琵琶湖西岸の山手にある大津市歴史博物館。その正面から琵琶湖を眺めれば、
左方に比叡山があり、その右手に続く比良山系の山並みには白く輝く冠雪が見られた。
そこからさらに右へ、東岸にあたる正面の山のその向こうに、やはり冠雪した伊吹山の台形の頂が望めた。
近江の人と、「源氏物語と大津」と題した特集展に足を運んだ。
まだこの先1年(~2025.2.2)もあるが、展示内容が変わる。この一期には、光源氏と葵上の出会いを描いた土佐光吉の源氏物語図色紙「若紫」(石山寺蔵)が展示されると報道されていたので、これが目的だった。
永徳の妻の兄、土佐派の後継者だった土佐光元は、「絵を描くより合戦に駆け回る方が得意で、千石の禄をもって秀吉の陣に迎えられ、戦に斃れた。」
それから10年。土佐派の後継には光茂の高弟だった光吉しかいない、といった箇所に一度登場したのが「光吉」だった(『花鳥の夢』)。
永徳は、「土佐派の絵は、いたって凡庸である。寺社の縁起や上人の物語を画巻に仕立てるのは得意でも、画面の中に躍動感や力強さなどはまるでない」と評していた。
この光吉の色紙に、力強さは不要だろうが、展示室がなあんか暗くって、あらゆる展示物の説明書きが読みづらく、見えない(ので読み取れない)というものもある始末。文字が小さい。眼鏡を取り出して見たが、小さい。こんなことは初めてだと思う。
「大津」に関わる常設展示と場所が一緒? 意図して構成されているのか? ごちゃごちゃと、余分なものまで見る羽目になったのか。
うーん、わかりにくい展示構成だった気がする。極めて不満足…。
外に出て、目の前に広がる琵琶湖の広がりにモヤモヤとくすぶった思いを吐き出した。
左方に比叡山があり、その右手に続く比良山系の山並みには白く輝く冠雪が見られた。
そこからさらに右へ、東岸にあたる正面の山のその向こうに、やはり冠雪した伊吹山の台形の頂が望めた。
近江の人と、「源氏物語と大津」と題した特集展に足を運んだ。
まだこの先1年(~2025.2.2)もあるが、展示内容が変わる。この一期には、光源氏と葵上の出会いを描いた土佐光吉の源氏物語図色紙「若紫」(石山寺蔵)が展示されると報道されていたので、これが目的だった。
永徳の妻の兄、土佐派の後継者だった土佐光元は、「絵を描くより合戦に駆け回る方が得意で、千石の禄をもって秀吉の陣に迎えられ、戦に斃れた。」
それから10年。土佐派の後継には光茂の高弟だった光吉しかいない、といった箇所に一度登場したのが「光吉」だった(『花鳥の夢』)。
永徳は、「土佐派の絵は、いたって凡庸である。寺社の縁起や上人の物語を画巻に仕立てるのは得意でも、画面の中に躍動感や力強さなどはまるでない」と評していた。
この光吉の色紙に、力強さは不要だろうが、展示室がなあんか暗くって、あらゆる展示物の説明書きが読みづらく、見えない(ので読み取れない)というものもある始末。文字が小さい。眼鏡を取り出して見たが、小さい。こんなことは初めてだと思う。
「大津」に関わる常設展示と場所が一緒? 意図して構成されているのか? ごちゃごちゃと、余分なものまで見る羽目になったのか。
うーん、わかりにくい展示構成だった気がする。極めて不満足…。
外に出て、目の前に広がる琵琶湖の広がりにモヤモヤとくすぶった思いを吐き出した。
労力と時間、両方が消費されるので、
落胆も2倍なんですよね。
分かります。😑
時代的に関心のある展示内容はありますが見たことあったり、狭いながらも盛沢山の中を回りました。
勝手に期待したわけですから仕方ないのですが、確かに!落胆も大きくなりますね。
せっかく行ったのに。
期待を込めての訪問は、kei様の知識を上回っていなかった。??
でも、華やかな絵師永徳を思い、その時代の人々を感じて、古い京都の有り様を具体的に知ることが出来たかな。
瀬田の唐橋は、鎌倉から大阪へ転勤の時にそこで一泊したことを思い出しました。
琵琶湖と、比良山、石山寺等々まだまだ知りたいことは沢山ありますね。
今年の大河ドラマと関連して、主だった人物が入り口を入った脇にずらりと並んで迎えてくれました。
極上の笑顔です。
琵琶湖畔は古来から歴史の舞台になっていますよね。
転勤が多かったのですね。昨年、わざわざ唐橋近辺を歩いて、
物語の世界を思い描いたりした日がありました。
湖南の石山寺も今年は賑わうでしょう。
平安時代には都の皇族や貴族が牛車に引かれ次々と詣でたようで、朝出発すれば夕刻には辿り着き、
二泊三日の滞在が多かったそうです。
私の初詣では学生時代で、京都に住んでいた伯母と河畔を肉まんをほおばりながら寺まで歩きました。
寒い冬の日でした。
新しく知ることがあれば嬉しいなと思うこの一年です。
人物の複雑な相関図がよくわかりません。
時代背景を知るには面白いと見ていますが・・・
狩野永徳は力のあった人なのですね。
絵師としてはもちろんですが、「剛の人」だった?
狩野派を隆盛に導いた人なので
そう思っただけです。
史実に基づきながらも虚構や脚色が大きいでしょうね。
どう描かれるのか。あまり大胆に、現代っぽさや漫画チックな物語にされていたら残念です。
天下一の絵師として一門を率いながら多くの障壁画や襖絵など書いていたようですね。
狩野派に挑む『等伯』側からの物語も読めて、今まだ頭の中は等伯と永徳でいっぱいになっています。