森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

戦後70年「一番電車が走った」

2015-08-11 02:34:22 | テレビ・ラジオ

 

夫殿が、そっと振り向いて私を見ました。

「なあに」と言うと、

「なんでもない。」と彼は言いましたが、たぶん私が泣いているのかと、ふと思ったのだと思います。

泣き虫な私。

でもなぜか私は全く泣かず、被爆後の豊子と言う少女と同じように表情の乏しい顔をしてドラマを見いっていました。

番組紹介の予告編を見るたびに涙ぐんでいたので、もう泣くのに飽きたと言うわけではありません。

 

このドラマはドラマであってもドキュメンタリーのようでした。

yahooテレビの番組カテゴリーでも、ドラマとドキュメンタリーの両方にジャンルが入っていました。

そして悲惨な場面を前面には出さずに静かなに悲劇を映し出し、復興に馳せる思いも声高には叫ばず、静かに進行していきました。

広島の悲劇に涙するよりも、あのような状況から、わずか3日後に電車を走らせた事に感動もしましたし、その廃墟の街をじっと見つめながら電車を走らせた、わずか16歳の少女の気持ちに寄り添いたくて画面の中にのめり込んでいったのかもしれません。

 

70年前、原爆投下で壊滅したヒロシマの街に奇跡が起きた。被爆からわずか3日後、一台の路面電車が焦土を走ったのだ。人々は復興への希望を込めて一番電車と呼んだ…」yahooテレビの解説です。

そしてyahooテレビからのあらすじです。〈手を抜きました〉

昭和20年、広島では戦地に赴いた男性に代わり、少女たちが路面電車を運転していた。雨田豊子は16歳、電鉄会社の家政女学校で学びながら乗務していた。 前年、軍需省から引き抜かれた電気課長の松浦明孝44歳は、上司と部下の間での板挟みに悩んでいた。8月6日、広島に原爆が投下。二人は生き残ったが、路 面電車は壊滅状態に。会社は本土決戦の物資運搬に備え、復旧を訴えた。大惨事の中、心の葛藤を抱えながら、二人は…。

 

昨年、夫と二人で広島を訪れた時に、路面電車がいまだに走っているのがとっても印象的でした。

かつては東京にも横浜にも走っていた路面電車は、とっても懐かしいものでした。

でも時代と共に消えていきました。

それがまだあの街には現役で頑張っていたのです。

このドラマを見て、それがなぜなのか分かるような気がしてしまったのでした。

分かると書きましたが、それが真実と言うわけではありません。あくまでも私の感覚ですが、いち早く復旧させて人々に希望を与えた路面電車への、この街の人々の愛はそれだけ深かったのではないかと思えたのです。

時代と共に消え去らせたくないものだったのではないかと感じたのでした。

 

胸が痛かったのは、大けがを負った少女を励ましていた、元気そうだった友達があっという間に原爆症で死んでいってしまったところです。その流れは全くドラマでは描かれていなくて、共に負傷した少女を励ましながら宿舎に帰っていく所から、次には全くセリフもなく横たわっているシーンへと移ります。

単なる時間調整の編集だったのかもしれませんが、かえってそれは生きたと思います。

負傷して痛みに耐え苦しんでいた少女は母親が迎えに来て帰って行きます。

その母親が置いていった桃を、

「あとで一緒に食べようね。」と横たわる少女は弱弱しく言うのですが、次のシーンはみんなでその少女を荼毘にふす場所まで運ぶシーンに・・・・。

豊子はその後で、その桃をカバンから取り出して一人で悲しみに耐えながら食べるのです。

このドラマは、日時の説明的な言葉が入りはしますが、そのようなちょっとしたシーンで時間の経過を感じる事が出来て〈「わずかな間に」のような〉素晴らしいなと思いました。

 

あまり意味も分からず、スルーしそうだったシーンに夫殿の解説が入りました。

「このままだと、顔がまっ黒。かわいそう。」と言い、みんなで向きを変えて遺体を落とすシーン。

「火力が足りなくてほとんどが半焼き状態で酷いもんだった。骨までになるまで焼けなかったんだよ。」と夫。

あまり知りたくはなかった情報でもあったのですが・・・・。

 

終戦になって家政学校の少女たちの運転は終了します。

でも卒業証書も出してもらえません。

「解散!!」で終わりです。

卒業証書なんて、紙切れ一枚なのですから、出して欲しかったと思いました。

そこに駆け付けた松浦の豊子との会話で印象的だったのは

「生きている者はみんな見なくちゃいけん。何ものうなってしまうって事はどんなことなのか。」

 

家に帰る途中で、かつては友と戯れた川の中で、豊子は体を洗います。

そしてその川の水の中で、初めて生きていると実感できたのでしょうか。

イキイキとした表情を取り戻して、物語は終わりです。

 

最後に実際の豊子さんとあの時負傷した少女が登場しますが、孫とひ孫に囲まれた幸せな日々を送られている事。

頑張って生き抜いたお姿に思わず微笑みがこぼれました。

 

※      ※       ※

路面電車復旧させる人々の姿に、サンテツの人々の姿が重なりました。

電車を走らせることは、やっぱりとっても大切な事なんだなと思いました。

 

 


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4 コメント

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見ました。 (はなこころ)
2015-08-11 16:21:44
ほおばった桃の
果汁が
たくさんの人の
涙に見えました。

阿部総理も見たかな。

・・はなこころ
返信する
こんばんわ (キミコ)
2015-08-11 22:53:06
広島の市電には元京都の市電も走ってますよね
そして確か神戸の市電もかつて走っていたかと・・・
どちらも私にはなつかしい市電です

そのドラマ見ようかどうしようかと悩んでいる内に時間が過ぎました^^;
私前日の長崎の被爆した子を追ったドキュメントを観て
かぼちゃのような頭の人がヒョロヒョロと歩く・・・
という話を聞いてしまい それで1晩うなされました^^;
変に感受性が強くて困ったもんです

何しろ長崎市電で被爆した小学校の担任の
先生の話をずっと聞かされていたので
益々拍車がかかるんです^^;

どんなにつらくても怖くてもこの話を埋もれさせてはなりません
ディセンターでも終戦時の色んな話を伺いますし
どうもこの手の話題に私は取りこまれているようです(ぁ_ぁ;)
返信する
はなこころ様 (kiriy)
2015-08-12 07:11:54
桃を一人で食べるシーン、なんだかとっても悲しかったです。
それは
>ほおばった桃の
果汁が
たくさんの人の
涙に見えました。

だからなんだって思いました。

ソーリは見てないと思う・・・・、きっと。
返信する
キミコ様 (kiriy)
2015-08-12 07:23:59
かぼちゃ・・・・
ううっ・・・・
それは、私もうなされます。

>何しろ長崎市電で被爆した小学校の担任の
先生の話をずっと聞かされていたので

うんうん。
伝える事は凄く大切。でもそれを子供たちに伝えるには、いつなのか、どのようになのかって言うのもとっても大事な事なんだなって思いました。

私たちは戦争を知らない世代。だからこそ敢えて知っていかなくちゃいけないと思っています。次の世代に伝えるために。

でもそれでも知らなかったことがいっぱいで、もっと義父や父が生きている時に、いろいろな事を聞いておけば良かったと悔いています。
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