰しました。
美しい京都の継承を、とは敢えて名は伏せますが普段は皇位威光や伝統遵守に否定的な革新政党の掲示が。しかし考えてみれば京都が現状固定となったのは明治時代の帝国ニッポンが世界へ観光地として示した以降であり、元々京都は荒廃と再興を繰り返す日本の先端都市だったのですよね。
秘仏摩利支天を奉じる寺院は令和時代の今日にはその伽藍は広く開かれています。一時荒廃した伽藍は後に、織田信秀、尾張の大名により再建となった禅居庵はその子織田信長によっても庇護され、得御時代から明治時代にかけて継続的に再建と再興が続けられ今日に至ります。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
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