花は散ってしまっても新緑へと変わっていき、命の息吹はちゃんと受け継がれているのですね。(これはこぶしか木蓮か分からなかった元白い花)
つれづれに3月のお纏め日記として、思ったことを中心に綴っていくつもりです。
先日、コメント欄にて今度の原発の自主避難や放射能汚染についての事を書かれたものを頂きました。ああ、みんな話したい。その場所を求めているんだなと思いました。心に溢れそうな想いなどがあったら、「思ったこと」「感じた事」などを、どうぞコメント欄にお書きください。また非表示でと付け加えてくだされば、表示しません。
だけど情報的な事をお書きくださる場合は、必ずソース添付にてお書きください。「聞いたお話」で下さった場合は、私が個人的に「フムフム」とか「へえ」とか感心させては頂きますが、申し訳ありませんが非表示にさせていただきます。
今度のような大きな災害が起きると、いろいろな視点でいろいろな話題が入ってきますが、そこに「予知」と言う分野もあると思います。
科学的予知による一番の成果は、「緊急地震速報」ですね。3.11の後のツイッターで、地下鉄に乗っていたらみんなの携帯が行き成り鳴り出したけれど、みんなが普通の顔をしていたと言うものを目にしました。
私はほとんど家に居るのですが、これは想像するとかなり怖いです。1車両の多くの人々の携帯がいっせいに鳴り出すのですよ。しかも地震速報の音はなんとなく緊迫感がある音ですよね。なんだかゴジラ襲来のような感じがしますよ。
人々が普通の顔をしているのは、成す術もないからだと思うのです。それと同時に、今来ているものは「余震」であると言う認識が、落ち着いた判断を導いているのだと思います。
この「緊急地震速報」は外れる事もありますが、やはり多くの場合は「来るぞ!!」と気構えさせ、わずかばかりの安心感を生み出しているように思います。成す術がないことは変わりませんが、数秒前でも「知る」と言うことは大切な事なのかもしれません。
私の携帯にはそう言う機能がなく、テレビが消えてしまっている時には行き成り地震を感じなくてはいけませんが、知っていたのと知らなかったのとでは、落ち着き度が違うように感じます。
ところが、心は相反しています。知っていたからと言って、成す術を持たないならばあまり何の役にも立たないのではないかと思うのは、科学的ではない予知の方。
今度の地震の後、この大震災を気持ちの悪いほど言い当てていた人がいたことを知りました。知っている人は知っていたその筋では有名な方らしかったのですが、私はその人を知らず、あまりに当たっているので思わず疑ってしまいました。つまり、かなりの記事数のあるブログを何日あって何人あれば作る事が出来るのかと言う風に。
疑り深いと言えばそうかもしれませんが、この方は講演会とかもやっていると書いてあったので、新手の詐欺かもと思うのも、決して愚かなことではありません。でも、そうではないみたいです。上の文と重複しますが、その道では時々話題になっていた方とか。
凄い人ですね。原発に関しても、先に書いてありました。その方の新しい日記では、何とはなしに「虫」の事が取り上げられていましたね。
と、いつもならここですと、→でリンクを貼ったり、そのネット上の住所を書いておいたりもするのですが、今回は止めておきます。ただ凄く気になる方は「照の日記」とか「世見」とかで検索するとでてきますよ。だけど震災以後アクセス数が凄いことになってしまったらしく、繋がりにくくなっているみたいです。
ところで、数行上の文で「あまり役に立たない」と書いたのは、別にこの方の批判ではありません。全体的な科学的ではない予知、または予言のことを、なんとなく大きな括りに入れていってみたのです。と言うよりは、科学的予知である予報も、想定外であったという点から見れば、同じようなものであったかと思います。
もとより予知が役に立つか否かは、それを何処まで信じる事が出来るのかで、その影響力が違うと思います。優れた預言者がいてもその存在を知らなければ意味もなく、知っていてもその傾倒率でやはり行動が変わってくると言うもの。ちょっとと言うか、さながら宗教と類似点があると思います。
そう考えると、今私たちが危険なまでに信じすぎているものは「科学」と言う宗教、もしくは神話だったのかと思ってみたりもするのです。
今の私たちの苦しみは、その信じたものからの裏切り。
それはつまり「原発」の事ですが、それはまた別に書きたいと思っています。
私が科学的ではない予知をあまり役に立たないと思っているのは、自分の経験からのものなのです。
私はそんな大予言でなくても何らかの予知をする人がいると言うのは、信じているのです。身近で言うと自分の母とか。もっと身近で言えば、過去の自分とか。
母は昔、何かあると後出しじゃんけんのように「あの時、そう思ったの。」みたいな事をたびたび言うので、思春期になり反抗期になった頃の私は、とうとう腹を立て、「後から言われると、変な人に感じるし、意味ないじゃない。何かを思ったら先に言って。」と、母に言い渡しました。
ところが母はその後は、そんな私に気を使って先に何かを言うようになったのですが、実はそれをやられると、変な人度は増した感じがしました。しかも社会的に何の有用な事もありませんし。ただ、そんな母ですので、時々不安な事があると「なんか嫌な予感とかする?」とさりげなく聞いてしまうときがあります。彼女が何も感じないと言うと、ホッとしたりして。
また数年前のある日、何日か続けてみた夢が、ことごとく予知夢になっているなと思った私は・・・・
凄く怪しい話になってきましたが、別に信じてくれなくて良いです。その時に見た夢の内容も忘れてしまったので。
ただ、その時の私はちょっと妄想をしました。こう言う力は、何かで鍛えればそれなりの「何か」になるんじゃないかしらと。
そしてその日の夜にまた夢を見たのです。
と、長くなってしまったので続きはまた次回。
「JIN-仁」、見ましたよ。「神さんは乗り越えられる試練しかお与えになんないのです。」って子供が言うとジーンとしちゃうな。でもこの言葉、今はなんかより深く聞こえてきますね。