なんだか卑怯だな。
あっ、いや、違うよ。
義経が漕ぎ手を狙った話の事じゃなくて、このシナリオがね。
サイコパス義経とか言ってたけれど、だんだんと彼の事が好きになって来てしまってからの壇ノ浦。
勝つためには手段を択ばずの義経は、ある意味、純粋で、そして甘え上手な子供のよう・・・・
いや、彼はねこ科の人間なんだ。
兄の嫁だとて、甘えてよいのだと思えば膝枕。一目ぼれの女はゲットして、そして「良い事を思いついた。」と戦いのひらめきを見せれば、そこに仁義と言うルールはない。ただひたすらに兄の喜ぶ顔が観たいと言う一念で動いている・・・・・・・ほらっ、これって猫じゃん。ごろにゃん。
壇ノ浦自体は凄い悲劇だと思う。一族と言う大きな括りが滅んじゃうのだものね。だけどまだ義経にこれと言った悲劇が起きてないと言うのに、なんだか涙が零れちゃうんだよ。
彼はここで一世一代の舞を踊り、そして下手へと去って行く運命の人。
八艘飛び、義経、やっていた。次から次へと船を渡って戦ってて、カッコ良かった。
だけどそんな義経を、景時はじっと見ていたのですよね。天に選ばれた男だと。
梶原景時は、吾妻鏡の中でも「讒言の人」と言われ、この人が頼朝にああだのこうだの言い、それによって義経は窮地に追いやられることになっている。
ところがこのドラマの中では、ただの讒言の人ではなかった。義経の戦略に心酔し、ことごとく感心していた景時。一番わかっていると義経にも言わしめさせた景時。
思わず、「なーんだ。仲良しじゃん。」と私は思ってしまった。
なのに、なのにさ、鎌倉に帰ったら、「吾妻鏡」の通りの景時じゃんか。
なんでよ~!?
そう思ったら、景時には景時の理由があったのね。
神に選ばれた男はふたり並び立たないと。
これも景時の、軍神であって心酔しきった義経への愛の形なの ?
いや、彼は後の自分の評価など関係なく、鎌倉の未来を思っていたのよね。
ちょっと戻って壇ノ浦。
安徳天皇入水のシーン。源氏の人々が目撃したように、遠めの音無し。
「水の底にも都があります。」と言う涙シーンは無し。水面に女御たちの打ち掛けの錦が、花のように広がるシーンも無し。
これは平家物語ではなく、鎌倉武士たちの物語だからー。
代わりに浜辺に打ち上げられた、兵士たちの死体が延々と並ぶ・・・・。
そこで血しぶきが付いたままの顔で、寂し気に言う
「この先私は誰と闘えば良いのだ。」が今回のドラマの、一番の名シーンだったように思った。菅田将暉、凄いなぁと、また私はしみじみと思った。
腰越では、涙涙のシーンにも、怒りのシーンにもならず、禁じられていた平宗盛と清宗親子を会わせ、かつて助けてくれた地元の農民との約束を果たす。
皆で芋を食しながら、また違った道もあるのだと、もしも歴史の物語ではなかったら、そんな事も信じてみたくなるラストだった。
あと書き忘れたくない涙ポイントだったのは、頼朝と政子のシーン。
みんなの前では、天皇と三種の神器の宝刀を失ってしまった事をなじるのだが、その夜に政子の所にやって来て、
「とうとう平家は滅んだ。九郎が、九郎がやってくれた。」と感涙の涙を政子と一緒に流す。
ああ、どうしてこの心が兄弟に、ツーツーと伝わらず、複雑になってしまうのだろう・・・・と思うと、また泣くじゃんか。