(東京都台東区谷中 都指定史跡)
谷中霊園の一角に寛永寺の墓園があり、その中に最後の将軍徳川慶喜の墓所がある。慶喜は水戸藩徳川斉昭の七男として生まれ、一橋徳川家を相続した後、徳川宗家を相続し将軍となった。大政奉還や新政府軍への江戸開城を行い、明治以降は静岡に住み、晩年は東京に戻り貴族院議員を経て大正2年(1913)七十六歳で死去し、この地に埋葬された。
(東京藝術大学美術学部陳列館 東京都台東区上野公園)
昭和24年(1949)東京藝術大学発足以前の昭和4年(1929)建築家岡田信一郎によって設計された、RC造2階建、延床面積429m2の収蔵品展示施設である。
(東京都台東区上野公園)
東京藝大の前にRC造石張の小さな建物がある。昭和8年(1933)に開設された京成本線の駅の跡である。駅名は文字通り帝室(国立)博物館、恩賜上野動物園の最寄りであったことに由来するが、動物園の正門位置変更で乗降客が減少したことや、ホーム長が4両弱しかなく停車本数が減らされたこと等により、平成9年に休止、平成16年に廃止された。
(岐阜市御手洗2002年1月14日)
各地に存在する明治維新以降の国事によって殉した霊を慰める招魂社の一つである。岐阜護國神社は昭和15年(1940)に創建し、岐阜県内出身の御霊三万八千柱が祀られている。
(東京都千代田区岩本町)
現存しないが、かつては不忍池より大きい池だったというお玉が池の畔に祀られた神社である。社伝では寛正元年(1461)足利義政の祈願や文禄四年(1595)伊達政宗の参詣、また太田道灌の崇敬も篤かったという。然し、安政二年(1855)の江戸地震により被害を受けたため、明治4年(1872)本社は分社であった小岩に遷された。社名の「お玉」は、池の畔にあった茶店の女性「お玉」がこの池に身を投げたため、それまでの桜ヶ池からお玉が池と呼ばれるようになったことによる。
(岐阜市大宮町 2002年1月14日)
岐阜公園内に存在する昆虫の標本を展示する施設の収蔵庫である。明治40年(1907)建築家武田五一によって設計された建物は、木造煉瓦造平屋建、ドーマー窓(屋根窓)のハーフティンバー様式建築である。
(東京都中央区日本橋人形町)
江戸時代、この辺りは人形師が多くいたため通称で人形町と呼ばれていたのが町名の始まりという。北には椙森(すぎのもり)神社があり、平将門の乱の際、藤原秀郷が戦勝を祈願したとされ、また太田道灌が雨乞い祈願のため伏見稲荷の伍社の神を勧請したという。南には文政元年(1818)筑後久留米より勧請された水天宮が鎮座する。
(東京都台東区上野公園 世界文化遺産 国指定重要文化財 公共建築百選)
川崎造船所社長松方幸次郎が収集した美術コレクションの内、フランス政府に敵国資産として接収されていた同国美術品を返還する条件に設置されたのが国立西洋美術館である。昭和34年(1959)ル・コルビュジエ、前川國男、坂倉準三、吉阪隆正らの設計によって建設された本館と、前川國男設計、昭和54年(1979)竣工の新館、平成9年竣工の企画展示館(3館延床面積17,369m2)からなる。また、平成10年には全施設の免震工事がなされている。
(愛知県宝飯郡一宮町大木字山ノ奥 2002年1月5日)
柏木神社の側に柏木池がある。明治5年(1872)に築造された溜め池であり、灌漑(かんがい:供給)面積は1ha,満水面積0.1ha,貯水量20m3,堤高6m,堤長15mと小規模であるが、昭和43年(1968)の豊川用水通水までは土々川沿いの田畑を潤していた。