またひとり、千代たちにとって大切な人が去っていってしまいました。法秀尼の願いはただ一つ、兄弟が仲良く力を合わせて生きていくこと。
私も男子二人の母なので、時代は違ってもその思いは良く分かります。大体男の兄弟と言うのは仲が良いのか悪いのか、親が見ていても良く分からない所があるような気がします。男と言うのは、兄弟であってもどこかライバルのような所があるのかもしれませんね。少し、女の姉妹が寄り添うのとは違うような気がします。
たまに女でも「あたし、妹は嫌いなの」とはっきり言う人に出合ったりすることがありますが、そんな時はかわいそうだなあと心の中で思ってしまう私です。なぜなら、世界中の人が自分の敵になってしまったような孤独感に襲われても、兄、弟、姉、妹は、自分は一人ぼっちではないと言う思いを支えてくれる、かけがえのない存在だからです。
現代を生きている私でも、兄弟の係わりは気になります。特に母亡き後のことです。どうか、兄は弟の暮らしを気遣っていって欲しい。弟は兄を支えていってあげて欲しい。時代を超えた母の願いですね。
ドラマの話に戻りましょう。時は戦国。兄弟の確執の歴史、一番の味方であるはずのものが一番の敵になってしまった悲劇は、あまたにあって、仲が悪いだけではなく、命の奪い合いにまでなってしまうわけですから、その時代の母の憂いはさらに重いかもしれません。
法秀尼がお百度参りをしているシーンは、胸を打ちました。このシーンは本当は最初台本になかったらしいのですが、佐久間良子さんが、ぜひやりましょうと提案して実現したそうです。母の願いが一層伝わってきて、印象深いシーンに成リ、彼女の役者としての思いも伝わってきました。
ただドラマと言うのは、どんなに良質のものであっても、見る側の気持ちにも左右されるものだと思われます。この日の私は翌日に控えた自分の仕事の事で、頭の中はいっぱいでした。分かるなあ、と思いつつ、何にも心の奥には届いてこないのです。要するに、ぼんやり見ていたのですね。そんな私でも、涙こそ出ませんでしたが、目頭が熱くなったシーンがありました。
一つは、千代が捨て子を拾って、その手に抱き寄せた時です。体が覚えているに違いない赤ん坊の重み。捨て子でも千代が絶対に手放せるわけがない。そう感じる事が出来るほど見ているだけで、その重みが伝わってきたシーンでした。
私は「功名が辻」の記事は自分が感じたことだけを書きたいと思っているので、自分で書いてからでないと、他の人の記事はとりあえず読まないようにしています。他の人もそうだと思うのですが・・。それで、時々蓋を開けてみると、と言うか、他の人の記事を読み出すと、なんだか微妙に一人浮いているように感じる事があるのです。あまりに違うのでTBも送り辛いと思うときもあります。ある意味ちょっとした賭けみたいで、怖いようで楽しくもありますね。
でも次に書くことは、蓋をあけなくても、なんとなく結果は分かっているかもしれません。それでも、敢て書かなくては、「功名が辻」の感想を自分が書く意味がないと思うので、書きますが、同じように感じた人がいたら、あなたは私と同じ感性の「変な人」かも知れません。
もう一つのシーンは、秀吉が茶々の所に渡っていくところです。茶々を哀れんで目頭が熱くなったのではありません。彼女が秀吉の側室になって次の歴史を動かしたのは遠い昔の既成の事実ですが、その後のことを思うとあまり心動かされる事はありません。
確かに、茶々の所に秀吉が来た時、若菜の香を焚いて、抵抗しその香を秀吉が湯をかけて消してしまうシーンは、何気に妖しげで心惹かれるものでありました。けっこう好きですよ、こういう場面とセリフ。
・・・・・フンフンフン、絶対に大石静は鼻歌歌って書いていた、そんな気がしてしまいます。「いいじゃな~い。」なんて言いながら。・・・・・
そして、「茶々、わしの子供を生め」・・・とその時、ぼんやり見ていた私の心に何かが突き刺さってきたのです。
男の悲願。ずっとずっと欲しいと思っていた女。欲しかったのはその美しさだけではなくて、その誇り高い血脈。どんなに慕っていても、一度たりとも優しい眼差しなど向けられる事もなくて、いつも突き刺すような侮蔑の視線だけだった。時を経て日本のトップに躍り出て、やっとその美しさと血脈を手にする、今。
ただ、さりげなく引かれて行く日々と言うカード、その中に紛れ込んでいるジョーカー。秀吉は、自分の悲願を果たすのと同時に、そのジョーカーを引いてしまったのではないのでしょうか・・・
この記事アップしちゃって「本当に良いのじゃな。」・・・・・・「良いのじゃな」・・・・・「良い・・」ちょっとしつこいって!!!!