(じょうほく 愛知県新城市城北)
新城城の北側にあたることから、昭和47年(1972)からの区画整理事業時に片山、的場の一部を城北と改め誕生した一角である。平成13年からの田町川の改修工事に際して、周辺の追加区画整理が行われ住宅地が増加した。一時、駅前の狭い飯田線新城駅に代わって、東新町駅との中間地点であるこの付近に統合新駅を建設する計画があったが、白紙となっている。
(大山街道 東京都世田谷区桜新町)
サザエさんの原作者である長谷川町子が居住していたことから、「サザエさんのまち」と呼ばれる桜新町を訪れた。この地は万治の頃(1658-60)開墾によって世田ヶ谷村から分村して新町村が誕生したことに始まる。桜新町の名は、明治45年(1912)この地が別荘地として開発された際、通りに染井吉野を植えたことから、後に通称として呼ばれるようになったが、昭和43年(1968)行政上の地名も新町から分離する形で桜新町に改められている。
桜神宮
(愛知県豊川市一宮町杜 市指定文化財)
砥鹿神社西側の国道151号線沿い参道入口にこの石鳥居がある。昭和31年(1956)に現在地へ移築されたものであるが、それまでは豊川市諏訪西町(旧宝飯郡市田村)の姫街道沿いに本宮山奥宮の遥拝所鳥居として存在した。昭和20年8月7日の豊川海軍工厰の空襲の影響を受け、貫の部分を失ったが、移築の際に修復されている。この鳥居は天保七年(1836)岡崎藩士長尾興達が発意して、石工の石原庄七徳襃(ほう)が花崗岩を用いて製作し、天保十二年(1841)に完成したものである。
(川崎市高津区諏訪)
田園都市線二子新地駅東口から商店街を南に歩くと、路地の角に「諏訪一本松跡」の石碑と案内板がある。言い伝えでは天正十八年(1590)諏訪頼久(同年武蔵国の一部を所領した諏訪頼忠が正解か)がこの地を開拓し、慶長年間に諏訪大社より建御名方神(たけみなかたのかみ)を分霊しこの地に祀り、その際に多摩川堤防上に神木として植えたのがこの松とされる。昭和32年(1957)一本松の生える旧堤防沿いの商店街を「松栄会」として商店会を結成し、以後この一本松を主役に命名通り商業が栄えたが、松は昭和40年(1965)に枯死した。今はこの松のことを知る者も少なくなったという。
(地域関連記事:諏訪神社 二子溝口 二子塚古墳とトロリーバス 津田山切通し 溝口の大規模小売店舗 下野毛 橘樹坂戸 岡本かの子文学碑「誇り」 梶が谷)
(愛知県豊橋市植田町)
ほの国を離れる日が近づいたこの日、十五年振りに植田を訪れた。先ず渥美線向ヶ丘駅を降り、植田大池の水辺へと向かった。近年外来種であるブラックバスが棲息するというこの溜め池は、昭和61年度に緊急農地防災事業、平成25年度には防災ダム事業等、地震等による堤防決壊を防ぐ工事が行われた。大池から北に歩を進め、素盞鳴神社を参拝した。そして緩やかな起伏のある周辺を歩きながら植田駅へと向かった。植田駅は大正14年(1925)に渥美電鉄の駅として開業したのが始まりである。昭和15年(1940)からは名古屋鉄道として、昭和29年(1954)からは豊橋鉄道の駅として営業しているが、昭和44年(1969)からは無人駅となり、現在は乗車証明発行機と簡易IC改札機が設置されている。第二次世界大戦の頃、植田駅から大崎海軍航空隊までの専用線を敷設する計画があったという。今はこの先の渥美半島を予感させるような、のんびりとした光景が辺りに広がっている。
植田大池
(東京都世田谷区玉川)
平成になるかならないかの頃、砧(きぬた)にある駒沢大学玉川キャンパスに向かうため二子玉川駅を降り立ち、東京の縁端の地に来たと感じた雰囲気は大きく変貌を遂げていた。二子玉川の地名は、多摩川を挟んで東京側の玉川と、川崎側の二子の地名を合わせて、昭和4年(1929)目黒蒲田電鉄(1942-東急電鉄)大井町線開業により駅名として名付けられたものである。江戸時代は大山街道の渡し場として栄えたが、東急新玉川線開業後は、人々の流動が大きく変わり、ベッドタウンのオアシスとして商業施設が建ち始めた。駅東側にあった遊園地、二子玉川園の後身であるタイムスパーク跡地は、近年複合施設「二子玉川ライズ」として開発され、連日混雑をみせている。
二子橋から見た二子玉川
多摩川及び野川の上にある二子玉川駅ホーム
多摩川堤防の内側に居住地が残る地区
(名古屋鉄道モンキーパークモノレール線 愛知県犬山市 2006年1月30日)
昭和37年(1962)犬山線犬山遊園駅とラインパーク(1980-モンキーパーク)動物園駅1.2kmが開業した。形式は跨座式モノレール(日立アルウェーグ式)であり、後の東京モノレール開業の試験的役割を果たしている。明治村方面への延伸計画もあったが実現しておらず、むしろ乗客減少と老朽化を理由に廃止の方向へと進んでいる。(2006年時点)
営業中であるのに朽ちた園外入口
(関連記事:モンキーパークモノレール線解体)
(兵庫県津名郡津名町志筑新島 2004年10月2日)
志筑の埋め立て地、志筑新島には、町立しづかホールや同野外ステージにある震災モニュメント「神戸の壁」のある静の里公園、サティ淡路を核店舗とする津名ショッピングタウン アル・クリオ、隣接する戸建商店街モール「カリヨン広場」等があり、また、島内産の菓子や食品を取り揃える淡路お菓子館(うずしお庵)がある。平成元年のふるさと創成事業の交付金によって一億円分(63kg)の金塊をレンタルし、しづかホールに展示した津名町は、観光客が多く訪れるようになったため、この場所にRC造の城郭建築風のドライブイン、淡路お菓子館を開業した。阪神淡路大震災で多少の被害を受けながらも営業を続けたが、付近の観光客が減少し続け、この過大な施設が不似合いかつ負担となったため、平成16年に隣接する場所に縮小移転し、それまでの建物は閉鎖された。バブルの名残をここでも見ることができた。(現在は解体)
カリヨン広場
(かきだいら 愛知県南設楽郡鳳来町豊岡字葭ヶ滝 2005年1月4日)
正月休みも終わろうとしているこの日、辺りに人家のない柿平駅を降り、宇連川沿いの名号温泉に浸かった。飯田線柿平駅は、昭和4年(1929)鳳来寺鉄道柿平停留場として開設された。昭和18年(1943)国有化の際に廃場となったが、昭和25年(1950)駅として再開設されている。
(伊那県騒動 愛知県新城市杉山字野中 1990年9月2日)
国道151号線バイパス沿いに真新しい石碑が建っている。これは近代早々に起こった農民一揆の指導者の屋敷跡である。明治3年(1870)夏、度重なる天災により作物が不作となり、設楽、八名両郡の五人の村代が伊那県足助支庁に減免の嘆願を二回行った。然し悉く却下され、農民による減免運動が起こった。設楽郡西杉山村(新城市杉山)の庄屋であった半田春平を中心に運動が開始されたが、農民達の集会では年貢減免の要求と共に、嘆願に失敗した村代への糾弾が行われた。設楽郡六十村、宝飯郡八村、八名郡四村、約三千人まで膨らんだ簑着騒動の農民達は、宝飯郡西原村(一宮町西原)村代浦野三郎平の屋敷を訪れて、三郎平を殴り付けたという。翌日には宝飯郡三谷村(蒲郡市三谷町)にあった足助役所出張所に押しかけ、年貢の五割軽減を要求した。それを受けて官員が新城町を訪れ、若干の減免の安石代(やすこくだい:低換算価格)を回答した。この折衝に際して十三ヶ村は承伏したが、残りの村々は再び集会した。そして十三ヶ村に押しかけて承伏行為を糾弾し、年末には鉄砲四挺を使って鎮圧に協力したとして八名郡庭野村(新城市庭野)村代松井源次宅に農民達が押し寄せ、源次は竹槍や刀を突き立てられ、石や割木を投げ付けられて負傷したという。この事態に対し、県は近隣諸藩に出兵を要請して、豊橋、岡崎、飯田、半原(新城市富岡)の藩兵も鎮圧に出動し鎮静化した。これにより半田春平が流罪、五人が徒刑(労役)に処せられた。半田春平は明治6年(1873)に四十二歳で獄死し、半田家屋敷内に祠が建てられ、百姓救世の神として祀られた。逆に、庭野村松井源次、西原村浦野三郎平は、沈静に尽力したとして県から褒賞が与えられている。
(愛知県宝飯郡一宮町大木字荒屋 1999年5月16日)
二級河川帯川の改修工事(拡幅・河床下げ)に伴って昭和38年(1963)築造の御山塚橋が解体されることになった。御山塚橋上流の帯川は、すり鉢状の角度のブロック被覆護岸であり、下流はすり鉢状の護岸ではあるが、ブロック被覆はない。然し、この御山塚橋付近のみ川幅が箱型に狭くなり、加えて旧不動滝川(大木排水路)が直前で合流するため、大水時に氾濫する恐れがあった。また、この橋を渡る手前の坂を袖切坂と呼び、坂の途中で転ぶと着物の袖を切り、傍らの女郎塚と呼ばれる墓碑に備えなければならないという言い伝えがある。
6月7日
6月27日洪水警報解除後の帯川御山塚橋