(Medical department main building SRC 1937)
(The science department No. 2 hall SRC 1934)
(The medical department No. 1 hall SRC 1931)
(General library SRC 1928)
(The text of the law No. 2 hall SRC 1938)
(The text of the law No. 1 hall SRC 1935)
(Grand hall RC 1925)
Faculty of technology new No. 3 hall institution maintenance enterprise
(関連記事:旧加賀藩前田家上屋敷御守殿門 弥生二丁目遺跡)
…完了と言っても、元の状態に100%戻ったわけではなく、あくまでも撮影機能として必要な部分の破損のみ修理されてきた。
傷や外装、アクセサリー部品などは壊れていても交換、修理はされず、各自が店で買い求めることになる。
先月、不覚にも路上にカメラを落としてしまった。ケースのジッパーが老朽化していて、はずれてしまったのだ。
以前はカバーとカメラをつなぐストラップをつけていたのだが、操作性が悪く取り外した矢先だった。
私は機材のこだわりはほとんどなく、(要因は先立つモノがないためだが…)記録として残ればよいと考えている。
そのため、コンパクトカメラや携帯電話のカメラなど、そのときに持っているもので撮影する。
修理費用はピント、記録部分、そしてレンズ破損など思ったより重傷であったため、約5万円かかった。
しかし、カード会社の付帯保険で、6年目のカメラボディは修理費用の50%、2年目のレンズは購入価格の80%が補償された。
最近、まだ新しいパソコンや携帯電話が故障したり、さらに体調を崩すなど疫病神が付きまとっているようなので気をつけなければならない。
(鯉城 広島市中区 旧国宝 国指定史跡 日本100名城73番)
天正十七年(1589)毛利輝元によって、天然の堀である太田川の分流に囲まれた地に築かれた。関ヶ原の戦い以後は福島正則が入城し、城郭の拡大と城下町の整備が行われた。然し、元和五年(1619)太田川の洪水破損による修築許可の不備、いわゆる武家諸法度により信濃川中島(高井野)五万石に減封となった。代わって紀伊和歌山より浅野幸長の弟、長晟(ながあきら)が入封し、以後廃藩まで浅野氏十二代が藩主を務めた。
(内堀中堀連絡暗渠跡)
(平櫓)
(平櫓・多聞櫓・太鼓櫓)
(表御門)
(太鼓櫓)
(二の丸)
(昭和32年復元天守)
(内堀)
(旧天守礎石)
廃藩の際、建物の破却は免れたが、明治7年(1874)に火災で本丸御殿を焼失、そして、原爆投下によって天守、櫓を含む全ての建物を失った。また、城内は広島大本営及び中国軍管区司令部防空作戦室等が設けられた。
(関連記事:平和記念公園 旧大正屋呉服店 旧広島物産陳列館 元安川)
(東京都文京区)
本郷給水公苑から壱岐坂を進むと三河稲荷神社がある。元、三河国碧海郡上野村(現愛知県豊田市上野町)にあったものを徳川家康の東国入りに際して吹上に遷宮したもので、後に現在地に遷された。ここから更に進むと本妙寺坂がある。坂の由来はかつて遠江曳馬(浜松市)から移された法華宗徳栄山本妙寺があったからであるが、明治43年(1910)に巣鴨に移転している。付近には宝永元年(1704)から安政四年(1858)までの間、唐津藩主小笠原氏の中屋敷があり、以後明治維新まで上田藩主松平氏の中屋敷があった。昭和59年(1984)に発掘調査が行われた際、陶磁器やオランダで作られたクレイパイプ、そして旧石器が検出されている。
(本妙寺坂) (菊坂)