(東京都台東区上野公園)
上野公園へは数多く訪れているが、この上野大仏に対面することはなかった。上野大仏は寛永八年(1631)越後村上藩主堀直寄が漆喰の釈迦像を建立したことに始まる。その後、金銅製の像となり、仏殿が建てられた。然し、天保十二年(1841)に火災、安政二年(1855)安政地震によりそれぞれ損傷したため、越後村松藩主堀直央により6mの像に再建された。明治8年(1875)上野恩賜公園整備により仏殿が撤去され露座となり、大正12年(1923)関東大震災により倒壊。破片は寛永寺に保管されたが、戦時中に金属供出された。顔部分のみが残され、昭和42年(1972)現在のレリーフとして建てられている。
(浄土宗鳳徳山大佛寺 富山県高岡市大手町 市指定有形文化財)
高岡城から南に歩くと、やがて大仏が見えてくる。高岡大仏は、かつては二上山麓にあり、三回建造されたと伝えられ、そのいずれも木造であったため焼失している。地場産業である高岡銅器業界の発案で、銅製の大仏を建造することになり、昭和8年(1933)に全高約16m(像高約7m)の阿弥陀像が開眼した。
(時の鐘)
(滋賀県長浜市下浜坂町)
琵琶湖の辺の道を歩いていると、やがて仏像が視界に現れる。北条時頼によって創建されたという臨済宗平安山良畴(りょうちゅう)寺の境内に建つ、青銅製、高さ28mの阿弥陀如来立像である。現在の像は平成6年造立の二代目であり、初代は護国阿弥陀如来という、RC造、高さ27mの昭和12年(1937)に造立された像であった。平成4年、老朽化により解体され、その残骸は境内に埋められた。
(真言宗勝満山持明院崇彦寺 愛知県春日井市若草通)
厳密には仏像ではないが、「大きな仏さま」カテゴリーとして分類した。
勝川大弘法は、昭和3年(1928)に昭和天皇即位を記念して造立された、RC造り、高さ18mの像である。
(濡れ仏 東京都台東区浅草)
浅草寺の境内には、金銅製で、像高は2.36m,蓮台を含めると4.54mの観音像と勢至像がある。貞享四年(1687)上野国(群馬県)大久保村(邑楽郡板倉町)の高瀬善兵衛が、かつて奉公した日本橋伊勢町の米問屋成井家より受けた恩を謝し、更に旧戸主善三郎の菩提を弔うために観音菩薩像を、そして、その子次郎助の繁栄を祈るため勢至菩薩像を造立したものである。仏像の作者は江戸神田鍋町の太田久衛門正儀である。また、安永六年(1777)高瀬仙右衛門が施主、千住の高瀬奥右衛門が願主となり、修理したことが追刻されている。
高台寺の南隣に安座する、鉄骨造吹き付けコンクリート打工法(法面、トンネル内面で施工されるショット工法)、高さ24mの観音像である。昭和30年(1955)第二次世界大戦犠牲者の冥福を祈念するため建立され、宗教法人が設立された。
(愛知県幡豆郡幡豆町東幡豆)
三ケ根山の尾根には、第二次世界大戦において、フィリピンで戦死した霊を供養する観音像が立っている。昭和47年(1972)真言宗醍醐派薬王山太山寺の境内に遺族及び戦友らによって、遺品である鉄兜を仏像の材料に含め、高さ約5mの像が開眼された。また、像の傍らには、昭和52年(1977)遠州灘で網に掛かったゼロ戦のプロペラ部分が置かれている。
(しゅうらくえん阿弥陀如来 愛知県東海市荒尾町 市指定文化財)
昭和2年(1927)昭和天皇御成婚を記念し、実業家山田才吉が建立した、RC造、像高18.79mの大仏である。その後、昭和58年(1983)には、新たに開山した曹洞宗大仏寺の所有となり宗教法人化されている。そして平成9年、付近一帯は東海市しあわせ公園として整備された。
(大仏前の像高5mの仁王像)
東海市記事:細井平洲生誕地
川原寺から飛鳥川を渡りこの地に差し掛かる。飛鳥寺は、推古天皇四年(596)に蘇我馬子によって法興寺として創建された。現在は一般的な寺院のような規模となっているが、当時は五重塔と講堂、三つの金堂からなる寺院であった。また、像高約3mの飛鳥大仏(銅製釈迦如来坐像)は、釈迦三尊像の一つとして推古天皇十七年(609)に鞍作止利(くらつくりのとり:帰化人仏師)によって造られたとされる。その後、建久七年(1196)の落雷によって寺、仏像共々破損し、仏像は大部分がそのとき修復されたものという。
(寛政四年(1792)建立「飛鳥大佛」碑)
(木造阿弥陀如来坐像 平安時代)
(木造聖徳太子孝養像 室町時代)
(華厳宗大本山東大寺廬舎那仏 奈良市雑司町 世界文化遺産 国宝 国指定史跡)
伏見城から久し振りの東大寺を訪れた。奈良市に初めて訪れたのは、小学校の修学旅行であったが、奈良の長い歴史故に、振り返って比較してみてもあまり変化が感じられなかった。ただ、以前よりアジア系観光客が増えているのを実感した。
(国宝 金銅八角燈籠)
(重文 木造虚空蔵菩薩像 宝暦二年(1752)開眼)
(廣目天像 江戸時代)
(増長天 持国天像頭部 江戸)
東大寺は元々、天平五年(733)金鐘寺として創建したのが始まりとされ、天平十三年(741)には聖武天皇が国分寺建立の詔を発し、大和国分寺となった。そして、天平十五年(743)には大仏造立の詔が発せられれ、天平勝宝四年(752)開眼供養会が行われた。その後、天災や戦乱に巻き込まれ、斉衡二年(855)の地震による大仏破損、治承四年(1180)平重衡(たいらのしげひら)の兵火焼失、永禄十年(1567)松永久秀による兵火焼失、慶長十五年(1610)の大風による仮堂倒壊と仏頭落下等、災難に見舞われている。その都度補修、再建が行われ、現在の大仏殿は元禄四年(1691)に再建されたものであり、大仏は破損したものを修復し、当初よりやや小さくなったものの像高は約15mで、元禄五年(1692)改めて開眼供養されたものである。また、大仏の鼻の穴と同じ大きさの穴が柱に開けられ、「招福の柱穴」として多くの人がくぐり抜けている。
(多聞天(毘沙門天)像 江戸時代)
(重文 如意輪観音菩薩像 元文三年(1738)開眼)
(賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)
この後は、二月堂方面へと向かった。
(関連記事:転害門 薬師寺 元興寺 春日大社 法隆寺)
(常福寺大仏 愛知県西尾市刈宿町)
浄土宗天沢山西光院常福寺は、長徳の頃(995-98)勅命に背き、流罪となった源満国がこの地に辿り着き、母の菩提を弔うために当初は天台宗として開創した寺院である。
昭和3年(1928)大典記念、海上安全として、造形師後藤鍬五郎、山田光吉らによって総高14m(仏高4.5m)の鉄筋コンクリート製(塗色)大仏が造られた。同寺の山門を兼ねていたため、当初は台座下を通り抜けできていたが、木造の山門完成後は塞がれ、背後のみ口を開けている。また、内部には阿弥陀如来等が祀られており、耐震性とコンクリート重量の軽減、そして換気から、独特な内部構造をしている。
(関連記事:刈宿古屋敷 常楽院閻魔堂)