<今回の朝ドラ「『とと姉ちゃん』、良かったねえ~」と言う感想ではないので、大好きだった方はスルーしてくださいね。明日から新しい朝ドラが始まりますが、遅れての感想です。私にしては珍しく何も良い事が書いていません。あっ、でも「暮しの手帳」は今も読み続けている雑誌なんですよ~。>
俳優さんや女優さんたちにとっては、朝ドラや大河の主役を取れたら、それはもうその時は天にも昇るような気持ちになるんじゃないかしら。
でも本当はその作品がどのような評価を受けるかどうかで、初めてその作品の主役を取った意味が生じてくるような気がしました。
朝ドラの半年はけっこう長いー。
好きだった女優さんを嫌いになるには充分な時間がそこにはありました。
影響力が大きいです !!
「とと姉ちゃん」が終わったけれど、感想を書くのは、それこそ「どうしたもんじゃろ~」と思いました。
あそこが良かったココに感動したという感想を書けそうもないからです。好きだった部分はありましたよ、もちろん。でも私の中にある想いが生まれて、そこを抜け出せずにとうとう最終回を迎え、自分の想いを再確認して終わってしまいました。
でも朝ドラの最終回の感想を「ゲゲゲの女房」から書き続けているので書いておこうと思います。
「ゲゲゲの女房」は大好きな水木先生がモデルだったから、見始めたようなものです。
この「とと姉ちゃん」は、大好きな雑誌「暮しの手帖」を作った人がモデルだから楽しみにしていました。
でもこれ、途中からこれはモデルではなくモチーフなのだと言うことを知りました。
「モチーフ」って新しい言葉ですよね。そして便利な言葉です。
モチーフなんだから、事実では結婚していない妹が結婚しても良いし、常子自身だって結婚しても良かったのにと思ってしまうのですよね。
私はこの「とと姉ちゃん」を途中までは普通に楽しく見ていました。ところどころツッコミどころはあるものの、そのくらいは普通の事だと思うのです。
でもある日、この演出って変だな、私には合わないなと感じるようになってきました。
その事はすこぶるさりげなく(意外と露骨かも)記事に書きました。→「タコ姉ちゃん!?」
すると今度は、みんなが言ってるようにシナリオが変だなと感じるようになって来てしまったり・・・・
実はそこの部分は、途中までは「まっ、いいか」みたいな気持ちが大きかったんです。
どうしてかって言うと、シナリオのクオリティの高さを求めだすときりがないって言うかー。
でもシナリオは物語。私は常子になぜ同じ人と二度の別れをさせると言う残酷な事をさせたのかとがっかりしてしまったのでした。この辺りからドボン気味。そんな気分になるまでは意外と粘った方だとは思います ^^
物語的に気に入らなかったのは、お母さんの描き方。このお母さんは、夫亡き後、働きづめだったのですよ。そして三姉妹を育てたのです。それなのにいつだってボーっとしているお母さんに見えてしまっていたのが残念です。常子が結婚できなかったのは家庭の犠牲になったからだって理解してあげられるのはこの人だけだったのに、そんなシーンもナシ。
それから次女の描き方。頭脳明晰で唯一文才があった妹を家庭に引っ込めたと言うのはどういうわけ?
この時代はそう言うものよって思って見ていた方も多いのかもしれませんが、モチーフなんだから、今の時代の感覚をここにこそ持ち込んで何とかして欲しかったです。
このドラマをみんなが見ていたのは、モチーフが「暮しの手帖」を作った人の物語だったからだと思うのですが、さすがにその出版に至る部分も実験の部分は面白いように感じましたがそれだっていろいろ言いたいことがあるんですよ。
みんなの生活に寄り添う雑誌と言うのは分かるし、もともとのモチーフになっている雑誌は本当に素晴らしいので問題はないのですが、この姉妹がこの雑誌を出すまでが、相当の行き当たりばったり感が強いのに、いきなり大志大望の初心を持っていた人みたいになっていったのは「どうしたもんじゃろうの~」。
土鳩を捕まえたり歯磨き粉を作ったりと行動力はあるものの、失敗するとすぐに止めちゃうし、いつも行き当たりばったりよ、この人たち。
上手くいったらなんだか急にエラそうな事を言いだして、なんか違和感がバリバリとありました。
モデルって言ってたら、相当のクレームがご親族から出ちゃうレベルだったと思います。
常子の子供時代の家は素敵でした。お母さんの丁寧な暮らしぶりや三姉妹の工夫に満ちた落ち着いた暮らしのヒント、深川の江戸っ子たちのしまつな生活ぶり、そんなところをあちらこちらに織り交ぜていたら、その本の出版に行きつく説得力があったと思うのですが。
でも私が、このドラマがイマイチに感じた一番の理由は・・・・
この方のファンの方には申し訳ないのですが、ここまで書いたので、あくまでも私的な感想と思って頂けたらと思いながら言ってしまうと、ミスキャストだと思うのです。
もう中年以降は、何で優秀なNHKのメイクさんがここでは力を発揮しなかったのか分からないほど年齢不詳で、まったく感情移入できませんでした。
この方に50歳以降をやらせようとしたのが間違いだったのではと思います。
かつて『カーネーション』ではオノマチ、十分に出来たと思うのに途中降板させられました。週刊誌によると、裏で何やらあったとか。でもオノマチは言いました。
「今の私には、その年代を演じるのはやっぱり無理なんだと思います。」と。
オノマチの途中降板は凄く寂しかったけれど、私的には朝ドラの中で一番の作品になりました。
これは作り手さんたちの英断だったと思います。
演じる力のない人に、これと言った演技指導も出来ぬまま深みのある中年女性を演じさせ続けた、それがこのドラマの敗因だと思います。
(あくまでも個人の感想)
最終回の感想。
ととはずっと常子の傍にいて見守っていたなんて事はなかったことが判明しました。
最近、私より熱心に好意的に見ていた夫がとうとう
「奥さんに聞いていないのか、こいつは。奥さんはそっちに行ったんだろうに、会っていないのか。へただよな。かかに聞いたよって言うだけで全然違うのに。」と、テレビに向かってツッコミを入れていました。
「そうよね。」と私。
「最後に、そっとかかが出て来て、『そうよ、あなた。常子は頑張ってくれたんですよ。』と言うだけで、もうそれだけで泣いちゃう展開だったのにね。」
家族そろって柿を楽し気に取る風景を見て、常子はずっととの代わりに生きて来ての目標の短冊をしまうのです。
世間の皆様は、ここでしみじみと、このお嬢さんは頑張って来たなあと涙するのでしょうか。いや、きっとそのシーンはそう言うシーンなのだと思うのです。
でもこの短冊はずっと昔からあるのに、毎年書き直しているんじゃないかと思うくらい真っ白な紙。
内容も二人の妹も嫁に行ってるし家も建てたし、その短冊もずっと三枚同じように並んでいたのかと思うと、私は気持ちが萎えてしまったのです。
ととが出て来て「ありがとう。」と言われて、最後の「家族を守る。」と言う短冊を机の引き出しにしまう。そこには二枚の先に仕舞った短冊が入っていたというのがフツーですよね。そして、その短冊は常子が頑張ってきた年月を物語るかのように、茶色に変色していた。
って、言う風に細かくやって欲しかったです。
最後に編集部での三姉妹を見てまたもがっかり。お肌はツヤツヤ、だけど白髪。働く中年女性は髪も染めないのかしら。
そして更に最後にぶっ飛びのシーンが。
街の中をダッシュで走り去っていく常子の姿が映し出されていって終わりです。
モチーフになった大橋さんは93歳まで生きられた方です。68歳あたりでは元気溌剌のバリバリの現役だったと思います。
走り去って行くだけだったら、まあそうかなと思うのです。
でも遠景で撮られたその映像は、ずっと走って行く常子・・・・ずっと…・カーブを曲がって・・・・ずっとさらに走って行く・・・・
長い !
長すぎます、その距離が。
常子の日常の趣味がランニングなんて伏線はなかったですよね。
68歳は、そんなには走れませんよ、普通。
吃驚しすぎて、かつては(主に戦前辺りまで)楽しく見ていたんだと言うような事が幻のように感じました。
ああ、朝ドラは怖いな。
毎朝の15分の習慣で、つまらなくなってきたなと思っても、それでも時々面白くて、それでも時々いいセリフがあって、それでも好きな俳優さんが良いお芝居をしていて、それにやっぱり「暮しの手帳」のファンだったから、けっきょく最後まで見続けてしまいました。
このドラマは高視聴率で終わる事が出来たのですよね。
よく良作でも低視聴率と言う作品があるじゃないですか。
本当にもう、視聴率って何だろうって思いますよね。
もちろん私が見ようが見まいが視聴率には関係のない事です。あれはその視聴率を図る機械が置いてあるうちが見たのか見てないのかで数字が出るわけですから。
関係のない事ですが、あれ、前にうちの実家に依頼が来てしばらくやってましたね。
あれ、うちにも依頼が来ないかな。そしたら好きなドラマは録画じゃなくてリアルタイムでせっせと見てあげるのになって思ったりもするのです。
これからも「暮しの手帖」は読み続けます。
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でももう朝ドラは卒業しようかな・・・・・・。