京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

「幻住庵」

2017年11月09日 | こんなところ訪ねて
一所不住、生涯旅寝を決めた芭蕉は、『おくのほそ道』行脚を終え、滞在していた義仲寺から幻住庵に移り住み、およそ4ヶ月を過ごしている。この頃になると、芭蕉の俳風を理解する門人は近江にしか残っていなかった、とか。とすれば、ここで過ごした日々は、信頼できる門人たちに囲まれて最も心安らかな束の間ではなかったのか。
どんなところだろう。ちょっと覗いてみたくて、きつい風が吹いていた去る4日にお邪魔を決めた。


「石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ。」
この国分山の山中に、芭蕉は近江の門人で膳所藩士の菅沼曲水の世話を受けて庵を提供された。無住のまま、ひどく荒廃していた様子は『幻住庵記』にある。閑静な山中に、竹箒を扱うような音が耳に入ってきた。ひと風吹けばカサカサいっせいに舞う落ち葉。誰も見ている人とていないのに、石段を掃く人が二人。そのうちの一人が上がってきて、迎えてくれた。




「こちら側から近江富士が見えますよ」「あのあたりに瀬田の唐橋があります。中山道がこう走っていますから、この木々がなかった昔はここから良く見えたはずです。馬が駆けたら土ぼこりが上がるのだって見えたかもしれませんよ」(梢の隙間から遠望するが、木々の茂りが邪魔で展望がきかない)「芭蕉は毎日ここから見ていたかもしれません」。(なんのために…)「旅を大垣で終えたことも不自然ですよ。大坂には豊臣の残党がまだまだたくさんいましたからね、幕府にとっては煩わしいことだったはずです」
何やら話の方向が見えてきた。芭蕉の隠密説があることを一応認識はしていたが、芭蕉は隠密のトップで、そういう立場は「そう」と言うのだと教えられた。


「こちらを見ましたか?」と案内されたのは、階段を少しばかり降りた所にある『幻住庵記』の陶板の碑文だった。
全文が記されるそれは、「幻住庵記 芭蕉艸」と書き始まる。「艸」の文字を箒の柄で差しながら、「これなんの意味でしょう」と聞いてくる。(さあ…)「クサカンムリです。くさ、『そう』です」。(はーい! 一瞬にしてさっき上で聞いた「そう」の言葉と重なりました)

次から次と繰り出される話題は豊富で、楽しく拝聴した。けれど、思うに、つい身を入れて聞き過ぎてしまったようだ。せっかく訪ねてきたのに、おしゃべりの時間が多すぎたと惜しんだ。切り上げるのが下手なのだな。
最後にもう一度、一人で高みにある庵まで戻ったところ、「長い話だったでしょ。話し半分に聞いてくださいよ」と言う人がいた。なんといったらいいのか、不思議なヘンな気分になった。
コメント (2)
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