(愛知県岡崎市六供町甲越 2006年2月24日) 昭和36年(1961)甲山古墳の墳頂に築造された、展望台を兼ねたサイレン塔である。昭和時代は6時に「草競馬」、18時に「夕焼け小焼け」、22時に学校チャイムが鳴り、市民に時を伝えていた。「たつき」は岡崎城の別名「龍城」に因んでいる。 (2007年解体)
(ぐみょうじ 真言宗瑞應山蓮華院弘明寺 横浜市南区弘明寺町)
天平九年(737)行基が創建したとされる。元々は「求明寺」と書き、寛徳元年(1044)本堂と現存する本尊である十一面観音が造立され、明和三年(1766)には本堂が再建されている。然し、明治維新の神仏判然令以降は無住となり荒廃するが、明治34年(1901)に再興され、弘明寺保勝会が設立されている。
(愛知県豊川市一宮町野添 2006年2月17日)
かつて吉田道(信濃往還・伊那街道)が通っていたこの地は、近世以降西側に街道が移され、ひっそりと静まり返った。然しながら、数多くの遺跡等人々の営みの痕跡を多く見出すことができる。
(東京都港区東新橋)
JRの高架沿いに小さな神社が鎮座する。元々は大塚山(日比谷公園)に鎮座したが、慶長十一年(1606)江戸城日比谷門築造に際して、芝口に遷座したが、関東大震災によって愛宕下町(新橋四丁目)に遷座、そして環状2号線(新虎通り)の整備によって現在地に遷座している。
(愛知県安城市朝日町 2006年1月22日)
東海道線安城駅の近くに明治用水を跨いだ鉄橋の橋台が残る場所がある。昭和14年(1939)碧海電気鉄道(1944-名古屋鉄道)南安城駅と安城駅の隣に開設された新安城(1951-安城)駅1.1kmを結ぶ西尾線支線として開業した貨物線の跡である。戦後旅客化されたが、昭和36年(1961)廃止された。
(神奈川県鎌倉市小町)
滑川のほとりに鎮座する大己貴命(おおなむちのみこと)を祀る神社。明治維新の神仏判然令までは、この地に七面大明神があり、近隣の本覚寺境内にあった源頼朝が建立したという夷堂(夷三郎社)と合祀して蛭子神社となったという。その際に鶴岡八幡宮の今宮社殿を移築したとされる。
昭和56年再建の本覚寺夷堂
(愛知県宝飯郡一宮町足山田字若宮 2006年1月12日)
黒谷川沿いに建つ、上長山松源院末の曹洞宗寺院である。かつては西川上流「とうす鐘の沢」のほとりにあったという。境内には三十二基の石造物があり、主に江戸時代中期の阿弥陀如来、大日如来、薬師如来、馬頭観音、地蔵菩薩と、三界萬霊塔、西国巡礼観音塔、庚申塔等がある。
(東京都江東区潮見)
かつては深川8号埋立地と呼ばれたこの地は、高度成長期までは廃棄物埋立場であり、バタヤ蟻の町と呼ばれた廃品回収業者の住む地であった。平成2年京葉線の開業により集合住宅が建ち始め、運河に囲まれた陸の孤島に変化が生じた。
(名古屋市瑞穂区山下通 国指定史跡 2005年10月20日)
山崎川沿いに位置する縄文時代早期から中世に至る複合遺跡である大曲輪貝塚は、昭和14年(1939)陸上競技場築造の際に発見され、石器、土器、貝類、人骨等が検出されている。昭和55年(1980)競技場改修の際に改めて発掘調査が行われている。また、隣接して縄文時代後期の下内田貝塚がある。
(真言宗普明山法立寺成就院 神奈川県鎌倉市極楽寺)
極楽寺坂切通の頂に建つ寺院である。承久年間(1219-21)北条泰時により創建されたが、元弘三年(1333)新田義貞の鎌倉攻めの兵火により焼失、元禄元年(1688)に至り再興されている。
(名古屋市瑞穂区豊岡通 2005年10月20日)
瑞穂公園付近に存在した、4基からなる古墳時代後期の古墳群である。1号墳は豊岡小学校校庭にあり、一部が残る。2号墳は瑞穂公園内にあって、やや変形しているものの比較的原形を保っている。共に土師質埴輪を有する。3号墳は野球場、4号墳は陸上競技場建設によって滅失している。
(岐阜市橋本町 2009年8月7日)
平成19年に完成した、地上43階の複合ビルである。43階建てであるが、高さは163mと、集合住宅フロアが多いため比較的低い。また、57,600㎡の延床面積に対し、総事業費150億円と安価であり、構造、内外装がシンプルである。当初の計画では、大手百貨店が核テナントとして入る予定であったが、時世柄頓挫し、最終的に大型家具店が入ったが、間もなく民事再生法申請により閉店。一等地の優良建築物に広い空間が生まれた。