京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

何かおかしい…

2009年04月13日 | 日々の暮らしの中で
「keiさん…」、そう言うと、前回会ってそう間もないのに、彼女は私の顔の輪郭にそって指を滑らし、「変わりないですね」とあいさつを交わし終えた。

私たちにとっても、触れる、それは必ずしも事実を確かめるための行為だけではないのかもしれない。目を閉じ、触れることを通して人間の想像力が豊かに働き、広がる可能性のある感性はあることだろう。

人間が視覚を通して得る情報量は大きい。その点では視覚障害者は情報障害者とも言われてきているが、読書を楽しむ環境作りに一般企業が参入するようになっても数年にはなる。ユニバーサルデザインに対する需要が増すと見込んでのこと。
大活字本の分野では講談社でも注文に応じ販売をしている。文字の書体も工夫され共同で業界向けに発売されているという。電子書籍を読み上げソフトを使って合成音声で聞けるサービスもある。
点字メニューを会社自らが外部団体に発注して作成しているケースもある。

また、京都工芸繊維大学では、「話し言葉の瞬時点字翻訳機」を本年度内に試作品完成予定で開発に着手している。そして、選挙公報の点字化や演説には手話通訳をと、政治に参加しやすい環境づくりのための研究会が京都で発足もした。

なのに……。
視覚障害者の福祉向上を目指す会議であるにもかかわらず、視覚障害者向けに資料が配布されない。
点字での資料がない。それこそあって当然のもの。どのような言いわけも通じないと思うのに「あるべきであろう」と一言、苦言を呈す代表の言葉をすでに私は何年となく聴き続けている。「ああ、また言ってる」と思われるだろうけれど、とひたすら言い続けている。

情報を共有し合うことなくどうして意味ある関係など築いていけるだろうか。
用意してほしいと伝える願望と、それを受取ってもらうことでのつながり。つなげることで、もっと活性化し対話も進むというもの。絆がなければ対話は存在し得まい。実現不可能なことではないはずだが、不可解なこと。何か、どこかがおかしい。

コメント (2)
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