兄弟も自分もやっぱり、やっぱりやったことないし、やっぱり見たこともないし、やっぱり、やっぱり信用のある病院で、やっぱり、やっぱりもう一度・・・」
(今朝のワイドショー番組で何度となく耳にしました。)
先日のオリンピックで、また日々街かどでのインタビューで、どれほどこの「やっぱり」が横行していることでしょう。耳障りでたまらず、「全然やっぱりじゃないですよ!」と、くいさがりたくなる思いです。
後が続かなくて、それはもう接続詞まがいの「やっぱり」です。極端な例ですから、問題外ですが。
相手の何に同意しているのでしょう。今まで通り依然と何か、どこかが同じなのでしょうか?
日ごろ、相手の思いや考えを推測しながら受け答えすることは多いかなと思います。
反応を気にしすぎる、それは「潜在的な意識」として話し方の基本に横たわっているという。言いたいことも十分に言えないまま終わる。「日本語会話の伝統的欠陥」と作家・吉村達也氏は表現されています。
相手(親しい友人であっても)への理解に立脚したところで言葉を発することが求められるのでしょう。
「こんなこと言ったら怒らせるかな?」はちょっと違うのです。気にして口をつぐめば思いは届かない。
届いた言葉には、耳を澄まして受け止めよう。
つたなくても自分から言葉を発しようとすることの大切さを感じます。
極力「ものの言いかた」を意識して、“おかしくない”話し方に努めよう。
「やっぱり」騒動からくどくどと考えてしまいました。
(今朝のワイドショー番組で何度となく耳にしました。)
先日のオリンピックで、また日々街かどでのインタビューで、どれほどこの「やっぱり」が横行していることでしょう。耳障りでたまらず、「全然やっぱりじゃないですよ!」と、くいさがりたくなる思いです。
後が続かなくて、それはもう接続詞まがいの「やっぱり」です。極端な例ですから、問題外ですが。
相手の何に同意しているのでしょう。今まで通り依然と何か、どこかが同じなのでしょうか?
日ごろ、相手の思いや考えを推測しながら受け答えすることは多いかなと思います。
反応を気にしすぎる、それは「潜在的な意識」として話し方の基本に横たわっているという。言いたいことも十分に言えないまま終わる。「日本語会話の伝統的欠陥」と作家・吉村達也氏は表現されています。
相手(親しい友人であっても)への理解に立脚したところで言葉を発することが求められるのでしょう。
「こんなこと言ったら怒らせるかな?」はちょっと違うのです。気にして口をつぐめば思いは届かない。
届いた言葉には、耳を澄まして受け止めよう。
つたなくても自分から言葉を発しようとすることの大切さを感じます。
極力「ものの言いかた」を意識して、“おかしくない”話し方に努めよう。
「やっぱり」騒動からくどくどと考えてしまいました。
同じ言葉なのに色んな使い方をしますね。それも「やはり」の意味を知って使っているとは思えないですね。東京帰りがやたらと、あのサー・そいでサー…のサーと同じように意味のない接続詞のような使い方を平気でしていますね。残念です。
自分で日記でも付けてみれば、多少思い当たって是正されるのでしょうが。兎に角我々こうして、何人かのお目に止まるものを書く人間が、問題提起をしたり、間違った使い方をしないよう気を付ける必要がありますね。
耳にされていらっしゃるのですね。思わず笑ってしまいました。
関東弁で、男性が語尾に「…ねえ~」とつけて話すと腹が立つという関西の男性知人がいましたっけ。女みたいだと怒って。
少しずれてしまっていますね。
いずれにしても、聞き苦しい言葉はあるものです。
人のふり見て、気をつけていきたいと思います。
「人の振りみて我が振り直せ」ですね。
私の経験ですが、何かの折りに、一生懸命話してたことを
「やっぱりね~、まあそういうことなのね」
みたいに交わされたことがあります。
とても嫌な気分になりました。
会話するときは、人の気持ちを誠実に受け止めて欲しい..と
思ったり、自分はそういうことを言ってないか~~と
顧みたり~~そんな経験を思い出しました。
「やっぱり!そうだと思った」とか、
簡単にまるのみしてほしくない時に、安易に受け入れられてしまうことで、はい、そこまでと終わることはあります。
でも以外に簡単に使われがちです。本当に気をつけようと思います。基本的には相手に対しての同感の意はあるんでしょね...。難しいですね。
きちんと聞きとってほしいと思うばかりでなく、「人の気持ちを誠実に受け止めて」いけるよう心掛けたいと思います。