(日蓮宗本身山妙正寺 島根県大田市大森町)
清水谷にあり衰退していた本迹院を、永正十一年(1514)現在地に移転し再興した。然し、大久保石見守が創建した大安寺同様、昭和18年(1943)の水害で大破し、その後堂一宇のみ再建された。
(東京都千代田区丸の内)
旧三菱一号館は明治27年(1894)旧岩崎邸 六華苑等を手掛けた、英国人建築家ジョサイア・コンドルによって設計、築造された、煉瓦造、地上3階地下1階.延床面積5044㎡,英クイーンアン様式の会社建物である。後に隣接して同様の建物が築造されたことにより、大正7年(1918)「三菱東九号館」と改称された。戦後、三菱は立地の特性と老朽化を理由に、日本建築学会の保護要請と、文化財保護委員会の重要文化財指定要請が出ている最中に突如この旧三菱一号館を解体した。跡地は三菱ビルヂングとなった。平成16年、三菱地所は三菱ビルヂングを解体し、三菱一号館を再現、美術館とする計画を立てた。その際、隣接する昭和3年(1928)築造の丸の内八重洲ビルヂングも解体することを発表した。旧三菱一号館の解体時同様、反対が起きたがそのまま実行され、往時よりやや後ろに下がり、面積も非常階段等現在の建築基準法に則り追加した5230㎡で、免震処理が施された一号館と、丸の内パークビルディングが築造された。
(島根県大田市大森町)
銀山川沿いには大久保石見守墓所及び寛政六年(1794)に建立された紀功碑がある。大久保石見守長安は、甲斐武田氏臣であったが、武田氏滅亡後、徳川家康に見い出され、初代石見銀山奉行に任じられた。関ヶ原の戦いに勝利した徳川家が石見銀山を直轄することになり、慶長六年(1601)長安は初代銀山奉行となっている。慶長八年(1603)には佐渡奉行、次いで伊豆金銀山奉行を兼ね、慶長十八年(1613)駿府屋敷において六十九歳で死去した。 長安の死後、生前に長安が金山の統轄権を利用して不正蓄財をし、そのうえ謀反を企んでいたという理由で、長安の七人の子と腹心である雨宮忠長、戸田藤左衛門、原孫次郎、山田藤右衛門、山村良勝は処刑され、家財は没収された。然し、長安が不正蓄財を行っていたという証拠は殆どなく、本多正信・正純父子の陰謀とも言われている。 大久保長安の菩提寺として長安の一字を付け慶長十年(1605)同所に創建した浄土宗正覚山大安寺は、昭和18年(1843)水害で大破し、極楽寺に統合された。
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