見ようによっては怖い写真。夫の指のところからトリミングしたら・・・・
キャッ、怖い・・・。
と言うわけで、「100年平安に生きるという事<その2>」の続きです。
遠い大予言より近くのシックスセンス。
やっぱり自分の勘を育てる事は大切な事なのですよね。但し、これは結構デリケートな問題で、既に何言ってるんだと思った人もいるはず。どんなに勘を育てても、数秒前に来る警報と同じで、これが運命を分けたと言うわけではありませんよ。それでも警報と同じで、ないよりはあったほうがいいとは思うのです。だけど問題は、その勘を如何にすれば育てられるのかっってことが分からない事ですよね。
他の事だったら、才能もそうだけれども努力でまかなえる事もかなりあるというのに。ついでなので本線外れながらゆるゆるといってみます。
例えば数学的センス。
もともとの才能もあるけれど、問題を解くときにこのセンスはかなり大切です。問題を解き始めたときに、実は答えは予測し推理されて、それに向けて行動、つまり計算を進めていくのが数学だと思っています。このあらかじめ予測し推理する力が乏しい子供は、問題を読みきれず最初の段階で根をあげるのです。呆れ返ってしまう例としては、問題集でその単元をやっているにもかかわらず、何を使って解くのかも迷うのです。これは数学的センスから程遠い。でも実はこの予測し推理して問題を解くと言うのは、数学に限った事ではなくすべての問題に共通している事なのかと思います。
予測し推理する。
あらかじめ、漠然と答えの行き着く先が分かっている。自分の脳は自分が認識している以上に優秀だったりもするのです。問題を解くと言う事は、それを明確化させる検算です。
これの意味が分かっている子供は、はっきり言ってもともと成績がいい場合が多いと思います。
この数学的センス、または数学的勘は、耳を澄まして精神力を高めればアップするものではなくて、大概の場合はその練習量で培われるものなのですよ。
何だ、結局勉強じゃん。
あっ、なんか声が聞こえました。
でもそのとおり。何でもある程度の練習量で培われた確固たるものがなければ、勘など磨かれるわけもないことだと思います。
私はもっと口では厳しい事を言うのですが、ブログだと少しぼかして書くので普通の当たり前の事を言っているようにしか聞こえませんが、それは常識。よっぽどの天才でもなければ、努力なくして基礎であるセンスと言う部分もモノすることなど出来ないのですよ。
でもこの理屈で言うと、シックス・センスだって同じ理屈が通用するんじゃないのかって思いませんか。
私は、それもありだなと思うのです。
でも訓練によって、映画のように幽霊と会話する人になれるかは微妙、いや、まず幽霊の存在や霊の話に行ってしまうので、それはパス。
何かを見通す力、無意識に動く、ぴんと来る、勘が冴えるなど。
それには「知っている」と言う知識が有るか無いか。これ、大きなポイントではないですか。
それらに支えられたとっさの判断力に限って考えてみました。
この震災では多くの映像やインタビューなどが放送されましたが、その中で、ある方の津波体験は非常に印象深かったです。見た方も多かったと思いますが、テレビ関係の方だったと思いますが、タクシーか何かに乗っていて地震に合い、街の中を取材していたのだと思います。ここまでの事はその後が凄かったので忘れてしまったのですが、そのうち水が足元を濡らすほどになりました。
「やばいやばい・・」と言いながら、車の運転手さんにも「車を捨てて」と促し、近くのビルに走って逃げ込むのです。入り口が見つからず、既に上にいた人に窓から入り口を聞き、階段を上がって振り向くと、その階段の真下を川のように水が流れ込んできたのです。もちろんビルの中をです。
この人は助かってインタビューを受けているわけですが、それでもドキドキしました。なぜなら、もし私が同じ立場になってしまったら、この人のように行動が出来るのだろうかと言う、言い知れぬ緊張感を感じたからです。
この場合は、もちろん走るのが遅いとかテキパキ動けないと言う事は差し引いて考えてもらう事にしましょう。
ポイントはすばやく判断できるか否かだと思います。
ここで、先に述べた「知っている。」と言う知識があることが、すばやく判断を下し行動に出る事が出来る基盤を作っているのだと感じました。
水が足元を濡らした程度の時、私は脱兎のごとく走り出す事が出来たのだろうか。私だったら、これから自分に向かってくるものを一瞬立ち止まって、しっかり見ようとしてしまったのじゃないだろうか。そんな不安が動悸を激しくさせたのでした。
右か左か、その判断をとっさに下すとき、知識のあることが、そのスピードを早めるのかもしれないと思ったのでした。
だけどワタクシ、右と思いながら左に行ってしまいそうな人なので、こういう人がいる限り「、知識→とっさの判断→素早い行動」を公式化する事は出来ないかもしれませんね。
最後に、また上に書いたことと相反する事をちょっと書かせてください。
私は映画好き。3月の映画スケジュールは意外と立て込んでいました。今日行かなければ、見逃してしまうだろうなと思っていた映画は、ジョニデの「ツーリスト」。ジョニデの映画はほとんど見ています。3.11は午後から仕事だったので、前日の夜からちょっと頑張って、私的には凄く珍しく10時には家事もやるべきことも終わってしまいました。余裕で映画館に行けるのです。好きな映画に行くときも、結構ふうふう言いながら準備する方なのに、頑張ったのです。ところが行きたくないのです。
「行きたくない・・・何これ。家に居たい、ずっと。何で。」私は自分に不愉快。せっかく頑張ったのに。でもこういう時は、昔から母が行くなと言っていました。
「この映画諦めよう。時には自分の気持ちに正直にって言うのも大切よね。疲れているから出かけるよりは休めって言う事なのかもしれないよね。」と、姉に言ったか自分に言ったかはもう忘れてしまいましたが。お陰でビビリの私は外で自転車、もしくはバスの中であれを体験しなくてもすんだのでした。
ルート君も前日は終日学校に行っていましたが、その日は前日頑張ったから家に一日中いるんだと、その時間も昼寝中だったのです。夕方から仕事のラッタ君も含めて、だからその時、私の傍には子どもがいてくれたのですね。子供が傍にいるということが、私にとっては何よりも安心できる事でしたし心強いことなのでした。
「見通す力、無意識に動く、ぴんと来る、勘が冴える」と言う事は、詰め込まれた知識の脳の処理能力と言う事が、私の結論でもあり持論なのですが、それでも、やっぱり「見えない力」「見えない何か」に私たちは守られているときがあると、時々思わないわけにはいかないなと思うのです。
と言うわけで、つづく。。。。。まだ。