何気なく通り過ぎてきてしまった時間の中に、とても美しかったと思える風景があったと後から思える時がある。
あの夏の日の花火の夜のような。
☆ ☆
8月29日の土曜日、実家にて姉妹で集まる事にしました。
ただ姉妹で会うだけの事なのに、なんだか長い道のりがあったように思います。
それが2020年なのです !
2月15日に姉夫婦が妹のスノウさんを東京に車で迎えに行って、実家で皆が集まったのが最後です。
(スノウさんは1月に脳腫瘍の手術を受けたばかりだったので)
(その時の記録画像→2月の飾りはお雛様)
2月はコロナに対しては「気を付けなくちゃね。」と言いながら、まだ対岸の火事のような気持ちだったかもしれません。
実家に帰るのにマスク二枚重ねで行ったり、谷中散策にアルコール除菌ウエットティッシュを持参しながらも、行くと言う事に躊躇がありませんでしたから。
その後、4月に自由が丘で会おうと言う約束が、小池さんの会見とその後の緊急事態宣言で果たされず、それが解除された後に再び約束した7月19日も、東京での爆発的な感染拡大でやはり延期になりました。
もう自由が丘で会う事はしばらくは無理だなと感じ、再び義兄に迎えに行ってもらって横浜の実家で会う事が実現したのです。
スノウさんは言いました。
「指折り数えて、楽しみにしていたわ。」と。
ほんの少し前のお盆の頃、おかみが言う事には「GO TO」は良いけれど「帰省」はダメみたいな、何ら説得力のない事を言っていたような気もしますが、訳が分からないので、きっと気のせいだったのだと思います。
とは言いつつも、このような事で油断とスキを見せたくないと、たぶん姉妹の中で一番思っていたのは私だったかもしれません。
なんたって4人姉妹の我が家はちょっと集まっても「密」を作り出してしまう人数になってしまうので、いろいろと気を使いました。
先に着いたスノウさんの娘ちゃんに消毒係になってもらいました。家に着いた者を玄関外で待ち構えて、体の前も後ろも除菌スプレーを吹きかけて消毒してもらうのです。
それから真っすぐに洗面所に行って、用意された使い捨てコップでうがいをし、洗った手もペーパータオルで拭いて、初めてお食事する部屋に入れると言うシステムにしました。
姉と暮らしていると言えども、基本は二世帯住宅なので、ひとり暮らしの母の家は、訪れるたびにいつも不備な部分を感じていました。手が荒れるからと使用してない薬用せっけんとか、ゴミ箱が必要な場所に置いていないとか、いつもならたまにしか訪れないので、嫌だなと感じていた事も黙っていました。だけど今回はそうはいかないと思ったので、やって欲しい事をあらかじめ姉と打ち合わせをして頼んでおきました。
姉はその時骨折中だったのに、完璧にそれを準備していてくれたので、気持ちよく嬉しく思いました。
今回の集まりには、叔父夫婦もやって来ました。何もこんな時にと思われても、今この時でなくてはダメかもしれないと言う「時」と言うのがあって、行きたいと言う申し出を断る事は出来ず、むしろ歓迎いたしました。
メニューは焼肉。
自由が丘で集まろうとしていた時の焼き肉企画が捨てきれずに、それに決まったのですが、骨折中の姉は肉の買い物に行けず、結局私と一番下の名都さんが横浜駅で待ち合わせをして、高島屋でお肉を調達していく係になりました。お肉を15分で買って実家に向かおうと思っていましたが、それが凄い甘い考えで、切って貰ったりなどして、1時間はかかってしまいました。(一人じゃなくて良かったです。)
叔父さんが古いアルバムを持ってきてくれたので、子供時代の話で盛り上がり楽しい賑やかなひと時を持つことが出来ました。
楽しい時間でした。
叔母さんは顔色も良く溌剌としていて美しくも感じました。だけど彼女はこの夏手術をし、どこと場所は忘れてしまいましたが、(ちょっとあまり聞かない場所の)癌だったのです。
「今日はこんなに元気に見えるけれど、明日はこの反動で起き上がれるか分からないんだ。」と叔父さんは小さな声で言いました。また、
「ねえちゃんは(母の事)、僕にとっては母のような人なんだ。ずっと会いたかったけれど、こんな時代になっちゃったので我慢していたんだけれど、やっと会えて良かった・・・・。」とも言い、私は嬉しく思いました。
二人は母を「姉ちゃん」「姉さん」と呼び掛けてたくさんお話をして言ってくれました。やっぱり身内は嬉しい存在だなとしみじみと思いました。
叔父夫婦とラッタさんが帰った後、噂のコンビニに(「横浜でお散歩」「横浜で夜のお散歩」)
花火を買いに行きました。花火を買うと言うのは最初から入っていた計画です。でも行ってみたら、残っていたのは二袋だけで危ない所でした。
そして夕食後は、昼間は密回避で避難のために出掛けていた姪たちが戻って来たので、皆で花火をし、その後甥が一人帰っていきました。お泊り組だけになった後、皆でさっさと入浴タイムを取り、その後はシートパックのパックパーティをしながら、ホラー映画を見ました。顔にシートパックをつけて、「見るのはホラーがイイよね。」と振り向いた名都さんの顔の方がシートが崩れて張れていて、それがよっぽどホラーに見えて、もう私は大笑いwwwww
「笑いものにされた !!」と名都さんが怒っていましたが、鏡を見ないで皆貼ったので、それなりの個性が滲み出て、皆でポーズを取って写真を撮りました。後から見たら、最近それに嵌っていた私は、ぴたっと綺麗に張れていて、なんだか一番面白みに欠けていました。
世の中何が良いのか悪いのか、それは状況によると言う事がたくさんありますね。
一応、私が企画したことは、皆上手くいったように感じて、嬉しく思うのと同様にホッとしたのでした。
☆ ☆
叔父さんがいた時には、一番大きい声ではしゃいでいたスノウさんは、もう花火の時には立ち上がれませんでした。その間ずっとソファで横たわっていました。
姉の姪ちゃんは喜んでいましたが、私は、本当は4人でやりたかったのです。あの遠い夏の日のように。
たった10歩も歩けなくて、花火を見る事が出来なかったスノウさんは寂しそうでした。
それで私は思い出を語ります。
「ずっと昔、まだ子供たちが居なかった頃だったかしら。公園でみんなで花火をしたじゃない。最後の線香花火の時、なんとはなしに4人で円陣になって、思わず『せんこう~花火が欲しいです~♪』と歌いだしたら、皆も合わせて歌いだし、なにげにハーモニーなんか入れちゃって、最後に線香花火がポトリと落ちて、ああ、夏が終わったねとみんなで頷きあったよね。だけどその時、うちの旦那と君の旦那が『なんだ、この人たちは。』『さあ』と言っていたのよね。」と言いながら、二人でちょっとだけフフフと笑い合いました。
私はきっと今年の夏も、みんなでこの歌を歌いたかったのかもしれません。
いつだって未来は輝いて見えていたあの頃のように。
せんこう花火 吉田拓郎