(川崎市中原区等々力)
暴れ川であった多摩川により、右岸にも等々力(とどろき)の飛び地を残すこの辺りに、「こがね塚」の記念碑が建つ。かつては前方後円墳があったとされ、出土した副葬品からか黄金塚の名が付いているが、現在は道路や宅地となっており痕跡すらない状態である。
(愛知県豊川市長草町 2000年6月30日)
念仏塚古墳の前に架かる木造の滝下橋は寿命を迎えていた。佐奈川はこの辺りから地中を流れるようになり、大雨のとき以外水は姿を見せなくなる。それは川床に砂礫部分が多く、粘土層が深いところにあるため、増水時以外は水が浸透してしまうからである。竃や七輪の木炭の受け皿として、空気道を確保する穴のあいた皿を「さな」(ロストル)という。その原理に似ていることから、さな川と呼ばれるようになったという。
(東京都港区南麻布)
広尾、白金に面したこの地は、丘陵地を開発したところであり広い平地は少ない。また、隣接する他の麻布地区同様大使館が多く、外国人居住者も多い。広尾側には有栖川宮記念公園があり、江戸時代には盛岡藩南部家の下屋敷があった。そのため隣接する坂を南部坂と呼んでいる。明治29年(1896)有栖川宮威仁(ありすがわのみやたけひと)親王が霞ヶ関からこの南部屋敷跡に移り御用地となった。大正2年(1913)有栖川宮没後は、高松宮御用地となった。昭和9年(1934)有栖川宮没後20年の節目に御用地約11,000坪を東京市に下賜し、公園として整備され、有栖川宮記念公園と命名され開放された。昭和48年(1973)には園内に都立中央図書館が開館している。 明治20年頃に開削された新坂
有栖川宮記念公園と都立中央図書館
旗本青木氏屋敷があった青木坂
新富士見坂
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(東京都港区白金台)
昭和12年(1937)建築家内田祥三によって設計され、大林組によって築造された、SRC造一部5階地下1階、延床面積3,390m2の建物である。研究所では破傷風治療血清、予防接種に関する研究等が行われ、昭和42年(1967)からは東京大学医科学研究所1号館となり、現在に至っている。訪れたこのときは耐震、設備更新工事により閉鎖されていた。
(関連記事:東京大学本郷校舎建築群 )
(愛知県宝飯郡一宮町大木字荒屋 2000年5月28日)
帯川御山塚橋の袂に、坂に面して小さなお堂がある。そこには舟型の青面金剛像庚申塔があり、安永七戌戌年(1778)四月吉日と刻まれている。また、この坂の途中で転ぶと着物の袖を切り、傍らの女郎塚と呼ばれる墓碑に備えなければならないという言い伝えがある。
(東京都港区白金台 国指定重要文化財)
現在東京都庭園美術館及び国立科学博物館附属自然教育園となっているところは、かつて白金御料地であった。昭和8年(1933)その一角に皇族朝香宮家の邸宅(RC造一部3階地下1階延床面積2,100m2)が宮内省の設計により建てられた。然し昭和22年(1947)GHQによる皇籍離脱により朝香宮一家が退去することになり、その後は吉田外相・首相公邸として使われ、昭和30年(1955)からは国賓、公賓の迎賓館「白金迎賓館」として利用された。昭和49年(1974)からはプリンスホテル本社として使用されたが、東京都に売却され、昭和58年(1983)東京都庭園美術館として一般公開されている。また、庭園には北海道美唄市出身の彫刻家、安田侃(かん)の「風」が展示されている。
近年、丸ビルに続いて東京駅丸の内駅舎や東京中央郵便局JPタワー等、建て替えや整備が行われたこの辺り。JPタワーは旧局舎の一部を移動及び保存しつつ背後に38階の高層ビルが建てられ、商業施設併設のKITTEとして再開発された。
(愛知県豊橋市神野新田町・船渡町 2000年5月6日・6月24日)
昭和56年(1981)東三河臨海道路が開通し、それまでの光景と大きく変わったこの辺り。それ以前は静かだった柳生川や梅田川河口の船渡橋を渡って大崎城に向かったものである。
二開水神
大崎城跡と船渡運河
(東京都千代田区一ツ橋)
一ツ橋の地名は、神田川から分流し隅田川に合流する日本橋川(旧平川・江戸城外濠)に架かる一ツ橋(現在の橋は大正14年架橋)に由来する。明治6年(1873)まで江戸城一ツ橋門があったが、今は道路で削られた枡形の石垣の一部が残っている。隣接して江戸城二ノ丸の平川門があり、また現在は丸紅社屋や気象庁となっている、寛保元年(1741)に構えられた一橋徳川家の屋敷跡がある。
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一橋徳川家屋敷跡
平川門
大手濠
和気清麻呂銅像
関東大震災後に植えられた地震イチョウ
(ほうじいけ 愛知県宝飯郡一宮町上長山字北宝地 2000年4月16日)
宝川の支流、宝地川を堰止めて昭和28年(1953)に築造された溜め池である。灌漑(かんがい:供給)面積は47ha,満水面積3.6ha,貯水量290m3,堤高19.6m,堤長213mであり、一宮町内の溜め池としては最も新しく且つ最大であるが、宝地川だけでは貯水できないため、宝川の砂防ダムから導水路を引き、水量をカバーしている。昭和50年(1975)と昭和55年(1980)には、県営事業による老朽溜池の補修が行われている。宝地の地名の由来は昔、本宮山の中腹に正眼院(後の松源院)という寺院があり、寺宝を持っていたことから宝地と呼ぶようになったという。また、寺が人里離れたところであったため麓に移転することになり、時の住職が宝物と衣を荒沢に流した。衣は途中で止まり、宝物は下流に流れていった。その衣が止まったところに寺を移転し、それより上流を衣川、下流を宝川と呼ぶようになったという。 宝川からの導水路
(日蓮宗法久山大前院上行寺 神奈川県鎌倉市大町)
名越路に繋がる鎌倉六大路の一つ、大町大路沿いに建つ寺院である。正和二年(1313)に日蓮の孫弟子日範によって創建された。本尊は三宝祖師であり、境内には北条政子が源頼朝の「おでき」を治すために参ったという瘡守(かさもり)稲荷と鬼子母神を祀る伽藍がある。また、桜田門外の変で井伊直弼を暗殺した水戸浪士の一人、広木有良がこの地で自害している。