京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

「新一年生」、うふふ・・・

2009年04月04日 | 日々の暮らしの中で
明治維新で都が東京に移り、喪失感漂う中、京都府が力を注いだのは町を担う子弟の教育だったという。明治2年5月、日本最初の小学校が、続く4ヶ月後にもさらに一つと開校している。貧富貴賎を問わず男女が教育を受ける様に、福沢諭吉も感嘆したそうな。

室町時代の五山文学、安土・桃山時代のキリスト教的価値観の広まり、江戸時代の朱子学や医学・国学など京都は中心だった。一方で、華道・茶道・能、狂言・友禅・謡・仕舞なども中心はずっと京都である。
「田舎の学問より京の昼寝」
自分の趣味や遊び、興味のあることは、居心地よく住み着いているうちにいつの間にか少し物知りになっている ― と。少々きつい言葉だが、文化の深みを背景にうなづけないこともない。

昨日、施設一体型で小中一貫校が開校した。初年度生徒数87人。ここに府内で初めて9年間を3ブロックに分ける「四-三‐二制」が導入された。小中間の移行をスムーズにと考慮し、ブロック単位でカリキュラムを独自に組み、小5から教科担任制としている。
「住民すべての英知を結集する」という言葉に、聞く者の胸も弾む思い。
「ゆとり教育」路線が修正され、新学期から授業は変わる。
国語の教科書がすらすらと読めない中学性がいかに多いか、世間は、親は、どれほど認識しているだろう。子供が音読するのを聞いたことありますか……。

どうして勉強するの?? 

学術の町、京都の一隅で、週が明けたら私も“新一年生”なのだ。
今日は美容院に行って、か~るくパーマをあてた。少し気持ちにメリハリをつける。うふふ…。
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こぼれる愛らしさ

2009年04月03日 | JESSICAの日本滞在記


「明日のお天気」が、温かな明るい光の差し込む朝・良いこと・楽しいことをウキウキと心待ちにすることにつながっていくのも、まさに春という季節のせいかもしれない。
「あしたなにしよ~」
いつの間にやら一人ちょこんと座っている。「おはよーございます~」、早起きなのも、一理ありか。今日は何をしよう、どこへ行こう、考えることは多いのだろう。

「川に落ちはったん」
濡れて汚れたスニーカーを脱ぎ飛ばす。およそ三十分の道のりを歩いて帰ってくる。
賀茂川の両岸をつなぐ飛び石の上で、すれ違った人をよけたはずみらしい。慣れたお気に入りの遊び場である。

外での体験をリアルタイムで一気に再現しようとすることばの力、圧巻である。
Jessieの愛らしさがこぼれるように光る。目でさえ表情を持ち、いとおしい。
「ねっ、マーミチャ~~ン」、母親の同意を求め終わる。

さくらの美しさを目に映し、気づかぬくらい静かに静かに日々3歳児に降り注がれる恵み。
それが豊かな実りをもたらすものであることになんらの疑念も生じない。Jessieを潤し私達も潤う。

和顔愛語(わげんあいご)。いつもにこやかな羅漢さんたちを
頭上から覆うように枝垂れる六角堂の御幸桜が美しい。
中央部が六角形……。
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いのちからの呼びかけ

2009年04月02日 | 日々の暮らしの中で
野太い声が響き、素足にわらじ、若い雲水の二人が足早に角を曲がっていく。
最近はお布施をする人も減ったらしく、「朝からうるさい!」と寺に苦情の電話が入ることさえあると聞く。

午前4時半(遅くとも5時)、婆さまの朝の鐘つきの仕事も、絶えて久しい。鐘楼に近いお宅にとって、“早すぎる目覚まし鐘”はチョット?オオイニメイワクなことも多かっただろうと思い遣るけれど。やはり、朝からうるさい、と……。
「♪お寺の鐘が鳴る~」そんな情緒ははるか昔のことになってしまった。

臨済宗の本山が多い京都では古くから托鉢が根付いている。雲水の生活を支えるものでもあるのはもちろんだが、「自分を殺して頭を下げる修行でもある」と説明されている。

四月一日から五日まで、東本願寺では春の法要が勤まっている。
2011年(平成23年)宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要を控え、御影堂の修復工事は進み、内装も仕上げ段階。
阿弥陀堂へ移動するために、お堂を覆った素屋根が一部解体され、南側の破風を見上げることができる。竣工は間近い。

その御遠忌のテーマが「今、いのちがあなたを生きている」。
そして、御遠忌テーマソングが制作(公募)された。

「今、いのちに目覚めるとき」
1.  心が深く負う傷は       2. どうにも抑えられない
  すぐに癒えないけれど        憎しみはあるけれど
  その悲しみの淵から         ふるえる思いの中から
  私に呼びかけるものがある      私に問いかけるものがある
  あなたはあなたでよいのだと     あなた自身はどうなのかと
  気づいた時から生きられる      問われたときから生きられる
  このかけがえのない私に       このかけがえのない私に
  いのちが今、きらめく        いのちが今、ときめく

3. 辛い涙に暮れる日は
  決して尽きないけれど
  私が絶望しても
  私を見捨てないものがある
  私を生かすはたらきに
  目覚めたときから生きられる
  このかけがえのない私に
  いのちが今、かがやく

「宗教」にとらわれることなくかみしめられることば、心に深く響く気がいたします。
http://higashihonganji.jp/index.html (しんらんしょうにんホームページ)
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背中に目が!

2009年04月01日 | JESSICAの日本滞在記
私には両目のほかにあと三つ目がついているのです。
まず、背中に。背後が自由に見えますし、急に襲われたりしない用心も兼ねています。さらには、夜でも足元を誤らないために膝頭に一つ。あとひとつは、手の中指の先にあります。見物に出かけたときなど、手を差し上げれば前が何の障害もなく見えて大変便利です。

実はこれ、『醒酔笑』(安楽庵策伝著)の「似合うたのぞみ」の章に収められた“ぶっとびの小話”から拝借したうそ。数人の者たちが集まって、自分の心に秘めた望みを語り合うことになり、ある者が、両目のほかにあと三つの目が欲しいと言いだした、と。策伝さんは、人間はいろんな願いを持つうちに極端にヘンなことになったり本末転倒してしまったりする、という歌を二首つけて書いているという。

これを読んで、数日前から計画、Jessieをからかうことにする。
「Jessie~、いつから背中に目がついてるの~?」
「大きなお目めがついてるよ~」
「後ろで何をしているかよくわかるの?何しているのかあててみて?」
「あっ、笑ったよ~、」
「Jessieは見たことあるの?」
さんざんからかわれ―、しかし自分で自分の背中は見えません。結局、上着を脱いで確かめますが……、「脱いだら隠れちゃうみたい。お洋服を着てないとあかんみたいやわ~。」

3歳児、いい迷惑のようでした。「罪のないうそ」で終わっただろうか。
万愚節(ばんぐせつ)とも言うそうな。今日はエープリルフール。

百花繚乱。
花の色香に誘われて公園に飛び出す幼子の頬も、さくらいろに優しく染まっている。花冷えなどなんのその。
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