鉄御門が完成し、往時の姿に近づいた。市民の寄付等により再建され続けている城郭の姿は、この地域の社会性を現している。 このときは、夏の夜店に訪れる人と吹揚神社の参拝者で賑わっていた。
一年半振りに祖先の墓に訪れた。ここには、私の祖父以前、天正十年以降の祖先が眠るが、私の祖父の墓碑は無い。また、台風や山崩れ等により塀が壊れても、今の我が家にはそれを直す力も無い。
(新家墓所) (中家墓所)(塀を壊す松を撤去)
(霊仙山、世田山を望む)
我が家は代々一代一基である。一族は今でもそれが実行できているようだが、我が家は違う。山頂に同姓の一族墓群があり、周辺には同氏族、遠縁が眠る。
(私の法号のもとである我が一族の菩提寺)
(我が家の歴史が刻まれた思源碑)
(菩提寺の南隣に鎮座する、奈良時代越智玉澄勧請の三島神社)
(菩提寺の北隣に建つ、天慶三年(940)河野氏祈願寺として創建された歓喜寺と河野殿)
(墓地の入口に建つ、上朝倉村龍門山城主河野源六通明一族墓所跡碑)
約2千3百万点という日本最大の蔵書資料数を誇る図書館である。
目的は法定納本制度による国内出版物の収集保存、全国書誌の作成、国会や行政及び国民への資料提供等を行うことである。一般の利用もできるが、一般公共図書館に比べ、利用基準が厳しい。
また、近代デジタルライブラリーは約15万点の明治、大正時代の図書資料を収録している。
元和三年(1617)江戸浅草御坊として開基したのが始まりである。然し、明暦三年(1657)の振袖大火により焼失し、現在地付近を埋め立てて「築地」を築き、寺院を再建した。
現在の伽藍は、昭和9年(1934)に建てられたRC造りで、天竺様式を採用している。
(国分山城 国府城 愛媛県今治市国分・古国分 市指定史跡)
昭和60年に今は亡き父とこの山を訪れた際の話を思い出す。「昔、城のお姫さんがカラカラと笑ったから「カラコ山」呼ばれるようになった」と。然し、一般的にはいかが山頂に生える松が、唐子の髷の形に似ていることから、こう呼ばれるようになったとされる。
標高105mの唐子山には、今治城が築かれるまで、城が存在した。
興国三年(1342)新田義貞の弟脇屋義助がこの城に入るが、間もなく病死。その後、村上武吉が城主となった。四国征伐の後の天正十三年(1585)からは十一万三千二百石で福島正則が入り、城郭及び城下町を整備、東麓に館を構え、頓田川を挟んで城下町(拝志町)を築いた。
文禄四年(1595)正則は尾張清洲に転じたため、池田景雄が入った。然し、慶長三年(1598)景雄は病死し、代わって小川祐忠が入った。祐忠も、関ヶ原では西軍に属して戦ったため、除封となり、宇和島から藤堂高虎が二十万石で移封した。
慶長七年(1602)高虎は、瀬戸内海に面した蒼社川と浅川の間に今治城を築城開始、国分山城の石垣など、今治城築城のために転用されたという。
付近の地名には、お屋敷、上屋敷、小姓町、吉兵衛屋敷、久右衛門屋敷、土手の内、中堀端、堀之内、元屋敷等が伝わる。
父と訪れたとき、山頂付近をフィルムカメラで撮影をしたが、二重撮影のようになってしまった。今回も、山頂付近の撮影ができず、デジタルカメラが正常に動作しなかった。唐子山の怪なのかもしれない。