■明日からの一年を見据えて
大晦日ですよそう本日は大晦日だ。

2023年、いよいよ、というところです。2021年の段階でここ龍安寺を拝観しました際には、ほんとうに無人でした。独り占め、というわけかといいますと、実は稀人といいますか、一人二人、いや一組二人、という感じで距離をおいてぼおっと庭園を眺めていました。

2022年を思い出しますと、そう、人も多くなりました、という表現は用いましたけれども、考えてみるとかなり疎らな印象で、なるほど、感染症法上の五類変更は今年の話なのですね。一年というものは早いという表現が有りますが、それ以上に一年でも変化はある。

COVID-19,そのはじまりの当初は報道などでスペインかぜの事例を挙げていましたが、あの際は世界人口の5%ほどが死亡するかなり深刻な感染による流行禍でしたので、それよりも類似事例は1957年のアジアかぜ新型インフルエンザだ、と考えていましたけれども。

実際は、アジアかぜよりも人口比の被害は深刻で、スペインかぜ程ではないが、比較対象としてはまさに百年ぶりという感染症による流行禍となっていた訳です。これを考えますと、結局この庭園をじっくり眺めるという時間は、不思議な非日常の最中でもあった訳で。

五類変更により、これは実質的な政府終息宣言と考えていいのだろうか、例外は数多いですけれども、ほぼほぼ疫学的な脅威は終息したといえるのでしょう。ただ、社会や国際政治への影響、経済への影響となりますと、顕在化するのはこれからなのかもしれない。

コロナ対策、世界中はまず社会を存続させるために都市封鎖と給付金という措置を連発し、これはアメリカが代表的な例ですが、記録的な人件費上昇と結果としてのインフレに直結、このインフレ鎮静化を目指した政策金利上昇が、間違いなく世界の景気後退を突き付ける。

都市封鎖も含め生じた経済の停滞は払拭されたようにみえますが、我が国製造業では未だに半導体不足が問題を突き付けています。そして、停滞の四年間というべき空白期を取り戻すための反動が、社会や経済に無理を強いてしまったようで、錯誤さえ感じるものです。

マクロな影響を示さずとも、そう、コロナ最初の年に大学に入学した学生は今年度卒業を迎えるもので、今年、葵祭を撮影した際にとある近所の大学の学生さんが、今年四回生ですが葵祭の撮影は初めてです、と嬉しそうにしていまして、なるほど、そうなのか、と。

長かったのだけれども、例えばかつて休日でも学生であふれていた大学は、いまや、用が無ければ進んで研究などに施設を利用する事はない、という閑古鳥が、2023年の今でさえも続いている事が不思議でしたが、いまではこれこそが非日常ではなく日常なのだなあ。

人命の喪失という点で被害を抑えられた日本ですが、死者の行列を回避できただけに人命以外の打撃は実のところ被害のおおかった各国とそれほど差異はないにもかかわらず、その被害に気付いていない、外科重傷者が負傷に気付かず致命傷となるような印象を受ける。

出口戦略ばかりを考えていた為に、出口に達した事で目的を達したように思えているのかもしれないけれども、出口の先の世界は元とは違うものに変質しているにもかかわらず日常は変っていないと考える事には、少々無理があるのではないか、とも感じるのですよね。

身の回りも街並みも社会も元通り、とは、終息宣言なんてものと考えて別物が醸成されてしまっているわけで、これを痛感したのが2023年というものとなりました。すると、きたる2024年は、どんな一年となるのかよりもどんな一年とするのか、考えたいものです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
大晦日ですよそう本日は大晦日だ。

2023年、いよいよ、というところです。2021年の段階でここ龍安寺を拝観しました際には、ほんとうに無人でした。独り占め、というわけかといいますと、実は稀人といいますか、一人二人、いや一組二人、という感じで距離をおいてぼおっと庭園を眺めていました。

2022年を思い出しますと、そう、人も多くなりました、という表現は用いましたけれども、考えてみるとかなり疎らな印象で、なるほど、感染症法上の五類変更は今年の話なのですね。一年というものは早いという表現が有りますが、それ以上に一年でも変化はある。

COVID-19,そのはじまりの当初は報道などでスペインかぜの事例を挙げていましたが、あの際は世界人口の5%ほどが死亡するかなり深刻な感染による流行禍でしたので、それよりも類似事例は1957年のアジアかぜ新型インフルエンザだ、と考えていましたけれども。

実際は、アジアかぜよりも人口比の被害は深刻で、スペインかぜ程ではないが、比較対象としてはまさに百年ぶりという感染症による流行禍となっていた訳です。これを考えますと、結局この庭園をじっくり眺めるという時間は、不思議な非日常の最中でもあった訳で。

五類変更により、これは実質的な政府終息宣言と考えていいのだろうか、例外は数多いですけれども、ほぼほぼ疫学的な脅威は終息したといえるのでしょう。ただ、社会や国際政治への影響、経済への影響となりますと、顕在化するのはこれからなのかもしれない。

コロナ対策、世界中はまず社会を存続させるために都市封鎖と給付金という措置を連発し、これはアメリカが代表的な例ですが、記録的な人件費上昇と結果としてのインフレに直結、このインフレ鎮静化を目指した政策金利上昇が、間違いなく世界の景気後退を突き付ける。

都市封鎖も含め生じた経済の停滞は払拭されたようにみえますが、我が国製造業では未だに半導体不足が問題を突き付けています。そして、停滞の四年間というべき空白期を取り戻すための反動が、社会や経済に無理を強いてしまったようで、錯誤さえ感じるものです。

マクロな影響を示さずとも、そう、コロナ最初の年に大学に入学した学生は今年度卒業を迎えるもので、今年、葵祭を撮影した際にとある近所の大学の学生さんが、今年四回生ですが葵祭の撮影は初めてです、と嬉しそうにしていまして、なるほど、そうなのか、と。

長かったのだけれども、例えばかつて休日でも学生であふれていた大学は、いまや、用が無ければ進んで研究などに施設を利用する事はない、という閑古鳥が、2023年の今でさえも続いている事が不思議でしたが、いまではこれこそが非日常ではなく日常なのだなあ。

人命の喪失という点で被害を抑えられた日本ですが、死者の行列を回避できただけに人命以外の打撃は実のところ被害のおおかった各国とそれほど差異はないにもかかわらず、その被害に気付いていない、外科重傷者が負傷に気付かず致命傷となるような印象を受ける。

出口戦略ばかりを考えていた為に、出口に達した事で目的を達したように思えているのかもしれないけれども、出口の先の世界は元とは違うものに変質しているにもかかわらず日常は変っていないと考える事には、少々無理があるのではないか、とも感じるのですよね。

身の回りも街並みも社会も元通り、とは、終息宣言なんてものと考えて別物が醸成されてしまっているわけで、これを痛感したのが2023年というものとなりました。すると、きたる2024年は、どんな一年となるのかよりもどんな一年とするのか、考えたいものです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)