嵐山で信者を集め、妖しげな祈祷をしている美男の僧都。山の中にあるその寺近くの小屋には、白骨化した死骸の山。『王朝小遊記』で展開する、〈似非僧都と人喰い鬼退治〉活劇の舞台にもなった美度呂池を、梅雨の晴れ間に訪ねてみることにした。
〈糺の森を抜け、下鴨神社の先を半里ほど北へ、貴船や鞍馬へつづく丹波街道を進んだ先にある美度呂池(みどろいけ)〉
仕丁に姿を変えた似非僧都は、その畔にある山荘へナツメを案内していく道すがら、
「美度呂池というのは、太古の昔、地下水が湧き出してできた深い泥の池。あやまって足を滑らせようものなら、二度とあがってはこない。いくつかある浮島も、うっかり足を踏み込めばずるずると沈んでしまう。浮いているのがまやかし、似非の島」と話して聞かせた。
山荘は、随身、僧兵、山伏のような者たち大勢が警固していた。戦いの大混乱の中、人喰い鬼ならぬ元海賊の毛むくじゃら大男と一緒にニシタカも崖下の池に落ち、コオニは投げ飛ばされ、ナツメは自ら身を投げ、と3人みな池の中に沈んだ。かに見えた3人だったが…。
この池、「深泥池」と書いて「みどろがいけ」「みぞろがいけ」と呼ぶ。
『小右記』には美度呂池と記され、平安前期の菅原道真の編纂による『類聚国史』では泥濘(ぬかる)池と名前が出ているとか。
氷河期以来の動植物が今も生きている、と知られている。
どのあたりに山荘だろうか。三方を山に囲まれた池、とあったが、今はかなり明るく開けている。季節により浮島は上下に変動し、夏には浮かび上がり、冬は沈んで冠水するという浮島。日本に200種ほどいるトンボのうち60種ほど生息しているらしい。少し前なら、西側の道を車で走りすぎる時に白いカキツバタが目に入った。
氷河期の風も水面も憶えゐる深泥池に添ひゆつくり歩く 河野裕子
〈糺の森を抜け、下鴨神社の先を半里ほど北へ、貴船や鞍馬へつづく丹波街道を進んだ先にある美度呂池(みどろいけ)〉
仕丁に姿を変えた似非僧都は、その畔にある山荘へナツメを案内していく道すがら、
「美度呂池というのは、太古の昔、地下水が湧き出してできた深い泥の池。あやまって足を滑らせようものなら、二度とあがってはこない。いくつかある浮島も、うっかり足を踏み込めばずるずると沈んでしまう。浮いているのがまやかし、似非の島」と話して聞かせた。
山荘は、随身、僧兵、山伏のような者たち大勢が警固していた。戦いの大混乱の中、人喰い鬼ならぬ元海賊の毛むくじゃら大男と一緒にニシタカも崖下の池に落ち、コオニは投げ飛ばされ、ナツメは自ら身を投げ、と3人みな池の中に沈んだ。かに見えた3人だったが…。
この池、「深泥池」と書いて「みどろがいけ」「みぞろがいけ」と呼ぶ。
『小右記』には美度呂池と記され、平安前期の菅原道真の編纂による『類聚国史』では泥濘(ぬかる)池と名前が出ているとか。
氷河期以来の動植物が今も生きている、と知られている。
どのあたりに山荘だろうか。三方を山に囲まれた池、とあったが、今はかなり明るく開けている。季節により浮島は上下に変動し、夏には浮かび上がり、冬は沈んで冠水するという浮島。日本に200種ほどいるトンボのうち60種ほど生息しているらしい。少し前なら、西側の道を車で走りすぎる時に白いカキツバタが目に入った。
氷河期の風も水面も憶えゐる深泥池に添ひゆつくり歩く 河野裕子
「深泥池」のほうが似合う怖い池みたいですね。
泥沼>一度足を踏み入れるともう出られない。
泥沼紛争とか泥沼化とかよくないことばかりに
使われます。
氷河期以来の動植物が今も生存しているなんて
稀有のことでしょう。
それでも今は穏やかに明るい風景が広がっています。
大田神社のカキツバタがまだ海だった頃の泥炭地に咲いているようですが、
ちょうど西と東で、稀有な地です。宝庫ですね。
ボートを出して調査している人たちを見たこともあります。
「小右記」は面白くて、そこから想像を膨らませて書いたのが「童の神」だった、
と今村翔吾さんが澤田瞳子さんとの連載対談の中で話しておられました。
ちょうど今日朝刊で読んで、氏の作品を読んでみたくなったところです。
字で感じるのと、深い物語を知って感じるのでは大きな違いがありますね。
糺の森を抜け、下鴨神社の先を半里ほど北へ、貴船や鞍馬へつづく丹波街道を進んだ先にある…
京都の由緒ある地名の向こうに、こんな物語を秘めた池が存在するとは。
面白いというのか、歴史の変遷を思わせてくれますね。
左手(西側)に、貴船・鞍馬へと道は続きます。
藤原実資の時代に日記には存在が記されていて、歴史はもっとさかのぼる池なのですから、その価値は大きいですね。
動植物の生態系も貴重なものです。
いろいろな物語が生まれるようです。心霊現象まで。
右手は山を切り開いた、見上げる先に住宅やマンションがあるのですよ。
活劇の舞台はそっち方面?などと想像してます。