素人の暴論である。本日の午後、「アイヌ文化フェスティバル」の舞台を楽しんできた。「口承文芸」、「アイヌ音楽歌唱」、「古式舞踊」と多様な演目に接して、アイヌ文化の豊かさを感じたのだが、それと同時に感ずるものがあった。
本日午後、(公財)アイヌ民族文化財団が主催する「アイヌ文化フェスティバル」が札幌市教育文化会館の大ホールで開催され、入場券を入手できたのでそのステージを観賞してきた。
プログラムは〈1〉アイヌ文化賞・アイヌ文化奨励賞贈呈式、〈2〉基調講演、〈3〉アイヌ文化公演、となっていた。
※ ステージ上の写真撮はNGだったので、以下3枚の写真はプログラムの写真を転写しました。
〈1〉はコロナ禍とあって表彰式を省略すると主催者から知らせがあり、受賞者がスライドで紹介されただけだった。〈2〉は「アイヌ古式舞踊とその未来」と題してアイヌのユーカラ劇や舞踊などを演出する秋辺日出男氏が講演された。私は氏の講演に期待していたところがあったのだが、氏の話しぶりにどうしても入っていけなかった。そのことについて深くは言及しないでおきたい。
さて、本日の話題は〈3〉の「アイヌ文化公演」についてである。前述したように、次から次へと繰り出される演目を観賞していて、改めてアイヌ文化の豊かさに気付かされた思いがした。そうした思いで観賞していた時、私の中であるシーンが蘇ってきた。それは 今から10年も前になる。2012年6月、私は妻とアメリカを旅していて、アメリカ映画の西部劇の舞台として有名なモニュメントバレーに立ち寄っていた。
そのモニュメントバレーの奇妙な赤い岩が林立する中を、地元のインディアンの末裔がジープで案内してくれた。その案内の途中で、彼はインディアンに伝わる民謡を披露してくれた。その歌声を聴いていて「あれっ?どこかで聴いたことのあるメロディーに似ているな」と思わされた。どこかにもの悲しさを秘めたそのメロディーを聴いているうちに「あっ!アイヌ民謡に似ている!」と気付いたのだ。遠い昔、アメリカ西部のインディアンと北海道のアイヌが交流していたはずがない。それなのに似たようなメロディーの唄が存在するとは…。
そしてもう一つ、本日の舞台でアイヌの口琴「ムックリ」の演奏が披露された。口琴というとロシアの先住民族サハ人が思い浮かぶ。サハ人はアイヌの竹製の口琴とは違い、金属製の「ホムス」という口琴である。以前に来札したサハ人が奏でるホムスの演奏を聴いたことがあるが、その響きはムックリによく似ていて驚いたものだ。
こうした共通性に気付いた時に、あながち暴論ではないのではないかと思ったりしたのだが…。そして暴論は妄想を生む。インディアン、サハ人、そしてアイヌといった先住民たちは古来から自然と対してそこから生きる糧を得なければならなかったとした時、彼らは自然に対する畏怖の念を抱いたのではないだろうか?そして自然に対して抗することのできないある種の諦観のような思いがあのようなもの悲しいメロディーを生む源泉となったのではないだろうか、などと妄想してしまったのだ。
まあ、これはあくまで私の妄想である。笑って読み飛ばしていただきたい。
羨望させられた次第です。
貴兄は、『先住民の文化は通底しているところがある!?』と題され、
>インディアン、サハ人、そしてアイヌといった先住民たちは
>古来から自然と対して、そこから生きる糧を得なければならなかったとした時、
>彼らは自然に対する畏怖の念を抱いたのではないだろうか?
>そして自然に対して抗することのできないある種の諦観のような思いが
>あのようなもの悲しいメロディーを生む源泉となったのではないだろうか、などと妄想してしまったのだ。
私も漠然と思索してきましたが、貴兄は的確に表現されたこと、
改めて貴兄には敬意を致します。
私の暴論、妄想をお認めいただき有難く受け止めさせていただきます。
本来であれば、そう考えたことを文献等にあたって確かめるのが本来かと思うのですが、それほど究めるタイプでもありませんので、思うだけに止めておきたいと思っています。
ありがとうございました。