(広島県尾道市久保)
尾道本通りの東、八坂神社の境内には伝説を秘めた簪形の石灯篭がある。昔、富豪の息子に見初められた娘がいた。娘は貧しく、かんざしも持っていなかった。息子の父親は「かんざしない者嫁にはできぬ」といい破談になった。悲しんだ娘は、明神さんの井戸に身を投げ命を落とした。その後、町の人々は娘のために、井戸の傍に簪形の石灯篭を建てて弔ったという。
知人が自分のところで採れたいろいろな野菜を持ってきてくれた。
ふと考えてみると、我が家は肉も魚も米も地元産を使っている。
肉は渥美牛、黒潮牛、鳳来牛、みさき牛、田原豚、三河地鶏、三河湾の魚介類、葉物野菜生産日本一の豊橋田原、そして古来は穂の国と呼ばれた米どころこの地である。
私はどんなに困窮しても、食物だけは確保できるので有り難い。
(天台宗大黒山金剛寺 京都市東山区金園町)
八坂の塔から西に進むと、こぢんまりとした境内に庚申堂はある。金剛寺は平安時代に創建したとされ、現在の庚申堂は、延宝六年(1678)に再建されたものである。軒下には無数の「くくり猿」(欲望抑止を形にしたお守り)が弦されている。
米子城の天守跡から、大山(だいせん)との背比べ伝承がある、標高751mの孝霊山(こうれいさん)を望むことができる。孝霊山の名は、第七代孝霊天皇(大日本根子彦太瓊尊:おおやまとねこひこふとにのみこと)が、孝霊四十五年(171)から孝霊五十八年(184)にかけて、この地を行幸したことに由来するという。山麓には孝霊天皇を祀る高杉神社があり、鬼退治伝説が残っている。更に、山麓に居を構えたと伝わる。(弥生時代後期から古墳時代前期かけての高地性集落である、国指定史跡の妻木晩田遺跡が該当か) また、孝霊天皇及びその皇子を主人公とした伝承、社伝等がこの地から瀬戸内海にかけて分布している。順番にみていくと、現安来市広瀬町梶福留の伊邪那美陵御墓山に孝霊天皇が参拝したという伝承がある。日野川沿いである日野郡伯耆町、日南町には楽楽福神社(ささふく)があり、共に孝霊天皇を祀っている。神社には「鬼退治」として凶賊を征したという伝承が伝わっている。社名にある「ささ」は砂鉄を表し、製鉄を意味する。この地方の古代製鉄による繁栄が伺える。また、孝霊天皇の幼名は御時楽楽清有彦命(ささふくきよありひこのみこと)と言い、笹福(ささふく)と号したとされる。この孝霊山の別名は高麗山、韓山であり、地名もかつては高麗村であった。孝霊と高麗の関係性を想像させる名でもある。孝霊天皇の皇子には彦五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと:大吉備津彦命)と、異母弟の若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと:吉備児島三宅氏祖)があり、共に吉備国を平定したと伝わる。更に彦狭島命(ひこさしまのみこと:伊豫皇子:越智河野氏祖)があり、父の命により伊予国を平定したという。
(東京都台東区花川戸)
昭和6年(1931)に築造された、SRC造、地上7階地下1階建、延床面積34613㎡の駅舎商業ビルである。この駅が完成するまで、東武伊勢崎線は業平橋駅を始発駅としていた。浅草駅は2階部分に伊勢崎線が隅田川から急角度で乗り入れ、「浅草雷門駅」(現浅草駅)とし、地下1階から地上7階までは「松屋浅草支店」(現松屋浅草店)として開業した。昭和20(1945)空襲により内部を焼失したが、戦後に修復され、外壁も改修された。近年、4階より上層を売上低迷を理由に閉鎖したが、東京スカイツリー完成を機に、外壁を旧態に復元する計画という。
(臨済宗霊応山法観寺 京都市東山区清水八坂上町 国指定重要文化財)
法観寺の伽藍である高さ46mの五重塔は、治承三年(1179)に焼失して以降、何度も再建され、現存の塔は室町時代に足利義教により再建されたものである。 暦応元年(1338)夢窓疎石の勧めによって、後醍醐天皇をはじめとする戦没者を弔うため、足利尊氏が全国に安国寺及び利生塔を建てた。京の利生塔はこの塔が利用されている。