この物語の主役は、趙の邯鄲の都に住む紀昌という男。天下第一の弓の名人になろうとしていた。紀昌は、まず世間で弓の名手と言われている飛衛に弟子入りする。この飛衛の教えを端的に言えば、「瞬きをするな、ものを良く視ろ」ということ。このために紀昌が行ったことが笑えるのだが、この修行の成果として、錐で瞼を突かれても瞬きをせず、ものがものすごく大きく見えるようになった。何しろ虱が馬のように見えるのである。これは、オンーオフが可能なのだろうか? 作品を読む限り、常にオン状態のような気がする。それだと却って不便だろうと思うのだが、
そしてここからが紀昌の紀昌たるところ。飛衛が生きていると自分が一番になれないということで、師を亡き者にしようとする。幸いにも二人の闘いは引き分けに終わったが、そのとき飛衛が言ったのは、
<なんじ(原文は人偏に爾)がもしこれ以上この道の蘊奥を極めたいと望むならば、ゆいて西の方大行の嶮に攀じ、霍山かくざんの頂を極めよ。そこには甘蠅老師とて古今を曠する斯道の大家がおられるはず。老師の技に比べれば、我々の射のごときはほとんど児戯に類する。>
要するに、飛衛はこのアブナイ弟子を甘蠅老師に押し付けたのである。甘蠅老師の不射之射を見た紀昌は、この老師の元で9年間修行をすることになる。どんな修行をしたのかはこの作品に分からないと書かれているが、紀昌は別人のようになって帰ってきた。
<以前の負けず嫌ぎらいな精悍な面魂はどこかに影かげをひそめ、なんの表情も無い、木偶のごとく愚者のごとき容貌に変っている。>
これを見て以前の師匠の飛衛は紀昌のことを天下一の名人だと絶賛する。紀昌は、以前のようにアブナイやつではなくなったのだが、飛衛の絶賛具合にも何か意図があると勘繰るのは私だけであろうか。しかし紀昌は二度と弓をとることはなく、死ぬ1,2年前には、とうとう弓と言う名前も、その使い方も忘れてしまっていたのである。なんか今だったら何かの病名が付きそうな話であるが、もちろん、この作品ではいい話として纏めている。どこか私のツッコミ魂が出てきそうな話だった。
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※初出は、「風竜胆の書評」です。