(長野県茅野市塚原)
茅野駅に直結する形でこの施設はある。平成17年に築造された、SRC造(一部RC造)地上3階地下1階、延床面積10806m2の複合施設(劇場ホール・音楽ホール・美術館・図書館)である。
(大阪市阿倍野区)
久し振りに母の出生地天王寺を訪れ、駅反対側の阿倍野にも回った。以前訪れたとき、阿倍野近鉄百貨店本館の建て替え閉店セールが行われていたが、今は日本一の高さのビル「あべのハルカス」として生まれ変わっていた。
2004年3月28日
(2005年7月18日)
この日は和歌山から南海フェリーで徳島に渡った。徳島は日本で唯一、あらゆる種類の鉄道を含む、「電車」の存在しない県である。牟岐線は徳島駅を起点とし、海部駅に向かう全長79.3kmの路線である。元々は徳島から室戸を経て高知に至る、阿佐線の一部を成しているものであり、海部から高知県甲浦まで8.5kmの僅かな区間がJR化後に延長され、第三セクター阿佐海岸鉄道として運営されている。
(千葉城 千葉市中央区亥鼻)
市街地の南部、北北西に張り出したその地形から、亥鼻と呼ばれた丘陵に存在したのが、この亥鼻城である。大治元年(1126)千葉常重が築いたとされ、以後二百年以上に渡って千葉氏の城として栄えた。源頼朝の挙兵の際には、三代常胤(つねたね)が参陣、その功により下総国守護となっている。康正元年(1455)十六代胤直のとき、十四代満胤の次男、馬加康胤(まくわりやすたね)及び分家の原胤房の叛乱によって胤直は亥鼻城を追われ、志摩城(香取郡多古町)に篭るが自害、千葉宗家は断絶した。その後、馬加氏が千葉宗家を継いだが、居城を将門山城(印旛郡酒々井町)に移したため、亥鼻城は廃城となった。現在、神明社の鎮座する場所が主郭跡であり、三の郭跡に建つ天守は、昭和42年(1967)に築造された千葉市郷土館(昭和58年からは千葉市立郷土博物館)の模擬天守であり、往時を再現したものではない。また主郭北側には「お茶の水」があり、千葉氏祖、平良文の子忠頼が生まれたときに湧き出し、以後千葉氏の産湯の水として使われたという。
(大阪市住之江区南港)
淀川の分流である木津川から大和川河口部を埋め立てたのがこの地である。その埋め立て地には現在、大阪南港及び南港ポートタウン、アジア太平洋トレードセンター(ATC) 、大阪府咲洲庁舎等があるが、これらバブル時代のテクノポート構想によって築造された施設は、空地も含め持て余していると言わざるを得ない。
(北海道小樽市相生町)
堺町通りから東雲町に向かう坂の途中にこの建物はある。昭和9年(1934)に築造された、RC造3階、地下1階の従業員寮である。寿原(すはら)一族は当時、商事、薬粧、食品、銀行(小樽無尽、後の北洋銀行)等を経営していた。薬粧、食品部門は他社と合併し現存するが、商事部門は昭和54年(1979)に廃業、昭和60年(1985)からは東京に拠点を持つインテリア専門学校としてこの建物は利用されたが、現在は休校している。近隣には、寿原産業の経営者である邸宅(旧実業家高橋直治邸)も残されている。
(東京都渋谷区代官山)
中目黒から北東に進むと代官山である。昭和に入るまでは山林で、現在でも地形に名残を留めている。洒落た街として名の通る街であるが、それは最近になってからのことである。近年、再開発されたモールが閉鎖され、辺りに違和感を漂わせている。
(さめがい 滋賀県坂田郡米原町醒ヶ井 2004年7月4日)
中山道醒ヶ井宿は、養老山系の湧水が豊富であり、生活用水として現在も人々を潤している。伊吹山に住む大蛇を退治にきた日本武尊(ヤマトタケル)が、高熱で倒れたとき、この地の湧水で身体を癒したと伝えられている。
梅雨の今は、梅花藻の花咲く時節でもある。今年は地蔵川の水量が多く、藻類も元気良く靡いていた。また来訪者も清涼感を求めて、大勢緩やかに流れ歩いていた。
(さや堂ホール 千葉市中央区中央)
昭和2年(1927)に築造された、RC造2階建、延床面積500m2のネオルネサンス様式の銀行建築である。昭和18年(1943)からは三菱銀行千葉支店となり、昭和46年(1971)からは千葉中央地区市民センターとして利用された。平成2年、千葉市役所が新築されることとなり、鞘堂方式で新しい建物に取り込まれる形で保存された。