田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

道東旅物語⑤ 北海道遺産「霧多布湿原 & 国泰寺」

2022-08-20 13:44:40 | 北海道遺産関連

 霧多布湿原は海(太平洋)と湿原が隣り合う珍しい湿原である。琵琶瀬展望台からの眺めは息を飲むほど美しい光景だった。また、厚岸の名刹「国泰寺」は長い歴史を感じさせる重厚な雰囲気に満ちていた。

霧多布湿原 

    

    ※ 「琵琶瀬展望台」から眺めた霧多布湿原の中を悠々と流れる琵琶瀬川の流れです。   

 根室方面から「霧多布湿原」に向かうには、海沿いの「なぎさのドライブウェイ」を走るコースと、「霧多布湿原センター」に立ち寄り、湿原を意味するMarshy Grasslandの頭文字から、「MGロード」の呼称される道路を通って向かうコースがあるが、私は後者を選択し「霧多布湿原」を目ざした。

   

   ※ 「霧多布湿原センター」の建物です。

 「霧多布湿原センター」は湿原が始まる小高い丘の上に位置していた。そこからは湿原が一望できたのだが、それを目にした私には正直言って茫洋と草原が広がっているようにしか見えず、格別感激はしなかった。

   

   ※ 湿原センターの展望フロアから「霧多布湿原」わ撮ったものです。ガラス面が写り込んでいます。遠くに見える扁平な細長い島が、今から考えると「嶮暮帰島」でした。

 そして湿原を横切るように「MGロード」が走っていた。そこも北海道の田舎育ちの私にはただ草原の中を走る道路のようにしか思えなかった。やはりこうした広大な湿原を把握するためには上空から眺めることが一番なのかもしれないと思ったのだが…。

   

   ※ 湿原を横切って走る道々808号線は「M・Gロード」と呼ばれていました。(その表示です)

   

   ※ MGロードの横には写真のような光景が広がっていました。   

   

   ※ MGロード上には、写真のような霧多布湿原を説明する看板もありました。

 「MGロード」が終わり道路は海岸に出た。私は浜中町本町には向かわず、霧多布湿原が一望できるという「琵琶瀬展望台」の方に向かった。

 海岸を見るといくつかの島が見えた。ここには畑正憲さんの「ムツゴロウの無人島記」で有名になった「嶮暮帰島(けんぼっきとう)が横たわっていた。私はたいして調べもせずに特異な形をした島が「嶮暮帰島」だと思い込んで写真を撮ったのだが、それはどうやら「嶮暮帰島」の隣にあった「小島」だったようだ。その横に細長く扁平に横たわっていたのが「嶮暮帰島」だった。(トホホッ…)さらなる私の失敗は、「琵琶瀬展望台」の前にあるはずだった「琵琶瀬木道」を見逃したことだった。私はこの木道を歩いて霧多布湿原を体感したかったのだが…。

   

    ※ 私が「嶮暮帰島」と勘違いしてしまった太平洋上に浮かぶ「小島」です。      

 「琵琶瀬木道」を探しているうちに「琵琶瀬展望台」の標識が目に入り「あれっ?」と思ったのだが、どうやら見逃したまま通り過ぎてしまったようだ。

 さて、その「琵琶瀬展望台」であるが、「霧多布湿原」を見渡すには絶好のポイントだった。湿原の中をゆったりと大きく湾曲しながら流れる琵琶瀬川の様子は「霧多布湿原」を象徴するような素晴らしい光景だった。

   

   ※ この光景は何度見てもため息の出るような素晴らしい光景です。

   

   ※ 同じく「琵琶瀬展望台」から湿原の向こうに望見できる浜中町の街並みです。

 私は「琵琶瀬展望台」からの景色にすっかり満足し、「霧多布湿原」を後にした。しかし、今になって考えると札幌からかなり遠隔地となる霧多布まで行ったのだから、もう少し丁寧に「霧多布湿原」を味わうべきだったかな?と反省している。

 国泰寺

   

   ※ 「国泰寺」の本堂です。逆光だったのが残念です。  

 「国泰寺」は文化元(1804)年、江戸幕府が蝦夷地に幕府自らが管理・運営する官寺 ということで他の2寺と共に、「蝦夷三官寺」として「北海道遺産」に選定された。他の2寺とは、伊達市有珠の「善光寺」、様似町の「等じゅ院」である。“官寺”とは、和人の葬儀・祈祷を行う一方、ロシアの南下が懸念されるなか、キリスト教の広がり対して先手を打つねらいもあったとされている。

 「国泰寺」は厚岸本町(役場がある側)とは「厚岸湖」を挟んで対岸に位置していた。お寺の前には「北海道遺産」に選定されたことを大きな看板で表示されていた。そして境内に進むと、いかにも歴史を感じさせる山門、そして本堂が建っていた。ただ、お寺の建物そのものは創建当時のものではなく明治年間に建て直されたものだという。

   

   ※ 「北海道遺産」に選定されたことを大きく伝える看板です。

 帰宅して関係するマップなどで確かめると「国泰寺」と表記されているのが気になった。そこで厚岸町観光協会に問い合わせてみると、やはり “官寺” に指定された当時の建物ではないことから「国泰寺跡」という表記になったということだった。

   

   ※ 質素ながらも風格を感じさせる山門です。

   

    ※ 山門から本堂に通ずる道は苔むした通路になっていました。   

 「国泰寺」は桜の名所としても知られ、境内には「老桜樹」と表記された老木が立っていた。その傍に「天保元(1830)年、国泰寺の本堂と庫裏を修復する際に、当時のアッケシ場所請負人である山田文右衛門が奥州石巻からオオヤマザクラを移植したと伝えられる古木である。高さ10m、幹周約3m、樹齢180年を超える。春には淡紅色に咲いた老桜樹を境内で観賞できる」と書かれてあった。

   

   ※ 樹齢180年を超えるという「老桜樹」です。

 以上、5回にわたって道東地方に点在する「北海道遺産」についてレポしてきた。やや駆け足の感はあるが、初めて訪れたところ、再訪したところと、多くの「北海道遺産」を直接目にできたことは私にとって収穫だった。来る今年度後半期の「めだかの学校」の学習において、その成果をみなさんに還元出来たらと思っている。


道東旅物語④ 北海道遺産「野付半島と打瀬舟」

2022-08-19 14:57:38 | 北海道遺産関連

 オホーツク海に伸びる野付半島は特異な半島である。砂が堆積してできた半島は今にもちぎれてしまいそうなほど心細い地形である。その内海の尾岱沼(野付湾)はホッカイシマエビが特産で、それを捕獲するための「打瀬舟」という伝統的な帆船で行われる漁が有名である。

野付半

 野付半島は本当に特異な地形である。全体像はドローンなどを使って上空からその形状を捉えねば把握できない。そこでウェブ上からその写真を拝借した。

   

   

 野付半島は沿岸流の影響で砂が堆積してできた砂嘴であるが、その延長は約28kmと日本最大といわれている。車が通れる道路は根元になる国道244号線から別れ道々950号線の「フラワーロード」と称される道路が17.7km伸びているが、その途中15km地点に「野付半島ネイチャーセンター」がある。

 私は8月15日午前に訪れたのだが、私にとってはずーっと以前に訪れてから(それが何時だったか思い出せない)2度目の訪問だった。国道244号線から道々950号線に入って、まず目に入ったのが野付湾側ではなくオホーツク海側に見えた「国後島」の島影だった。その距離の近さに改めて驚いた。

   

   ※ 雲一つない晴天ではなかったのですが、「国後島」の島影が眼前に見えました。

 次はフラワーロードの中ほどにある「ナラワラ」だ。ちょっと離れた位置であるが、主としてミズナラの木が立ち枯れている様子を見ることができた。

   

   ※ 「ナラワラ」の光景です。やや遠いのですが、立ち枯れたミズナラの木が見えます。(下の写真も)

   

 そして「野付半島ネイチャーセンター」の先に広がる「トドワラ」である。「トドワラ」はネイチャーセンターから散策路が設けられている。私はその散策路を巡る前に、ネイチャーセンターのところからさらに先に2kmほど延びている道路の終点まで行くことにした。

   

   ※ 「野付半島ネイチャーセンター」の建物です。

   

   ※ センターの横に立てられていた「野付半島」の石標です。背景は尾岱沼(野付湾)です。

   

   ※ 「野付半島と打瀬舟」が北海道遺産の登録されたことが大きな看板で説明されていました。

舗装道路が切れているその先にも道路は続いていたが、そこから先は関係者以外は立入禁止となっていた。

   

   ※ 車の交通止めの先は、野付半島の先端部分がまだまだ先へと延びていました。

 戻って、ネイチャーセンターのところから「トドワラ」に向かって約1.5kmの散策路を歩いた。途中、エゾシカが十数頭群れになって散策路の近くに佇んでいた。人慣れしているせいだろうか、私たちにまったく動ずることなく佇んでいた。その群れは、私が「トドワラ」の先端まで行った帰りには、移動して尾岱沼(野付湾)の浅瀬に移動していた。立派の角を付けた多数のシカを見るのは初めてだったが、あるいは天敵がいないために伸び伸びと生きているのかもしれない。

   

   ※ ネイチャーセンター横から「トドワラ」に伸びる散策路です。

   

   ※ 角を戴いたオジカをこれほど近くで複数頭目にしたのは初めての経験です。

   

   

   ※ トドワラからの帰路の際、シカの集団は尾岱沼の浅瀬を移動していました。

 「トドワラ」の先端は木道になって水際近くまで延びていた。その先端からは立ち枯れたトドマツの枯れ木が数本立っていた。

   

   

   ※ 遊歩道の先端には、「トドワラ」の標識がありました。

   

    ※ 遊歩道に続いて、木道がトドワラの先端に続いていました。   

   

   ※ 木道の先端から見た光景です。満ち潮の時には辺り一帯が水面で覆われるものと思われます。

   

   ※ 木道の先端からわずかに残った立ち枯れのトドマツがありました。

   

   ※ 砂嘴がまだまだ伸びています。

 私が以前に野付半島を訪れたのがいつだったのか思い出せないのだが、「トドワラ」の風景が当時とはかなり変わっている印象を受けた。というのは、当時は散策路を歩くことなくトドマツなどが立ち枯れた特異な風景が道路際からたくさん見えたように記憶している。沿岸流の流れによって “砂嘴” の形状が変わり続けるとともに、立ち枯れるマツなどの様子も変化しているようだ。

打瀬舟(うたせぶね) 

 「打瀬舟」は野付半島のもう一つの名物なのだが、今回もその光景を目にすることはできなかった。尾岱沼(野付湾)はホッカイシマエビの名産地として知られる。湾内は水深が1~3mと浅く、そこにシマエビのすみかとなるアマモが密生しているという。浅い海で漁をする漁船はスクリューでアマモを傷つけないように帆を上げて漁をするという。その光景が情緒的ということで人気を呼んでいる。ところがその漁期が6月中旬から一か月と10月中旬から一か月に限られている。残念ながら今は休漁期ということで、その光景を目にすることは叶わなかった。

   

   ※ この光景を見たかったですねぇ~。

 その様子を写した写真をウェブ上から拝借して掲載することにした。 


道東旅物語③ 北海道遺産「ワッカ/小清水原生花園」

2022-08-18 14:15:33 | 北海道遺産関連

 「原生花園」…、手つかずの自然が残る花園。いかにもオホーツク海沿岸に相応しい光景である。オホーツク海沿岸には海沿いに発達した砂州がいくつか存在するが、その中で代表的な花園として二つの原生花園が北海道遺産に登録された。この二つの原生花園も私にとっては再訪であった。

ワッカ原生花園

 ワッカ原生花園は汽水湖のサロマ湖とオホーツク海に挟まれた細い砂州の東側の付け根に広がる原生花園である。

   

   ※ 「サロマ湖ワッカネイチャーセンター」の建物です。

   

   ※ そのネイチャーセンターに展示されていたワッカ原生花園の全体図を表した図です。

 今回私が訪れたのは8月14日の早朝9時前だった。北見市常呂の栄浦地区からサロマ湖を跨ぐ「栄浦大橋」を渡ると直ぐに「サロマ湖ワッカネイチャーセンター」がある。車はそこまでで、ネイチャーセンターから原生花園を楽しむにはトレッキングかレンタサイクルで花園を巡ることになる。ネイチャーセンターは早朝だったために、まだ観光客の姿は見えず花園は静かに佇んでいた。

 私は以前にトレッキングでサロマ湖とオホーツク海が繋がる第二湖口を越え、「花の聖水」といわれる真水が湧くところまで行った経験があったので、今回はパスし、写真だけ数枚撮っただけで花園を後にした。

   

   ※ 左側に見えるのはサロマ湖です。遠くに第2湖口の橋(?)が見えます。手前は散策路の柵です。

   

   ※ 反対側を写したのですが、こちらに見えるのもサロマ湖の水面です。

 なお、「ワッカ」という名は、アイヌ語の「ワッカ・オ・イ」すなわち「水のあるところ」と呼んでいたことから名付けられたということだ。

   

   ※ 盛期を過ぎたハマナスの花が咲き残っていました。

小清水原生花園

    

    ※ 小清水原生花園の中の唯一小高い所にある展望台です。遠くの水面は濤沸湖の水面です。

 原生花園というと、私はこの「小清水原生花園」をイメージすることが多い。というのも「小清水原生花園」はワッカ原生花園と同様に濤沸湖とオホーツク海に挟まれた砂州上に広がっているのだが、こちらはその砂州上に国道とJRの線路が走っている。そのため私は車で走る時も、列車に乗った時も、原生花園を横目に通り過ぎることが多かったからだ。

 私は小清水町に8年間在住したことがあるが、網走へ仕事で走ることが多かったために、小清水原生花園は日常の風景だった。

   

   ※ 同じ展望台からオホーツク海側を眺めたところです。看板に「北海道遺産」の文字が見えます。   

   

   ※ 原生花園は花の時期を終え、緑一色でした。

 今回はワッカ原生花園と同じ8月14日午後、JR「原生花園駅」の傍の国道横にある「インフォメーションセンターHANA」に停車して、原生花園巡りを楽しんだ。花園巡りといってもそれほど長い距離ではなく、誰もが楽しめる程度の周回路が用意されている。周回路を歩くと、花の最盛期は過ぎた感はあったが、それでも幾種かの花を楽しむことができた。

   

    ※ それでも足元を仔細に見れば、数種の花を見ることができました。(名前か自信がないので省略します)   

   

   

   

   

   ※ わずかに咲き残っていたハマナスの花です。   

   

   ※ 多くはすでに実を付けていました。

 インフォメーションセンターでは、原生花園を紹介するフィルムが上映されていたが、花園では花園全体を4分割して、毎年春に野焼きをしているそうだ。4分割しているため4年一度は野焼きが入り、雑草の繁茂を防いでいるそうだ。   

    

   ※ 濤沸湖畔では道産子が黙々と草を食んでいました。

 オホーツク海沿岸には、二つの原生花園の他に、猿払村の「エサヌカ原生花園」、斜里町の「以久科原生花園」、紋別市の「オムサロ原生花園」などがあるようだ。二つの原生花園はそれらを代表する原生花園として選定されたようだ。


道東旅物語② 北海道遺産「雨宮21号」&「ピアソン記念館」

2022-08-17 13:17:01 | 北海道遺産関連

 今回取り上げる二つの遺産共に私は以前に体験した遺産である。遠軽町の「雨宮21号」は乗車も体験している。対して北見市の「ピアソン記念館」は市内に現存しているため行きやすく何度か訪れた経験があった。二つの遺産共にオホーツク管内にとっては貴重な遺産である。

森林鉄道蒸気機関車「雨宮21号」

   

 遠軽町丸瀬布地区に動態保存されている森林鉄道蒸気機関車「雨宮21号」は、国道333号線から約10km山奥に入った「丸瀬布いこいの森」という公園で現役で活躍している。

   

 森林鉄道は大正時代から昭和にかけて北海道内の山林から木材を国鉄路線があるところまで運び出す軽便鉄道として北海道内の各所に敷設されたという。その後輸送手段がトラックに代わったことに伴い、その役割を終えて全線が廃止の運命となったが、丸瀬布地区の鉄道だけは地元住民の熱心な保存運動が実り、丸瀬布営林署に保存されることになったという。(それは昭和44(1969)年の話である)

 保存するだけだった「雨宮21号」を、地元住民たちは動態保存をしようと再び立ち上がった。そして昭和57(1982)年、「丸瀬布いこいの森」公園内に8の字を描く延長役2kmの線路が完成し、乗客を乗せて走る営業運転が始まり、現在に至っている。

   

   

   

   

   ※ 雨宮21号の格納庫です。

 私は今回、北見市に向かう途中だったので写真撮影にだけ立ち寄ったが、息子が小学生だった平成時代初期に乗車したことがあった。狭軌道のためか、それともカーブが多いためか、絶えず客車がギシギシに鳴っていたことを記憶している。

 今回、立ち寄った時にも「雨宮21号」は夏休みを楽しむ子どもたちを乗せて元気に走行していた。きっと丁寧なメンテナンスが施されているのだろう。いつかはその役割を終える時が来るのだろうが、できるだけ長く現役を続け多くの子どもたちを楽しませてほしいものである。

ピアソン記念館

  

  

 ピアソン記念館は北見市の中心からやや離れた小高い丘の林に囲まれた中、私が以前訪れた時と同じ姿でひっそりと瀟洒な姿を見せてくれた。

 アメリカ人の宣教師ジョージ・ピアソンと妻のアイダは、明治から昭和初期にかけて日本でキリスト教の伝道活動を行った。その中で最後の伝道活動の地となったのが北見である。夫妻は大正3(1914)年に北見地方の伝道の拠点として現在地に住宅を構えた。そして献身的に伝道活動を行い周囲からも篤い信頼を集めたという。15年の伝道活動を終え、昭和3(1928)年アメリカに帰国する際には多くの人々が駅頭から夫妻を見送ったという。

   

   

   

 夫妻の居宅や敷地は、その後北見市が記念館として復元、現在は「NPO法人ピアソン会」が運営しているが、入館料は無料で、スタッフの対応も丁寧で気持ち良く内部も見学させてもらった。けっして大きくはない居宅はピアソン夫妻の慎ましい生活ぶりを偲ばせるものだった…。

    


道東旅物語① 北海道遺産「オホーツク沿岸の古代遺跡群」              

2022-08-16 18:24:53 | 北海道遺産関連

 オホーツク海沿岸に点在する古代遺跡群は、5世紀ころに北方から渡ってきた “海の民” がもたらした、オホーツク海沿いだけに栄えた特異な文化だと言われている。しかし、それだけに止まらず旧石器時代を含めてさまざまな時代の遺跡が点在しているのがオホーツク沿岸の古代遺跡群である。私はその中の数か所を今回訪れた。  

白滝遺跡群

 「白滝遺跡群」の場所を見つけるのに苦労した。というのも事前に「遠軽町埋蔵文化財センター」に伺ったところ、「黒曜石の露頭は山奥深くで、とても個人ではいけませんよ」、「遺跡群の入口に看板が掲示されているだけです」と伺っていた。私はその看板のところまででも行ってみようと考えていた。それが難航した。詳しいマップもなかったので、ここと思われる所をあちこちと歩き回り、ようやく鬱蒼とした林の中に看板を見つけた。

   

 その後、遠軽町白滝地区にある「遠軽町埋蔵文化財センター」を訪れた。白滝遺跡は何といっても「黒曜石」の産地として有名である。特に旧石器時代には動物の狩りをする際の矢じりなどとして黒曜石が重宝されたために、白滝から全国的に黒曜石が流通したようである。私は以前に福岡県太宰府にある「北九州国立博物館」を訪れた際に、白滝産の黒曜石が展示されていたのを目にして感激したことを憶えている。

   

   

   

   ※ 黒曜石ができるのは図のように溶結凝灰岩が特殊な形で冷えた結果としてできるようだ。

 文化財センターに黒光りする大きな黒曜石が鎮座していた。

ところ遺跡の森

 旅日記でも触れたが、私は現職時代に「ところ遺跡の森」がある北見市常呂の栄浦に何度も訪れたことがあったが、この「ところ遺跡の森」には一度も足を向けたことがなかった。遺跡などは縁遠いものと思っていたのだ。

   

 ところが今回訪れてみて、非常に貴重な遺跡であることを思い知らされた。どこが貴重かというと、徒歩で歩けるほどの範囲に縄文時代、続縄文時代、擦文時代の竪穴住居跡が点在しているのだ。その一部は、復元して展示されているのも素人には嬉しい措置だった。

   

   ※ 擦文時代の竪穴住居を復元したものです。

   

   ※ こちらは擦文時代の竪穴住居跡の柱と板壁を再現したものです。

   

   ※ こちらは縄文前期の竪穴住居を再現したものです。

   

    ※ 上掲の竪穴住居の内部です。中央に竈跡が築かれています。

   

   ※ 白い表示板のところは竪穴住居跡の窪みです。これをみるとかなり集住しているのが分かります。

 また、森の中には「ところ遺跡の館」、「ところ埋蔵文化財センター」、「東京大学常呂資料陳列館」などが点在し、いまなお研究活動が継続されているらしい様子も伺うことができた。

   

   ※ 「ところ遺跡の館」の前面です。

   

   ※ 発掘された土器が年代別に陳列されていました。   

   

   ※ 左から、縄文前期、縄文後期、擦文時代と竪穴住居の形が変遷したことを模型で示していました。

   

   ※ こちらはその後にやってきたオホーツク文化時代の大型の竪穴住居の模型です。

   

   ※ 「ところ遺跡の森」内にある「東京大学常呂資料陳列館」です。

   

   ※ 同じく「ところ埋蔵文化センター」の建物です。

モヨロ貝塚

 「モヨロ貝塚」は網走市の網走川河口の小高い丘に広がっていた。実は私は確か小学生の頃にこの地を訪れ、竪穴式住居を再現したものを見た記憶があるが大して関心を持たずに今日に至っている。今回訪れてみて立派な「モヨロ貝塚館」がインフォメーション的役割を担い、その後背地にモヨロ貝塚の森が広がっていた。モヨロ貝塚は、文字どおり大規模の貝塚を発見した(アマチュアの考古学マニア米村喜男衛によって発見された)ことがキッカケとなって周囲に竪穴住居跡やさまざまな出土品が発掘された。特徴はこれまでの縄文文化とは明らかに違い、海獣の狩猟が主であったり、竪穴住居の跡が五角形だったりと、特徴があったことから、北方から渡ってきた “海の民” だったと結論付けられたようだ。ただ、この “海の民” の文化は11世紀頃に忽然としてその形跡を消してしまったらしい。そこで彼らは “謎の民” とも呼ばれているようである。

   

   

   ※ 「モヨロ貝塚館」内に展示されていたモヨロ貝塚の様子です。

   

   ※ 土器の首の下あたりに付けられた刻みがオホーツク文化の特徴で「刻文土器」と呼んでいるようです。

   

   ※ 石標の後ろに竪穴住居跡が見えます。住居跡が深いのが特徴のようです。

   

   ※ 五角形が見事に見て取れます。

   

   ※ 土が盛り上がっているところは墓跡だそうです。

斜里朱円周堤墓群

 危なくウトロへ導かれるところだった。事前に地元の観光協会にその位置を確認したのだが「道路脇に案内看板がある」と聞いて安心して現地に向かったのだが…。斜里町朱円地区を過ぎてもなかなかその案内が目に入らなかった。朝早かったが、道路際の農家に立ちよりその位置を訪ねるとずいぶん走りすぎていたことが判明した。教えられた通り戻って見ると、確かに道路脇に案内看板があったが、傍の立木のせいで見えづらくなっていたのが残念だった。   

 朱円周堤墓は縄文時代後期における北海道独自の埋葬儀礼の場として造られたそうだ。そう言われてみると世界遺産にも登録された千歳市の「キウス周堤墓群」もまた円形の集団墓地である。

   

 朱円周堤墓は、大小二つの周堤墓が保存されていた。A号周堤墓が直径28m、B号周堤墓が直径32mの規模だった。周堤墓内には複数の積み石による墓があった。遺跡として残されているのは周堤墓だけであるが、周囲には竪穴住居跡も発見されているようである。

   

   ※ 写真ではイマイチですが、きれいに周りがも盛り上がり、円形ができていました。

   

   

   ※ 周堤墓内には、写真のように石が置かれ個々のお墓の位置を示しています。

 以上、4ヵ所の「オホーツク沿岸の古代遺跡群」を訪ね歩いたが、私が参考にしている「北海道遺産完全ガイド」(北海道新聞社刊)によると、さらに一か所枝幸町に「目梨泊遺跡」があるようであるが、こちらはかなり遠隔地にあるために訪れることを諦めた。

 


道南旅物語⑤ 北海道遺産「五稜郭と箱館戦争の遺構」

2022-08-10 15:01:25 | 北海道遺産関連

 「五稜郭」は江戸幕府が幕府直轄の機関として築いた「箱館奉行所」を守るために築いたものであるが、榎本武揚率いる旧幕府軍がその拠点として「五稜郭」に本陣を置き、新政府軍に対抗した「箱館戦争」を起こし、激戦の末「五稜郭」を明け渡すことになった史実が「五稜郭」の名を一段と高めることになったといって良いだろう。

                                          

 8月3日、私は「函館山と砲台跡」、「函館西部地区の街並み」を巡り終えた後、電車で市内を横断し、五稜郭地区へ移動した。そして「五稜郭と箱館戦争の遺構」の関係個所を巡り歩いた。

 その際頼りにしたのが「函館まちあるきマップ」の№15の「真説・五稜郭物語 ~箱館奉行所今時代を超えてよみがえる~」と、№16の「幕末の志士達が駆け抜けた箱館 ~土方歳三 散華の道~」である。

   

   

 市電停留所「五稜郭公園前」から徒歩で15分ほど行くと五稜郭の入口に至る。入口のところには五稜郭全体を眺めることができる「五稜郭タワー」が聳えている。高い所は嫌いではない私だが、今回はパスした。

   

 「五稜郭」について、簡単に説明している文書があるので、それを拝借して「五稜郭」について説明すると「幕末の箱館開港に伴い移転された箱館奉行所を取り囲む西洋式土塁で、ヨーロッパの城塞都市を参考として設計され、稜堡と呼ばれる5つの突角をもつ星形の土塁が巡らされていることから『五稜郭』と名付けられた。」と説明されている。

   

 五稜郭の本塁に入る前に、正面入口を防御するための「半月堡」と呼ばれる三角上の土塁がある。その三角形は高いところからでないと確認できないが、確かに掘に囲まれた土塁を確認することができた。

   

   

   

 二つの橋を渡って本塁に至る間、本塁を護るように石垣が築かれているのがいかにも城という雰囲気を醸し出していた。

 本塁に入ると、奉行所を囲むように、箱館戦争で使われた「大砲」、奉行所の食糧庫だった「土蔵(兵糧庫)「赤松の林」などか目に入った。

   

   

   

   ※ 写真をよく見ると、復元されなかった元の敷地の区角割を見ることができます。

 そして中央に平成12(2010)年に140年ぶりに復元された「箱館奉行所」が建っていた。ただ、現地で見ると復元されたのは、元々は3,000㎡の建造物のうち1,000㎡が復元されたということで、いわゆる正面の部分が復元されたということのようだ。

   

 「箱館奉行所」の内部見学はパスして、「箱館戦争の遺構」を訪ねて訪ねることにして五稜郭を後にした。五稜郭から南西方向に真っすぐ1.3㎞ほど行くと、道路の分離帯のところ「中島三郎助父子最後之地」碑が立てられていた。中島三郎助は箱館戦争当時、箱館奉行並として千代ヶ岡陣屋を守備していた。新政府軍が箱館を制圧し、降伏勧告を受けたが最後まで拒絶し続け、息子二人と戦死したところがこの地だったという。

   

   

 その中島三郎助が守備していた「千代ヶ岡陣屋跡」が、彼が最後の地となったところか近い千代台公園の一隅にあった。そこには特に石碑などはなく、陣屋があったという説明板が立っているだけだった。

   

   

 ここからさらに1.7㎞先に「土方歳三最期の地碑」があるはずだった。私はマップどおりに歩いたつもりだったが、どうしても見つけることができなかった。その後の経緯は、「道南旅日記」にも記したとおり、ホテルにチェックインした際に、ホテルから至近の距離にあることが分かり、改めて訪れた。

   

   

 土方歳三については私が語るまでもないが、江戸末期に新選組副長として京都の治安維持活動に勇名をはせたことは良く知られるところだが、その後仙台において榎本武揚らと合流し旧幕府脱走軍の陸軍奉行並として旧幕府軍を統率した。明治2(1869)年5月11日箱館総攻撃の際、孤立した弁天岬台場を助けに向かう途中、一本木関門付近(現若松町)で銃撃を受け35年の生涯を閉じたと言われる場所である。(但し、土方歳三の戦死の場所については諸説あるようである)

  石碑の前には、人気者らしく写真や花、あるいはお酒まで供えられていた。

   

   

   

 そしてこの日8月3日ではなく、翌日4日に旧幕府軍兵士たちを祀った「碧血碑」を訪れた。「碧血碑」は函館山のふもとのどちらかといえば人目に付かないところにひっそりと立っていた。そこには「碧血碑」のことを説明する次のような説明板が立っていた。 

 「箱館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎助父子をはじめ、北関東から東北各地、箱館での旧幕府脱走軍戦死者の霊を祀っているのがこの碧血碑である。碑石は、7回忌にあたる明治8(1875)年、大鳥圭介の書といわれている。碑の台座裏に、碑建立の由来を示す16文字の漢字が刻まれているが、その表現からは、旧幕府脱走軍の霊を公然と祀るには支障があったことが推測される。 なお、碧血とは「義に殉じて流した武人の血は3年たつと碧色になる」という、中国の故事によるものである。」とあった。

 そこで私は台座裏に刻まれた16文字に興味を抱いたので調べてみた。するとその16文字とは「明治辰巳實有此事 立石山上表厥志」と刻まれているそうだ。その意味は「明治2年、此の事は実際にありました。山上に石を建ててその気持ちを表します」という意味だそうだ。この言葉からは、旧幕府脱走軍の霊を公然と祀ることをはばかる気持ちが表れていると識者は指摘しているということだ。                                 

   

   

       

       ※ 「碧血碑」の台座裏には碑の建立の理由を16文字刻まれています。

 また「碧血碑」の傍には小さな石碑が寄り添うように立っていた。その碑は「柳川熊吉翁の碑」と説明板があった。そこには「明治2(1869)年、箱館戦争が終結すると、敗れた旧幕府脱走軍の遺体は「賊軍の慰霊を行ってはならない」との命令で、市中に放置されたままであった。新政府軍のこの処置に義憤を感じた柳川熊吉は、実行寺の僧と一緒に遺体を集め、同寺に葬ったが、その意気に感じた新政府軍の田島圭蔵の計らいで、熊吉は断罪を免れた。明治4(1871)年、熊吉は函館山々腹に土地を購入して遺体を改葬し、同8(1875)年、旧幕府脱走軍の戦死者を慰霊する「碧血碑」を建てた。大正2(1913)年、熊吉88歳の米寿に際し、有志らはその義挙を伝えるため、ここに寿碑を建てた。」とあった。

   

 調べてみると、函館市内にはまだまだ箱館戦争の遺構はたくさんあるようだ。今回はそこまで足を延ばすことはできなかったが、今後もし機会があればそれらを調べて訪れてみたいと思う。


道南旅物語④ 北海道遺産「函館西部地区の街並み」

2022-08-09 15:48:34 | 北海道遺産関連

 幕末に国際貿易港となった「箱館」の歴史を色濃くとどめる西部地区は坂のマチであり、丘の上には歴史ある洋風建築や教会が建ち、独特の異国情緒を漂わせている。観光客にも人気のエリアを訪ね歩いた。

    

 函館山の砲台跡を見た後、その函館山の下に広がる北海道遺産「函館西部地区の街並み」を訪ね歩いた。頼りにしたのは「函館まちあるきマップ」の№1の「これぞ王道!函館の魅力凝縮コース ~はるばる来ました函館へ~」と№2の「てくてく坂道 大三坂・八幡坂編 ~坂が織りなす異文化のタペストリー~」の二つのマップだった。

  

  

  ※ 両方のマップの赤い点線のところをほぼ正確に歩きました。

◇国際貿易港として開港

 函館はアメリカ海軍マシュー・ペリー提督の来航を気に、日米和親条約が結ばれ、嘉永7(1854)年に「下田」と「箱館」が開港したことに始まる。

 そのことにちなみ、「ペリー提督来航記念碑」「北海道第一歩の地碑」、物流の拠点となった「赤レンガ倉庫群」などを訪ねた。

 〔ペリー提督来航記念碑〕

   

   

   ※ ペリー提督来航記念碑の前のベンチの脚部にまで装飾が施されていました。

 〔北海道第一歩の地碑〕

   

 〔赤レンガ倉庫群〕

   

   

 なお、「北海道第一歩の地碑」とは、明治初期に青函航路が開通したが連絡船が接岸できるような桟橋がまだなく、連絡船は沖合に停泊し、艀船で北海道上陸を果たしたという。その地が碑が立てられたところだという。

 ※ サービスショット

 函館圏でのみチェーン展開するハンバーガーショップ「ラッキーピエロ」とやきとり弁当の「ハセガワストア」が軒を並べていました。今回私はどちらも食することができました。

    

◇異国情緒を代表する教会群 旧イギリス領事館

 函館観光というと、西部地区に集中する教会群である。古くから外国との交流があったこの街らしく「カトリック元町教会」「函館ハリストス教会」「函館聖ヨハネ教会」が隣り合って建っておりそれらの瀟洒な建築群が異国情緒を醸し出している。

 〔カトリック元町教会

   

   

   ※ ハリスト正教会は現在修復中のため門も閉じられていて、写真を撮ることができませんでした。

   

 また、基坂の中腹に建つ「旧イギリス領事官」も大きな建物ではないが、庭園に囲まれた瀟洒な建物だった。

   

     

   

   ※ イギリス領事の執務室です。

◇坂、坂、坂の西部地区

 とにかく函館西部地区は坂が多い。函館山の麓から函館港に向かって坂道が並行して造られている。その坂道は函館大火があったことから道幅が広いのも特徴だそうだ。それではカメラに収めることができた坂道を羅列します。

 〔二十間坂〕

   

 〔大三坂

         

   

   ※ 唯一下方向から撮った「大三坂」です。

 〔八幡坂〕

   

 〔基坂〕

   

   

◇そのほかの歴史的建造物

 〔旧函館区公会堂〕明治40(1907)年に函館大火で焼失した町会所を再建するため、豪商・相馬哲平をはじめ市民の寄附を得て明治43(1910)年に再建されたもの。豪華な洋風建築であるが、外見の色遣いの華々しさは眩いばかりである。昭和49(1974)年に国の重要文化財に指定されたそうだ。

   

   

   

   ※ 旧公会堂のバルコニーから函館湾を望んだところです。

   

   ※ 大食堂だそうです。

   

   ※ 音楽会や舞踏会などに使用する二階のホールです。

 〔東本願寺函館別院〕大正9(1915)年に日本で最初に建設された鉄筋コンクリートの寺院だそうだ。平成19(2007)年国の重要文化財に指定されたという。また、別院の敷地と接するように函館が生んだ文芸評論家「亀井勝一郎生誕の地」碑が立っていた。

   

   ※ 別院正面の山門です。

   

   

   ※ 別院裏面の屋根が見事でした、

 〔亀井勝一郎生誕の地碑〕

   

 〔カール・レイモン本店〕戦前にドイツから函館に渡り、戦時中には迫害に耐えながらもハム、ソーセージを作り続け、函館市民にハム、ソーセージの食習慣を根付かせ「胃袋の宣教師」と異名をとったレイモンが開いた販売店である。ガイドブックでは本店の横にある居宅跡が紹介されていたが、私はそれに気づくことができなかった。

   

       


道南旅物語③ 北海道遺産「函館山と砲台跡」

2022-08-08 18:35:07 | 北海道遺産関連

 函館山は函館市を代表する観光名所の一つである。しかし、その函館山一帯は、明治期から太平洋戦争時にかけて長らく軍事要塞として使われてきたという。山頂付近にはその当時の遺物があちらこちらに遺されていた。

 この日(8月3日)函館市は夜半からの雨が続き、午前7時過ぎになってようやく雨が上がるといった天気だった。

          

         ※ この「まちあるきマップ」が「北海道遺産」巡りの指南書になりました。     

 私はこの「函館山と砲台跡」を巡るために、「函館まちあるきマップ」の№19「もう一つの函館山 ~閉ざされた要塞の秘密~」を参考にすることにした。このマップではロープウェイで函館山々頂に上って、山頂から下山しながら砲台跡を巡るコースとなっていた。ところがロープウェイの運行は午前10時からと遅いため、私は反対に登山をしながら砲台跡を巡り、下山にロープウェイを使用することにした。

   

※ そのマップの内部です。私は凡そ赤い点線のコースをゴール地点からスタートし、函館山々頂まで上り、ロープウェイで下山しました。

 午前8時、函館山管理事務所の駐車場に車を停め、登山を開始した。函館山の登山はルートがたくさん存在するが、メインの登山道は「旧登山道コース」のようだ。しかし、私は2年前にこのコースを登ったことがあった。同じコースを登るのは芸がないと考え、今回は「旧登山道コース」と併行するように造られている「汐見山コース」を登ることにした。しかし、これは失敗の選択だった。というのも「汐見山コース」は路幅が極端に狭かったために、前夜来の雨で木の葉が濡れていた。登山道を覆う木の葉に残った雨の滴が容赦なく私の下半身を濡らした。私の下半身はずぶ濡れとなってしまった。

   

   ※ メインの旧登山道コースと分かれ、汐見山コースに入りました。

   

   ※  コースの大半はこのような細い山道です。葉に付いた雨露のため下半身はズブズブに濡れました。

   

   ※ 山の花の時期は終わっていて、わずかに山アジサイが咲いていました。(下の写真も)

   

 コースは「汐見山コース」から、砲台跡が残る「千畳敷コース」に導かれた。私はまずこのコースの突端「千畳敷広場」に向った。「千畳敷広場」は函館山の5合目程度の高さなのだが、周りは霧に包まれていた。ここからいよいよ各所に点在する「函館要塞」に向かった。

   

   ※ 「千畳敷広場」はご覧のように霧に包まれていました。

 函館山々中に遺る「函館要塞」について、現地に次のような説明があったので転写する。

「函館要塞は、明治28(1895)年の日清戦争終結後に、日露戦争を想定し、津軽海峡の防衛強化を目的に明治31(1898)年から、約4年間を費やして函館山に大小4ヵ所に砲台が建設されました。

 日露戦争開戦後、津軽海峡でロシア艦隊が日本の漁船に損害を与えましたが、射程外であったため要塞からは一発の砲撃もされませんでした。

 その後、大砲は撤去されましたが、大正に入り、米国を仮想敵国とし、海空の攻撃から函館と青森の両港を守り、津軽海峡における敵艦隊の通航を阻止するため、津軽要塞として再整備されましたが、戦闘機を相手とした実戦では役に立たず、函館は空襲に遭い甚大な被害を受けました。

 函館要塞建設直後の明治32(1899)年に要塞地帯法が制定され、昭和21(1946)年に開放されるまでの約47年間、函館山への一般市民の立ち入りは禁止されていました。」

◇千畳敷戦闘指令所跡

 「千畳敷広場」から細い路を辿ると、間もなく異様な形をしたコンクリート建造物が根に入った。「千畳敷戦闘指令所跡」である。屋根の部分は崩壊していたが、建造物の奥へ進むと、何やら小部屋がたくさんあって、そこからいろいろな指令を発していたのだろうか、と思わせられた。

   

   

   

   

◇千畳敷砲台跡

 「千畳敷戦闘指令所跡」からやや離れたところに、やはり大きなコンクリート建造物が現れた。「千畳敷砲台跡」だという。ここには28cm榴弾砲、15cm臼砲の砲座跡や弾薬庫跡などが遺されていた。

   

      

   

   

   

◇御殿山第2砲台跡

 「千畳敷砲台跡」からはやや離れたところ、函館山々頂のすぐ近く「御殿山第2砲台跡」はあった。「第2砲台」というのだから、あるいは「第1砲台」もあったのかもしれないが、マップなどにはそのことは一切記載されていなかった。

 こちらの砲台には28cm榴弾砲が6門据え付けられていたというが、その跡が2門ずつ円形になって遺されていた。砲台は、航行する艦船から隠すために海から見えないところに設置されていたが、砲撃の際には砲座を目標に向けて方位や仰角を合わせて砲撃するようになっていたという。

   

   ※ こちらは砲座の位置がはっきりと残っていました。(緑の円形)

   

   

   

   ※ 砲座の位置に載っていた榴弾砲(?)の写真です。

   

   

   ※ 御殿山砲台跡からは函館湾が見えるはずですが、ご覧のように霧に隠れていました。

◇函館山

 マップ上ではもう一つ「薬師山砲台跡」があったが、こちらはパスすることにした。そして私は函館山(御殿山)山頂に立った。函館山々頂は「旅日記」でもレポしたが、霧の中でまったく眺望は効かなかった。そして私はこの日のスケジュールをこなすため、ロープウェイで函館山を下った。ロープウェイで函館山を下っている途中、ゴンドラが霧の中から抜けてたった一枚だったが函館市の西部地区をカメラに収めることができた。

   

   

            

 函館山は先述したように太平洋戦争が終わるまでの約47年間、一般市民の立ち入りが禁止されたというが、そのことも影響して貴重な植物が現存していて植物愛好家たちにとっては草花を愛でながら登山の楽しむ山になっているそうだ。


道北の旅を振り返る №6 北海道遺産「土の博物館『土の館』」  

2022-07-10 16:57:38 | 北海道遺産関連

 土の博物館「土の館」は農機具メーカーの〈スガノ農機〉が設立した民営の博物館だそうだが、広大な農地が広がる上富良野町の郊外に民営とは思えぬほど充実した展示が展開されていた。

   

   ※ 上富良野町の「土の館」のエントランスです。

 今回の北海道遺産巡りの最後となる「土の博物館『土の館』」は、活火山の十勝岳を望む上富良野町にあった。敷地はスガノ農機の本社と同じ敷地にあった。館は2階建ての本館と、その他に農機具を展示するトラクター展示場A館、B館の三つの展示場からなっていた。

   

   ※ 「土の館」の本館です。

   

   ※ こちらは「トラクター展示場A館」です。

 まず驚かされたのが、本館の壁に飼料用デントコーンの根から茎までの模型(?)の実物大のものが展示されていた。その高さは本館の2階建ての屋根に届くくらいだったから根の先端から茎の先まで5mほどもあるのではないだろうか?

   

  ※ 本館の横壁には写真のように飼料用デントコーンの実物大の根から茎の先までの全体像が展示されていました。

 そして本館に入館した。民営であるのに入館料は無料だったところに、会社の姿勢を見た思いだった。まず入って直ぐに「労作為人記念館」と称する、創業者の菅野豊治と奥さまの胸像が置かれ、創業当時に菅野氏自らがいわゆる鍛冶屋のようなことをして農機具製作する際の(鍛冶屋のふいごを操作している)動く模型が展示されていた。

   

   ※ 菅野豊治夫妻の胸像と、左手が鍛冶屋を模した動く模型が展示されていました。

 2階は文字どおり「土」に関する展示である。土壌を垂直に切り取った標本を「モノリス」と称するそうだが、道内各地の土壌成分がずいぶん違っていることを知らされた思いだった。また、土壌改良のためのさまざまな工夫も見て取ることができた。

   

   ※ 写真中央の層をなしているのが土壌標本「モノリス」です。

   

    ※ こちらは土壌改良の様子を表す展示です。   

 続いてトラクター展示場に赴いたが、世界各地から収集したと思われる各種のトラクターが陳列されている様は壮観だった。詳しくは分からなかったが、おそらく時代と共にトラクターの性能が飛躍的に向上していったことが一目で分かるように陳列されていたと思われる。

   

   ※ 何十台ものトラクターが展示されている様は壮観でした。

   

   ※ こちらは説明板にあるように、100年前の蒸気動力のトラクターです。

         

   ※ トラクターB館に展示されていたやや変わった形のトラクターです。

 また、スガノ農機が開発・製造するプラウも多数展示されていたが、菅野豊治は自社の製品を白色で統一して製造・販売していたということが説明で述べられていた。

   

    ※ こちらはスガノ農機製作のプラウ類です。   

 私のような門外漢にとっては、「土の館」の本当の価値を理解できたとは思えないが、関係者にとってはおそらく垂涎の的の展示なのではないだろうか?レベルの高い博物館的施設が民営で運営・展示されていることに大きな価値があると思えた「土の博物館『土の館』」だった。

 以上、今回の旅では6件の「北海道遺産」を巡って歩いた。北海道がこれからも大切に残していきたい遺産のように感じられた。もちろん世界遺産と比べると、その価値は小さなものかもしれないが、私たち道産子にとってはいずれもが貴重な財産に思えた。大切に守り育て、北海道の誇りにしていきたいと感じた今回の旅だった。


道北の旅を振り返る №5 北海道遺産「宗谷丘陵の周氷河地形」 & 宗谷岬

2022-07-09 12:17:00 | 北海道遺産関連

 私はこれまで何度か稚内(宗谷地方)を訪れたことがあったが、車で訪れるたびに周辺の風景が北海道の他のところとは違った風景に見えていた。それが氷河が造った風景だとは恥ずかしながらこれまで知らなかった。あの独特の風景が氷河によって造られていたとは…。

   

 少し長くなるが、「周氷河地形」についてガイドブックでは次のように説明している。

「今から1万年ほど前まで続いた氷河期の寒冷な気候条件のもとで、長い時間かけて作られた地形だ。それは、岩石のあいだに浸み込んだ水分が凍結・融解を繰り返すうち、凍結の際の膨張によって岩は砕かれる。また土中の水分が凍ることにより砂礫が持ち上げられ、氷が溶ける際に低い場所へと移動させられる。こうした作用が長い時間をかけて繰り返されるうち、地表面の凹凸が少しずつ埋められ、なだらかで丸みを帯びた地形が形成されていく。」

 こうした地形は稚内地方のみならず北海道内各地にあったものと考えられるが、宗谷地方以外は人間の営みによって地形が変えられたり、森林が育つことによって本来の地形が分かりづらくなっているところが多いという。宗谷地方も明治時代の中頃までは周氷河地形の丘陵が森林に覆われていたが、人の手で伐採されたり、何度かの山火事によって樹木が失われ、現在のように樹木がないササ原に覆われ、丸みを帯びた丘陵の姿になったそうだ。

 私が「宗谷丘陵の周氷河地形」が良く見える宗谷岬周辺を訪れたのは7月3日(日)だったが、№4で触れたように海霧が発生して遠くを見渡すことができない生憎のコンディションだった。それでも時間の経過とともに霧が薄くなり、なんとか丘陵を見渡せるようになり、独特の風景を思う存分カメラに収めることができた。 

   

      

      

   

  ※ この一枚は、前日に稚内に向かっていたとき「これも周氷河地形だよ」と思って撮った貴重な一枚です。

 「宗谷丘陵の周氷河地形」を堪能するには、宗谷公園(宗谷歴史公園)と宗谷岬公園を繋ぐフットパスルートを通るのが最も人気のコースらしい。そこで私は稚内市から向かったので、まず手前の宗谷公園側から入ることにした。小さな標識に従って入っていくと、直ぐに「白い道」に行き当たった。「白い道」とは、砂利道に地元の方々がホタテの貝殻を細かく砕いて道に撒いたものということだ。その「白い道」が約3kmにわたって続いているのが近年人気となっているという。私は道端の路側に車を置いてひとまず途中までトレッキングしようと歩き始めた。ところが、私の後に次から次へと車が通っていく。これは私のリサーチ不足で車で通過できるのかもしれない、と判断し数百メートルも歩かぬうちに引き返し、車でフットパスルートを往くことにした。

   

   

   

   ※ 前の2枚は丘陵に上るときの「白い道」ですが、これは丘陵に上り切ったときの一枚です。とたんに風車群が目に飛び込みました。

 丘陵の上部に至ると、やがて「白い道」は終わり、アスファルト舗装の道路に代わり周氷河地形の独特の景観が広がっていた。緩やかな凹凸が続き、丘陵の頂上部には多数の発電風車が目に入った。一説によると日本最大の風力発電設備だという。 

   

    

 宗谷岬公園に近づくと、もう一つ周氷河地形を利用した「宗谷黒牛」が飼育されていて牛たちがのんびりと草を食んでいた。

   

   

 フットパスコース全区間を終えると、そこに「宗谷岬公園」が広がり、そこにも数々の碑が建っていた。

 

※ 「宗谷岬公園」に立てられていた碑や像の数々をレポします。

◆平和の碑

 この碑は、昭和18(1943)年太平洋戦争中に宗谷岬沖で日本海軍とアメリカ海軍が激突し、日本人696名、アメリカ人80名が犠牲となったことを慰霊し、平成7(1995)年日米合同で建立された碑だということです。

   

◆旧海軍望楼

   

◆あけぼの像

 この像は北海道の牛乳生産量100万トンを突破したことと、飼育乳牛50万頭突破を記念して昭和46(1971)年に建立されたそうです。

   

◆祈りの塔

 昭和58(1983)年9月1日、大韓航空機が北朝鮮によって撃墜されるという世界を震撼する事件が宗谷岬の眼前のサハリン西海域で起き、乗員・乗客269名が犠牲となったことを悼み、昭和60(1985)年に建立された。

   

◆宗谷岬灯台

   

   

   ※ 宗谷岬灯台が設置されている高台から「日本最北の地の碑」を望んだところです。

   

   ※ 宗谷岬公園の高台には海浜植物として貴重なアルメリアという花が地域の人たちの手で育てられていました。

   

※ 宗谷岬公園内で見かけたエゾシカです。けっして公園で飼育しているわけではありません。稚内では、ここだけでなく人がいるところに平気でエゾシカが出没するということですが、この二匹のエゾシカも大して私を気にする風でもありませんでした。 

 

 さらに公園は岬の先端にも「日本最北の地の碑」を始めとする碑や像が立ち、多くの観光客が記念写真を撮っていた。

◆「宗谷岬」音楽碑

 「流氷とけて♪ 春風吹いて♪ …」と歌詞で大ヒットした「宗谷岬」の音楽碑が建っていました。

   

◆間宮林蔵の像

 樺太を何度も探検し、ついには「間宮海峡」の存在を発見した探検家・間宮林蔵が宗谷海峡を眺めるように立っていました。

   

◆日本最北の地の碑

 宗谷海峡を望み、岬の最先端に立っていました。

   

 「宗谷丘陵の周氷河地形」は前述したように人為的な要因も絡み今のような景観を造り出していると知った。しかし、今ではそのことが日本最北の地という特異な地理的位置も手伝って独特の寂寥感を醸し出しているように思えた。

   

    今回、道路を走っていると突然のように存在感抜群の植物を目にしました。以前に教えていただいた「エゾニュー」という植物が今花の時期を迎えていました。